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キリスト教の死生観について(できればクリスチャンの方よろしくお願いします。)
キリストが再臨して千年王国が始まるという「終末論」がありますが、これは何のためにあるのでしょうか?この時、死人は生き返り、生きた者も皆最後の審判を受けると聞きます。 **************************** まず、キリスト教の死生観について確認してよろしいでしょうか?下記が私の理解となります↓ キリスト教では、キリストを信仰することによって神の国に迎えられ、永遠の命をもつ。これは生前でも信仰があれば永遠の命に迎え入れられるということ、死後もまた同じように信仰を持つ者が永遠の命を与えられ、神の国に迎え入れられる。 こんな風に理解しています(ここまでで間違った認識があればご指摘お願いします。) ****************************** こんな風に理解しているのですが、この時疑問を持ちました。 信仰を持つものは神の国に迎え入れられ、永遠の命を与えられる、つまり、ここではっきり判別されましたよね、地獄へ落ちるものと天国へいくもの、信仰を持った天国へ行くものは永遠の命を与えられます。 これで終わりでいいと思ったのですが 千年王国、終末論というのは何のためにあるのでしょうか。もうすでに天国において永遠の命を得たものと地獄へいくものが判別されたのに、わざわざ死人を復活させ、生きた者も皆、審判を受けると言う事の意味が、よくわからないんです。 ☆また、この時復活させられる「死人」というのは、天国においてすでに永遠の命を得た者も叩き起こされるということでしょうか? 永遠の命をすでに得たはずの者(死人)が<<復活させられる>>ってどういう状態ですか?「さらに強化された永遠の命??」でしょうか?? また死んで地獄へ行った者も、叩きおこされ、審判を受けるのでしょうか。 つまり、終末論というのは、選別、つまり審判をやり直す、ということですよね。 信仰を持つものは永遠の命をえる、持たないものそれを得ないって決まってたはずなのに?もう選別は終わってたはずなのに。 なんででしょうか?終末論の意味、教えてくだささい。 地獄へいったものにもチャンスを与えるために、審判をやりなおすのでしょうか?すでに天国へ行った者が、「あ、こいつ一端天国送ったはいいが、案外不信仰者だな。最後の審判により、地獄行きへ決定。」なんていうふうに、選別やり直し(最後の審判)で地獄へ送られる、ということもあるのでしょうか。 疑問が多いですが、よろしくお願いします。素人ですので、出来るだけ簡単なご説明をお願いします。
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blueduciel様お返事大変ありがとうございました^^。 しばらく、用事にふけっていまして(笑)・・・久しぶりにgooをあけてみましたら、blueduciel様のご質問が。わかりました^^。そりゃそうですよね、一気に理解をしようと努力するものなら・・・「どうして?」「なぜ?」と言った純粋な疑問が出てきましても、至極当然です。 答えがいがありますね^^。 さて、それではラストですよ^^(汗) ※お手数ではありますが、きちんと()内の聖句をご自身で必ずお調べくださいますようお願いいたします。 (1) まず完全ということなのですが、この完全というのは父なる神のみを指すのであって、「イエス」すらも完全ではないということなのでしょうか? >つまり物は、設計者もしくは製作者の定めた意図または目的、あるいはその受取人もしくは使用者の用途に応じて、あるいはそれに関連して’完全”なんです そして↑に書いて頂いたことなのですが 設計者もしくは製作者=神 受取人もしくは使用者=人 と考え、「完全」「絶対」の概念をこの世に投射した時の完全というものの定義 という理解でよろしいのでしょうか!? はい、そういうことなのです。 例えば・・・「身体的な面において」でしたら、最初の人間アダムとエバは、永遠に生きれましたし、病気も老化も一切ありませんでした。 しかし、それは・・例えば・・ずっとずっと疲れることなく走っていられるか?といえば、全然そんなことはありませんよね。疲れも出てくるでしょうし空腹にもなります。 もしも何も食べないで、そのままの状態にするなら、いつかは死んでしまうことでしょう(ただし、現在の私達とは恐らくケタ違いに生き延びれるでしょうが・・{完全な人間イエスが40日一切食事を取らなかった 参照マタイ4:1-3})。 「不滅」ではありません。 高いところから飛び降りれば、もちろん死ぬでしょう。 自然の法則(摂理)に従うのは前提条件なのはいうまでもありません。 では完全な人間であったアダムとエバが罪(不従順)を犯した事については・・・一体なんという事が出来るのでしょうか? これは「完全性」と・・・さらに「自由意志」という関連があるのです! 神の理知ある被造物には「倫理的自主性」・・・つまり自分の取る道に関して個人的に決定する「特権(自由)」と「責任」が与えられています(申命記30:19.20参照)(ヨシュア記24:15参照)。 明らかに最初の人間夫婦の場合がそうでした。それゆえに、神に対する両人の専心を試すこともできたのです(創世記2:15-17 ;3:2、3)。その二人を造った方であられる神は、ご自分が両人に何を望んでいるかをご存知でした。 聖書によりますと、神が自動的な、事実上機械的な従順ではなく、純粋な愛に促されて心と思いから発する崇拝と奉仕を望んでおられたことは明らかです(申命記30:15,16)(歴代誌第一28:9、29:17)(ヨハネ4:23、24と比較)。 もしもアダムとその妻が、この事柄において選択能力に「欠けていた」なら、二人は神のご要求にかなっていなかったことになります。神の「基準」からすれば、二人は完成していなかった、つまり・・「完全」ではなかったことになるのです。 人間に関する場合(先ほども述べましたが)、完全性は人間の領域に限定された相対的な完全性であることを忘れてはいけません。アダムは完全な者として創造されましたが、創造者によって定められた限界を超えることはできませんでした。アダムは泥や砂利や木を食べても、不幸な結果に見舞われないということはあり得ませんでした。 同様に、思いや心を間違った考えで養うままにしたなら、間違った欲望を抱くことになり、ついには罪と死をもたらすことになたでしょう(ヤコブ1:14,15。創世記1:29。それとマタイ4:4と比較)。 被造物の個々の意志と選択が決定要素であることは、容易に理解できるかと思います。 仮に倫理上の論争が関係している場合、完全な人間は間違った道を取ることができないと主張するとしたら、論理的に言いまして、そのような倫理上の論争が関係している場合、「不完全な」被造物は「正しい」道を取ることができない論じるべきではないでしょうか! ところが、不完全な被造物ではあっても、神に対する従順が関係している倫理上の問題で、正しい道を取り、その道を変えるよりはむしろ迫害を受けて苦しむ道をさえ選ぶ人たちが現にいま(す)した。しかし、そのような人がいる一方、自分では間違っていると分かっていることを故意に行なう人もいます。 したがって、間違った行動をすべて人間の不完全さのせいにすることはできません。「決定的要因は個人の「意志」と「選択」です。同様に、最初の人間の側の正しい行動を保証するものは、人間としての「完全さ」だけだったのではなく、むしろ・・・神と正しい事柄とに対する愛に促されて自分の自由意志と選択能力を行使することだったのです。 (箴言4:23) (2)>その教えは明快です。つまり「人は死ぬと存在しなくなる」のです 死ぬものはどうしても死ぬのであるということ大変勉強になりました。それが記されていると知った上でコリント信徒への手紙「死者の復活」を読むと、死者が生き返るとか死なないとか書いてあるけれども、これを信仰として死なないとか(satotan111様がカトリック風解釈と仰っていたのはこのこと?)いうことであるよりも、リアルに千年王国期間内での「義者と不義者との復活」のことを示唆して書かれているととらえてよいのでしょうか? なるほど・・・^^。blueduciel様はすごいですね(驚嘆&尊敬)。コリント第一15章からのくだりですね。ここは「復活と神の王国との関係」を説明しています。 でわ、頑張って「簡単に???ご説明」いたします。(努力してみますゆえ・・) 以前もチラッとだけご説明いたしましたが、聖書によりますと・・・1914年以降に天で王国が設立されました。イエスキリストが天で王として臨在しました。要点は次です。 人類から買い取られた共同支配者(王)としての最初の復活が「天において始まります」。 これら最初に天で霊者(霊の被造物)として復活してくる者たちは、以前はもちろん全員人間です。そして地上で死んだ普通の人たちです。パウロ自身もその内の一人です。ただし、人間としてのイエスキリストが「贖い」(あがない)という任務を遂行しましたよね。その3日後によみがえらされましたよね。(イエスは復活の「初穂」です。) この時点から信仰によって亡くなる人たち(クリスチャン)が条件です。 ですから、それ以前に聖書中に出てくる数々の忠実だった人たち・・例えば・・・アベル・・ノア・・・アブラハム・・・・モーセ・・ダビデ・・ダニエル・・などなどは、ハルマゲドン後の楽園となった「地上での復活」となります。はるか大多数が地上での復活です。 天での復活(最初の復活)・・・・その人数は14万4千人です(たったこれだけの人数です)。あとの何十何百億という人地上での楽園です。 さて、この天での復活(最初の復活)は、聖書では・・よりまさった復活と呼ばれています。どういう意味で優っているのでしょうか? それは、物質の体を持った「人間」としてではなく、霊の体を持った者として復活させられます。しかも「不滅性」と「不朽」があたえられています。これはもう深く説明いたしませんよ(笑) ちなみに人間は終末論、つまりハルマゲドン後の「千年王国」が始まり、千年経った後の最後の試みに成功した者には、完全な人間として永遠に地上を楽しむこと(最初のアダムたちの状態に戻れる)が出来ますが、やはりそれでも「不滅」ではありません。 もし万が一、間違った考えを捨てずに、その欲望を温め続けた結果、不従順にはしったならば、すぐ死に処されるでしょう。「不滅」は滅ぼされないという意味だからです。それほど裏を返せば信頼や強い愛で結ばれているからといえます。イエスも天での復活の際、不滅性を身に着けるのを許されています。 (補足)ちなみに完全性に到達した人間にとって、よほどのことがない限り罪を犯す事が、逆に難しく感じるかもしれません。今の不完全で罪深い私達の感じ方(考え方)で理解しようとしても、難しいかもしれません。 パウロが述べている「復活」は、天でイエスと共に共同相続人(王)として愛のある支配をするという、素晴らしい「特権」を言っています。ご理解いただけましたでしょうか? (3)さらにヨハネ黙示録20:4-5で「はっ!」と思うところがあります 「この者たちはあの獣もその像も拝まず額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返ってキリストと共に千年の間統治した。その他の死者は千年たつまで生き返らなかった・・ 」これは、千年期間中 生き返る死者と生き返らない死者という振り分けもあるということでしょうか??(→すべての死者が生き返る訳ではない??) すごいですblueduciel様。そうです、聖書に精通している方でさえ、ここはよくこんがらがる方がいますよ。ここは前後の脈絡や、ヘブライ語の語源の意味などを調べたり、聖書全巻の教義を照合すると、くっきりはっきりいたします。 まず啓示20:4,5の全文です。 4節「またわたしは、数々の座を見た。それに座している者たちがおり、裁きをする力が彼らに与えられた。実に、イエスについて行なった証しのため、また神について語ったために斧で処刑された者たち、また、野獣もその像をも崇拝せず、額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。 そして彼らは生き返り、キリストと共に千年のあいだ王として支配した。」 5節「(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)これは第一の復活である。」 まず4節の「それに座している者たち」・・・聖なる者たち、24人の長老、「油注がれた王なる裁き主たち」、つまり、14万4000人の共同支配者(共同相続人、王)です。(ダニエル7:13,14,18)(啓示4:4)(マタイ19:28)(コリント第一4:8; 6:2,3)(啓示3:21)(啓示14:1.2) 「斧で処刑された者たち」・・・斧(ギリシャ語:ペレクス)ローマの伝統的処刑用具だったようですが、ヨハネの時代には剣のほうがもっと一般的に使われていました。(使徒たちの手紙12:2) ですから、ここで使われていますギリシャ語、「ぺペレキスメノーン」(斧で処刑されたの意)は、単に「処刑された」という意味です。 とはいえ、この表現は確かに殉教の死を遂げるそれら油注がれたクリスチャンすべてを包含することを意図しています。(マタイ10:22,28) 実際、全員が殉教者として死ぬのではありません。その多くは病気や老齢のために死にます。 そして4節後半「そして彼らは生き返り、キリストと共に千年のあいだ王として支配した」。・・・・・これは、諸国民が滅ぼされ、サタンとその悪霊たちが底知れぬ深みに入れられてしまうまで、つまりハルマゲドンの時まで、それらの裁き主(14万4000人の王たち)が復活させられないことを意味していますか? いいえ、そうではありません。聖書によりますと、そのほとんどはすでに天で生きています。というのは、彼らはイエスと共にハルマゲドンで諸国民と戦うために(比喩的な意味で)乗り進んできたからです。(啓示2:26,27)(啓示19:14) 実際パウロは1914年にイエスの臨在が始まってまもなく、彼らの復活が始まり、ある人たちは他の人たちよりも先に復活させられることを示唆しました(コリント第一15:51-54)(テサロニケ第一4:15-17)。 ですから、彼らはある期間に個人個人天で不滅の命を受けて、生き返ることになります(テサロニケ第二1:7)(ペテロ第二3:11-14)。 そして問題の5節「(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)」・・・・・・それをそのままの意味で取ってしまいますと、一体それらの王たちは誰を裁くのでしょうか???(混乱) ここでの「生き返る」とは・・・(エフェソス2:1)(ローマ3:23,24)(マタイ22:31,32)のような使い方と似ています。つまり、(千年期間中)キリスト教以前のクリスチャンたちも、また復活させられる他の人たちも、それにハルマゲドンを生き残る忠実なほかの羊の大群衆と、新しい世(楽園となった地上)で彼らに生まれるかもしれない子供たちも皆、なお人間としての完全な状態(完全性)に引き上げられなければなりません。 これは千年の裁きの日の期間に、イエスの贖いの犠牲に基づいて、キリストとその仲間の王なる祭司たち(14万4000人)により成し遂げられます。 ですから「残りの死人は」、その日の終わりまでに(最後の試みの時までに)、完全な人間になるという意味で「生き返っている」ことでしょう!そして完全な人間として最後の試みを受けなければならないのです。そしてその試みを通過する時に、神はそれらの人々を永遠に生きるのにふさわしい、全き意味で義にかなった者として宣せられます。そして詩篇37:29です。 こんな感じです。またかなり駆け足すぎましたが、どうかお許し下さいませ。ゆっくりじっくりお時間かけても結構ですので^^。 お返事なりご感想は、遅くなっても全然大丈夫ですので、blueduciel様、どうか気を使わないで下さいませ(笑) 私自身また思い出せて勉強になりました。御礼を言うのは私かもしれませんね^^。 PS:まだまだ詳しくお知りになりたいようでしたら、やつら(エホ証)(ウロウロしてます)に聞いて教えてもらうのも一つの手ですね。よならしたくなったらするのもいいでしょう。 理解しにくい部分がいっぱいかと思いますが、何卒ひらにご容赦を^^
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- rosavermelha
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こんばんは。クリスチャンです。 他の回答者様には非常に申し訳ないのですが、こういう場ですので、正直に言います。 私は、エホバの証人は、クリスチャンだとは思っておりません。 そして、エホバの証人が「聖書」とするものは、聖書だとは思っておりません。 ですので、他の回答者様と私の回答が異なっているとしたら、そのあたりの事情?なのだとお察しください。 さて、「終末論」ですが。 言葉で言い表すのは難しいですね。 こういう「理論」を聞くと、いつも違和感を感じます。 なぜかというと、「信仰」とは、「考える(論じる)」ものではなく、「感じる」ものだからです。 頭で考えるものではなく、心で感じるものだからです。 だから、「つじつまが合っていなくてもいいのです」 例を挙げましょう。 あなたに、ものすごく信頼する先輩がいたとします。 あなたは、その先輩のことが大好きで、とても尊敬してやまないわけです。 その先輩は、ときどきわけの分からないことをあなたに言います。 あなたは、先輩がなぜそんなことを言うのかまったくわからない。 でも、あなたは、その先輩のことを絶対的に信頼しているから、多少の矛盾はどうでもいいんです。 大事なのは、「その先輩の言葉だ」ということ。 そういう感じですよ。 クリスチャンは、神様のことを、愛しています。絶対的に信頼しています。 だから、多少人間の頭では理解できないことがあっても、それは大して重要ではないんです。 大事なのは、「それは、神様の言葉である」ということ、なんです。 さて、それを大前提として。 敢えて人間的解釈を試みるなら・・・ですが。 今は、生きていますよね。「体」に「魂」がセットになっていますよね。 でも、人間、いつかは死ぬわけです。 そのとき、「体」は葬儀場で火葬されますね。 でも、神様が心の中にいる人は、「審判」の場で、「魂」が天国へ昇るわけです。 *閻魔大王の「天国」「地獄」分けみたいな感じでしょうか?(笑) 神様のおそばに行って、「魂は」天国で、永遠に幸せに暮らすわけです。 神様を信じる者は、「体」は死ぬけれども、「魂」は死なない=「魂が」永遠の命を得る。そういう意味でしょう。 で、「最後の日」。 天国で、すでに永遠の命を与えられた魂(=死人)は、神様のそばで待機してるわけです。 今までは、地上は汚れた人間の世界だったから、そこに神様が制裁を下すわけです。ノアの箱舟の再来ですね。言ってみれば。 審判は、一回です。 神の制裁が降りたとき、つまり、最後の日が来たとき、たまたま「生きていたもの」は肉体的には全員死んで、 今までの者と同じように、「審判」を受ける、んです。 で、神の制裁の嵐が去った後は、そこは地上でありながら、天国と化すわけで、 そうすると、今まで天国で待機中だった、永遠の命を持った魂が安心して降りてこられるわけですよ。 この人?たちは、すでに肉体が死ぬときに神様からOKもらっているわけですから、前売りチケット持っているようなもんで、顔パスですね。それが、「死人の復活」。 その日に「たまたま」生きていて、その日の審判で神様から当日チケットでOKもらった人は、そのメンバーに加わるわけです。 そして、その地上の天国は永遠に続く、つまり、「千年王国」。 ・・・と、こういう想像はできますが・・・・ でも、実際は、そういう「現実的な考え方」はたいしたことじゃないんですよ。 所詮、人間にわかることなんて、宇宙の塵みたいなものですから。
お礼
お礼遅れまして大変申し訳ありませんでした! >でも、あなたは、その先輩のことを絶対的に信頼しているから、多少の矛盾はどうでもいいんです。 大事なのは、「その先輩の言葉だ」ということ あげて下さった例、分かりやすかったです。これから聖書を読むにあたって考えてみようと思います。最後の日と千年王国に関するシンプルな解釈も大変勉強になりました。 >所詮、人間にわかることなんて、宇宙の塵みたいなものですから 本当にそうですね。私もそう思います。聖書は神に関する人間の抒情詩なのかなぁと思うことがあります。
補足
大変ご丁寧なご回答を有難うございます。クリスチャンの方から回答を寄せて頂き嬉しいです。回答をよせて頂いた中、色々と考えさせられてしまっているので、正式なお礼の方後日寄せさせていただきます。
- satotan111
- ベストアンサー率17% (57/326)
blueduciel様、大変遅くなり申し訳ございませんでした。 一度作成していた時のこと、8割程度まで完成していたのに、線を引っ張ってしまいリセットに・・・・(大泣) しばらく放心状態でした。 ようやく気力も回復いたしました^^。 さてどこまでご理解されていらっしゃるのか?手探り状態ですが・・一応、最初からの「教義の流れ」を超コンパクトに、サラッと駆け足でご説明いたしますね。 ※尚、信仰の是非、または有無に関わらず、あくまでも聖書全巻(原文)の首尾一貫した教義について述べようと思いますのでご理解の程、よろしくお願い致します。 と、その前に「死」もしくは「死後」の概念だけ先に述べます。 その教えは明快です。つまり「人は死ぬと存在しなくなる」のです。 死は命の反対です。死者は見ることも、聞くことも、考える事もしません。体が死ぬ時、人の一部分といえども生き残ることはありません。人間は不滅の魂や不滅の霊を持っていないのです。 「生きている者は、自分が死ぬ事を知っている」 「しかし、死んだ者には’何の”意識も’無い”」 「シェオール(シェオル)、すなわちあなたが行こうとしているところ(墓)には、どんな業も企ても知識も知恵も無い」 「(人が死ぬと、)彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」 「あなたは塵(ちり)だから塵に帰る」等・・・ (伝道の書9:5,6,10)(詩篇146:4)(創世記3:19)・・ さて、スタートです。 まず「神」が最初に創造されたのは、物質宇宙でも諸元素でもなく、ご自分の「独り子」でした。もちろん人間ではなく、霊の体を持った被造物でした。「神」は、この「全創造物の初子」を他の全てのもの、つまり天にあるものと地にあるもの、「見えるものと見えないもの」を創造された時に用いました。(ヨハネ3:16、啓示3:14、コロサイ1:15-17) 「全てのものは「彼」を通して存在するようになり、「彼」を離れて存在するようになったものは一つもない」(ヨハネ1:1-4) この「神の独り子」であり「優れた働き手」でもある方が・・・・・「擬人化された知恵」、「ロゴス(言葉=代弁者)」として知られる「(後の)イエス・キリスト」のことです。(箴言8:12、22-31) 神は独り子を創造された後、その独り子を用いて天のみ使いたちを生み出した。そしてその後、物質の天と地とあらゆる元素が造られた。神はこの創造のみ業全体のおもな責任者なので、そのみ業は神によるものとみなされなす。(ヨブ38:4-7)(ネヘミヤ9:6)(詩篇136:1,5-9) そして最初の完全な人間「アダムとエバ」※正確にはイヴではない(「生きる」という意味のヘブライ語動詞ハーヤーと関連)の登場。 しかし、彼らは神の命令に不従順になった。つまり創造者である神の「権威」に不敬な態度を示した。そして罪の報いである「死」が・・・・ この人間の裏切り行為の前に、天のみ使い(目に見えない霊の被造物)の一人が反逆しました。それがサタン(ヘブライ語サーターン:抵抗者または反逆者という意)でした。この霊者が、完全な人間を欺くことに成功しました。 そしてこれ以降、最大の論争「神の主権に関する論争」が持ち上がります。 つまり「人間は創造者の神なしのほうが、もっと幸福になるか?」「また、神の支配は正当か?」「神を愛する従順なものが果たしているか?」といった問題提起です。もちろん「神」は、サタンを即座に滅ぼす事も出来たが、それではこの論争の質問だけが残ります。真の答え(解決策)にはならない。それで現在にまで至っている。 この「宇宙主権の論争」こそが聖書全巻の「テーマ」といっても過言ではありません。 ※「完全」について・・・聖書を正しく理解するには、’完全”であると言われているものは皆、「絶対的」な意味で、つまり度合いの点で無限に、限りなく完全なのだという、よくある間違った考え方をしてはいけません。そのような「絶対的な」意味での完全性は、創造者である「神」だけのものです。それゆえに、イエスはみ父について、「ただひとり、神以外には誰も善い者はいません」と言うことができました。(マルコ10:18) それで、他のどんな人格的存在もしくは事物の場合でも、その完全性は「相対的な」もので(←ココ重要)、絶対的なものではありません。(詩篇119:96比較) つまり物は、設計者もしくは製作者の定めた意図または目的、あるいはその受取人もしくは使用者の用途に応じて、あるいはそれに関連して’完全”なんです。 完全という言葉の意味そのものからして、いつ’完成”したのか、何を基準に優良とするのか、どんな必要条件が満たされねばならないか、どんな細目が不可欠かなどを決定する者がいなければなりません。 結局、創造者の「神」こそ、ご自分の義にかなった目的や関心事にしたがって、完全性を決定する最終的な権威者、基準の設定者であるといえます。しかも聖書では道徳基準も神が定めていますね。 いかんいかん!このペースではとんでもないことになりますので、さらに加速させていただきます。 そして約4000年後にイエスキリストを天から処女マリアの体内に移す。完全な人間イエスの誕生。「人間の罪の贖いの犠牲として死ぬ」という重要な任務を遂行する為。 任務完了。(3日目によみがえり、天に戻る)これにより人類に、将来の永遠の命への道が開ける。大昔のアダムとエバの状態に戻る可能性の橋をつくる。(もちろん条件付) ※神の目的は、もう一度人間が幸福に永遠に生きる事を楽しめるよう、地球全土を「楽園」にすることである。 聖書の年代計算により、「諸国民(異邦人)の時」が1914年に終わる。天で戦争が起きる。ミカエル(イエス)の勝利。大いなる龍(サタン)と配下の悪霊たちは、地上に投げ落とされる。 「・・このゆえに、天と天に住むものよ、喜べ!地と海にとっては災いである。悪魔(サタン)が自分の時の短い事を知り、大きな怒りを抱いてあなた方のところに下ったからである。」(啓示12:12) これにより「終わりの日」「主の日」に突入。「しるし」が始まっている。 そして啓示の数々の予言が成就。 ~~~~~現在~~~~ もうすぐ「全能者なる神の大いなる日の戦争」(人間の戦争ではない)が。そして、その最高潮が「ハルマゲドン」。 「彼らはわたしがYHWHであることを知らなければならなくなる」(エゼキエル38:23) (啓示の書の中で、神に任命された王「イエスキリスト」が実権を握り、裁きを執行。)サタンと配下の悪霊たちはその後「千年間」縛られる(ヘブライ語:タルタロスへ投げ込まれる)(啓示20:1-3) そして、忠実な者はその「大艱難」を生きて通過する。 このようにしてサタンの体制(世)が滅ぼされます。 さぁ、ここからです。ここからが「終末論」「千年王国」「千年統治」「裁きの日」の始まりです! イエスの天から直接統治。しかし王として天から統治するのは、イエスだけではない。それは「人類の中から買い取られた、油注がれた者たち」であって、その数144000人。(啓示4:4)(コリント第一9:25、15:53、54)(啓示6:2、14:14と比較)(ルカ22:28-30) 一方、生きて「大艱難」を通過した数え切れないほどの大群衆(他の羊)は、地を楽園に変える楽しい仕事。(啓示7:9-17)(ルカ12:32)(ヨハネ10:16) そして次のような状態・・・ 「それからわたしは新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去っており、海(反抗的な人類)はもはやない・・また神は彼らの目からすべての涙をぬぐい去ってくださり、もはや死は無く、嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである。・・・み座に座っておられる方がこう言われた・・・「事は成った!わたしはアルファでありオメガであり、始めであり終わりである・・・」(啓示21:1-6) そして千年期間中に、つまり地球上が楽園に変わる時にいよいよ「義者と不義者との復活」が始まります。 (啓示20:11,12)(使徒17:31)(ヨハネ5:22) その千年の間、イエスは「生きている者と死んだ者とを裁きます」(テモテ第二4:1)「生きている者」とは、ハルマゲドンを生きて通過する「大群衆」です。(啓示7:9-17)また使徒ヨハネは、「死んだものたちが、・・・・裁きのみ座の前に立っている」のを見ました。イエスの約束どおり、復活によって、「記念の墓の中にいる者がみな、{キリスト}の声を聞いて出てくる」のです。(ヨハネ5:28、29)(使徒24:15)では、すべての人はどんな根拠に基づいて裁かれるのでしょうか? 使徒ヨハネが見た幻によると、「数々の巻物が開かれ」、「死んだ者たちはそれらの巻物に書かれている事柄により、その行ないにしたがて裁かれ」ます。これらの巻物は人々の過去の行ないを記したもの{ではありません!}。裁きの時に注目されるのは、人々が死ぬ前に何を行なったかではありません。なぜそういえるのか? それは聖書に記されていますように、「死んだ者は自分の罪から放免されている」からです。(ローマ6:7) ですから、復活する人たちは、いわば白紙の状態でよみがえってくるのです。それで、数々の巻物には神がさらに求めておられる事柄が示されているでしょう。ハルマゲドンを生きて通過する人たちも復活してきた人たちも、永久に生きる為には神のおきてに従順でなければなりません。 そのおきてには、神がその1000年間に啓示されるご要求すべてもふくまれます。そのようなわけで、個々の人は、裁きの日の「期間中に」行なった事柄に基づいて裁かれます。 裁きの日は幾百億という人々にとって、神のご意志を学び、それに従って生きる最初の機会となります。それは、大々的な教育の業が行なわれるという意味です。 「実際、産出的な地に住むも者たちは必ず義を学びます」(イザヤ26:9) とはいっても、すべての人が進んで神のご意志に自分を合わせるわけではありません。イザヤ26:10はこう述べています。 「邪悪な者は恵みを示されることがあっても、全く義を学びません。彼は正直(せいちょく)の地で不正の行ないをし、神の卓逸性を認めません」。それら邪悪な者たちは、裁きの日の期間中に死に処され、その死は恒久的なものとなります。(イザヤ65:20) 生き残った人たちは、裁きの日の終わりまでに、完全な人間として「生き返って」いることでしょう。(啓示20:5)※この表現の意味なのです^^。(つまり大々的な教育プログラムにより完全へと引き上げられるという意味です) そのようにして、裁きの日には人類が当初(最初の人間アダムとエバ)の完全な状態に回復することになります。(コリント第一15:24-28) 人類がそのような状態になった後、「最終的な試み」があります。サタンが獄(ひとや)から解かれ、最後に一度だけ人類を惑わすことが許されます。(啓示20:3,7-10) サタンに抵抗する人たちは、「義なる者たちは地を所有し、そこに永久に住むであろう」という聖書の約束の完全どおりになります。(詩篇37:29) 以上が聖書の基本的教義の一部です。特に終末論は、このような意味です。本当はヘブライ語の字義通りに解釈を進めたかったのですが・・・。 こんな程度でどうかお許し下さいませ。
お礼
お礼遅れまして大変申し訳ありませんでした!!リセットされてしまったにも関わらず、再度素晴らしい回答を早速よせて頂きありがとうございます。私の質問のためにお手間とらせてしまい申し訳ありません。 回答を読ませて頂くのに「そうだ聖書を借りてこよう!」と思い立ち、(と言ってもフツウの聖書ですが)あれやこれや時間がかかってしまいました。 全体を通して本当に分かりやすくその上色々と問題提示して頂いて勉強させて頂きました!もう感動であります!一人で読んでいたらここまで理解するまでに(そもそも無理)死んでいたと思われます(笑)全文深々と納得させて頂いたのですがずうずうしくもご質問してよろしいでしょうか? (1) まず完全ということなのですが、この完全というのは父なる神のみを指すのであって、「イエス」すらも完全ではないということなのでしょうか? >つまり物は、設計者もしくは製作者の定めた意図または目的、あるいはその受取人もしくは使用者の用途に応じて、あるいはそれに関連して’完全”なんです そして↑に書いて頂いたことなのですが 設計者もしくは製作者=神 受取人もしくは使用者=人 と考え、「完全」「絶対」の概念をこの世に投射した時の完全というものの定義 という理解でよろしいのでしょうか!? ※お礼が長くなりましたので前のsatotan様の回答NO4の補足に続きを投稿させて頂きます
補足
お忙しい中、大変ご丁寧なご回答をどうも有難うございます!!! まだ全文読めておらず、理解が浅いものですからにじり寄り(!?)ながら読んでおりますので、取り急ぎお礼の方だけさせて頂きました。 少し時間がかかりそうなのですが、きちんと読ませて頂いてから後日、再度お礼申し上げたいと思います。ご無礼お許し下さい。
- satotan111
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blueduciel様、誠実な心のこもったお礼文を拝見させていただき恐縮です。あなた様のご意見で「あぁ、そういう事でしたか!」と理解を新たに致しました。 当初私は確かに、blueduciel様の動機(本心)を疑いの目で見ておりました。「誠に申し訳ございませんでした。お許し下さいませ。」 今まで「教えてgoo」にも、数多くの質疑応答がありました。 >普段から教義に関する質疑応答を見ていると信者の方それぞれに、生死観だけでもそれぞれに異なった解釈、信仰を持っておられることがわかります。 いえ、全くblueduciel様のおっしゃるとおりです! 同じ聖書を学ぶ者同士のはずなのに、教義自体も、理解なども、様々です。まさに分裂しています。同じカトリックなのに・・・世界中でその中では派閥まであり、考え自体もいろいろです。プロテスタントにしてみても学んでいる信徒たちの考え方、理解は様々です。 それはおわかりいただけるかと存じますが・・・NO.2の回答が大きく関わっているからなのです。 そしてそのような聖書を使っているならば、どうして論理的にも道義的にも、首尾一貫した原文そのままの忠実で正確な「教義」だと、胸を張っていえるのでしょうか? 今回は「地獄」というキーワードに焦点を当ててみましたが、何も間違っている翻訳文字は、この「地獄」だけでは決してありません。 ましてや「教職者」と呼ばれる、教義を人々に説いている者自身ですら「聖書」の首尾一貫した教えを理解出来ていないのは周知のことです。 ましてや「正典」と相反する教えや考えを含む「外典」を諸教会は取り入れてしまっています。(もちろん全ての宗派というわけではありませんが。) これでは混乱していても何ら不思議ではありません。 ところが、少なくとも私が知る限りでは「1つ」だけが、ほとんど正確、忠実な翻訳の聖書を使用しているグループがあります。それが「エホ証」(略w)なんです。 (補足)※これはお話しますと長くなりますので超簡潔にさせて下さい。 ほとんどと言いますのは・・・神の名前に関するテトラグラマトンと呼ばれる「四文字語」の事です。これはヘブライ語の「四つの子音字」の形で、最古のヘブライ語写本に出てきます。英語の「YHWH」もしくは「JHVH」という形に翻字できるでしょう。 問題は、どの「母音」をそれらの子音字と組み合わせるべきかということなんですが・・・ こういった点や、これに類する点あたりです。 すみません、話しを少し戻しますが・・・・ 教義が首尾一貫していて、尚且つ、論理的で世界中で見解が一致しているのは、彼らだけだと思われます。もちろんその考えの出所は「新世界訳」なのですが、聖書全巻に矛盾も混乱もありません。確かに、矛盾のように「感じる」箇所は幾つかあります。 しかしそれは、「当時の背景」、「前後の文脈の関係」、「実際そのままの意味ではなく、比喩的な意味」、「他の書(正典)での補足説明」などで理解できます。 この部分を叩いてくる方々の多くは、「聖書全巻を読んで、その「つながり」を把握していない」、「部分部分だけ言葉を拾い読みする(類似)」などが主です。 >この質問の仕方は邪道でしたでしょうか???そのように受け取られましたらすみません(;;) いえいえ、大丈夫ですよw。私の方が慎重になりすぎただけでございますので、blueduciel様は全然悪うございません! >昨日wikiで終末論に関することを読んでたんです。 そうでしたか・・・wikiだけ読まれましても難しいかもしれませんねw。 もしよろしければ、私がもっともっと簡潔ではありますが、聖書原文(もしくは新世界訳)からの「終末論」について、ご説明させてもらってもよろしいでしょうか???(分かりやすくがんばって見ますから) >支離滅裂な質問ですみませんでした。 とととと、とんでもありません。聖書を読まずに、これほどまでご理解あるならば、すごいですよ!驚きです。 大変ありがとうございました。
お礼
こんにちわ。satotan111様、 お暑い中 再・再度のご回答有難うございます 。 (^-^)_旦~~ >ところが、少なくとも私が知る限りでは「1つ」だけが、ほとんど正確、忠実な翻訳の聖書を使用しているグループがあります。それが「エホ証」(略w)なんです なるほど!知りませんでした。エホバの証人の方々はそういう教義をお持ちだったのですね、大変興味ひかれます!! >私がもっともっと簡潔ではありますが、聖書原文(もしくは新世界訳)からの「終末論」について、ご説明させてもらってもよろしいでしょうか? ホントですか!??私などに説明して頂くのはもったないような・・ ではお言葉に甘えて!よろしくお願いします!私も頑張ってついてまいりますっ!o(*▼▼*)o
補足
※NO5のご回答に対するお礼の続きをこちらに寄せさせて頂きます。 >その教えは明快です。つまり「人は死ぬと存在しなくなる」のです 死ぬものはどうしても死ぬのであるということ大変勉強になりました。それが記されていると知った上でコリント信徒への手紙「死者の復活」を読むと、死者が生き返るとか死なないとか書いてあるけれども、これを信仰として死なないとか(satotan111様がカトリック風解釈と仰っていたのはこのこと?)いうことであるよりも、リアルに千年王国期間内での「義者と不義者との復活」のことを示唆して書かれているととらえてよいのでしょうか? さらにヨハネ黙示録20:4-5で「はっ!」と思うところがあります 「この者たちはあの獣もその像も拝まず額や手に刻印を受けなかった。彼らは生き返ってキリストと共に千年の間統治した。その他の死者は千年たつまで生き返らなかった・・ 」これは、千年期間中 生き返る死者と生き返らない死者という振り分けもあるということでしょうか??(→すべての死者が生き返る訳ではない??) お礼が長くなってすみません。色々と質問してしまったのですが、簡単にでもお答えくださると大変嬉しいなぁと思います でももう十分に色々と教えて頂いて本当に感謝しておりますのでこのままでも結構です! ほんとうにありがとうございました
- satotan111
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NO.2の者です。 お返事ありがとうございました。 誠実にお知りになりたいだけなのですね・・わかりました。 それでは少しだけ・・・。 ・まず、「外典」についてですが・・いわゆる「偽物」というものです。(簡単にご説明いたします) 「トビト書」「ユディト書」「(ソロモンの)知恵」「集会の書」「バルク書」「マカベア第一書」「マカベア第二書」「エステル記への追加」「三人の聖なる子たちの歌」「スザンナと長老たち」「ベルと龍の滅び」です。 これらが厳密にいつごろ書かれたかは定かではありませんが、西暦前2ないし3世紀以前ではあり得ないことを証拠は示しています。 もちろんこれらの書物はある程度、歴史的価値を有する場合もありますが正典性の主張には何ら確たる根拠はありません。 証拠の示す点として、ヘブライ語の正典は西暦前5世紀に、エズラ記、ネヘミヤ記、マラキ書が書かれて完結しました。 (他にもたくさん「正典でない(外的)(内的)証拠」はありますが長いので割愛します。) 要するに・・・blueduciel様がおっしゃる「千年王国の終末論」ですが・・・もしかしてカトリック系か何かの解釈になっております。そして、それは正典の首尾一貫した考えに反するものなのです。 特に、その一つが「地獄」という教えです。 この「地獄」という間違った翻訳を、シンプル?にご説明いたします。 「地獄」(Hell)という語は、ジェームズ王欽定訳(およびカトリックのドウェー訳、また大多数の古い翻訳)の中で、ヘブライ語シェオールおよびギリシャ語ハーイデースの訳として用いられています。 ジェームズ王欽定訳で、「地獄」はシェオールの訳として31回、 ハーイデースの訳として10回出てきます。 しかし、この翻訳は一貫しているわけではありません。シェオールという語がさらに31回は「墓{grave}」,3回は「坑(あな){pit}」とも訳されているからです。ドウェー訳の中でシェオールは、63回は「地獄」、1回は「坑」、あとの1回は「死{death}」と訳されています。 1885年、英国改正訳の完訳出版に伴い、原語のシェオールが、ヘブライ語聖書の英語本文のかなりの箇所でそのまま音訳されました。といいましても、大半の箇所で「墓」や「坑」が用いられ、「地獄」という語も14回ほど出てきます。 この点アメリカ訳の委員会は、英国の聖書改訳者たちと意見を「異」にし、アメリカ標準訳(1901年)を刊行した際には、シェオールの出てくる65ヶ所すべてそのまま音訳しました。 クリスチャン・ギリシャ語聖書に出てくる「ハーイデース」については、どちらの翻訳も、10回すべてをそのまま音訳しましたが、どちらの訳ともギリシャ語のゲエンナ(英語:Gehenna)のほうをすべて「地獄」とし、この点、他の多くの現代訳と同じになってしまってます。 また、ヘブライ語とギリシャ語のこれらの原語の訳語として、「地獄」という語を用いることに関し、「バインの旧新約聖書用語解説辞典」の中でもはっきりと次のように書かれています。 「「ハデス」・・・・・・・・これは旧約聖書の「シェオル」に相当する。欽定訳の旧約聖書および新約聖書で、この語は残念な事に「地獄」と訳されている。」(1981年、第2巻、187ページ) また、コリアの百科事典にもわかりやすい注解がありましたので参照いたします。 そこには「地獄」に関してこう述べています。 「まず第一に、これは旧約聖書のヘブライ語「シェオル」、およびセプトゥアギンタ訳や新約聖書のギリシャ語「ハデス」を表わしている。旧約聖書時代の「シェオル」は単に死者の住まいを指しており、道徳上の区別を全く示唆していなかったのであるから、今日理解されているような意味での「地獄」という語は満足のゆく翻訳ではない」。 実際、今日理解されている「地獄」の意味ゆえに、この語は上記の聖書原語の訳語としては、非常に不満足なものとなっています。 「ウェブスター新国際辞典 第3版」、大型版は・・・・・・・・・・’Hell”(ヘル)の項で、「「隠す」という意味のhelan(ヘラン)から派生」と記しています。 したがって、英語の’hell”(地獄)という語に、本来、熱さや責め苦の概念は無く、単に「覆われた」あるいは「隠された場所」という考えを持っていたにすぎません! 古い英語の表現に’helling potatoes”(へリング ポテイト-ズ)という表現がありますが、それは、ジャガイモを単に地中か地下室に入れるという意味でした。 今日、英語の’hell”に付された意味は、ダンテの「神曲」やミルトンの「失楽園」で描写されているようなものですよね。しかしそれは、この語の本来の定義とは全く異質です。 とはいいましても、(補足ですが)火の燃える責め苦としての「地獄」という概念はどこからきたのでしょうか? それは、ダンテやミルトンよりもはるか昔にさかのぼります。その古い時代から、ヒンズー教徒や仏教徒は地獄を霊的に清め、また最終的な救済の場所とみなしています。イスラム教の伝統では、それは永遠の処罰の場所と考えられています。 詳しい証拠はグロリア・ユニバーサル百科事典(1971年、第9巻、hellの項目をお調べいただけましたら、ご理解いただけます) 死後の苦しみという考えは、バビロンやエジプトの古代諸民族の異教の教えの中に見出されます。 バビロニア人やアッシリア人の信条によりますと、「冥界は・・・・・恐怖に満ちた場所・・・・・強大な力を持つ、どう猛な神々や悪霊によって支配される所でした。」 古代エジプトの宗教文書は、犠牲者が永久に火で焼かれるとは教えていませんが、「他界」の特徴を「永遠の罪に定められた者」の「火の坑」と描写しています。 「地獄の火」は何世紀にもわたってキリスト教世界の基本的な教えとなってきました。ですから、アメリカーナ百科事典(1956年、第14巻、81ページ)が次のように述べているのにも当を得ています! 「聖書の初期の翻訳者たちがヘブライ語の「シェオル」とギリシャ語の「ハデス」や「ゲヘナ」を繰り返し地獄と訳したために、多大の混乱と誤解を招いてきた。 聖書の改訂版の翻訳者たちは、これらの言葉をただ翻字してきたが、それだけでは、こうした混乱や思い違いをそれと分かる程度に除去するにはなお不十分である。」 しかし、そのような翻字およびそれが一貫してなされることにより、私達のような聖書の研究者は、これらの原語の出てくる本文を正確に比べることが、物事を素直に、正直に受け入れる気持ちがあれば、その真の意味を正しく理解する事が出来るのです。ご理解いただけましたでしょうか? 結論としまして・・・「聖書には確かに「ハデス」「シェオル」という語が出てきますが、ことギリシャ語聖書(新約聖書)において「地獄」という一般化された意味合いを持たないという事です。(古代異教から派生)」 ちなみに私は現在「エホバの証人」ではありません!しかし彼らの聖書の知識はすごいものがあります。中にはヘブライ語を理解し原文を読むものまで少数ですが、いました。 彼らにお聞きになれば、何でも答えてくれますよ。但し、彼らはこのような「聖書に関する議論」や「哲学」を本来、確実に避けます。 ですから様々なネットであろうが、教えてgoo内で誹謗、中傷されようが出てこないのです。書かれるなら書かれるままにするのです。 私は別に彼らをかばっているわけではありません。そこのところ誤解のありませんようにお願いいたします。 >信仰において大事であるはずのあの世の概念、人間的な発想から言って大事であるはずの(最後の)審判に関する事が 案外曖昧なのだなぁと思って少しびっくりです 彼らほとんど全て(中には例外もw)が、「最後の審判」についても、その他の聖書に関わるものであれば、詳細にかつ正確で、首尾一貫した答えを知っております。 blueduciel様は熱心なのですね。あなた様の現在の「正直な」ご感想をお聞きしてみたいですw。 ありがとうございました。
お礼
再度ご親切なご回答有難うございます、わたしの質問にはもったいないご丁寧な回答を嬉しく思います。 まず外典についての補足ありがとうございますm(_)m。このことについてお尋ねさせて頂いたのは、始めの回答に >全ての巻が首尾一貫して非常に論理的であり、道義的でありまとまった考えの筈です。 もちろん「正典」の事です。分裂を起こすような「外典」は不要です と、<<分裂を起こすような「外典」>>についてあらかじめ強調なさっていたので、私が質問しているようなこと(千年王国についての概念)を、分裂を起こすような教えとして外典との関わりを指摘しておられるのかな??と思って質問したのです。でもそういう意味での引用ではなかったのですね、外典について知らなかったので勉強になりました。 >千年王国の終末論」ですが・・・もしかしてカトリック系か何かの解釈になっております。そして、それは正典の首尾一貫した考えに反するものなのです 私が書いたような終末論の解釈をするのはカトリックなのですね。終わりのラッパが鳴ると 死者が甦り わたしたちは変えられる・・というフレーズが印象的でした。共通する教義だと思っていたのです。 そして 地獄に関する記述・・大変勉強になりました、どういう経緯で今日の地獄というものができたのかよくわかりました、助かりました。 おそらくsatotan111様は信者でもないのに本当に何か知りたいのか?真面目に質問してるんだろうか?と思っておられるのではないでしょうか?そうでしたら申し訳ありません。教義が一貫していないだろういう風に予想してたわけではないのです。 普段から教義に関する質疑応答を見ていると信者の方それぞれに、生死観だけでもそれぞれに異なった解釈、信仰を持っておられることがわかります。これは決して中傷ではありません、、、というのは、それぞれの方の信仰の持ち方という部分に、私が勝手に興味を持っていて、さらに、千年王国や最後の審判に関することは、解釈がもっと複雑だろうなと思えたので、その時、その複雑な解釈の中から(「地獄」だけをとっても)、普通のクリスチャンの方が ご自分のための 信仰として、終末論、最後の審判ということをどうとらえて(解釈)おられるのだろうか。そのことに興味を持ったところから疑問に思い質問させて頂いたのでした。
補足
お礼が長くなったのでこちらに付け加えます(お礼の続きです この質問の仕方は邪道でしたでしょうか???そのように受け取られましたらすみません(;;) 自分でも卑屈な質問の仕方かなと感じているところはありましたが・・>あなた様の現在の「正直な」ご感想をお聞きしてみたいですw 今回地獄という解釈の間違いを教えて頂きました。 信仰者→永遠の命となる →最後の審判→何が起こるのか?(強化された命??)なぜ安らかなままではいけないの?と悶々としていたわけなのですが 昨日wikiで終末論に関することを読んでたんです。 キリスト教の救助に関する歴史観について↓ ただし、ここで言うキリスト教とは“一般に言われる、俗世間の”という但し書きのあるものである。新約聖書学などの研究で明確になってきたところでは、実際のイエスの教えでは「既に神の支配が始まっている=神の国が実現されつつある=終末が来ている」という認識であり・・ とあるのを読んで、そもそも私が終末論について勝手な想像を膨らましていたことがわかり納得しました(。_。*)))) 終末の時が来て審判があって何が起こって・・ってそんなトントン・・な物語的な予想をしていたんですね 大変勉強になりました。二度にわたりありがとうございました。もうちい勉強してきますッ!!C= C= ┏( >_<)┛ 支離滅裂な質問ですみませんでした。貴重なお時間の中、二度にわたり支離滅裂な質問にお付き合い頂きありがとうございます
- satotan111
- ベストアンサー率17% (57/326)
どうしようか?お答えしようか?と迷っている元クリスチャンです。 聖書写本のヘブライ語ギリシャ語などを正確に研究していた者です。 しかも世間一般では異端と呼ばれる元「エホバの証人」です。「今は全く違いますが・・・」 現在、いろいろな聖書訳が出回っていますね。大元のたくさんの写本と比較してみたり、定冠詞一つで大きく意味が変わってきたり、また前後の文脈、テーマ、当時の習慣、当時の考え方などからより忠実に正確な訳へと変換させる事が出来ます。 いかんせん、新世界訳が「まだ」「現在のところ」一番正確な翻訳との結論です。 また、「聖書全巻」の著者は誰でしょうか?その著者は「混乱」「分裂」「無秩序」とは無縁の筈です。 「聖書全巻」にも秩序だった考えがあり、全ての巻が首尾一貫して非常に論理的であり、道義的でありまとまった考えの筈です。 もちろん「正典」の事です。分裂を起こすような「外典」は不要です。 (あとは省略いたします。) このご質問を読みまして、根本的に「地獄」という考えに?です。 私は真面目にお答えしましたが、もし失礼に聞こえましたら、どうかお許し下さいませ。
お礼
専門家の方のご回答どうも有難うございます。 >また、「聖書全巻」の著者は誰でしょうか?その著者は「混乱」「分裂」「無秩序」とは無縁の筈です。 「聖書全巻」にも秩序だった考えがあり、全ての巻が首尾一貫して非常に論理的であり、道義的でありまとまった考えの筈です。 もちろん「正典」の事です。分裂を起こすような「外典」は不要です ここでおっしゃっている外典のことなのですが、どのようなものを指してらっしゃいますか?私クリスチャンでもなく聖書を読んだ事があるわけでもないのですが それとは別にこの問題(千年王国)に興味持ったものですから、的外れな質問かもしれませんが・・ >根本的に「地獄」という考えに? そうなんですかぁーーーー・・でも、地獄という概念は正典に記されていますよね? カテ違いで回答が集まらなかっただけかもしれませんが信仰において大事であるはずのあの世の概念、人間的な発想から言って大事であるはずの(最後の)審判に関する事が 案外曖昧なのだなぁと思って少しびっくりです
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B9%B4%E7%8E%8B%E5%9B%BD 千年王国をご自分はどう信じるのかが重要です 明確な証明を人間ができるはずがないのですから。 次元が異なる世界をきっちりつじつまを合わせようとする事に無理があるのかもしれません 自然体で直感的に信じるのもいいですね
補足
早速のご回答ありがとうございます、ですが、わたしは信者ではないのです、ですから千年王国の論理的辻褄というか、その物語性を理解したいと思い今回質問させていただいた次第です。信者の方は、その辺の辻褄はあっていなくてもよいのでしょうか、私見では信仰によって天国へいける証というのは信者の方にとって重要なことであるはずです、ですから、千年王国ということだって、重要な問題であるはずだと想像しておりました。
お礼
satotan111様、お返事遅れて申し訳ありませんでしたm(_)m 度重なるご丁寧なご回答有難うございます!!手取り足取り教えて頂いて・・ ばっちりよく分かりましたです!相対的な完全性・・自由意志の問題・・・satotan111様に色々ご教授して頂いて聖書への興味が深まったように思います。 一度ちゃんと読ようと思います・・ 千年王国と死者に関することももまた大変勉強になりました。 >それ以前に聖書中に出てくる数々の忠実だった人たち・・例えば・・・アベル・・ノア・・・アブラハム・・・・モーセ・・ダビデ・・ダニエル・・などなどは、ハルマゲドン後の楽園となった「地上での復活」となります。はるか大多数が地上での復活です 特にこいった部分↑など 目からウロコ?!でした。ほんとうにきちんと筋道が立っているんですねぇ 度重なるご親切なご回答に感謝申しあげます!新しい聖書の読み方を教えて頂きました。 今後とも理解を深めてまいりたいと思います!!