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いま・ここにおけるわれの《復活》について

 おしえを乞います。  次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。  ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~  そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。   ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は     決して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇    くことがない。     しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている    のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたし    のところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い    出さない。     わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わた    しをお遣わしになった方の意志を行なうためである。     わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えに    なった人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させること    である。     わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命    を受け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだか    らである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  きわめて横着に 《終わりから歴史を始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。  しかるべく 正してください。

みんなの回答

回答No.7

今晩は。此の世の外には出られませんが、終も偏在するという事を少し。~永遠の事は難しい!.ベルクソンとアインシュタインの時間論争と和解も有った。 人の知覚は、物質現象の一部しか捉えない訳ですが、例えば紫外赤外線を捉える昆虫や、人も超音波を捉えてる幼児期だと知覚領域は幾分広い。~ そう云う類いに霊的な事も有ると考えれば良いかと。~ 私も長年ヨガ気功を修めて経絡に気が流れ、ある土地で霊光を観た事が有ります、完全に目覚めて居り、心象ではないが実体でもない。聖霊というより精霊と云うべき哉。🏞里山麓で水脈が通って地磁気が強い所で。因みに京大物理研究室は、地磁気の強さに比例してdark matterも多い,と云う ~ 最近の量子論では脳から発した量子の“縺れ”が不確定性原理に依って、宇宙空間に偏在し、プロト意識を構成する…等とも言ってた、未だ眉唾ですが。~Etvで放映の、Morganフリーマンの『時空を越えて』の“死後の世界”の回で。 ー何れ、3次元空間の話ではない。時間軸を加えて4次元でも不充分か⁈ 其の時間は、リニアーな時系列と考えてはダメで、時間軸上の持続とは違う事として“ 永遠”を考えなければいけない、とスピノザも言う。〈永遠の生命〉の復活もそう。 終末”と起源”は時間軸上の事で、厳密には記述出来ないですね。big bang理論,も本当の処は不明でしょう…起源の前は?無?対消滅生成の揺らぎ?~ 終末の後も同様で… 🌌初期宇宙のインフレーション理論で有名な、佐藤勝彦教授はマルチヴァースを唱えてた。~極微のdark真空エネルギーが相転移してビッグバン、インフレの先端にトンネル生まれ、子孫宇宙が次々誕生すると云う…謂わば絶えざるBig bang,が今此処で、と云う事 〈~の終り.〉も時間軸で考えずとも良いでしょう。~その意味でも、貴殿の〈現在の問題として,捉える〉事は有意義と言えるでしょう 其れを、此の世が終った後の“あの世”として実体的に想定すると危険!、自爆テロを強要される若者は「天国に7人の処女花嫁が君を待ってる..」等と勧誘される ~ そうではなく、あの世も“霊の身体”も3次元空間の実体に非ず、然りとて単なる観念でもない、、プラトンの“コーラ”=エーテル?のような、何処でもない場所にある。イデア”も本来はそうなのかも。あの世は無時間で、人倫に悖る残虐犯した奴は永遠の業火か⁉︎ ●最後の審判”を下すのも、人格神や閻魔様ではなく、超自我の様なモノか⁉︎。~ 故に浄化されてない罪悪など個人記憶が永遠の苦悶と後悔として残存する⁉︎ ならば〈悔改めよ!〉というのも合理と言えます。スピノザ『エチカ』の方法は、公理系に則って順を追う、徹底して合理的なものですが、長年実践してると何か不思議な力が隠されてる様です。~感性による第1の認識、精神による第2の認識、~ 其れ等の誤謬と感情の克服を通して、第3の直接的な認識に至っていくですが、、怒や悲などネガティヴで“非十全な感情が薄れるにつれ、生活が軽やかになってる気がする 💕胸キュン〉と言う感覚は恋愛の際に確かに胸の辺りで感じるでしょうが 其の対象が自然物、こ鳥の囀りや、風のひとそよぎ、幼な子の笑顔、役者の良き演技…等に拡がって来る。自然即=神に酔える無心論者”と呼ばれる所以か⁉︎ ~此れは“プネウマ pneuma ;気息=霊spirit,の覚醒なんだと想う。 キュン, とする胸には【解剖学】で pneumogastric nerve,と云う胸部 迷走神経が肺や胃から脳まで走ってますが (肺炎は,Puneumonia.)、経絡と同じく其の流れが敏捷に成る。 ヨガだと“プラーナ、クンダリーニ哉⁈。だから古来より、心は胸に有る、と云うのも実感として故無しとはしないのでしょう。~これも一つの“霊のからだ”⁈ エチカ最終定理 ; 快楽ではなく至福に至る道=良き教えです。~ 身体技法を伴う修行よりは安全で、続ければ誰にも可能な倫理学: 聖霊への道。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  勝手に反応してまいります。  ★ 例えば紫外赤外線を捉える昆虫や、人も超音波を捉えてる幼児期だと知覚領域は幾分広い。~ そう云う類いに霊的な事も有ると考えれば良いかと。  ☆ ここは おそらく一ひねりを入れるところかと思ったりします。  《霊》の世界は この世なる経験世界とは 絶対的に隔たりがある。と考えます。  その上で・つまり《絶対〔なる霊〕》は 相対なるこの経験世界に対して――われわれ人間がこちらから何かハタラキかけることは 無理ですが あちらからなら――作用をおよぼすことが出来るかも知れない。  霊なる世界(つまり 非経験の場)は 経験世界に対して 覆っていたり包み込んでいたりするかも知れない。  あるいは ニュートリノのように いつでも・どこでも突き抜けているかも知れない。  さらにあるいは 絵にあったように 指先どうしが互いに触れなんとしている状態になっているかも。  という推理のあとに 《あたかも霊的なことが この相対世界に対して・特には人間の知覚に対して 作用をおよぼしているかも知れない》。と考えたりします。  そういった仮想に関連して 次のような捉え方が出来たらいいのですが。:  ★ 〈~の終り.〉も時間軸で考えずとも良いでしょう。~その意味でも、貴殿の〈現在の問題として,捉える〉事は有意義と言えるでしょう  ☆ つまり あたかもあちらから接触して来ているかのような霊は 初めや終わりを超えている。過去も未来もこの現在として通底している。と考えるなら 《終わり》は いま現在でありうる?  そうしてこれらのことが――つまり 霊によるわれわれへのハタラキが―― いくつか挙げてもらった知覚のあり方としてあり得る・・・のかも分かりません。  ★ ~此れは“プネウマ pneuma ;気息=霊spirit,の覚醒なんだと想う。  ★ プラトンの“コーラ”=エーテル?のような、何処でもない場所にある。  ★ スピノザ『エチカ』の方法は、公理系に則って順を追う、徹底して合理的なものですが、長年実践してると何か不思議な力が隠されてる様です。  ★ ヨガだと“プラーナ、クンダリーニ哉⁈。だから古来より、心は胸に有る、と云うのも実感として故無しとはしないのでしょう。~これも一つの“霊のからだ”⁈  ☆ ヨガなどをわたしは知らないのですから これらは 推測ではあります。

回答No.6

今晩は、お礼、拝読しました。適切な御理解だと思いますよ。 霊と魂の事は、難しいのです。其れを巡って何百年も神学論争が闘わされてますから。三位一体の表出論争など、東西で違う。Holy spirit=聖霊の格を巡る“フィリオクェ問題ですが、此処では触れません。 ゴダールが挙げたのは、聖骸布のイマージュ。其れは人の形ですが、霊魂のイマージュは本来は生き物の姿でなく、もっと抽象的な光や音や波動なのでしょう。 ベルクソンのもそう、幽霊ではない。ただ誤解した人が「心霊主義だ」と当時批判。 《霊のからだ》。霊に物質性が有るかは一先ず置いて、霊的に覚醒した人格,と捉えては如何でしょう。喩えを出します。~神曲の,ダンテは、大失恋で精神的な死”を体験します。 ベアトリーチェが夭折し、自分の心臓の辺から赤く震える珠の様なのを掴み去られる霊夢を観る、。Visionary,には幻視者”と云う拙い訳語が充てられますが、幻でもない! 二度と会えず 対象を喪った愛は彷徨うしかない、永劫の宙吊り。 大作家の霊感は強く、プラトニックでもなかったですが、元来が天上に向う愛。~ 其の梯子が外された。元々現世では報いの無い愛ですが、精神的な強度の高い愛なので代りは効かず、神への愛に昇華するしか無い。 その経緯が書かれた短篇が「Vita Nuova 新生」。更に、死出の旅と再生の遍歴、天上での復活を描いたのが“神曲”, その冒頭は、 『人、道の半ば、気付くと暗い森の中で迷い、正い道を失ってしまってる…』 貪欲,欺瞞,不和,怠惰、独占所有の欲望や嫉妬、怒りや憎悪などネガティヴに満ち、恐怖に苦しむ人々の地獄篇、歩みと描写は鈍重に…。導者の詩人ウェルギリウスだけが頼り。 ~ 此れが天国篇だと、亡くなったビーチェ嬢が導き役。一気に軽やかに、慈愛の宇宙的情景は天使のエクリチュール、描写が追いつかない程。このヴィジョンは本当の体験だと言われてる。~ 人は先づ他者への愛を通して其処へ至る様になってるのが此の世の不思議。 ~さてしかし、試練が乗り越えられるかどうかは、夫々の能力に応じて,だと聖書にも書かれてますね。そこで仏教には凡夫の方法も説かれてる。 👃仏陀は我が身を虎の前に晒し放下しますが、此れも擬似的な死”の象徴で、妄念や煩悩を焼き滅ぼし浄化する必要から。悟るには何かが死ななきゃならぬと 密教出羽山湯殿山の胎内潜りや、熊野修験で断崖天辺から腰紐一本で逆吊りに晒されるのも、死を潜り抜け捨身の決意を試すだけでなく、悟りに邪魔な障碍の妄念を払う為。 🏜カスタネダのindian呪術師,Don Juanが課す臨死の試練では弟子は排泄垂流し状に為る…各種薬物と同様の危険が付物だ。精神上の死を考えるとは斯様な事なので要注意! 孔子も論語で注意促す《 未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。》生きる事も解らないのに、死の事など解るものか⁈〈終りの日〉など考えずに生を全うせよ!と云う事でしょう《怪力乱神を語らず。〉をモットーとした孔様、否定はせぬが、治者の智慧として危険回避すべくでしょう。処で其の命題が真ならば、対偶も真である筈。そこを突いたのが、 幽冥界を描いて絶品の「月山, 鳥海山」の森敦の「意味の変容」に 「既ニ死ヲ知ラバ何ゾ生を知ラザラン」と言い換えられる。死を知れば生は解る、と云う、。外部=死,と内部=生,とその境界=幽冥界を、位相数学を使って説いた短篇。 そりゃそうだ、外部に出れば,人生は確定した物と見える!、でも境界線は外部に属すのです。円の内部は数学で“近傍”と呼ばれ、幽冥境界線には漸近しか出来ないのです。 人生からは出られない、死を知ったら戻れない。森敦を敬愛する批評家の柄谷行人も其処を批判してる。~正しくは、生を知り尽くしても、死は解らない。経験不可能。 ~処が作家は百も承知一枚上手。例外的な神人が世に現れる事が有るのね 其れがキリストの復活,の、現世に到来するイマージュ。~とは言え、3大世界宗教の其れは既に力を失いつつある、。寧ろTao道教,仙道やIndianの教えにある、 分身=double,ドゥブルの方が今後の可能性があるかも、、理論物理のパラレルWorldとか…。何れにしても、精進してないと、終りの日では無時間になって、永遠の迷いに苦しむかも知れません。現世の心の鍛錬が必須です。其れには スピノザのエチカの方法を私は推薦します。生の方法、又この次にでも。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 《霊のからだ》。霊に物質性が有るかは一先ず置いて、霊的に覚醒した人格,と捉えては如何でしょう。  ☆ 《ひとまづ》としては わたしには分かりやすいとは思います。  No.1さんが 同じように捉えておられました。  ◆ (ANo.1) 「肉」のみの存在としか思っていない存在が、そういえば「霊」でもあると気づくこと、目覚めることが復活です。  ☆ これに対してわたしは次のように応答しています。:  ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~  なるほど。自然のからだ(身と心)のほかに 霊のからだがあるとか。その目覚め あるいは 開花でしょうか。  おそらくそういったことが 想定される。または すでにそのような現実に移っている人もいるかも知れない。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ やっぱり《霊のからだ》が 思いから離れないようです。    ★ 元々現世では報いの無い愛ですが、精神的な強度の高い愛なので代りは効かず、神への愛に昇華するしか無い。  ☆ これは うったえるものがありますね。  つまり わたしは 一般の人間関係の中で両性のそれを ツイ(対)関係と呼んでいますが 互いのきづなのつよいツイ関係は あり得ると思っています。  そういう場合に 相手がいなくなったときには 一生かどうかを別としても かなり長いあいだのしばらくは 半分死んだように生活を送ることがあるでしょうね。  ★ 人は先づ他者への愛を通して其処(* つまり天国篇のヴィジョン)へ至る様になってるのが此の世の不思議。  ☆ という見方は 確かにそこで――ツイ関係の展開をつうじて――得られて来るでしょうね。そう素直に思います。  ★ 正しくは、生を知り尽くしても、死は解らない。経験不可能。  ☆ なるほど。この見方も 当然と言えば当然ですね。    有限で相対的で移ろいゆかざるを得ない存在が ヴィジョンを得ているということは その《限りある範囲》を出ているわけではないと。  その上でいろんなイマージュがあり得るであろうと。  まづ 限界を知る。このようにも受け取りました。  いまわたしには こんなところでしょうか。

回答No.5

こんにちは。~復活するのは“魂”の事かと存じます。 所持してる英訳付きの新約聖書では,"SouL"と訳されてますが、それだと観念的な精神や心、といった意味合いが強いので、フランス語の“áme”の方が相応しいか、幾分唯物的な物質性も含めたモノで、元の希臘語では“プシュケー 或いは他の方が挙げられた“霊”espiritos霊魂。spirit,は三位一体の聖霊の方だから少し違うな。ギリシャ語だと“プネウマ,だったか知らん ~何れにしても是等を3次元空間の実体とするのは錯誤です。~此の世とは違う 存在のモードに存する事、でも幻想でもない。 スピノザのエチカ”では、人が感知出来る現実の[ 属性 ]は、 思惟( 観念,思考 )と延長( 物質,空間 )の2種だけだと定義しますが、それ以外にも知覚出来ないモノ,として[無限に多くの属性 ]がある、と留保を付け加えてる ~其れを特別に感知出来る場合も有るのですね、ある種の身体技法を伴った瞑想などの修行を修めた宗教者などです。~脳内の,単なる観念や心象ではなく又、物質性を持った実体でもない。~仏哲学のベルクソンは其れを“ image=イマージュ”と名付けました 📽仏映画のJ.L.Godard,はビデオ映画史1-Bの中で、聖パウロの言葉らしい 「イマージュは復活の時 に到来するだろう」を引用してる http://www003.upp.so-net.ne.jp/jhori/godard/histoire3.html 4段落に 畏るべき予言だな、映画は霊魂と相性が良い。オーヴァーラップ二重映し”と云う技法が有るでしょう⁈、霊的なモノは、あの様に出現すると思われます ゴダールの其のfilmも斯かる技法を多用して、畏るべきイマージュを定着してる、美しくも戦慄的イメージ。~ 下手な歴史書読むより、基督教の図像と現代史が関係付けられ、機会あれば1巻でも観ると良いです、5巻あるのかな? 情報量が多いので、VIDEO巻き戻しながら,が丁度良いです。 ~霊的な事を感知する身体技法は、其の前に倫理学を一通り修めなくてはなりません。ドラッグと同様に魔境があり危ないです、荒野のイエスも仏陀も其れに悩まされた。邪教はもっと危険。先づは其の倫理をお伝えしなきゃならない、必要ならば補足します 掻い摘むと、煩悩など自我を滅却し、謂わば死んで生きよ!と云う事で、現在の問題”と言っても良いでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  むつかしいですね。と言いますか 別の意味にも――と言ってもそれが どういう具体的なことなのかが分かりづらいのですが―― 採れる解釈を 入口としては聞いているのです。  まづ:  ★ 復活するのは“魂”の事かと存じます。  ★ 何れにしても是等を3次元空間の実体とするのは錯誤です。~此の世とは違う 存在のモードに存する事、でも幻想でもない。  ☆ わたしの聞いていることとしては どちらかと言うと 魂よりは 霊という言葉ではあります。  そして 自然のからだ(つまり 身と心 身体と精神)があって 復活すると 《霊のからだ》があるのだと。  これは さほどの違いではないと思います。  そのあと この霊のからだが いったいどういうことなのか? が来ます。――これが分からない。  ★ 3次元空間の実体とするのは錯誤です。  ☆ つまり それまでと同じ経験世界に生きる身と心なる存在ではない。でしょうか。  ★ 此の世とは違う 存在のモードに存する事、でも幻想でもない。  ☆ 幻想などではないが いままで見慣れた経験存在たるわれではない。――こうでしょうか。  むつかしい。ですね。  ★ スピノザ / ベルクソン / ゴダール / そして パウロ(?)  ☆ なのですね。  スピノザは 神即自然などと言って ひとつの見方としては それなりにですが 分かりやすいですね。  パウロには馴染んでいるつもりなのですが まだまだかも分かりません。  あとのふたりは にわかには むつかしいです。  ★ 謂わば死んで生きよ!と云う事で、現在の問題”と言っても良いでしょう。  ☆ 《現在の問題》であると言っていただきました。  この線でさらに注意して行こうと思います。

回答No.4

ほほう。 死の命題という私の提案と似た考え方がようやく染み付いたか。 健闘を祈るよ。 君のこの点に関してのがみがみは、実に困ったきれいごとの一つだったよ。 死に向かって直行の高速道路でも建設してくれ。

bragelonne
質問者

お礼

 いや。ちょっと。  ☆☆(趣旨説明欄) 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。  ☆ ということで 死の問題ではない という見方なんですがねぇ。死ぬ以前に何が起こるか? ということで。  もっとも 復活などという命題なので 雲をつかむような話に成らざるを得ないかも分かりません。むつかしい。  というところですかねぇ。  ご回答をありがとうございます。

回答No.3

 なるほど、私自身は「終わりの日」はハルマゲドン、終末思想のことかと思っていたのですが、「終わりの日」を、個人が「ああ自分の人生もう終わりだ!」という絶望感に陥った日、ととらえるとすると、ここの部分は、その後にもう一度人生の復活を受けられるという、かなり現実的表記に思えます。「人は二度死ぬ。」とか、「人は二度人生を生きる。」といわれていることにも通じています。  後は読んだ人がここの文章をどう解釈するかだとは思いますが。二千年の時を越えてリアリティーを持てるかどうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ。  ★ かなり現実的  ☆ に捉えようとしてみました。  哲学からかなり飛躍しているかとは思うのですが。  ご回答をありがとうございます。  ★ 「人は二度死ぬ。」とか、「人は二度人生を生きる。」といわれていることにも通じています。  ☆ ええ。そうだと思います。  あとは 飛躍がありますので たしかにおっしゃるように:  ★ 二千年の時を越えてリアリティーを持てるかどうか。  ☆ だと思います。  おつきあいくださってありがとうございます。(終わりを初めだとする見方の転換は 哲学っぽいかも分かりません)。    

回答No.2

「わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」 質問者さんは「終わりの日」に「復活」するのではありません。 質問者さんが「復活」する日が「終わりの日」なのです。 われわれが何に「復活」するのでしょうか? 「霊」(なり魂なり今風ならエネルギー体なり)の中から この世界に肉体を持って生まれてきて、その自然な流れで 「肉」のみの存在としか思っていない存在が、そういえば 「霊」でもあると気づくこと、目覚めることが復活です。 うすうす気づいてらっしゃるでしょう? わたしたち「人間」が肉体と精神だけの存在のはずが ないのです。 「あなたがたはわたしをみているのに信じない」 イエスがその肉体をあえて 衆人の見る中で十字架にかけて滅ぼして、 その後「復活」して霊でもあることを示しました。 それを見て人間が肉体に閉じ込められた霊でも あることに気づいてほしかったんです。 気づいて「復活」する日が、肉体のみの存在だと 思いこんでいた日々の「終わりの日」です。 気づくのは、いつも「今日」です。 気づけば、「いま」しかないことも気づきます。 その「今日」が、地球が何度か回転したあと だとしても、やはりその日は「今日」なのです。 「終わりの日」を迎えて、新しい歴史を踏み出してください。 質問者さんの意図していた答えとは違ったかもしれません でも「終わりの日」は個別にやってきます。 イエスのいわれたことが質問者さんに深くしみわたり 復活の日、終わりの日を迎えますように。

bragelonne
質問者

お礼

 まづあらためて かなり哲学から飛躍した質問内容だと思います。  それにも回答を寄せてくれてありがとうございます。  ★ 「終わりの日」を迎えて、新しい歴史を踏み出してください。  ☆ これでいいとお考えになりますか?  つまり 《終わりの日》は じっさいには終わりではない。そこから あたらしい歴史が始まるのだと。  ふつうは この世の終わりだと言って いわゆる終末論になるかと思うのですが そこのところを みなさんから考えをお聞きしてみようかと思いました。  ★ 「肉」のみの存在としか思っていない存在が、そういえば「霊」でもあると気づくこと、目覚めることが復活です。  ☆ なるほど。自然のからだ(身と心)のほかに 霊のからだがあるとか。その目覚め あるいは 開花でしょうか。  おそらくそういったことが 想定される。または すでにそのような現実に移っている人もいるかも知れない。・・・  ありがとうございました。

  • fergaga
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回答No.1

イエスの時代はイエスの時代・・ 現在はイエスの時代では無い・・ 聖書は イエスの時代の人に解かる様に書かれています・・

bragelonne
質問者

お礼

 末尾のご指摘は そういう目的や狙いがあって そうしたというのではないでしょう。  同時代人に宛てて同時代人のひとりとして文章を書いています。  ただし――その当時の習慣や特有の表現などを別として・あるいは 別とせずとも その潜在的な可能性にもとづき自由な解釈を生むことが出来て―― 後世の人びとにも伝わる内容を持ち得ている。こういうことでしょう。  あとは 何のこっちゃ? です。  ご回答をありがとうございます。