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現在時における《復活》について
おしえを乞います。 次の聖書の文章における《終わりの日》を わたしは 現在時に わけもなく 持って来て解釈しています。ご見解をおしえてください。 ▲ (ヨハネ福音6:34-40)~~~~~~~~ そこで かれらが 《主よ そのパンをいつもわたしたちにください》と言うと イエスは答えた。 ――わたしがその生命のパンである。わたしのもとに来る人は 決 して飢えることがなく わたしを信じる人は もはや決して渇く ことがない。 しかし 前にも言ったように あなたたちはわたしを見ている のに 信じない。父がわたしにお与えになる人はみな わたしの ところに来る。わたしのもとに来る人を わたしは決して追い出 さない。 わたしが天から降って来たのは 自分の意志ではなく わたし をお遣わしになった方の意志を行なうためである。 わたしをお遣わしになった方の意志とは わたしにお与えにな った人を一人も失わないで 《終わりの日》に復活させることで ある。 わたしの父の意志は 子を見て信じる人がみな永遠の生命を受 け わたしがその人を《終わりの日》に復活させることだからで ある。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち わたしは この《最後の審判》とも言われる《終わりの日》について 死後ないし未来ないし終末にかんする議論として捉えることをしなくなっています。そうではなく いま現在の問題として 捉えるようになっています。 きわめて横着に 《終わりから始める》ことをしています。根拠はありません。信仰という無根拠です。 しかるべく 正してください。 なお 《QNo.4367998 :復活とは? 不死の境地とは? = http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4367998.html》の続編になります。
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オコリザルです。 まづ、 >家畜として共生する中で感情移入するして心象において擬人化する理解の試みから生まれた悪夢です。(この点は神話性のない私独自の解釈) この部分は私自身が理解するためのこじ付けがましい解釈で要するに寝言です。 変身と表現したbrageloneさんの解釈のほうがより忠実であるとわかりました。 このように表現するならです。 ☆ この《世界の変化》とは何ぞや 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。 自然史過程に関してはbrageloneさんの表現に謎かけめいた物を感じて思いが空回りしました。 このような場合brageloneさんの主張に私の理解が負けているはずです。 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。
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- arayata333
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罪の赦しの問題にすこし立ち返ります。 神は、わたしたちを裁きません。 悪人にも善人にも同じ雨をふらすように。 あるいは、哲学的に言えば(厳密に理論的に言えば)神とはいないに等しい(すでにこの存在が贈り物であるということを前提とした上でのことであって無神論とは関係ない点は誤解しないでください。)わけです。 では、私たちは罪を認識したら、さばくべきなのでしょうか? わたしは、刑罰というのは法律として、今はまだ“しかたなくて必要なもの”と考えます。 私たちが弱いからです。(抽象的の言い方ですけどね。) 心の中では、完全に「罪を憎んで人を憎まず」の理解が必要なところと思っています。 因果のすべてをどうせ知ることは 人間には他人の内面をすべて知ることはできないので無理でも、 無知の知の理解の知恵で、あるいは限界への謙虚さで、他の存在へのリスペクトの力で、 まず理性は知性にては、完全に人をどんな時にても「それはその原因があってその罪に結びついてしまった」のだと理解してあげることは出来ます。 理解してあげるというこの「あげる」という言い方は上から目線でしょう。 自分もまったく同じ状況を同じ能力にて生きたなら同じような罪をおかしてしまうだろう事の理解の知恵からは 上から目線ではないわけなので、真の理解からは上から目線は無いわけですが、 あえてわかりやすくかけば「あげる」という記号も使えるかとおもっただけと理解してください。(ややこしいですが^^)。 わたしの考えでは この完全な許しと、自己反省を促せる教育体制が人間社会の中に ほんとうに確立できたなら、弱いままの人がまだたくさんいても、 実際の「復活」がきても準備はできた状態というふうにかなり前から思っていました。 あまり考えた上での結論ではないので、 いえそれ自体を考えても 現実がそれに向かって進んでいくわけでもないので考えなかった感じなのですが、 考えてみれば不老不死と言う点からもそれは庶民の夢でもあったんですよね。 その点からは もっと考えておいてもよかったかもしれません。 でもともかく未来時間のことは、 今変革の努力しないと何も変わらないということしか私たちには解らないこととも思います。 過去と今の情報をもっともっと勉強し考え抜き、そこにこれからと今からをかんがえて行動もし言葉も組みたてていく ということ。 これぬきには、 私たち人間のこの意思決定ぬきには、何も前には進まないという考えです。 現在時となると、教育改革ということを抜きのコミュニティは考えがたいところです。 急進派ですが、ここは押さえておくべきところのひとつと思ってます。 罪の問題は、その過程での理解の問題と考えます。 * 一般の哲学人が primeape様との間の会議?に出席するのはよけい話がこんがらがるところなのかもしれませんが、 私の経験とかからのたぶんじっくり解説すれば多くの人にわかりやすい解釈からも いちいち「面白い」内容の思えてしまうので、 間違っているかもしれなくても つい、いちいち解説したくなってしまうのですが、 あくまでもより多くの人にそれなりの意味が通じたほうがより価値的だとはおもいますのでこの井戸端会議にも首をつっこみたいのですがよろしいでしょうか。 たどえば、牛ですが、 これはアフリカでは一番恐れられてる動物です。 ライオンが6頭ぐらいで なんとか「鬼^^」退治をする映像を見たことがありますが、 これは一頭では歯が立たないということです。 野生の牛こそ 百獣の暴れん坊王者です。 一番人や他の弱者をなんの理由も無く利己的に^^、襲う危険な動物王です。 が、今ではこんなに人間に役に立ってるおとなしい動物はいません^^。 すみません。 あまりにも卑近な解釈だったでしょうか? でも、これもまた、たとえば 精力善用とかの現実教育問題、日本柔道の精神やその競技の健全な発展の問題とかとか 重要な問題のひとつとして私の中にもリアルに浮かび上がってくる問題なのです。 これが 抽象的なままに進んでいっていい論議なのか? 私のほうからは疑問なのですが? 霊媒師?の立場とかがあって 言葉が雲の上の霧がかかったままの対話として進んでいるのか? primeape様の直感力から生まれる言葉をpremeape様の哲学的理解力自体が追いつけないでいて それで同じ神話理解力のような能力の哲学者に対話を求めているのか? そのへんがすごく「謎」の人なんですが、 そのキャラクター限界の世界なのでしょうか? 私もすこしは、 参加していいで笑か? あ、 きょうはここまでです。
お礼
みなさんへ。 新しい質問 《QNo.4462818 :吉本隆明の思想について =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4462818.html》へ移行しました。 どうぞよろしくお願いいたします。
補足
arayata333さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 回答者どうしの探究の協力――議論と言うことばを避けて こう言うのですが――について いつも 考えていました。要するに 話が進むと思えるからです。 けっきょく 主題を提示して それについて回答を寄せるというかたち これを採っていただけば よいのではないでしょうか。それに哲学であれば 議論をしつつ(と言いますか 疑問点について 補足要求として 尋ね返しつつ)答えに近づくのが ふつうでしょうから。 牛については ★ 野生の牛 ☆ のことを別として たとえに用いる。これなら いいのですね。 さらにそのあとの議論につきましては 《これこれの主題についてですが》と言って ご見解を述べてくだされば よいと思うのですが。 ★☆ あやまちを赦すということ ☆ これは 何を隠そう primeape さんの持ち場でもあるのですが 前提を確認しておきます。 1.★○(この ○ は一般にも言われるという意味です):罪を憎んで人を憎まず。 2.〔ちなみにアウグスティヌスの言葉で:〕われわれは欠陥を憎み人を愛すのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならない。 3.そのあと 見解は二つに分かれる: ( a ) あやまちを犯した人を こころから完全に 《赦す》。この上なき和解の成就。 ( b ) 犯されたあやまちを憎み その人を 社会的に共生すべき存在として 愛する。しかるべきつぐないを果たさせ その後 更生することを 制度・措置として さらに整え 充実させる。更生を邪魔する行為に対しては いかなるものであっても社会を挙げて たたかう。 ★ わたしは、刑罰というのは法律として、今はまだ“しかたなくて必要なもの”と考えます。 私たちが弱いからです。(抽象的の言い方ですけどね。) ☆ これについては そのような考え方があるということとは別に わたしの方針としては こうも考えております。 いま現在 目標とするところは 《世の中の三分の一が 民主・自由の井戸端会議をとおして 共生の社会生活を つねに 権威・面子をかなぐり捨て裸になって 模索してゆき 次の三分の一が それに共感し 残りの三分の一が 何かと抵抗したり邪魔したりする》という状態の実現です。 これによると 一般に 何かのことで《過渡的》な処置を採っているのだという考え方は あまり しないと思います。《過渡期》という考えはなく つねに 目標実現の真っ最中の現在なのであると思っていますが いかがでしょう? 今回は これにてです。
- arayata333
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bragelone様の、 復活の問題を 現在の愛の問題として、幸福をどう分かち合うか苦しみをどうなくしていくか!という具体的に社会から目をそらさない精神も問題として さらに話題を展開していこうという キリスト者としての想いとか詩的表現の気持ちとかは解る気がします。 でも、やっぱり一般の立場からは、「愛を具体的に進めてゆくにはどうすればいいのか?」とか「その時、愛とか慈悲が無い人の心はどうしたらいいのか?」とか、「その教育もしっかりすることのできえる実際の助け合いのコミュニティーを進めてゆくにはどうしたらいいのか」とか、 そのように、キリスト者でも一般人の哲学してる人達に噛み砕いて話を持っていってくださらないと、 なかなか抽象的なお話と誤解されてしまって話しは進んでいかないように思われるところです。 私の場合は この「幸福論」が実際により多くの人の幸福と結びつかなくてものんびりしていられる議論には興味は持てません。 かなり革命志向人間です。 でもだからこそ、あわてないようにという議論であれば、そこには興味というより自戒のための必要性は感じます。 たしか 一度この哲学カテで仏教についてこんな質問をしたことが過去のありました。 回答がつかなかったので消してしまったのですが、ということはせっかちで一日も待てないで消してしまったのかもしれません。 悟りの世界があまりにもすごかったら、私たち凡人の心理を憶えていることは出来ないはず、 なら釈迦はオシャカではないか? という意味の質問だったと思います。 逆に言えば、もしそうでないのならば、 仏教からは 歌や絵や踊りがあふれるように生まれてすべての教えが 実際に心の中の明るさの証明も含めて誰にもわかりやすくなっていたはずです。 仏教だけに言えることではないですけど。 《イエスキリストはすべてを、たとえ話で話された。 悪人とも友達だった。 自らは神の知性の世界を伝えるほどの知性の明晰性と、純粋な優しさを持っておられたのに。 》 それが“ふつうの市民のキリスト教感(最新の質問は、拝見しています。そちらにも いつもの無知な立場ながら回答してみたいと思っていますが。)”だろうと思います。 brageloneさまの、信仰の純粋性が そのような究理の筆となる 詩心は解るのですが、 やっぱり 哲学の井戸端会議である以上、 そのへんこそ、 回り道してでも、 ゆっくりと、 しかし本気で前に進めて行く必要があるのではないかと思います。 私は かなり昔から今に至るまで 「心の清い人」とはどういう人なのか、うまく具体的には掴めないできました。 いえ、ほとんどその意味合いがうまくつかめていないのです。 でも直感として、今思ったのですがblageone様のような人を「心の清い人」というのかもしれません。 その面からも、文体自体とか文の奥のそのお心の味わいとかの世界を変えずに、そのへんを譲歩するというのはとても困難なところなのかもしれません。 お心が深いことは、私には解ります。 議論内容の深さもです。 すべてではないでしょうが、わたしにはそように読み取れるところがあるのです。 忙しくなっても できるだけ、こちらの井戸端会議には顔を出すようにしてみたくなります。(おさそい ありがとうございます。また おさそいは、必要としている仲間という意味合いとも受け取りました。) * きょうは これから 84歳になる母を食事に連れてゆく約束をしています。 急いで帰る必要があるので、 続きというより 手紙風となってしまいました。 (哲学のカテには、それがどんな議論展開であれ、私はこうした 歯車のユトリも必要かと思っています。) 取り急ぎ。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 うちの親も 二人とも 一緒に食事をするのが いちばんの楽しみだったようです。 ★ 噛み砕いて話〔したまえ〕。 ☆ 身にしみます。限界が――あると決めつけませんし あるとすることに抵抗を示しますが―― いまは あるのかも知れません。 復活論については さらに 感想が 二転三転しました。 いっそのこと 復活した地点に立って――その復活じたいの議論をではなく そうではなく―― いろんな主題について そのまま 語ればよいのではないか。こうも思いました。方向性として これを いま 持ちます。クリスチャンにも ブッディストにも みなさんに 呼びかけたいと思います。
オコリザルです。 神話的解釈と言うよりも諭すように語るなら、地獄の鬼は世界が変わることによって牛に昇華してその苦しみから解放、苦しみと言うのは実は変なんです、ただ報われたと言うべきでしょう。時間の流れはまっすぐですから、元々から牛であったかは立ち入れない(心の)世界です。 A26のコメントでbrageloneさんの考え方にも(あくまでも私から見てですが)何らかのわだかまりがあることを発見しました。 復活へのこだわりが現実からも離れています。 捨ててゴミにしないで取り組んでください。
お礼
primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 地獄の鬼は ≫世界が変わることによって≪ 牛に昇華して ☆ この《世界の変化》とは何ぞや? と思いますね。 いわば《自然史過程》といったことなのでしょうか? わたしも それを想定したことはありました。 ★ 復活へのこだわりが現実からも離れています。 ☆ という評言が出されてくるということは 人為的な努力によるのでは必ずしもなく やはり《自然史》の流れに従うというようなところでしょうか? もっとも わたしの想定した自然史過程は 特にどういった努力をするというのではないのですが それでも 心には つねに かかっているという広い意味のむしろ積極的な《心配》のもとに ある日 《昇華》や《解放》つまりあるいは《自己到来》に到ったという内容のものです。 その点では どういう内容を見ていらっしゃいますか?
オコリザルです。 無意識からの回答です。 鬼ってのは要するに牛のことでした。 家畜として共生する中で感情移入するして心象において擬人化する理解の試みから生まれた悪夢です。(この点は神話性のない私独自の解釈) 牛さんは、正気になって心のふるさと(楽園)の田園風景と調和して今は安泰です。 このように鬼の(唯識的な)種子は根絶されたのではなく復活しました。
お礼
ふうむ。と うなって さらに考えますが。 ★ 鬼ってのは要するに牛のことでした。 ☆ これは 《鬼》と言っていたものが もともと 《心のふるさとにいる牛》のことだったということなのか。それとも 鬼であったものが 牛に変身したということなのか。と考えたのですが ★ このように鬼の(唯識的な)種子は根絶されたのではなく復活しました。 ☆ というのでしたら 《変身》のほうですかね? 《復活》ですものね。 ただし それは 人間存在の 全体としての 再生・復活というよりは 《わたし》は まだ 変わらず そのわたしは 煩悩という鬼が 明るい穏やかな牛になったのを 見出している。ということでしょうか? 大きくは 覚りの問題でしょうか。
- arayata333
- ベストアンサー率30% (35/113)
罪の問題は、そちらがpremeapeさんにコメントされているのと同じで、私にしても解りきってしまった過去の問題とかいうのでは全くありません。 「べき」の世界も、「恥」の世界も、まだまだ未熟者で知らないことだらけ、おそらく気づいていないことだらけの人間であることを感じます。 “赦すことができる”とい言っても、それはあくまで、心の中で理解してあげられていることを意味するのであって、 表向きには怒ってあげるべきときとかもあったりすると思います。 それどころか殴りつけて、傷害罪になってでも相手を恥じ入らせる覚悟が必要な時と場合とかもあるかと思います。 そのへんがすべてわかるなんていうような人間では無いということです。 いまだにして弱い木の葉みたいな自分でしかないです。 今は強いところもあると思ってもいますけどね。 そちらとは文体がかなり違っていますし、私は表現のジャンルを総合的に知ってたりしますが、 行き着いた考え方がよくよく知ってみれば似てることには、 私も驚いてしまうことがあります。 * ★「空観の思想」 でも、これも結論となると同じなのかも?知れないのですが…、 空観を 何故 因果を理解する知恵のひとつとして捕らえるのかはよく解りません。 因と縁についての考えにしても、結局抽象的に因果を大きく捕らえているというだけのことで、 それで因果自体をなんら解明してるわけでも解明の方法をほんの少しでも明らかにしてるわけでもないのに、 それがなんで人を赦す大きな力となるのかは 不明確です。 すべてのものがナノ秒にても移り変わってゆくという抽象論でもあるのですよね。 無常観ですか。 これにしても縁起論にしても、 私にはこれは因果を具体的にその大切な観点の何がしかを明らかにするすべをなんら直接持ってるわけではなくて、 それは物事を大きな観点から見つめなおす必要が《文明人には無理やりにでも言葉を極端な形で表現してでも》あるから その方法のひとつとしてその思想が生まれたのだとしか私には思えないのです。 苦の解決の問題としてそれを掲げる人もいますが、 すべてが過ぎ去るという考えは現実的にも力になり うまくそのコツを捕まえてゆくと、ほんとうに苦を苦として感じないほどにまで成ることは不可能ではないと 私も思っています。 ある似た体験があるからです。 でも、これにはおそらく大変な修行も同時に伴うもので、それを意識してやろうとしたら、努力はむしろ無理につながってしまい、逆に苦しみから目をそらすことや 恐怖の世界に陥り、精神をむしろ破壊していってしまうと思います。 これは あくまでも「大きな視点から」少しでも「自他を見つめる目」という人間の本性をとりもどす一助にすぎない思索の世界ととらえるべきかと思うのです。 そしてそれは大きな仏旅(涅槃への道)の力のひとつにはなるかと思うのです。 ですから 逆にこの思想を、ブッディズムの唯一有効な思想というのは考えられないことです。 その他にもたくさんの仏旅への道程が説かれていて気づきやヒントとなるものはたくさんあるかと思います。 ともかく これが涅槃を直接意味するということも とても私には考えられません。 理解不能です。 (空観が抽象的だからといって、底が浅いと言ってるのではないです。 色即是空にしても、言いたい意味は深いでしょう。情欲論とも関わる解釈も出来たりします。 でもそれも抽象的な表現に止まってしまってるのではないかという疑問は起こります。 「見つめる目」あるいは「見つめる知恵」の世界としてそれを捕らえることからはじめなければ 解釈も深めることが出来ないのに、そのへんが出来ていないというか真剣じゃないというか そこが何かよく解らないところなんです。) しかし、涅槃がそちらの言われる復活とか 私の書いていますごくあたりまえの復活の概念と関わるのは そのとおりだと思うところ、 というよりだからこそ、 仏教についてもここに触れ始めてみたのですが、 これも“仏教徒が 復活について語らない理由は 神の概念がそこに無いから”では答えとなりませんか?という疑問がそちらに対して起こってしまうところです。 仏陀は 「こんなすごい命の体験(涅槃)」がここに存在してるのは、神無しには考えられないということで与えられた存在の意味をご自身はそのように解きほぐしていたかもしれません。 でも それ以前に仏陀という人の命の前後に神という言葉が無ければ、 そのすごい体験を誰よりも分かち合わないではいられなくなったとしても、神の思索はまったく仏陀ご自身無かったことも考えられます。 なによりも神という言葉が仏典に全く出てこないところを、その弟子の仏旅の途上の思索に「復活」の概念についての思索を求めても無理かと思います。 現代ではもちろん不可能な対話の世界ではなく現在時ということであればなおのこと対話すべき地点だと私も思いますが、 それだけの読解力があるブッディストがちょうどここを訪れていないと無理かと思いますし、 そのへんはまさに優しい文は必然的に必要なところかと思うのですが、どうでしょうか? 私が感じる仏教徒への疑問は 本気なのかということだけです。 本気の仏旅なのか?という疑問はそこここに感じる時があるのです。 そちらの厳しい姿勢にては、それは不誠実で真剣さのないニセの仏旅を埋葬しなければ そのニセ者は後をたたない ということなのでしょうが、 仏教自体には 涅槃への旅のヒントはたくさんあると思っています。 * 今回は「情欲論」のほうは はしょります。 * 日本感性教育学会の この命に関する見解も奥が深くて面白そうですよ。 機会がいただければ 私流にですが紹介してみます。 一回限りの生という考えの中に、いかにひとりひとりの人格を尊重するか、その根拠をかなり深い地点に見ているからです。 その中にひとつ、 この現在時における 復活につながる精神の世界に関してとてもおもしろい考えの世界があることを見つけました。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 直前(No.24)のお礼欄にも書いたのですが どうも 《復活論 特に 現在時に絞ったそれ》については 一たんその議論の手前にまで来たと思っているのですが それ以上は なかなか 進まないのではないか こう思うようになっています。 けっきょく 覚りや信仰の極致の問題に 議論としては 足踏みしつつ 終わらざるを得ないのかも知れないと思えます。 逆に言うと そういう議論でよいとも思えます。そもそも 幸福論の哲学は そこに行き着くわけですから。 ブッディスムを探究されるのでしたら いろんな切り口を打ち出して来てくださるとよいと思います。 《赦す》問題にしても その理論を展開していただくとおもしろいのではないでしょうか。 わたしとしましては 空観=縁起共生観のほかに いまは 追究しようという関心が薄れてきてはいますが。もっともっとおしえて欲しいのですが わたしが挑戦的で どこか ブッディスムをばかにしたところがあるので なかなか 切ないところです。 涅槃にしても どうも 暗いなぁと思ってしまいます。要するに 死 と言っているのでしょう? 不死の境地を 他方では 掲げているようですが。 少々 足踏み状態に陥りました。まとまりのない恰好ですが あしからず どうぞ。
オコリザルです。 A23に呼応します。 >primeapeさんの言う《無意識》は 《意識していない領域》というよりは 《無ないし空の意識》だと思うのです。 これに関しては(意識と無意識を)隔てる物を感じないという意味で了解できます。 >マナ識は自由意志 その通りだと思います。 マナ識が(総合的な)自己を確認するための試行錯誤の過程で生み出される欲は阻害する理由がありませんが、なるべくなら望みを載せて解き放たないで二日酔いみたいな状態で自分で耐えるといいでしょう。 アラーヤ識の解説は込み入っていますが要するに記憶のことをおっしゃっているのですが、現在取り組んでいるのが置き去りにされた記憶の救済なんでしょう。それで表現が回りくどくなっています。 復活に関してはご意見は了解可能ですが、聖典が編まれたのは人体の構造に関する医学が発達する前です。現代においては「感覚的なそれ」を、死になぞらえるだけがアプローチではないし、死になぞらえたままだと、たとえば食べることが、本当の死に無自覚なため罪になります。何を起源とするかとも関係しまして無学な私の意見には反論の余地も有ると思いますが、心象において鬼はもはや痕跡(又は過去形の伝説)です。生き死にの問題と違うアプローチも出来るのではないかと思います。 それから将来的希望に関しては、判らないとしか応えられないので、どのような成り行きをたどりつつあるのかは不明です。 したがって復活の達成についてコメントする余地がありません。 今のところです。 空観についてはご説明がまさに哲学であり、理解の行き届かない部分も有りますが、疑問や違和感を感じないで読み進められてので正しいのだろうと思います。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 全体として おおきな間違いがなくて よかったです。 ★ 現在取り組んでいるのが置き去りにされた記憶の救済なんでしょう。それで表現が回りくどくなっています。 ☆ そのとおりだと思います。そして その克服は 復活において 成し遂げられるとも思います。そういう意味では 覚りは 復活のことになります。 ここまで来て すこし感想があります。 復活論へと みなさんを 引っ張って来ましたが たしかに 或る意味では その出発点にまでたどりついたと思います。その舞台は 出来あがったのかも知れません。ただ ただし 復活をいま現在捉えるということは なんとも 非現実的であるかとも思いました。 空観=縁起共生論にしても 人間と社会とを三位一体論において捉える視点にしても これは まだまだ ふつうの哲学思想であるに過ぎないのかも知れません。 復活論というのは まだまだ 勇み足であったかと思いました。 もっとも そのように《終わりから始める》という思考形式を採ったことで 哲学思想が わたしの中で 進むことができた部分もあるように思っております。たとえば 社会の全体が 一人の人間の視野に入るかに捉えられるといった問題です。 もう少し このまま歩みます。
オコリザルです。 私自身の回答は少し脱線もしていましたが今回のテーマは復活でしたね。 そもそも古代人はなぜ、感覚的なそれを「死」又は「死者」になぞらえたのか。 現代に生きる私にはこれが不明です。 自らが編み出したもので手前味噌ですが、その手の事柄は心理学的おまじないである「心の新陳代謝」に置き換えると、復活ではなく蘇生であり割りと簡単そうに思えるんです。 A13より。 >内面のドグマたる箱庭の実態は、生きているか、死んでいるかではなくて、感情を伴っているかどうかに還元するのが本来は正しいのです。 無意識が(天使にもなぞらえる)個体としての生命を支えていて、具体的には脳を仲介した指令を出しているとすると、ドグマのありかも脳に由来しており(マナ識の役割としての)判定は、生命に内包しているのは当然であり、それゆえに生き死にの悩みは問題外で、あくまでも感情が伴うかどうかが正しい処方箋の配り方となります。 これに由来してドグマの生み出す心象風景が私の感覚ではあくまでも箱庭なんです。 もっとも無意識は地球意思のごとく振る舞い、地上を支えているともいえます。 心の広がり(つながり)を演出する無意識は縛られては不都合でもあるのですが、おかげで私は「名前の束縛」と「自らが何者でもない感覚」の間を行ったり来たりしました。 こうも科学を応用すると聖典も迷信なのか神話なのかの判定が難しいですが、聖典は宗教を問わず神話がある前提で迷信に思える事柄も正しく解釈すべきでしょう。 この手の事柄は専門外なのでお任せしますが。
補足
primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 今回は 二点お伝えします。 ひとつは 確認です。みなさんもご承知おきいただきたいと思うのですが primeapeさんの言う《無意識》は 《意識していない領域》というよりは 《無ないし空の意識》だと思うのです。重なる部分もあるでしょうが もっと分かりやすく言えば 《生命》ですとか《存在》のことだと受け取っています。ただし アーラヤ識やマナ識を挙げておられるので とおく精神分析の説くところと重なる部分は ありというところなのでしょう。 わたしとしましては マナ識は 自由意志なのですが どうも その自由のゆがみを持ち《わたし》が膨れ上がった欲望としての意志であるように ブッディスムの外から見て 見えます。その思いや行ないの軌跡 さらに多くは 積もり積もった不完全燃焼 これらが すでに意識から離れ去って残っているのが アーラヤ識だと思われます。 そうして そういった認識を一たん離れて 空観を実践する《わたし》がいれば いいのだと考えます。 空観は 次の一点の中で説明します。 二つ目は お尋ねの復活です。 《死んだと思ったあとの生き返り・蘇生》あるいは《生まれ変わり(輪廻)・クローン人間》のことではなく そうではなく このふつうの人間として生死を経験する〔――つまりそれを すでに 肉(=身体かつ精神)において 受け容れている――〕その上で 肉を超えた霊(つまり 絶対というなぞ)との遭遇を味わう。と仮りにすれば この霊の経験が 同じ《わたし》にとっての 霊の生であるかも知れない。再生・復活という新たな世界であるかも知れない。しかも これが いま生きている現在時に すでに 起こるのではないか こういう問いです。 空観というのは 世の中や宇宙の因果関係(縁起)が すべて 如実に分かるということだと考えます。検証しうるものとして 世界が 物質で出来ていて 脳細胞なる物質の上に精神や心的現象があるとすれば その遡って行って辿りつく先は 火の玉宇宙であるとした場合。この場合 空観によれば そのすべての時間空間のあり方やそこでの出来事が 分かるということです。絶対(霊)の観点からも 復活した人間は そのことが出来て分かるのではないか。こういう主題につながっていきます。 ちなみに 個人としての人間とその社会にかんしては その縁起共生の関係構造が 次のように 一例として解釈できます。 三位一体(光なる神)・・・:父(光源)‐子(発耀)‐聖霊(明るさ・暖かさ) ↓ ↓ ↓ 三一性(精神の光/人間):記憶能力 ‐知解能力 ‐意志能力 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・:精神の秩序‐その表象 ‐愛(自治・自立) 社会行為・・・・・・・・・・・:組織行為 ‐生産行為 ‐経営行為 国家組織・・・・・・・・・・・・:司法府 ‐立法府 ‐行政府 ・あるいは もう少し詳しく。 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・(↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [市民/市民社会] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [公民/公民圏] ・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ☆ これは 次の聖書の文句を解釈したものです。 ▲ (創世記1:26~27)~~~~~~~~~~~~~~ 神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。・・・」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《復活》は こういう主題・課題をはらむ問題だと考えます。
- arayata333
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すみません。 ANO21ですが、最後の部分が中途半端でわかりにくかったかとおもいますので、 付け加えてすこし続けます。 「現在時における《復活》について」 というタイトル自体が解りにくいのですが、(いつにもまして、含みのある文体なのか^^?) ともかく 仏教に関しての そちらの疑問も たとえば空という概念が いつも新鮮な飽きることの無い純粋なもともとの人間の心の回復やそこからの発展に本当につながるのか? というあたりであるとすれば、 そのへんの仏旅を問うことが ここでも通じる回答であろうと判断させていただいて、 この上は ここにて私の仏教観も書いていってみたいとも思うのですが、(かなりの仏教への北風かもしれません。哲学の井戸端会議なのですからね^^)。 キリスト教に関しても セックスと不浄の問題は、これは黙っていられない問題なんです。 宗教全体が この問題とへんに関わっていますが、とくに、おそらくキリストが言いたかったこととは逆なことになっている中でも かなりひどいことになっているのがこの人の無意識まで支配するこの心のキリスト教が作り出してしまった問題です。(キリスト教だけじゃないですが) ほんとうは、成熟したセックスは、一番感性を豊かにする多くの気づきを得ることのできる場とも言えます。 ただ、頭が混乱してると(正確には左脳のみ働いていると、とか無意識の部分が混乱してると、という表現のほうがいいのかもしれませんが、 ほんとうに正確に言おうとしたらいずれにしても 私がかける範囲でもたいへんな量になってしまいそうです。)「自他を見つめる能力」のあたりが、もともとはあったのに、衰えてしまって、 性が発達していく過程で、簡単にそれにおぼれてしまい問題者が続出してきたのだと思うのです。 つまり 言葉とかの頭の文明の最初の心理的な犠牲者達です。 そこを宗教や社会的権威は、おそらく知恵者はなにかおかしいと気づきつつも、抑圧という、ここで一番してはいけなかった“いけない北風”を送ってしまったのです。 大自然の中での素朴な生活の中で、無心に無邪気に動物としての生殖の営みをしていた時には、何の問題も無く それが感性をも高めていたのに その未成熟な過程の段階の感性が、こうして[考えるな信じろ]の集団催眠のもと、固定された形で悪と決めるけられることとなったのが、簡単に言えばですが、 「不浄」という観念が生まれた原因だと私は推理してるのです。 そこをまず、 もしかしたらアダムとイブの神話は、「知恵の木の実を食べて罪が生まれた」というお話で、へんに頭を使うのはおかしいと主張しようとしたのかもしれません。 でも これも逆のなってしまっています。 すでに「不浄」は罪と思い込んでいる人たちが多かった中で、それはさらなる「不浄は罪」という集団催眠の環をかためる役割を果たしてしまっていると思います。 罪が生まれた概念が こうしてまた欲望こそ、罪の生まれる原因であるとして(利己心、わがままの因)として、 欲を「よく見つめる能力」はもともとは備わっていたのに、 これも抑圧していきます。 罪という概念は この ほんとうは、私たちを肉感的な愛情は子供のような天国の心に導くはずだったセックスの正常な発達を おおいに阻害もしてしまう概念ともなっていったのだと思います。 OKウェブでも 哲学カテなのにこのセックスに関して質問してくる人の心は深くゆれています。 人生相談のカテではこの関連問題は人間関係の問題と絡んで一番切実で量もまた多かったりします。 ほんとうはこの回答だけに集中したい気持ちすら起こります。 私の場合59歳になってようやくその全体像がなんとかかんとかつかめたというだけのことですが、それでもほとんどのケースに対して其の人の問題や考えの長所から解きほぐしていけると思えるようになったからです。 これは強みですよ。 でも一人でできることは知れてるという 打ちのめされた気になってしまうこの量の多さ。 だから 日本感性教育学会にそのへんを問うて仲間が生まれたらなと思うのがその入会を希望する理由のひとつなのです。 この根源が キリストの正常な健康なあの言葉のいいかけだったとするなら、この歴史にはなんという皮肉が起こってしまったのでしょう。 でももしかしたら、この概念が 道徳意識を高める力ともなったかもしれません。 むずかしく複雑なところでもあるところです。 罪の概念も同じくです。 おそらく それでもほんとうの「べき」は、 罪という概念ももはや、越えて理解しあえる私たちとして出会えるようになることです。 キリスト教も この部分こそ、葬り去らなければならない世界でしょう。 聖母信仰も そのへんを乗り越えたなら すばらしい精神文化の一つなのですから、 結局すべての文化は、 長所も短所も深く理解されたうえでの太陽政策を必要としてると 思っています。 * では 次には「空」という哲学は 葬り去る地点になのか? こちらから ここにて質問させていただきます。 brageloneさんは、どう思われますか?
お礼
つづいてのご回答です。 先に ★ 空の哲学 ☆ は ブッディスムにかんして 唯一の有効な思想ですよ。相対性としての見方ですし 赦しのところで 因果関係を理解し得たら 赦し得るとおっしゃっていましたが 空とは 縁起という因果関係のことですから。つまり 因(直接原因)かつ縁(情況原因)の相互作用関係のことですから。 これが分からなければ 無明つまり煩悩の連鎖になりますし 分かれば 明知として 作用関係が 順調に回転するというわけだそうです。涅槃から覚りから すべて この空観のことだと思いますよ。 ただ そこで この覚りは おそらく 人為の極致だと思われるのですが 絶対ということと どうかかわっているのかが 分かりません。はっきり言わないのだと思います。ブッダになるなら 不死の境地だというのですから じつは この復活の問題と 大いに かかわっているのですが 明確な回答が来ないわけです。では 仏性は どうなのか。という問題にもなっているのですが 果たして どうしたもんでしょう? ★ 情欲論 ☆ では どうも 欲望全般から始めて 情欲についても 自然本性そのものだとは 言わないようです。肉つまり 身体=精神つまり 自由意志によって みづから行なう意志のゆがみであったり 自己をあざむく方向の偏りであったりするようです。 結婚の善ということも言っていて 結婚は やむなく 善かろうと言って しぶしぶ 認めるのではなく そうではなく 結婚は 神が二人を結びつけることとして そのもの自体が 善であると言っているようですが。 ☆☆ 現在時における《復活》について ☆ は No.5の補足欄をごらんください。《終わりの日》における復活ではなく いま現在生きている過程における復活という問題を取り上げているわけです。
- arayata333
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アラヤタです。 いまのところは、すぐには日本感性学会には入っていけません。 日本感性教育学会には、会費がいくらか会則とかに明記されていないで入会の手続きだけが出てるため、 今の私には今のところ手が出せないところです。 会費の問題と、それと自分のPCを持てないでいることも問題で、今現在メール機能が失われているPCを使わせていただいてる形ですので、 日本感性学会とはすぐさまメールでのやりとりが出来ないと解ったからです。 こちらにもどって覗いてみまいしたら、いきなりお話は進んでいました(^^)。 まだしばらくこちらに うちこめそうです(^^)。 キグルミさんの指摘する「剣」の問題ですが、 私の場合はその箇所のうち家族への剣の話は覚えています。 もちろん、というかちょうど私自身がとある家族病理という文明病のうちでもかなり深い病理の世界と関わっていたので、 まだ未熟な青二才であったにもかかわらず、最初からこれも「なるほど、たとえ話だ」というふうに受け取っています。 コーランでの聖戦というのはまた別の意味合いがあるかと思いますが、それはよく知らないので今のところ意見とか言えません。 が、キリストの言葉についてならば、あくまでこの「剣」もたとえ話です。 人は兄弟であれ親子であれ、其の前に一人ひとり絶対個の魂(あるいは魂というのはその絶対個を意味している)であり、自律してこそ人に対応するべきそういう存在だということの例えだと解釈していました。 あるいは、感性については特に、お互いがお互いの経験や体験をもっともっと尊重しあうべき、 其の面別な人格としての尊重を物語ってもいるという解釈です。 《絶対個 であって関係がある。》 このへんをアカデミックな西洋哲学ではへんに考えすぎた形で伝えて来てるようですが、 その自律へのきびしさ自体はすでにキリストの簡単なたとえにこそ いつものように力強く集約されていると今でもやはり、 同じように感心してしまう言葉です。 それが創作ならば創作者ってすごいですね(^^)。 が、歴史の長い過程に重い重い人間の過ちが絡んでいてそれが権力欲というやつとなっています。 家族病理もそれがなければ起らなかった世界でもあるところです。 優しさが重要だとか、 愛こそ最高道徳だとか、言葉ではいくらでも言えます。 つまりウソがつけることです。 したがってそれもまたうまくたちまわるために権力が利用できた言葉という記号の世界だったわけです。 このウソを もっともずる賢く扱ってきたのが宗教を影で操ってきたような人達です。 またそのへんをうまくまるめこんだ戦争屋たちです。 ぜんぶ、実際に権力欲よりつよい愛とか 感性の実態の世界が無ければ、実は自らさへ信用できなくなってしまう世界です。 私の思索が 結局「五感の再考察」とか「感性教育とかの実践」の世界に走るのはそのためなのです。 そちらのコメントでの >ひとつは 《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も あるいは そうとすれば 資格も 持ち合わせていないのではないか< という部分に関しては 解りにくいので こちらの解釈が間違ってしまうかもしれませんが、 このように答えることができる問いではないかと思います。 理性の問題としては、私たちはたとえば、ヒトラーの罪にしてももし「私がその状況や過程をまったく同じように生きたら私もヒトラーとまったく同じことをしていた」という理解、 この理解のことを許す能力として私は考えているのです。 そのかぎり、たとえ身内が殺されても理性はその人を憎まないでいられるのが真実の世界、真理を知ったものの真理だということになります。 感情は別です。 生物であるかぎり、何かつよく願っていること、今にも実現しそうな長い間努力してきたことなどが、逆撫でされるように打ち破られると 人はそれにたいして、つよい怒りという感情を抱いてしまいます。 それを客観視するのは可能です。 仏教の空観でも可能でしょう。 しかし、強い怒りの時には、客観視しておとなしくしていてさへ苦しみは体を火のようにかけまわります。 まったくそれにはおぼれることがないようコントロールはできる苦しみなのですけどね。(体験者より) これ、肝心なのは では「それをコントロールできる基盤たる理性だ」ということになるのではないですか? 理性さへ深ければ、其の知恵差へ深ければ、生物であると同時に、人の上にたつのではなく結果的に許しあえます。 というより許しあっているはずです。 正確には 許してるのではなく理解してるという言葉のほうが正しいのですけどね。 つまり「許す」なんていうのは、同じ人間なのですからおこがましいというか 当たり前のことであり自然なできごとでなければならないことであり、其の言葉自体がほんとうは上から目線の権力欲からの心理の一種だというのが正確なところとは思うのです。 >《人が 人のあやまちを 赦す》という能力も権限も<の内の、「能力も」というのは 原因結果をそこまで知ることが出来ない人間の知性の限界のことを意味してるかと思いますが、 逆にその限界を知る能力は私たちにはあるという点が大事だということなんです。 つまり、解らないけど因果は確実にあるということがくっきり類推できるのが知恵の世界であり その知恵は人間の能力にもそなわってるということです。 ヒットラー(代表にあげてしまって すみませんです^^)をも理解する知恵が 復活の前提として必要だというのは たとえばですがあるはずです。 だから 私のこのへんの考えはみんな単純となってしまうのです。 そして、それより、「はやく感性教育についてみんなで考えてほしい 」というふうになってしまうんです。 * あと 罪の問題として、 ここでキリスト教会の歴史が陥ったへんな記述?がキリストの言葉の中にひとつあります。 キリスト自体が何かおかしいと言うのではないんです。 でも山上の垂訓の中に、キリストが始めてセックスについても触れているところがありますでしょ。(正確にはまた、そちらで引用してください。) 「姦淫は罪だと 昔から言われてきた。 だがわたしは言う心の中で姦淫した者も姦淫したことになるのだ。」 これをキリスト教徒たちは、例の宗教による権威によって其の意味合いを考えることなく いきなり不浄はセックスを心の中でしても不浄なのかというぐあいに、 成熟過程の途中段階の不浄という感覚(森の中で暮らしていた時には無かった)を固定してしまったのです。 これは聖書の作者というよりも、やはり記述者が 理解不能となってこの続きの部分を書かなかったのではないかというのが、私のリアルな演劇感(^^)からは思い浮かぶことなのです。(キグルミさんの考えについてなのですが、 新約聖書がほかにはその短い無名の人について記述された文献が無いからといってそれが創作だとは推理可能だとは思えないのですが、 現代考古学ではそのような推理が可能だという考えとなっているのでしょうか? 私にはそのへんは理解不能です。 でも、4つの福音書以外の記録がそんなに多いのなら全部見てみたいです。) それを監修しなかったキリストにも問題があったりする問題なのかもしれなくても、 これはキリスト教会が犯した最大級の歴史的な罪と言えそうです。 感性に関してはです。 (簡単な問題ではないので、別な回答の範囲に入ってしまいそうですが、 アダムとイブの神話から まさにその間違った理性の世界に陥ったところ。 むしろ、くわしく書くべきところかもしれません。)
補足
arayata333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 この質問を進めたいという思いです。よかったです。 ★ 《剣》が 比喩であるということ ☆ 確認しました。 ★ 《絶対個 であって関係がある。》 ☆ わたしの言い方で 《ひとは 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である》です。孤独と孤独関係とが あたかも一体であると。 そこからの逸脱としては 権力の問題を出しておられます。 アウグスティヌスに言わせると すべての悪は 《高慢・高ぶり》から来るそうです。みづからの存在の善さを損ねるのは 謙虚に欠けるところからだそうです。知恵の木の実(善悪を知る木の実)を食べたと言いますから 科学する心は 中立的には 大切なのでしょうが。 謙虚と感性との関係は 如何? とも問えるかも知れません。 《赦す》問題は 目指すところが同じでも その過程における手法や手段は 違っているかも知れません。 わたしの場合 こころからは《赦せない》のです。《〈ヒトラーを赦す〉と言えない》のです。そこで思いついたのが 《人には 人のあやまちを 赦す能力も権限もない》のではないか。ただ 自分から 更生し再生するのみである。多少は 協力しあってもよい。そして 更生には しかるべき償いの行ないと期間が 必要であろう。というものです。 加害者に対して 《赦さん。赦せん》とは 言わないけれど 《更生せい。せんと 承知せんぞ》と言う。という考えです。更生するために こちらが出来ることがあれば 多少は 手伝ってやってもよい。更生するのを邪魔する人間がいれば それに対しては わたしも たたかう。という姿勢です。 原因究明は もとより 必要であり 重要だと思います。それによって 《理解》が行き届いたとき こころが すっかり晴れるか。どうでしょう。自信がありません。自信のあるほうで 罪の共同自治を行ないたい。こういう考えです。 ▲ (マタイ5:27~28)~~~~~~~~~~~ あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょうか? どう捉えればよいでしょうか? 保留とさせていただきたいのですが だめですか? 論理を究極にまで進めた。しかも その文字通りの内容に従いなさいと言っているというよりは 単なる究極の論理であることの中から 何がしか 分かるものがある。と思います。実質的には 自己なり 伴侶なり あるいは 未来の伴侶なりに対して 裏切るなかれ・欺くなかれと言っているように感じます。セックスの問題であるというよりは です。 さらに 主題が 蒔かれているようにも感じますが とりあえず ここまでを お返しすることになります。発展性が あるように思っております。
- kigurumi
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kigurumiです。 >その心は 虚構が影響を与えるのではなく そうではなく 虚構をつうじて 人間の真実に迫り それをつうじて 絶対の真理にさえ わたしたちは 触れ得たと感じるときがあるということです。 つまり、こういうことでしょうか。 ある教祖は「嘘も方便だ」と言った。 例えば、たくさんの人に教祖様~ と慕われ、加工された自分のキラキラ写真を信者が列を作って並び100万で買う、これぞパラダイスだ と思っている人は、「私は神である」と本当は神でもなんでもないと知っているが、王国の建設のためには、嘘をついて信者が自分を神様だと思ってくれるよう仕向ける。 嘘が信者に影響を与え、我先にと教祖の写真を買おうと殺到する というのではなく、第三者的にみて「誰が見てもただのオヤジだとわかるのに、人間って弱いから、家族に不幸が起こるとかいわれると、100万の加工された写真でも買ってしまうんだなぁ 悲しい性だなぁ」と感想を持ち、「自分はこんなペテン師にだまされ、みすみす人生を棒にふるなんてしないぞ」と思う人が多ければ、教祖の大嘘は存在価値があると感じるってことでしょうか? この場合の真理は、一部の人間は誰でもわかる嘘が見抜けない。 キリスト教だってそうでしたよね。 文盲の人や知的に問題のある人たちに布教した。 知識を持っていないという劣等感を持っていた人は、その弱点を突かれて、自分は知恵を持ったと思った。 聖貧を解かれて、財産を教会に寄付していき、教会は大きくなって、政治的に影響力を与え、イスラムと土地の奪い合い。 上は富み、下は常に貧乏であるというピラミッドシステムができあがり。 教会が神の代理人だから、教会の言うことを聞き従いなさいと。 罪を犯した? 大丈夫 免罪符を買えばチャラですから と。 で、貴族は金持ってるので、どれだけひどことを農奴にやっても、免罪符さえ買えば天国にいける と。 >ユダヤ人の迫害・改革者への弾圧・魔女狩り あるいは 聖職者によるふつうの人びとに対する高慢な説教等々 私が感じたのは、自分が生きるためなら、兄弟すら売るってことです。 キリスト教はディアスポラしたヘブライ語が話せないチャキチャキのギリシャ子のユダヤ人が作ったと思えるんですね。 その人たちが、キリスト教の基礎を作ったとしれば、ローマの法律を改正させ、ユダヤ人を迫害するように仕向けたのはユダヤ人のキリスト教聖職者ってことになるじゃないですか。 確証取れていませんが。 キリスト教の神は、ギリシャ方面にもあった太陽信仰の神。 戒律を破って他の神を信仰してしまったために、兄弟を売ってしまう結果になった。 魔女の鉄槌を書いたのは修道士ですが、どうやら吟遊詩人が修道士をからかうために言った内容を、修道士は真に受けて、「そうなんだ」って思ったらしい。 キリスト教と信者と相互作用が発生して、社会不穏が起こり、信者が魔女を殺してと訴え、その信者の期待にこたえることで、信者との信頼関係 絆を強めようとした結果、魔女狩りが起こってしまったのではないか と。 また 迷信を、信者もキリスト教も、真に受けて信じていたから。 人類皆兄弟、という精神なら人は殺さないはずですが、ただし魔女は人類じゃあないので殺してもいいという論法になるわけです。 で、金持ちの外国人は貧乏な信者からねたみを買いやすく、魔女(男でも魔女)とされ、殺されてざっまーみろ となっていた。 邪視信仰って地中海方面に今でもあります。 他人からねたまれないよう、目玉のお守りを持っている。 迷信でねたまれただけで死なないが、ねたみから魔女だってなってしまうと殺されていた。 > 教会じたいを解体すべきだと考えます あと少しでキリスト教の時代は終わり、かつてキリスト教はその土地にあった異郷の多神教のたてものをキリスト教会として使ったように、いずれ教会は別な宗教の建物になり、入れ替わると思いますよ。 ちなみにキリスト教会の建物の上にある十字に○のシンボル。 多神教の太陽信仰のシンボルです。 そのまま異郷の神を崇拝する建物を使うなぁ~っ て、ねぇ。 >《剣を取れと煽動する発言》をしたとは知らないのですが どこですか? 何箇所かあったと思います。 ちょい調べますね。 お待たせ。 まず、ルカの22章。 イエスのペトロの3度の否認の後。 『35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」 36 そこで言われた。「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。 37 あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」 38 彼らは言った。「主よ。このとおり、ここに剣が二振りあります。」イエスは彼らに、「それで十分。」と言われた。』 もう一箇所は、マタイの10章34-36 『「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。私は敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁を姑に。こうして、自分の家族の者が敵となる。」』 10戒で禁止されていることをやれと言う。 でキリスト教は新しい契約だから とする。 古い契約を否定するためには、古い契約を信じる両親や目上の人に逆らえ、戦え、勝て と言う。 とっても慈愛にとんだ思想ですね。 戦わずとも、解決策はあるでしょうに。 >初めは 人間どうしであったのが その後 階級関係が発生したわけです。支配階級が 神々とされただけのことで 史実の順序を逆にして述べています。 男集団の特徴ですよね。 男集団は、猿山と一緒で、ボスの座を争う。 が、強いリーダーが出現したと認めると、そのリーダーの命令に絶対服従をするようになる。 カリスマ性を帯びた強いあこがれのリーダーが戦えといえば、命を投げ出して戦う。 女の集団は、そんなことありません。 女の集団内では、飛び出た釘は打たれる。 みんな平等、ぬけがけは駄目。 足並み揃えて いっちに いっちに。 だから女は兵士に向かない。 ローマの初代皇帝は、不利な戦いでありながら、奇跡的に集団に勝利をもたらしたので、救世主、神の子、ユピテル(ゼウス)、神の地上の体現者とされた。 リーダーが勝利を集団にもたらしたため、カリスマ性を帯び、集団を統率できたわけです。 >《すべてが ゆるされています。すべてが 益になるわけではありませんが すべてがゆるされています》と理解してください。《水による洗礼》からさえ自由だと唱えています。 全てが許されるのなら、死後天国も地獄も無くてもいいわけですよね。 じゃあ なぜ信仰を持っている人は、天国とか地獄の存在を信じるのでしょうね。 そう信じていれば、天国も地獄もなくジョン・レノンの歌を歌うはずなのに。 何故ジョン・レノンを迫害したのでしょうね。キリスト教会は。 許しの解釈は、こうじゃないですか? 隣人に過失により損害 例えばうちのヤギが隣のヤギを角でつついて殺してしまった場合、悪意は無いが相手方に損害を与えた以上、一生懸命侘びをする。 「このヤギは種ヤギだったのに どうしてくれる 許さない」と言ってはならない。 自分が逆の立場になったときのことを考え、隣人を許しなさい。 と。 内容は違うでしょうけど、こんな説明でしたよね。 神様に祈りを捧げる時間であっても、まず隣人に誠心誠意謝罪をしにいきなさい と。 同じイスラエルの子が、自分から金を借りたが、返せない状況でも、質に入れた服は返しなさい。 日ごろ嫌なやつだから金返せないのなら、服はもらうと言ってはならない。 なぜなら、その隣人にとって、唯一の服であり、夜凍えてしまうから。 利子を取らずに服は返しなさい と書いてありますよね。 こうやってみると、この教えは集団内 しかも イスラエルの子ら内限定においてのこと。 イスラエルって12支族のあのヤコブ。 この男の子孫がイスラエルの子ら ですよね。 神は彼の子孫を繁栄させるとイスラエルと契約をした。 > 男根も ひそかに 《崇拝》されているのですかね。 なんで男根崇拝が古代にあったのでしょうね。 集団内の人口が増えれば、それだけ集団の戦闘能力は上がり、他の集団に攻め込まれにくいと考えたのでしょうか。 少人数だと負けて奴隷にされてしまうから? 男の本能で種まき賛美? 聖書を読むと、どうやらユダヤ人の祖先は、数は少なかったが、他の集団に奉公した見返りとして、嫁と財産の分配をされていたようなんです。 昔はギリシャもエジプトもそうだったそうですが、財産は女系に相続されていたそうです。 だから大きな集団から嫁をもらうと、もれなく財産もついてきて、男側の集団が潤い、家畜もわんさかで、繁栄する。 さらに男の子供が増えたら、また他から嫁をもらうと、財産もくっついてくる。 さらに巨大化する。 こりゃあ もう女じゃなくて 男をたくさん産んで欲しい。 精力絶倫であってほしい。 こういうことなのでしょうか。 レビレート婚も、夫を亡くした妻が、実家に帰ってしまうと、嫁ぐときに持ってきた財産はmあくまで妻の財産なので、再婚時にもっていかれてしまう。 それを防ぐために、夫の兄弟と結婚しなければならないとした。 また、夫を亡くした女が他の男を好きになると姦淫したとすれば、殺せた。 妻を殺せば財産は いっただきー。 他の男と結婚させたら、財産もってその男に嫁がれてしまうから、姦淫したとして殺して、財産の流出を阻止。 女系による財産相続の弊害。 >そういう神話や決まりにのっとって 人びとは はりつけの刑に処したのでも イエスがそれに甘んじたわけでも ありません。あとで わけをこじつけたとしても それは イエスの真意でもありません。 イエスは最初 望んでいなかった。 人々が自分を王だとしようと迫ってきたため、弟子たちの元から逃走して、山に逃げ込んだ。 そこで神に祈った。 「どうか この杯を私から取り除いてください。」 で 後に「それが神の意思なら、私はそれを受けます」 人々はイエスを聖王にして、任務を遂行することを期待したが、イエスはとんでもないと拒否したわけですが、結局自己犠牲を払うことで他の人々を救うのが神の意思なら、受け入れましょうってなったわけでしょ? 歴代の聖王の心情はこうだったろうって、聖書作家は推測して書いたんじゃないか と。 >次元が違います。いまの質問のごとく 永遠の生命・復活の問題であると 初めからイエスは言っていたからです。 あれ?説明が足りなかったかしら。 私たち人間よりはるかに昔から太陽はあったことは誰でも知っている。 人間より長生きな太陽。 古代の人々は、この太陽のお陰で、植物が育ち、家畜が増えることを知っていた。 でも、地球が太陽の周りをぐるぐる回るため、夏至以降太陽は南半球よりになる。 だんたん上る高さが低くなる。 日の出も短くなる。 北半球のある地点では、冬至までどんどん日の出が短くなる。 大地は枯れ死んだようになる。 どんどん日の出が短くなり、12月22、23、24日の3日間は、太陽が地上近くを通過して沈む。 視覚的に3日間太陽が停止したかのように見える。 古代の人々はこれを太陽の死とした。 この太陽の死の3日間、その上に南十字星が座する。 形はその名の通り十字の形の星座。 12月25日になると、停止していた太陽は上にある南十字星に向かって一度上昇する。 太陽が十字架にかかるわけです。 この12月25日を境に、夏至まで日のでは長くなる。 太陽が復活して、もりもり勢力をつけていく。 ただし12月25日に太陽の復活を祝う祭りは行われない。 春分点 イースタになったとき、行われる。 春分点で、日の出の時間と夜の時間が同じになるから。 これ以降、夏至まで日の出の方が長くなる。 太陽の死と復活の説明です。 人間の死と復活? いえ あくまで太陽信仰ですから、神である太陽の復活を祝うお祭りなわけで、、、太陽が復活してくれる限り、冬になってもまた春になるじゃないですか。 それに、これはあくまで北半球のある地点から観測したもので、日本じゃ同じようになりませんもん。 説明されても、日本で日の出がもっとも短いのは12月25日じゃない ってなる。 北極とか南極とかに近いところだと、さらにこのような結果になりません。 ハワイでも一緒。 南半球は12月25日は夏ですし。 >教会が正しいという観念が kigurumi さんにして まだ あるのではないですか? いえ、正しい人である 正しい人になることを目指す集団だって、宗教集団は宣伝しているじゃないですか。 だから つっこみたくなるんじゃないかと。 ジョークならわかりますが、ボケじゃなく真面目に言ってるらしいところが笑えないし、思わずつっこみ入れたくなる。 死も人生の一部だとどうしてわからないのだろうって。 何故人生の一部である死を絶対拒否するのだろう。 何故人生を否定するのだろうって。 >・・・3人に誕生を祝われ・・・聖職者になり・・・人を復活させ、3日後に自らも復活したという人たちの神話はあって・・・イエスの話になったんだって。 >☆ これは 初耳です。もしそうであれば 《復活》の何たるかを もっと 思索していても よかったのに。 ああ、私の上で話した太陽(神)の死と復活の内容は、ある動画の内容です。 見ても否定するかもしれませんが、参考程度には知っておいたほうが、他のキリスト者と対話するとき、説得力を持つかもしれません。 以前 このサイトで他の人が投稿していたので知ったんです。 このサイト 役にたちますねぇ。 あの動画のリンク先は、直にここに貼れまいので、探し方は。。。 ニコニコ動画ってあるじゃないですか。 アカウントもってなかったら、無料で取れますので、とってください。 で、検索ウインドウで、<Zeitgeist the Movie >で検索してみてください。 2本あります。 一本目、いきなりサブリミナルっぽい映像で、引くかもしれないので、下のバーをずらして、10分後くらいから見てみてください。 他のビデオでは、銀行集団の陰謀とかそういうものも言ってるが、それは関心ないでしょうかが、 関心ごとのイエス関連のこの2本のみは見ておいて損は無いと思います。 開放されるかも。
補足
kigurumi さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 今回も盛り沢山ですので そっけない箇条書きになります。 ☆★ 虚構・うそ――人間の真実――絶対としての神の真理 ☆★ 宗教・教会の自己解体 ☆ これらの話については 特に評言を費やさなくてもよいでしょう。 ★ 《剣を取れと煽動する発言》 ☆ マタイ10:34(《平和ではなく争いを》と題され得るくだり)の剣については 並行記事として 次があるように 比喩であって 《扇動》までは行かないでしょう。 ▼ (ルカ12:49~51:《分裂をもたらす》)~~~~ わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その同じルカの《22:35~38:財布と袋と剣》)ですが。 まづ たしかに 《剣がここに二振りある――それでよい》と応じていますから その剣を使う場面を想定しています。《二振りある》に対して 《もうその話はじゅうぶんだ》という解釈も出ていますが そうではないようです。 つまり それまでは 良き知らせを弟子たちが伝えるに際して 特に不都合はなかった。けれども これからは イエスには《受けねばならない洗礼がある》 つまり 《22:37 あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた。』(イザヤ53:12)と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです》から 剣を持つことが日常生活でふつうのことでしたら(――オマーンでは 今でも 習慣が残っているらしい――) 携えておれと言った可能性があります。ここから 《扇動》を連想するのは どうでしょうか? ただし もしあなたが分析するように ゼロータイ熱心党員の範型がいるとしたなら そのような・闘争を避けない姿勢の名残りが この箇所には現われているのかも知れません。問題は この暴力闘争を 全体として イエスが よしとしているか それとも すでに高い次元へと揚げて もはや棄てているかです。大方の見解は 後者であるでしょう。聖書全体から 人びとは判断するでしょう。 ★ 女は・・・みな平等 ☆ その中で どのくらいの割合が 男の莫迦さ加減に同調しているかも 問題にしてくださいね。有効な井戸端会議を実践していってください。 ▲ (コリント前書10:23)~~~~~~~~~~ 「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 前回 ☆☆ 《虹》だろうが《割礼》だろうが 経験的なもの・表象しうるものが 証しやしるしになったとしても どうでもよいことです。 ☆ の文脈で出したものです。移ろいゆくものにこだわるなかれ です。 ★ 人々はイエスを聖王にして、任務を遂行することを期待したが、イエスはとんでもないと拒否したわけですが、結局自己犠牲を払うことで他の人々を救うのが神の意思なら、受け入れましょうってなったわけでしょ? ☆ 違います。もし人びとの思いと神の心とが一致していたなら 受けなければならない杯の問題は起こりません。(人間イエスとして おそろしい感覚に捉えられることと 問題として起こっていることとは 別ですから)。 《人びとを救う》ことにかんして 人びとの想像するところと イエスまた神の心とは 違っていたということです。武力でも知力でもなく そのカリスマの問題でもなく あるいは誤解を恐れずに言えば 繁栄と平和でもなく 永遠の生命とその復活が 《救い》については 問題だと言っているのです。雲をつかむような話なのです。《王》になるかならないかではありませんし また ★ 歴代の聖王の心情 ☆ とも まったく かけ離れた主題なわけです。経験世界を超えているという――あくまで 想定ですが――条件で 捉えてください。 ★ 太陽の死と復活 ☆ も 経験的な出来事の問題です。いまは 経験を超えた復活の問題です。生と死とは 経験領域の問題です。それは 経験済みです。受け容れ済みです。その上で 復活を問題にしています。 ★ 開放されるかも。 ☆ と言われれば 《ニコニコ動画》は 要らないと思ってしまいました。
お礼
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《世界の変化》とは何ぞや ★ 個々の精神世界がつながっていく過程と考えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。わかりやすいですね。いい表現ですね。 ★ 個人としてどのように係わるかなら世界に光が増して行くのを見取るだけとなりましょうか。 ☆ これが――上でのわかりやすい情況とかかわって―― 一方では 《特に 人は 何もしない自然史過程として光が増す》のか それとも 《光が増すのは 人の目覚め(ブッダになること)とともに 起こる》ことなのか。・・・というところなのですが。 けっきょく ★ 鬼から牛への変身 ☆ にしても ある日起きたら そうなっていたというのか。それとも 涙ぐましい努力のあとに成就することなのか。と なお 思います。