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復活とは? 不死の境地とは?
あえてこの主題を ふたたびですが 問います。 かつて 次のような趣旨説明をしました。(少し見直して書き直してもいます)。 * 健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。 そこで持ち上がるのが 人生論です。 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。 1. すべてを 終わり=目的から 始める。まづこう決める。 2. では 終わりは どこにおくか。 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。 (二百年なら 実際問題としては もうじゅうぶん人間にとっては 永遠であるだろう)。 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。 不死の境地については 自性清浄心(ブッダター)のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ゴータマ・ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。 * さて 考えるにですが ひとつには この《復活なり不死なり》の主題について 幻想を持つべきではないと言いたがっていたのかとも思います。(つまりは われわれの望む社会の再形成 こちらの主題のほうにむしろ目は行っているのかと)。 しかも その反面では 経験世界のことがらを超えた(つまり 因果関係から自由な)非経験の場についても それは想定されうるのではないかと見ようとしています。わが心なる《非思考の庭》と言っています。 前身の質問に寄せてくださった回答を とうぜんのごとく活かしつつ なおすすめることが出来るか。 あるいは 言ってみればこの主題について余計な議論はこれこれだと規定しておくことが出来るか? みなさんの知恵を拝借となります。
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- 相談 蟻(@soudan-ari)
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ズバリ、これがわたし(NO1)の本音 ☆ ええ。一般に《復活》と言えば クリスチアニズムのものと思われます。 質問者さまは、復活を明確に定義されていると思われませんが、復活は死からの復活と考えますと、人類史上、死からの復活の検証はなされたと聞いたことがありません。仮にわたしの知らないところであったとしても、統計的にほぼ100%死からの復活は無いと言えるでしょう。(信仰的は尊重されるべきですし、幻覚として見る場合もありえますが。) 私達は事象の正否を判断する場合、有りうる可能性は認めますが一般化されてない場合は、否とします。これは、私だけでなく多くの日本人や、国際的にも同様の判断に立つと思います。例えば、尖閣諸島や竹島などのように主張が相容れない場合、武力行使が起こったとしても、正しい解決方法としては国際法などの検証を待つべきだろうと考えます。 で、本題に戻りますが、人間を初め動物も含めて復活は有り得ないだろうと見ます。IP細胞も復活とは言えないし、輪廻転生も復活とは違うでしょうから。これが結論です。しかし、個々の精神的事情により、立ちきれない思いや、精神的な葛藤などが起因して復活を切望する場合は、個々の対応として完全否定するものではありません。ここで、事象と精神で区分する必要があると考えられます。 以上です。
こんばんわ。 >すなわち わたしの考えでは ★ そこには、きれいに物事を捉えようという理想は二の次であっていいと思います ☆ とは考えません。つまり その切り口が違っています 理想と理想態は違う そんな感じがするんですけど・・ 少なくとも、私の場合はそうだった と思いますね、振り返って・・ 自分自身に立ち止まることを許さなかった 回想としては、きれいだけれども その時においては、きれいに物事を考えてからというような状態ではなかった 悪く言えば、行き当たりばったりの泥んこ状態・・だった いまだもって、なぜ自分がそうできたのかは答えが出ていない でも、振り返ると、若さというか、限りなくきれいに見える 概念解釈と実態のズレみたいなものはあると思いますよ。 どうしても私の場合は、私自身における復活というか、そんな姿が浮かんできてしまう そこに私がいて、行ったという事実が一枚の記憶になって蘇ってくる 忘れないですよ 忘れられない一瞬があったという事を きれいには見えるんですけど、わざときれいには見たくない あまり言葉で言い表してもみたくない そんなもんです すこしだけというなら・・ 絶望を必死になってこらえて 力をふり絞って という、きれいな馬鹿状態です 二度と不可能な きれいな馬鹿状態 それが私の復活でした、だったんでしょう・・。 ご参考まで。
お礼
申し訳ないですが 意味が読み取れません。 この質問へのご回答のすべてをとおしてだとも言えると思います。 たしかに何が何でも《おわり=目的》から始める場合にのみ《復活》があるというわけではありません。ですが そうした場合の別様の回答というのは 内容が分かって初めて なるほど そういう見方・行き方もあるのかと受け取ることが出来るというものです。 もし ★ ・・・それが私の復活でした、だったんでしょう・・。 ☆ ということでしたら その復活の起きた時点のあとと前との違い そしてそれがどういう考え方によるものなのか などを明らかにして示すことは必要ではないかと考えます。 そういう意味で読み取れないでいます。 ★ 理想と理想態は違う ☆ ですから それは ひとつの地点に立ち止まって来し方行く末や現状の分析をするぶんには そうなのでしょう。 けれども すでに出発しているときの行き方については 《態》をつけようとつけまいと あまり違いはありません。 そして つねに必ず《復活》の状態を生きていることは 《理想》のそれだということでもないはずです。なぜなら問題は 或る時これこれが《わが終わり=目的である》とさだめたというところから出発するのであって そのさだめるときに《理想》は 持っていてもよいし 持っていたそれを《目的》としてもよいし そしてそうでなくても何らかまわない。こういう事情だと考えるからです。 それとも 《理想態》であるなら 《復活》が成るといった見解でしょうか? なるほど復活は 主観の内における状態ですが 《理想ないし理想態》は 一般に《復活》とは関係するともしないとも決まっていないコトだと思います。つまりその《理想》を すでに主観として復活につなげるということは 《おわり=目的》ではない場合が出て来ます。その意味で どうもふるい人からあたらしい人への再生という場合が なるほど主観の問題だとしても成り立っているようですねと見ることが出来るとは なかなか思えないのです。 質問者なるわたしの提示する行き方にこだわる必要はないと重ねて申し上げますが けれども No.1のやり取りからずっとこれまでそのわたしの復活観などについて述べて来ていますので それとの比較やそれへの批判をするかたちで ご自身の世界観を明らかにしてもらえるなら 分かりやすくなって さいわいに思うのですが。・・・ ご回答をありがとうございます。 そして まだわたしには理解力がおよばないということを率直に申し上げるしかありません。
難しい。わかれば苦労は無いのだけれど。 検索していたら見つけたサイトです。 でも、重いかもしれません。 sutta central http://suttacentral.net/ Nandamāṇavapucchā http://suttacentral.net/snp5.8/pi/ サイトの右側の Pali→English Dictionary ボタンをクリックして、 パーリ語の文章の上に、マウスカーソルをのせると、意味が表示されます。 それで、 「学生ナンダの問い」ですけれども、 samaṇabrāhmaṇāse anāsavāse -āseで検索していたときに、2つも単語が出てきたので 気になり、話題にしてみます。 samaṇabrāhmaṇāseは、道の人・バラモンたち、でいいとして、 anāsavāseですが、an+āsavaだとすると、 アーサヴァを否定しているのだと思います。 āsava : [m.] 1. that which flows; 2. spirit; 3. discharge from a sore; 4. ideas which intoxicate the mind. http://www.budsas.org/ebud/dict-pe/index.htm とりあえず、アーサヴァを「流れ」と考えてみたのですが、 「アーサヴァの滅」について http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/67390996.html anāsavāseは、 たぶん中村元の訳だと、「心に汚れの無い人々」の部分だと思います。 Te ve narā oghatiṇṇāti brūmi この部分は、 「かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、私は説くのである。」 だと思います。 oghatiṇṇātiが『煩悩の激流を乗り越えた』でしょうけど、煩悩の意味は無いと思うんです。 あるんでしょうか? それにしても、nivutā 覆われている。これは以前問題にしたnibbutaと関係あるんだろうか? とか、mahesino 偉大な仙人 とか、 学生ナンダの問いは、古いのかどうかは知りませんが、 思ったより、興味深い箇所でした。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ oghatiṇṇāti が『煩悩の激流を乗り越えた』でしょうけど、煩悩の意味は無いと思うんです。 / あるんでしょうか? ☆ ないです。 ● (1088) Te ve narā oghatiṇṇāti brūmi ○ (1082) かれらは( Te )実に( ve )『煩悩の(* これは語としてない)激流を( ogha- )乗り越えた( tiṇṇā- :pl. < sg. tiṇṇa- )人々( narā ) である(* コピュラはない)』と( -ti = -iti )、わたしは説くのである( brūmi ) 。 ここで ★ とりあえず、アーサヴァを「流れ」と考えてみたのですが ☆ ということですよね。次の中村訳とは違う解として。 ● (1088) Anekarūpampi pahāya sabbaṃ, taṇhaṃ pariññāya anāsavāse ○ (1082・中村元訳) また種々のしかたをも(Anekarūpampi ) すっかり(sabbaṃ)捨てて(pahāya)、妄執を(taṇhaṃ)よく究め明かして(pariññāya )、心に汚れのない人々(anāsavāse) ☆ それは 次のような解釈にもとづいているのだと。 ▼ (「アーサヴァの滅」について ) 仏教においても古い詩節では、船に漏れ(=アーサヴァ)込んでくる水の意味を留めている。アーサヴァのない人こそ激流を渡った人であるとも言われ ☆ すなわち ● āsava : [m.] 1. that which flows; 2. spirit; 3. discharge from a sore; 4. ideas which intoxicate the mind. ☆ 中村説は (4)の《間違った考え》の語義を採っているが そうではなく (1)の《流れるもの》の語義を採るほうがよいのではないかと。 肩すかしになるかも知れませんが 《船に漏れ(=アーサヴァ)込んでくる水》という語義で 《謬見なり心のけがれなり》を喩えているとは見られませんか? それから Anekarūpena のルーパですが これも《仕方》でよいと思うのですが。なぜなら すでに先行する詩句の中で たしかに《種類の多いやり方》が取り上げられているからです。 ● (1086) Anekarūpena ~~~~~~~~ ・ aneka: many; various. ・ rūpa: form; figure; image; object of the eye; a material composition. (nt.) ・ > rūpena :具格( ~によって) ○ (1080)(中村元訳) 〔見解によって、また伝承の学問によって・・・戒律や誓いを守ることによってなどのほかにもさらに〕種々のしかたで ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それから 次のことは 余計ですが 触れます。 ▼ (「アーサヴァの滅」について )~~~~~~~~~~~~ さらに、山崎氏は、『スッタ・ニパータ』は、言語学的に難解な箇所があるけれども、『スッタ・ニパータ』や『ダンマパダ』などと、多くのパラレル(並行句)を有している、ジャイナ教の古い経典を参考にすれば、それらの解読の大きな手助けとなるだろう、というようなことも言っていた。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういうもったいぶった言い方は ものごとを探究する者の姿勢ではないと考えます。 すなわち 《手助けとなる》資料やその解釈そのものを 一つだけでもこの時点ですでに例示して議論しなければ何にもなりません。 もし例示をしなければ われは いつかはさとりを得るであろう その手掛かりを じつは 得ているんだ――このようにうそぶく輩と大差ないと考えるからです。 ★ nivutā 覆われている ☆ など保留しますが。 ふうーう。
またやってしまった・・ なんで自分はこうなんだろう 人に主観を押しつけないと気がすまない 繰り返される 愚かな復活という 自由に名を借りた 一人だけの復活・・ と ごめん、Bさん つい独り言が多くなってしまった・・ あらためて 復活とは今を生きる事じゃないですかね 振り返ることじゃない 新しい時間を なぜ? と問わずに進む事じゃないですかね 向きあう事も大切だが、それ以上に進む事だと思います そこには、きれいに物事を捉えようという理想は二の次であっていいと思います 自由という源泉から発した力は、まず現実に向けられてゆく それでいいんじゃないですかね 前にBさんから 「永遠の現在」という言葉を頂きましたが それはもう、巨視的な自由への讃歌、希望の概念へと連なるものでしたが それはそれで、井の中の蛙の夢といえなくもない それでいいと思うんですが・・ 「復活」となると、そこには「過去に対しての」という意味付けがなされてくる 「新生」という言葉に対して、どうしても重い感じが否めない 現実を踏まえたというか・・ ・・・・・ 復活とは、自由を見ることではなく、自由を得ることだとするならば それは現実において 今という時間を悔いなく生きようとする事じゃないですかね それだったら、まあ何となく頷ける気がします 復活における その者は 復活を復活とは思わない それぐらいの強い前向きさを復活と呼んでもいいと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 人に主観を押しつけないと気がすまない ☆ これは 理由や内容の説明について必要かつじゅうぶんなものがあればよいと考えられます。 ★ 復活とは今を生きる事じゃないですかね ☆ これは 一連のやり取りの中で出て来ているとおり・そして趣旨説明欄にも触れたように 《永遠の現在》という捉え方です。 ただし 永遠の現在が 次から次へ過程して行く動態において ★ 振り返ること ☆ は むろん自由におこなってよいのですし ★ 新しい時間を なぜ? と問わずに進む事じゃないですかね ☆ でもなく 《なぜ? と問》いつつすすんでもかまわない。はずです。なぜなら 《おわり=目的= 意志の休息》という――想定上の――状態につねにあるからです。 すなわち わたしの考えでは ★ そこには、きれいに物事を捉えようという理想は二の次であっていいと思います ☆ とは考えません。つまり その切り口が違っています。しかも 結果としては 《おわり=目的》の中身が 自分の思う《理想》であるということは あり得ます。あるいはぎゃくに 《きれいに物事を捉えようという理想》とは かけ離れているかも知れません。 とにかく初めに《おわり》を設定するという見方を提出していますので それとの関連を 批判的ににせよ重なる部分があるにせよ 明らかにしていただくと分かりやすいと考えます。 ★ 自由という源泉から発した力は、まず現実に向けられてゆく / それでいいんじゃないですかね ☆ もしこうであったとしても 《おわり=目的》設定の行き方には そういう分析は必要ないと見ています。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 復活とは、自由を見ることではなく、自由を得ることだとするならば それは現実において 今という時間を悔いなく生きようとする事じゃないですかね ~~~~~~~~~~~~~ ☆ こういった分析も 要りません。というのが 趣旨説明欄の主旨です。すでに《おわり=目的》のもとに出発しているということになります。もう自由がどうのあるいは復活さえもがこうのという議論の段階ではないという意味です。 《悔い》があろうがなかろうが という意味です。(軌道を修正することはありますが 悔いからではなく 《おわり=目的》の設定内容についての反省からです。その反省がなければ 悔いや挫折を味わっても 道は変わりません)。 総じて言って 立ち止まっての分析が多い議論だと感じます。言いかえると その分析の地点ないしその地点に立つ姿勢が そのままじっさいの生活における発進なのだと言おうとしている。そうであるかどうかは ひとそれぞれです。 言いかえると この《人それぞれ》のすでに出発している行き方について明らかにするのが 《おわり=目的》から始める思想(つまり生活態度)です。 分析は 遅疑逡巡だと決めつける立ち場になります。
こんばんわ。 お元気でなによりです。 抽象的ですが 自由の内側を見たことはありますか・・ 私は 見ない方がいいと思っている なぜ? と言われれば 自由はきれいだからです 与えられるという言葉は実は甘い 直観という言葉ですら本当ではない 人間が名付けたものは、人間にとってだけの意味がある 人は復活しない 人はそこで終わる 私はそう思う 自由だけが復活するという事はない 何度、雷が落ちるのだろう 私の自由は、その雷をまだ足りないと言っている 暗闇の中で 私が私にうなずく瞬間、新しい自由が生まれる 言葉を後にして生まれる自由はきれいではない きれいという自由ではない それでいいと思う 終わりから付けられるきれいさは、いくらでも付けられる だからそれでいいと思う きれいと思う時、自由は終わっている 見ない方がいい その方が復活に近い
お礼
分かりづらいですね。まづは ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~ 人は復活しない 人はそこで終わる ~~~~~~~~ ☆ ここだけですね。ふつうに分かるのは。 そしてここは分かる表現で書かれていますが その内容は 必ずしも自明ではありません。 つまり 趣旨説明欄には 復活とは 《真理が すべてにおいて すべてである》 という見方を持っていると書きました。これに対する批判であれば もう少し説明が要るのではないかと思います。 すなわち 1. ひとは その生を終える。終えた生から復活はしない。 2. ということでよいのですが それでも生を終える前に 《真理が すべてにおいて すべてである》 状態に入ったなら どうなるか? 3. その状態にあっては 《世界におけるすべてのモノ・コトの因果関係を知る》ことになる。この状態を《復活》と呼ぶ。というかぎりで――想定上だとは言え―― 復活がありうる。かも知れない。 4. おのれの人生における心なる真実の軌跡 これが すべての人間関係や行為の錯綜してからまる関係の中でほつれた糸をほぐすようにそのいきさつのすべてについて分かる。 5. そこで おのれ自身と・そして世界と和解することが出来るかも知れない。あるいは ぎゃくにこれこれは 赦されないことだと分かって その責めを当事者に対して明らかにしようとするかも知れない。 あとは 《自由はきれい》だとか まだ意味を読み取れていません。
補足
内容もさることながら ここでの初めのあいさつとしての ★ お元気でなによりです。 ☆ が 致命傷だったようです。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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ふられおんです。 子供たちが夏休みのうちは忙しくて、お勉強しているひまもないのですが、つい始めてしましました。 思索を広げないでとりあえず反応だけしてみます。 ★ 不幸にして心労から自殺する人がいる事はさておき ☆ これは 《さておき》とする行き方は たぶんみなさんから迎え入れがたいという感じを持たれてしまうのではないでしょうか。 この辺りに関する事を私も自分で質問を出していて、個人に帰属する生命の死のほかに、社会的な死とでも言うべき事柄を人は感じるのだと判りました。 私は奇麗事を並べる慈悲心を抑制していますが、この辺りのこねくり回しは、実際に社会的信用を自分の命と重ねる当人が、何か言わなければ私は自分でどうこうしようとは思いません。 コレにもつながります。 ★ この例え話に過ぎない死活問題 ☆ 単なる揚げ足取りとしてですが ここで《例え話に過ぎない》という捉え方をするのは どうかと思います。その人にとっては視野が非常に狭くなってしまっているので まづはしっかりと我れに立ち帰って自分と世界とをみつめて欲しいというところだと思いますから。 助けてください。 代わりに考えて私に知恵を授けてください。 そんなだとしたら、自らの死の幻影は克服できないだろうと考えます。 その姿勢が死そのものですから。 無明の使い方に難がある事は了解しました。 何が何でも仏教にこじつけようとする姿勢が確かに私にはあり気をつけようと思います。 先々の事の成り行きに、死えと追いやられる道筋を考える人もいます。 非仏陀と言ったのはそういう人たちの事です。 ★ 私は自らの寿命に頓着せず、常に生きようとします。 / この姿勢が一貫して、死を生きる行いに割り込ませないだけです。 ☆ 申し訳ないが この姿勢は ふつうの人が かなりであれ多少はであれ悩みに悩みその苦しみを経たあと 寿命は寿命だとあきらかに知ったと見なし そうしてふたたび生きることへと一歩を踏み出すというようなかたちと中身として捉えられるふつうのことだと考えますが これも揚げ足取りになりましょうか。 その通り普通の事です。 ただし実際にコレが出来ると驚かれる。 不死者としてね。 そもそもくだらない事です。 ★ 現在を阻む死の予感が幻であるように、現実的には、その幻の先を観る縁起知性も不死者ではありませんが、かなり昔はこの辺が理解も説明もできないで、不死者として尊敬を集め、仏陀なる称号を授かりました。 ☆ 《死の予感》は 《まぼろし》ではありませんよ。いつ来るかは分からないが やがて来ることに間違いないからには まぼろしだとして打ち克つというものではないと考えます。 《現在の行動を阻む》なら そのような死の予感はさしさわりがあるので 何とかしようということなのでしょうが 《不死者ではありませんが》という認識に立たなければ話は始まらないとすれば 死の主題は ひとが避けて通れないほどの現実であり得ます。 安易に死活問題と言う言葉を持ち出すことになぞらえて、死の予感を余計なことだと表明しています。 死の主題とは、私の出した結論では観念上で死の儀式を執り行う、死の体験から理解する、死の悟り=無の悟りです。 多分、そんなことしなくても説明すれば理解してもられるところまでもっていけるのですが、誰もかれもが腰が引けてます。 ひとのおこなう意志行為は すべて時間的な行為であって ほかのひとと互いにからみ合って 社会過程としてその因果関係がしかも構造的に推移して行く・そういう世界にひとは生きている。これが 縁起観であり 無我ないし無常という世界観のこと(基礎部分)です。これは その昔ブディズムが説いたものだとしても けっして専売特許でも何でもありません。 もし専売特許だと言うものなら そのブディズムとやらは その時間観や因果関係論のさらに上に煩悩を あたかも不治の病の元凶と見なすがごとく大前提として説き起こし 人びとよ この無明地獄をさすらいたまえと言って 自分たちはそのさすらう人びとのお情けにすがって生きている――このような人種です。 この辺の寸評と認識はいい線いってますよ。 自由に自己の思索を進めれば、私はジラーチちゃん話になりますが、その前に仏教を補強したいと考えています。 金もうけのために本を書くともよそで表明していますが、本気でして東洋から発祥して哲学と呼べるものを出していきたいと考えます。 私の文章力では学問的な哲学より柔らかい物となりますが、それでもやるつもりです。
お礼
そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。 今回は自由に考えを広げてあそぶように あるいは コーヒーを飲みながら話を交わすようなかたちになります。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 先々の事の成り行きに、死えと追いやられる道筋を考える人もいます。 非仏陀と言ったのはそういう人たちの事です。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここでは しっかりと文章に即して考えたのですが ふたつ反応があります。 《非仏陀》ということは ブッダが目覚めたという意味ですから 《目覚めていない》ということになります。とすれば 《死の感覚や観念でなやむ》状態は 非仏陀だということですが ――二つ目の反応としましては―― けっきょく仮りに目覚めてさとりを得たという状態 そういう状態にある人も やはり死は悩みの種でありつづけるのではないでしょうか? ひとつは 不用意な状態のところを襲う死であり ひとつには 志半ばにてやはり死におそわれること こういったいやな感じは だいたい持つのではないでしょうか。生きているかぎりで。 いやいや ブッダとなったなら 死などは屁でもないと言っていられる人は別ですが この問題は けっきょくわたしに思われることには 人間の生は言うにおよばず人間のちからに限界があるということだと考えます。 ひとを生かすことは言うに及ばず 自分を生かすことさえ けっきょくのところでは おぼつかない。 そしてこのことは 何も決して 敗北主義なのではなく また だから何も努力しないなどということにはつながらず そうではなく この世界における人間の位置づけという問題にかかわるものと思います。 どれだけよい成果を出している場合でも つねになお上には上ということがあります。問題は この《務めは かぎりなくつづき わがちからは かぎりがある》という事態なのではないでしょうか。 ここで わたしの虎の巻は 《きよらかなおそれ》です。 かぎりある・あやまちうる能力で生きるわたしは いまの務めにふさわしいか? これについては きよらかなおそれをいだく。ということになるのだと思います。 そうでないと 情報が入って来ません。いい情報が入って来ません。たとえ入って来ても 聞きのがします。 よい情報が入ってくるなら そのつど自分の料理したあらたな情報として 発信することが出来ます。 えらそうに言うのも けんかをするのも かまわないと思いますが きよらかなおそれだけは忘れずにと思います。 あるいは ぎゃくに言えば きよらかなおそれを持つがゆえに 世界に向かって挑戦的になることがあり 相手に向かってけんか腰にさえなることがあり 言わば問い求めというしごとに貪欲にもなり得ます。 ・・・
- 畑 茂夫(@Flareon)
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No4の補足です。 不死伝承の歴史的成り行きに関しては論理はかなり完成されたものだと自負しています。 ここで出てくる死えの無明が、現在も続いているという論点では考察する余地があります。 コレに関しては、いつ死のうが私の個人的尊厳の範疇で、死を悲しんでほしくはない、私は生きている間の幸せをを携えているのだ。 この信条で生きることで、現代も続く死は打ち払われるでしょう。 生かす事ばかりで自らが生きると、自らの死後の幼子に思いが及び、死にたくないと考えるでしょう。 それは憐れむべき死にざまです。 幼子は、大人の助けを借りながらたくましく生きるでしょう。 苦しんで死ぬことは、一生懸命他者を生かすことにいそしんだ、自らの幸福を知らない悪人でさえ、実は生かされていたのだ、すなわち阻害されず共に生きていたのだ。 こういう人間的な人情話です。
お礼
つづいてです。 申し訳ないが ふられおんさんの文章は 舌足らずだと思います。 ★ 不死伝承の歴史的成り行き ☆ 前回では 《不死伝承》の話があるというまでのことと受け取っています。 ★ 死えの無明 ☆ 《無明》一般としては むしろ《根本的な生存欲》のことだという解釈が出されています。 そして論議を呼ぶものと考えます。 生存しようとしないことを それではニルワーナとしてのさとりとするのか? といった物言いが出るでしょう。(このような主題については さんざ質疑応答を繰り返して来ています。どうか過去のやり取りを参照してもらえらばさいわいです)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ コレに関しては、いつ死のうが私の個人的尊厳の範疇で、死を悲しんでほしくはない、私は生きている間の幸せをを携えているのだ。 この信条で生きることで、現代も続く死は打ち払われるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ブディズムの立ち場としては 先の《根本的な生存欲》があるかぎり 生についても死についても苦(つまり 思うようにならないこと)から逃れられないと見るのだそうです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 生かす事ばかりで自らが生きると、自らの死後の幼子に思いが及び、死にたくないと考えるでしょう。 それは憐れむべき死にざまです。 幼子は、大人の助けを借りながらたくましく生きるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ その遺された子もまた おのれの無明になやみ苦しむのだと オシエは言います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ 苦しんで死ぬことは、一生懸命他者を生かすことにいそしんだ、自らの幸福を知らない悪人でさえ、実は生かされていたのだ、すなわち阻害されず共に生きていたのだ。 こういう人間的な人情話です。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《悪人》が どういうことをおこなったか。これがはっきりしません。ほかのひとの生きることを阻もうとしたのではないのですか? 《他者を生かす》とひとくちに言っていますが このことこそが 何よりも先んずる主題なのではないでしょうか。その中身を明らかにして初めて 問い求めになるのではないかと考えます。 それには では自分を生かすには どうしたのか? という問いが立っています。 ブッダないしブディズムの通念に頼らずに自分の実践と理論とをみなさんに披露することが肝心だと考えます。
こちらに失礼します。 スッタニパータが古いのはマガダ語の箇所があるから、らしいけど ではどこがマガダ語なのさ と質問しても反応が無いので 結局、自分で調べてみました。 仏教解釈の参考にでもどうぞ。 あってるかどうかは知りませんが。 Buddhism Downloads Suttanipata Suttanipata (Pali Text) PTS Version (Andersen/Smith) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語転化したものと見られる。 『パーリ語文法』 水野弘元 山喜房佛書林 26ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というわけで、スッタニパータを-āseで検索してみました。 スッタニパータの詩句の番号は 第二 小なる章 376,400, 第三 大いなる章 サビヤの547より後の散文,十二、二種の観察の散文, 第四 八つの詩句の章 774,776,791,803,827,875,876,885, 898,901, 第五 彼岸に至る道の章 1020,1038,1079,1080,1081,1082,1083 誤字や見逃したところがあるかもしれませんが、 とりあえず以上が語尾が-āseのスッタニパータの箇所です。 aseというのもいくつかあったのですが、āとaは区別すると思いますから 今回は除外しました。どうなんでしょうか?私はわかりませんから。 それにマガダ語の箇所はほかにもあるのでしょうけれども。 スッタニパータ http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
お礼
かざみどり365さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ▼ (水野弘元) ~~~~~~~~~~~~ パーリの古い偈文のみに出て来る -a 語基男性複数主格語尾 -āse も、ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語転化したものと見られる。 『パーリ語文法』 水野弘元 山喜房佛書林 26ページ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは サンスクリットでは -a 語基・男性・複数・主格語尾 -s (実際には -h となる) のことでしょうか。 ・ asva- 馬: 単数主格 asvah / 複数主格 asvaah ちなみに 古典ギリシャ語: ・ masculin,sg.nom.: ho hippos 馬 / pl.nom.: hoi hippoi ・ 〃 : ho neanias 若者 / 〃 : hoi neaniai ・ feminine,sg.nom.: hee oikia 家 / pl.nom.: hai oikiai ▼ -āse も ヴェーダ語の -āsas = -āsoがマガダ語転化したものと見られる。 ☆ そうすると ふるい形は 長たらしかった。ということでしょうか。 文例にて その語例を検証しうればさらによいのでしょうが 手が出ても足がまだ出ない状態です。ありがとうございました。 マガダ語(東部マガダ語?)と半マガダ語( Ardhi Magadhii )の区別などもそう言えばありましたね。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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質問内容に答える事はさておき主題を「不死者への憧憬」と解釈して見解を述べます。 あなた方の勤める会社が倒産の危機にあるとしましょう。 死活問題として大慌てします。 しかし、事が実際に倒産に及んだとして、だからと言って死にますか? 大借金を抱えた社長さんですらめったに死にません。 不幸にして心労から自殺する人がいる事はさておき、破産しても処刑されません。 簡単な話で、けして死活問題ではないと冷静に対処する事柄です。 この例え話に過ぎない死活問題は生活ののそこかしこに見え、誰もが将来展望に無明を垣間見ると、それを死とします。 わたしは時間認識知性と名乗っていて、コレは事の先々の成り行きが読める、縁起を身に付けた仮面ライダーとして説明しております。 この縁起とは事の成り行きですから現在を起点にした将来に対する無明に対処し死を認識しない事です。 コレが出来るだけで、死の取り払われた不死者として扱われます。 その縁起知性は、仏の知恵と言われまして、死の予感から閉塞した「仏=人間、または自由人」以外の助けを求める崇拝者から、私の死を取り払ってくれるのは、あなたが不死に目覚めた人間の完成した状態であるからだと認識されます。 私は自らの寿命に頓着せず、常に生きようとします。 この姿勢が一貫して、死を生きる行いに割り込ませないだけです。 もちろんいつか死ぬ日が来ますとも。 しかし、それはあなたの死ではなく私の死です。 個人の死の尊厳は、個人の物で私が死ぬからと言って誰からもとやかく言われたくない。 どこぞで、聞いた泣き言に、死は孤独だと言いますが、そんな苦情を言わず、めいいっぱい生きる「無の悟り」イコール「死の悟り」を経ると、死に阻まれず、常に生きるための知恵がこんこんとわき出ます。 人間の場合、、生きる事は一人で生きる事では無くて、生きるために他者を等しく生かす事ですが、崇拝者(非仏陀)は、ここで他者の死に自らの死を重ねるような、成り行きで、自らの死を予感する癖を身に付けたのでしょう。 そんな成り行きで、常に死を念頭に苦しむ非仏陀と、死を理解した超克者たる仏陀、こういう事になっています。 私自身が仏陀ですから言う事に間違いありません。 現在を阻む死の予感が幻であるように、現実的には、その幻の先を観る縁起知性も不死者ではありませんが、かなり昔はこの辺が理解も説明もできないで、不死者として尊敬を集め、仏陀なる称号を授かりました。 それだけの事です。 ここまで明快に、不死伝説を説明すればそれ以上はいtらないと自信満々ですが、感想をお聞かせください。 私の思索の助けともなります。
お礼
ふられおんさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 初めから読み継いで 反応を持ったところでそれをそのままつづって行くかたちで見てまいります。 ★ 不幸にして心労から自殺する人がいる事はさておき ☆ これは 《さておき》とする行き方は たぶんみなさんから迎え入れがたいという感じを持たれてしまうのではないでしょうか。 つまりこの場合であれどの場合であれ 自殺というひとごろしについてどう考えるかの問題もありますが この場合なら そのような行動にまでひとを追いやる社会生活上の事態 この事態についてもう少し考えておかねばならないという物言いをもらうでしょう。 社会科学の観点から――つまり要するに 共同自治としての社会政策のかたちで――考えることが大事だとわたしは考えます。 ★ 簡単な話で、けして死活問題ではないと冷静に対処する事柄です。 ☆ これは おそらくさっき言った《自死というひとごろし》について しっかりと我れであれというような観点を打ち出そうとしてそう言っておられるものと受け取ります。 つまりは 道が断たれたとすれば その人にとっては《死活問題》であり その死活問題という事態にあってさらにどう考え対処するかという見方から出発しようと言っているのだと。 ★ この例え話に過ぎない死活問題 ☆ 単なる揚げ足取りとしてですが ここで《例え話に過ぎない》という捉え方をするのは どうかと思います。その人にとっては視野が非常に狭くなってしまっているので まづはしっかりと我れに立ち帰って自分と世界とをみつめて欲しいというところだと思いますから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ ・・・誰もが将来展望に無明を垣間見ると、それを死とします。 わたしは時間認識知性と名乗っていて、コレは事の先々の成り行きが読める、縁起を身に付けた仮面ライダーとして説明しております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 口幅ったい言い方ですが 《無明》の使い方が変わっていると考えます。《無知》または《みづからの煩悩〔についての無知〕》が 生まれながらの《無明》のことだと思います。 でもここは 将来への絶望から来る真っ暗闇といった意味での無明でしょうか。それの行きつく先は 死であると。 ★ 時間認識知性 ☆ これは ごくふつうの人間認識だと思います。つまりひとは《時間的な存在》であるのだということでしょうし それは 生まれて生きてやがて死ぬ・そのように一定のかぎられた時空間を生きる存在であると。 《縁起》は 直接・間接の原因とそれの結果を認識するというその因果関係のことですよ。 ★ 事の先々の成り行きが読める ☆ これは 或る程度において誰でもみな 何がしかはそう出来るでしょう。空が黒い雲でおおわれたなら こりゃあ雨だという先読みをほとんどの人がするでしょう。 申し訳ありませんが 《仮面ライダー》でたとえられてもわたしは うんともすんとも反応し得ません。まるっきり知りません。何だか虫が人間の恰好をしてオートバイに乗っているとか。それ以上のことは知りませんので 何とも分かりません。 ★ コレが出来るだけで、死の取り払われた不死者として扱われます。 ☆ まわりの人びとの受け留め方として そうなのでしょうが 仮面ライダーのことを別とすることができるのなら あとの《縁起》や《時間認識知性》という説明からは まだよく分かりません。それらは 人間のふつうの存在認識や世界認識〔についての基礎〕を言っていると捉えています。そこまでだと見られますから。 ★ 私は自らの寿命に頓着せず、常に生きようとします。 / この姿勢が一貫して、死を生きる行いに割り込ませないだけです。 ☆ 申し訳ないが この姿勢は ふつうの人が かなりであれ多少はであれ悩みに悩みその苦しみを経たあと 寿命は寿命だとあきらかに知ったと見なし そうしてふたたび生きることへと一歩を踏み出すというようなかたちと中身として捉えられるふつうのことだと考えますが これも揚げ足取りになりましょうか。 ★ 現在を阻む死の予感が幻であるように、現実的には、その幻の先を観る縁起知性も不死者ではありませんが、かなり昔はこの辺が理解も説明もできないで、不死者として尊敬を集め、仏陀なる称号を授かりました。 ☆ 《死の予感》は 《まぼろし》ではありませんよ。いつ来るかは分からないが やがて来ることに間違いないからには まぼろしだとして打ち克つというものではないと考えます。 《現在の行動を阻む》なら そのような死の予感はさしさわりがあるので 何とかしようということなのでしょうが 《不死者ではありませんが》という認識に立たなければ話は始まらないとすれば 死の主題は ひとが避けて通れないほどの現実であり得ます。 あとは 《仏陀》が何を言っているかがまったく分かりません。このくだりだけではなくすでに通り過ぎて来た箇所でも ブッダの意味が明らかにされていないからには 何とも言えないという思いです。 ブッダとは 人間が成るものだと言ってもその状態についてご自身の説明がありません。世間一般に受け取られているその通念に従うというのであれば それは危険だと見なします。何の確証もなくそのように行きわたっているに過ぎないと考えますから。 ひとのおこなう意志行為は すべて時間的な行為であって ほかのひとと互いにからみ合って 社会過程としてその因果関係がしかも構造的に推移して行く・そういう世界にひとは生きている。これが 縁起観であり 無我ないし無常という世界観のこと(基礎部分)です。これは その昔ブディズムが説いたものだとしても けっして専売特許でも何でもありません。 もし専売特許だと言うものなら そのブディズムとやらは その時間観や因果関係論のさらに上に煩悩を あたかも不治の病の元凶と見なすがごとく大前提として説き起こし 人びとよ この無明地獄をさすらいたまえと言って 自分たちはそのさすらう人びとのお情けにすがって生きている――このような人種です。 ★ しかし、それはあなたの死ではなく私の死です。 ★ 人間の場合、、生きる事は一人で生きる事では無くて、生きるために他者を等しく生かす事ですが ☆ だとすれば 《死は 一人ひとりそれぞれの死である》そのことが 社会生活上のわれわれの主題であり その主題の克服がわれわれの課題であるというかたちになっています。 この問題は まぼろしではないはずです。それについて ★ 不死伝説 ☆ もあるのだと言おうとしたご見解なのであろうと見ました。 まぼろしをどう捉えたか。幻の先を観るとか書いてありますが どのようにか。 このあたりが 誰にとってもの主題であり課題であるという原点の確認なのであろうと見ました。
- koiprin
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肉体は滅びても、人類がいる限り、名前や思想については残すことができる。 『青史に名を刻む』という言葉がある通り、歴史上に自分の痕跡を残すということが、「生き残る」のみを唯一欲求とする動物ではない、我々人間の大いなる蛇足であると思う。 復活は、もともと教義を広める起爆剤として『奇跡』の演出として発明されたものであると思うが、復活、不死、といった人智を超えたものの存在は、いつの時代も大衆の『思考停止』や『世論形成』のために用いられていたので、我々の望む社会ではなく、一握りの人間の求める社会のための概念であると思われる。 人智を超えた現象は、いくら思考を重ねても、結論を生めないという点で、『ただ信じなさい』という帰結を受け入れさせるには十分な言葉である。
お礼
こいぷりんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そう来られましたか。 ★ 肉体は滅びても、人類がいる限り、名前や思想については残すことができる。 ☆ むかしは よく言っていたように思います。《名を残す》ってやつです。うたか何かにありましたね。 ★ 『青史に名を刻む』という言葉がある通り、歴史上に自分の痕跡を残すということが、「生き残る」のみを唯一欲求とする動物ではない、我々人間の大いなる蛇足であると思う。 ☆ ん? なかなか読み取りにくいご文章ですね。 《蛇足》なら 要らないのでしょうか。でも《歴史上に自分の痕跡を残す》ことは《生き残る》を超えた人間の生だということなのでしょうか。 ただ――つまりわたしは 何でもかでも批判するくせがついてしまっていますが―― 名を残すというのは その名の生きるときとおのれがじっさいに生きたときとは へだたっている。という嫌いがあります。リアル・タイムではないわけです。 ★ 復活は、もともと教義を広める起爆剤として『奇跡』の演出として発明されたものであると思うが、復活、不死、といった人智を超えたものの存在は、いつの時代も大衆の『思考停止』や『世論形成』のために用いられていたので、我々の望む社会ではなく、一握りの人間の求める社会のための概念であると思われる。 ☆ これは おそらく そうでしょうね。つまり そういう見方ができるというのが 世の中のつねなのでしょうね。義経が大陸に渡ってジンギスカンに成ったとか。 ただここでは 微妙にその見方を逸れて 《物語の想定》という方法を持っています。 すなわち イエスというふつうの人間が キリストと呼ばれ神の子だと自称し他称された存在であり・かつみづからも神であるということ これは あくまで虚構としての想定です。 このイエス・キリストが 十字架上で死を死んだのち 復活したということも 同じく想定されていることです。 つまりこの《想定》という方法は 《思考停止》なのではなく《非思考》だととなえるところに 《復活》論の骨子があります。 人間が神であることや 死んだのちに からだごと再生することは 経験しうべからざる事態です。神は 《非経験の場》だと規定し 復活とは 死んだと思ったら息を吹き返したというような《生き返り》のことではなく 文字通り《一度死んで ふたたび生きる》ことだと規定するなら これらは 非経験のことです。 言いかえると そのようにやはり想定した非経験のことを 人はその心の内なる《非思考の庭》において――あたかもヒラメキをとおしてのごとく――感じる。(錯覚としてでも 予感すると想定する)。 ここに《復活》が――あくまでひとりの人間の・つまりワタシの主観の内において―― 時として 捉えられる。・・・このように定義しています。 早い話が 良心・信教の自由におけるそのいわゆる信仰としての自己表現のことです。 そうして 神はあくまでこのわが心なる《非思考の庭》においてのみ いだかれています。 (そのことを さらに自己表現して 他人に伝えることも――表現の自由において―― 行なわれ得ますが それ以上の事実が 共同の主観として成るということはありません。つまりふたりの人間の・主観によるものであったとしてもそのいだく神が まったく同じひとつの《場(ないしそのチカラ)》であるというまでには 検証しえない。となると考えます)。 (検証しえないのであって 複数の人たちが互いにその《非思考の庭》にいだく神は 同じであると表明することは これも自由だと考えられます。証明は成し得ないものと思われます)。 かくして ★ 人智を超えた現象は、いくら思考を重ねても、結論を生めないという点で、『ただ信じなさい』という帰結を受け入れさせるには十分な言葉である。 ☆ もしこの結論的命題が 途中で指摘されていた《思考停止》によるのではなく 想定としての《非思考の庭》なる主観(その動態)のことだとすれば おそらくそのとおりだと考えます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 復活を明確に定義されていると思われませんが ☆ はい。一例を挙げておりますが きちんとした定義はかかげておりません。 これには 事由があります。 復活とは 将来おこるべきこととしていま臨むのがただしい と考えるからです。生身の人間でいるかぎりで ほんとうには分からないと考えられます。 そうして ひとつの実例を提出して問うています。 ★ 復活は死からの復活と考えますと ☆ ええ。おそらく そう捉えることになると思います。 ★ 人類史上、死からの復活の検証はなされたと聞いたことがありません。 ☆ おっしゃるとおりです。聖書にたとえばイエスのほかにも ラザロが――死んだようになったあと息を吹き返し生き返ったというのではなく そうではなく すでに死臭をただよわせていたところ――復活したという物語が語られています。 そもそもこれも 検証をするしないの前に 虚構であります。物語として語られています。強いて言えば ちょうど《神》というものを証明つきでかかげるのではなくただそれを想定するに過ぎないのと同じように この《復活》ということも それとして想定されている。ということであり そうであるに過ぎないことです。 ★ 仮にわたしの知らないところであったとしても、統計的にほぼ100%死からの復活は無いと言えるでしょう。(信仰的は尊重されるべきですし、幻覚として見る場合もありえますが。) ☆ 《物語として想定する》ことであるゆえ その復活については《将来おこるべきこととして いま臨む〔のがただしい〕》となります。 証明できるとは思っておらず 証明しようともしていません。あるいは 語ったことについて真偽を検証しようとしているのではなく 《経験世界において起こる事象》としてはあり得ないと考えられることを なぜか想定したのです。それを受け容れるひとは 受け容れるということです。ただそれだけのことです。 そしてこのことは ★ 信仰的は尊重されるべきですし ☆ というふうに一般になっています。信教・良心の自由という公理です。 ★ 幻覚 ☆ は 経験事象です。 ただし その想定した復活について あたかも時には予感することが――そのひとの主観にあっては――あるかも知れません。予感は 経験事象に属します。となると 世間一般的には この予感も まぼろしである。と言ったほうが 妥当な議論である。こうも考えます。一般に ヒラメキですね。 ★ 私達は事象の正否を判断する場合、有りうる可能性は認めますが一般化されてない場合は、否とします。 ☆ これは 微妙なところです。 一方で 神だとか復活だとかという《非経験の場》にかかわる《想定》の話である 他方では その《経験しうべからざる非思考のことがら》を予感するという経験事象の話である。 ですから そのひとが予感したと言うなら そのひとの主観のかぎりで 予感という事象は起こったとなると思います。そして ただしその予感の内容は(予感したという対象は) 非経験の場という雲をつかむことがらです。 総合して捉えるに その人が主観において 想定されている神のことを――そのもとにあるなら あたかも永遠の時空間を生きると想定の結果考えられる――予感したということまでは その成否を判断するのを別としつつ みとめられるのだと考えます。 つまり 《否とする》のではなく 成否は分からずその判断を棚上げして 予感を持った(ヒラメキが得られた)ということ自体についてはみとめる。こういう取り扱いになると考えます。 ★ で、本題に戻りますが、人間を初め動物も含めて復活は有り得ないだろうと見ます。IP細胞も復活とは言えないし、輪廻転生も復活とは違うでしょうから。これが結論です。 ☆ ええ。そしてこの結論は 初めから決まっています。みとめられています。つまりなぜなら 経験事象としては 復活があり得ない。こう言っているからです。 しかも想定としての神ないし復活というのは そのあとに 主観においてゆるされるかぎりで 物語をおのが胸にいだくとき あぁ 予感があったとなればそのひとは 復活について さらに問い求めることになるでしょう。そしてただ それだけのことなのです。この大前提において この質問は成り立っています。 すなわち ★ しかし、個々の精神的事情により、立ちきれない思いや、精神的な葛藤などが起因して復活を切望する場合は、個々の対応として完全否定するものではありません。ここで、事象と精神で区分する必要があると考えられます。 ☆ と捉えられることがらは あくまで経験事象のことです。そのかぎりで 誰もに起こりうる事象だとして取り扱われます。そうならば経験事象一般というのは 非経験の場ないし非思考の庭にとっては どうでもよいことなのです。神を想定する以前の段階(あるいは次元)の世界での問題だと捉えられるからです。 むろん経験事象を取り扱うのは 経験科学があります。しかもこの経験科学が扱い得るかぎりで――なぜなら 予感ないしヒラメキということ自体は 経験行為だからなのですが・したがって半分そうではないことがらであっても扱おうとするには―― 《想定しておく》というかたちで議論が起こされる。こう考えてのことです。