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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学は けんかである。)

哲学はけんかである

このQ&Aのポイント
  • 哲学はけんかであります。
  • 哲学は結着がつかないため、永遠に対話を続ける必要があります。
  • 哲学するとは、互いの見解についての批判合戦です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

他論評価はふつうに読めるし独力なら立派 と思うけど[哲学=スポーツ]ケンカはその 1カテゴリ[自由論闘]きっと[アート]その他 あるはずなんだが私輩にはゲロニカだ無理 [自然科学=油田ギャンブル]じゃないか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ケンカという言葉がどうも悪い。こういうご見解でしょうか?  ★ 他論評価はふつうに読めるし独力なら立派  ☆ 不肖ぶらじゅろんぬくんは――ここの質問に挙げてやり取りするまでは――《独力》ですので お褒めにあずかり光栄です。  ★ ~~~~~  と思うけど[哲学=スポーツ]ケンカはその  1カテゴリ[自由論闘]きっと[アート]その他  あるはずなんだが私輩にはゲロニカだ無理  ~~~~~~~  ☆ 《スポーツ》ですか。スポーツと言っても もとは 気晴らしやあそびのことだと言いますから    sport ← dis-port : 〔身の〕運び( -port )のはめをはづす( dis- )  広くは ケンカのようなものですが。たしかに サッカーなどでは 犯罪行為まがいの《ハメはづし》までありますから スポーツという言葉さえ ケンカという言葉と同じように ヤバイということになるかも分かりません。    戦争は 政治・外交の延長だとも言われていますが これも国家という存在を取り払えば じゅうぶんオモテから見てもウラから見ても犯罪行為だということになります。  ケンカについては 意思疎通や会話の延長だと見るよりは そうではなく ケンカが含む互いの批判という要素 この要素についてだけはむしろ コミュニケーションという大道に ふつうに組み入れておくということ。そうするなら あとは問題はなくむしろコミュニケーションをよりよくスムーズに互いに有益になるようにみちびく。のではないか?  こういう見方になっています。そういう《アート》です。  《ゲロニカ》ですか?  ★ [自然科学=油田ギャンブル]じゃないか?  ☆ 競争の情況をみると――あるいは企業などにおける研究開発においても自然科学はとうぜんのごとくかかわっているでしょうから―― そういった様相をも呈しているのでしょうね。  ただし やっぱりその分野では 結果が誰もに明らかなかたちで出るようですから あと味のわるさが割り合い尾を引かないのではないでしょうか。  哲学は そのような結果についての判定をめぐってもどの主題にしてもどんな議論にしても 判定がなかなかむつかしい。  ならばいっそのこと ケンカという要素をも採り入れて それについての互いの規則を――慣習のかたちででも――決めておけばよい。そうすれば 判定の仕方をめぐっての――しばしば無駄な――やり取りはしなくて済み 互いにそれぞれ自分の考え方を展開して行きつつ その流れを閉ざさずに 交通し批判をすすめて行ける。  ケンカを哲学的にやろうと互いに合意すればよい。  学問における《〔おのれの自由な判断への〕禁欲主義》は いかにも消極的に過ぎませんか?  草食系である以前に タコツボ系というアホバカ状態になっているとしか考えられません。それこそ 《ゲロニカ》ではありませんか?  あぁ  ★ 自由論闘  ☆ これもいいですね。ただしさらにもっとしゃれた命名を 正直言えば 募集したいとは思います。どうせなら 日本のことばがいいですね。どうでしょう?

その他の回答 (4)

noname#136192
noname#136192
回答No.5

あの、命題って真偽の問える叙述文のことなんですけど。 どうも感違いされてる方が多いようですので、これで失礼いたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 真偽の問える  ☆ という点について そうですね たしかにあいまいなかたちでもよいと見なして命題という言葉を使っていたかも知れないと思います。  つまり 文(ないしその集まりとしてひとまとまりの意味を成すところの文章)はそこにおいて 話し手の判断(つまり意志行為)が成されているという限りで その判断の内容(つまり意味)が――有限の能力しか持たない人間のおこなう行為であるからには――相対的な妥当性をしか持たないということ このことにもとづき その意味について《真偽を問える》ものと見なした。ゆえに 命題という言葉を用いた。  フライイングでしたか?

回答No.4

[亀が助けてって言わなきゃ助けない] ぽいこと叫んでた海賊船長もいたしね

bragelonne
質問者

お礼

 うろんりさん あらためまして こんにちは。(こんばんは)。ご回答をありがとうございます。  ということでしょうね。  つまり 想像の世界――もしくは《虚数》の世界(*)――のことは それはそれとして完結させたかたちで見ておいたほうがよいかも知れません。    * 【Q:虚数とは その名のとおりに想像力の世界なのか?】      http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6759902.html     ☆ ここでは けっきょく複素数の全体こそが 事実(実数)と     虚構(虚数)とを合わせた現実として・ということは そういう     全体を成す人間存在として 歴史動態となっているであろうと     見ようとしています。  言いかえると 想像の世界をも 現実の人間は おのれの内にそれとして持っている。持っていたからと言って それによってわづらわされることもない。必要なときにそれを現実の世界に 有効だとみれば応用する。  つまり 哲学も 《想像の世界》――そこでは 認識のあるいは観念の体系として世界観が打ち立てられる――と《事実関係の場(つまり生活世界)》とを合わせて 《現実》としているであろう。  もっと言えば 現実というのは 意外と想像の世界ないしむしろ内面の主観真実において生きているとさえ見える場合がある。  けれども いま目の前の相手あるいは第三者にとっては そのわが主観真実としての見方は――特に想像世界のものごとは――  ★ [亀が助けてって言わなきゃ助けない] / ぽいこと叫んでた海賊船長もいたしね  ☆ と茶化したかたちで言われたほうが そう言われないで済まされるよりは うんと現実的であり よいものと考えられます。  そこからさらにわが主観真実を練りに練って練り上げて行けばよいのですから。そういうケンカだと考えます。(人は互いにその存在を・つまり人間存在はこれを 愛するからです。そうでなければケンカなどをする気づかいはありません)。  ちょっとズレましたか?

noname#136192
noname#136192
回答No.3

>同じくけんかである自然科学は しかしながら その仮説を実証しえたなら 結着はつくのに対して 哲学の場合には なかなか決着がつかない 「浦島太郎は亀を助けた。」 物語の世界では、これは真なる命題ですが、現実の世界では命題とはいえない。 前期ウィトゲンシュタインらが形而上学の命題を最終的に「無意味」と考える裏には、命題の有意味性と、経験的検証可能性を結びつけたからです。 経験的検証可能性のない命題について議論しても、それは不毛な議論にしかならない。 そう考える人が多いのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 げいじゅつさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  経験的検証可能性のない命題について議論しても、それは不毛な議論にしかならない。  そう考える人が多いのではないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ とのご趣旨だと思いますが これは――つまりこの《命題》は―― おそらく哲学の仕事の内の準備作業としての認識論に限ると思われるのですが いかがでしょう?  そしてその認識論は あくまで《人が生きる。そして人びとと共に生きる》というコトとしての哲学にとって 繰り返せば迂回生産としての領域にあたると考えますので とうぜんのごとく《一人ひとりの個人としての生活において・つまりそれぞれの主観において》ですが それとしての《検証可能性》を有する。まづは こう考えます。  単純に事例に即して考えられないか?  ★ 「浦島太郎は亀を助けた。」  ☆ 現実とのつながりを一たん離れて単なる想像の世界において或る種の思惟や感情の動きそして有るとき採った行動の起こす軌跡を想い描くわけですが そのことが  ★ 物語の世界では、これは真なる命題ですが、現実の世界では命題とはいえない。  ☆ となるかどうか?    たしかに直接の《応用》は無理でしょう。つまり  ★ 現実の世界では命題とはいえない。  ☆ しかもその作り話が  ★ 物語の世界では、これは真なる命題ですが  ☆ と言える範囲で 一人ひとりの人間にとって・しかもそのそれぞれの主観内に限定されるというかたちにおいてですが 《応用》はされましょう。  ○ いじめに遭っているよわい者をたすけよう。人であるならば 理屈抜きでそうするものだ。  ○ いつかたいへんたのしい境遇におかれた場合 やはり浮かれてしまっていてはだめなのだ。  ☆ などでしょうか。  あるいはただし こうであっても じつは  ★ 経験的検証可能性  ☆ があると――それぞれの主観において――言えるのかどうなのか?  じつは 二転三転して おそらく  ○ 哲学の――認識論における――命題は 経験的検証可能性はない。    ☆ と考えたほうがよいともわたしも考えます。その意味は  ○ もし《生きる》というコトとしての哲学に経験的検証可能性があるとしたら それは 準備作業としての認識体系のことはすべてと言ってよいほどうっちゃっておいて そこにではなく やはり現実における《生きるという意志行為》 ここに現実との同時実証的な力も伴なわれている。  ☆ ということになります。  ★☆ こう考える人が多いのではないでしょうか。

回答No.2

世界は、自己の認識において派生しており、 哲学は、その認識の深化である。 「ケンカ」する相手などいない。 教師であれ反面教師であれ、全て参考になる。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ 今回のご回答は《参考にな》らなかった。  さいてっくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  つまり この質問の趣旨説明に対して反対の内容を主張されているからには あなたは 《けんか》を売ったのです このご回答によって。  そういう《批判》のやり取り これが大事であると あなたご自身が証明なさっている恰好です。  そうはお考えになりませんか?  もっとしっかりと話をその先へと進めるべくお応えしたい気持ちはありますが どうせ返事は来ませんから ここまでです。No.1でのやり取りで少しはその責めに任じていると考えます。

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