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復活とは? 不死の境地とは?

 あえてこの主題を ふたたびですが 問います。  かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。      *  健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。  そこで持ち上がるのが 人生論です。  哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。   この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。  最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。   1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。   2. では 終わりは どこにおくか。   3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。   4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。  (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。  ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。  この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。  復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。  不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。  あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。  あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。       *  さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。  しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。  前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。  あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか?  みなさんの知恵を拝借となります。

みんなの回答

  • dropyork
  • ベストアンサー率15% (13/85)
回答No.2

行いを改めれば、それ、即、復活であるし、思い込めば、復活であるし、 わからないことは、妄想が沸き起こるし、復活が嫌だと思えば、復活はないし、不死もない。 有っても、無くても、追いかけることができる。 頭で考えたことと現実。 くだらんことに、妄想力を使うのではなく、事物観察をされたらよいかと。 有能な人は、忙しい。くだらんことに、かまける人は、有能ではない。違うでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 どろっぷよーくさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  どうでもよいことをお書きになっている。と思いました。  どうかNo.1の回答へのお礼を読んでくださって いまいちど考えてみてくださいませんか。  《無能》な人間は 生きて行くことは出来ないというご主張でしょうか?  生きて行くことは出来るが 《くだらんこと》を質問することは出来ないというご主張でしょうか?

回答No.1

以下はわたしの思考可能なレベルです。 復活はキリスト教を主流としたものと解釈しますが、それで良かったでしょうか? 1、終わりを起点にして、思考することは出来ます。でも、人間の創作や思考でもない限り、それらは時間の流れに従うことを前提に考えます。不可逆である事。 2、思考の停止が主観的な終わりで、絶対的な終わりは思考の枠を超えていると考えます。 3、永遠の現在とはどのような状態なのでしょう?(1)時間の停止 (2)不滅しない時系列の中にある今。時間が永遠に存在する根拠は無いですね。一秒、一時間、一日、365日・・・、太陽の動きによる人間が決めた尺度。ですから時間は人間の尺度です。永遠では無いかもしれません。宇宙の成り立ちを垣間見る時、その存在自体が人間と関わりなく存在しているようにも感じます。変化する宇宙は永遠とは見られてないと思われます。目に見えないミクロの世界にも同じように言えます。 4、復活は無からのもので、それを自覚出来るのは御自身か近しい知人などしか出来ないように思うのです。「ああ、私は一度死んだけれども今再び生きてる。」。逆に「あなたは復活したんです。」と言われても全く自覚が無ければ、再生ではなく本人にすればゼロからの始まりでしょう。肉体と思考で認識できなければ復活ではないと思います。 復活したと自己主張する事は出来でも、それと同時に証明も不可欠と思います。小説などで、前世は○○だったとかありますが、客観性を求めるものではありません。 何かの参考にでもなればと思い、主観的に列記して見ました。

bragelonne
質問者

お礼

 ええーっと まづは そうだん‐ありさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  個々のくだりに反応そのままを述べるかたちで見てまいります。  ★ 復活はキリスト教を主流としたものと解釈しますが、それで良かったでしょうか?  ☆ ええ。一般に《復活》と言えば クリスチアニズムのものと思われます。  そしてしかも まったくどの宗教のオシエであるかにまったくこだわらないで ご見解をのべていただけばよいと考えています。  ★ 1、終わりを起点にして、思考することは出来ます。でも、人間の創作や思考でもない限り、それらは時間の流れに従うことを前提に考えます。不可逆である事。  ☆ ちょっと意味がとりにくいのですが   ☆☆ 1. すべてを 終わり=目的から 始める。  ☆ というのは たとえば分かりやすく言えば 《わたしは 首相になる》という《終わり=目的》を 初めに置くということです。《国家を事実上になう公民層が 市民たちに大政奉還をすること》からコトを始める。といった場合を言います。  ★ 2、思考の停止が主観的な終わりで、絶対的な終わりは思考の枠を超えていると考えます。  ☆ 前項での説明のようにお応えすることになります。  つまり 《おわり=目的》を初めに大前提として据えてすべてそのために行動するというとき 志半ばにして寿命が尽きたという場合もあり得ます。しかし そんなことは考慮に入れません。《おわり=目的》から始めて 行動していればよいという意味です。中断されてもかまいません。そこで終わったら終わったというだけのことです。  ★ 3、永遠の現在とはどのような状態なのでしょう? (1)時間の停止 (2)不滅しない時系列の中にある今。時間が永遠に存在する根拠は無いですね。一秒、一時間、一日、365日・・・、太陽の動きによる人間が決めた尺度。ですから時間は人間の尺度です。永遠では無いかもしれません。宇宙の成り立ちを垣間見る時、その存在自体が人間と関わりなく存在しているようにも感じます。変化する宇宙は永遠とは見られてないと思われます。目に見えないミクロの世界にも同じように言えます。  ☆ ちょうど前項でお応えしたように コトが始められていれば その《終わり=目的――つまり英語( end )や仏語( fin )は 一語でそのような両義を持ち得ます――》に向けて行動がおこなわれていればそうしている限りで その都度の一時点たる現在は その過程をあゆむワレにとって 言わば永遠です。《永遠》の連続する過程です。なぜなら 大前提に《おわり=目的》をかかげているからです。  一瞬一瞬がつねに《終わり=目的》を見ているからには そのつど永遠です。永遠の現在が そういうかたちと中身として過程して行きます。  こういった単純なことを言って 《永遠の現在》と呼んでいます。  ★ 4、復活は無からのもので、それを自覚出来るのは御自身か近しい知人などしか出来ないように思うのです。「ああ、私は一度死んだけれども今再び生きてる。」。逆に「あなたは復活したんです。」と言われても全く自覚が無ければ、再生ではなく本人にすればゼロからの始まりでしょう。肉体と思考で認識できなければ復活ではないと思います。  ☆ 前項で説明したごとく まづ 主観的なものです。  そしてその主観において 《おわり= わが人生の基本的な目的》のもとに永遠の現在をつねに経るかたちで 行動しつづけているなら もうそれよりほかに《おわり》がないということであるからには すでに《死から自由である》――途中で挫折しても その挫折の時点までは 死を寄せつけない――。死を前方に見てさまようことがなくなったなら 死んだ状態から生き返って 言わば復活している。  むろん重ねてのべれば すべてはあくまで 主観の内に起こっている出来事です。  そして 主観にかんするかぎりで《永遠の現在》を生きているという実感はあるでしょうし 人間の主観が採りうるあらゆる形態のなかで 《因果関係〔としての最終の死〕から自由》な状態であるのではないか? そういう意味です。  ほかの人たちがどう見てどう判断しようと おそらくこの《復活劇》は それとして 活きた人生だと考えられます。  途中の挫折も ものかは となると考えます。  ★ 復活したと自己主張する事は出来でも、それと同時に証明も不可欠と思います。小説などで、前世は○○だったとかありますが、客観性を求めるものではありません。  ☆ 《自己主張》は ことさら おこないません。すべての人が それぞれの思想でその主観を生きるというように その中のひとつの事例であるということでしかありません。  《証明》もしようと思わない。なぜなら しなくてもこの復活劇は生きて行くことが出来るからです。  前世も来世も関係ありません。《客観性》も関係ありません。

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