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自性清浄心と聖なる甘え
- 質問文章は、「自性清浄心」や「聖なる甘え」についての議論をしています。
- 自性清浄心とは、生まれつき清浄な心を指し、仏典では心の清浄さを重視しています。
- また、「聖なる甘え」は、特別な修行を必要とせずに得られるものであり、思考を停止し自由な状態になることを意味しています。
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こんばんは。 ☆☆☆ ○その深さにおいてよい意味でも そしてひとに伝わり難いことにおいてわるい意味でも 《唯我独尊》ということなのでしょうか? そうでしょうね。 仏教は、世俗から一歩引いたところから物を見ますから。悪く言えば、上から目線でものを見て、考える。これは《慈悲》という言葉に象徴されるかと思います。《慈悲》とは純化された《憐れみ》。上から目線。対等な関係から生まれるものではありません。キリスト教の《隣人愛》とは決定的に異なる。 また《阿羅漢》は、四つほど意味があるとされますが、尊敬に値する人の意味です。出家と在家には対等な関係は存在しません。 色々な意味で仏教には《唯我独尊》的な要素があると思います。 教えについては、ヨーガに基づいた知的・哲学主義。ヨーガが教えの源泉だから、普遍性は持ちえない。さらに、仏教には言葉軽視の姿勢がある。人には伝わりにくい。それが分からないと《おまえは迷妄にとらわれている》と切り捨てられてしまう。 いろんな意味で仏教は《唯我独尊》だと思います。 ☆☆☆ ○人間の範疇に入らない女が ブッダの発言を聞いたあと どういうことを仕出かすか? これについて 必要なかぎりで考慮しておいてよいはずだ。です 正直、ブッダが向かう先は、《お利口で善い子》のサーマーワティーではなく、《おバカで悪い子》のマーガンディヤだったと思います。 それは、ブッダが発したとされる彼女への迂闊な発言が悲劇を巻き起こすことになるからではなく、救われない魂の救済という面からでもあり、僕の人間的な感情からです。 でも、ブッダは《お利口で善い子ちゃん》に向かってしまう。キリストは《おバカで悪い子》の方に向かう。ここに(実在のブッダの)仏教とキリスト教の決定的な差がある。埋めがたい溝があると考えます。 この事件は実在の事件ではなく、この仏伝は《ダンマパダ》の 《つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励むの人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである》 を物語にして分かりやすく伝えようとしたものだと考えますが、 この物語がすでに、 仏教は《お利口で善い子ちゃん》のための宗教であるという一面をよくあらわしていると思います。 もしかりに、《仏教の教え》はみずから求めなければ与えられないということを仏教の求法システムとよぶとすれば、 《無明》《自業自得》《仏教の求法システム》を頭に刷り込まれた仏教の《善男善女》(かなり皮肉を込めています)は、何の疑いを持つこともなく、この話をすんなりと受け入れてしまう。 サーマーワティーの悲劇に涙し、マーガンディヤを「悪い奴だ。許せない」と憎むことでしょう。 そのことに何の疑いも持たない。 この仏伝の製作者もそうでしょう。瀬戸内寂聴の言葉を見るかぎり、彼女も「ブッダはマーガンディヤをなぜ救わなかったのか?」という疑問を感じていないようです。だからでしょう、《彼女には何の生命がなかった》みたいな酷い言葉を口にできるのは。 《阿呆で悪い子》の僕は、この言葉に「むっ」としました。かなり「切れ」ました。寂聴のこの言葉に、「それでは救いがない」と思いました。 ○女は人間ではないから ブッダはおのれの実存のあり方として直接に向き合って話をする必要はなかったとしても 間接的にブッダの発言が女に伝えられるわけですから その結果 どういう影響が出るか? これについては ひととおりのことをブッダは考えておいてもおかしくはない。むしろ ふつうのことです。 いやいや、「女は人間ではないから、ブッダがマーガンディヤに直接向き合って話をしなかった」というわけではないんですよ。 ブッダとて当時の女性蔑視の風潮から完全には脱却していない、その意味で、ブッダの《ブッダの教え》には限界があるというのが趣旨です。 女性を人間とみなさい当時のバラモン教支配の社会では、ありえないほど、ブッダは女性に優しいんですよ。 身分の賤しい女性が救いを求めにやってくれば、なんら差別をすることなく、理解力に応じて教えを説く。在家の妻帯男性信者には、「妻を敬え、尊敬しろ。装飾品を与えよ。大切にしなさい」と説く。女性出家信者も認める。これらは当時では信じられないほど、画期的なことなんですよ。 でも、みずから救いを、教えを求めなければ、わざわざこちらから出向いて教えを説くようなことはしない。 そこに出家宗教である仏教の限界があるという意味です。その意味で、インド社会、時代を超越した思想にはなっていないという意味です。 やっぱり、上から目線なんですよ、仏教は。庶民階級から生まれた、弾圧を何度も受けた原始キリスト教、イスラームとは違うんですよ。《お利口さん、善い子のための宗教》なんですよ。お行儀のいい人向けの宗教なんですよ、仏教は。大乗の般若経なんかにも、《悪い人に交わるな》みたいなことを書いていますし…。真宗の人は、うちは違うぞ、と、ほくそ笑むかもしれませんが。 ○事件の後追いをするだけになり つねに超然的な態度を取っているというのは 普遍性に欠けましょう。つまり 理論においては普遍性を問い求めているが 生活世界においては偏頗な態度が見られるのではないか。こういう問題だと見ます。 ブッダの教法姿勢は、ご指摘の通り、普遍性をもちえていない、と考えます。 当時のインド社会というごく狭い枠の中でしか成立しえないものだからです。 そのインドの中でにおいてさえ、イスラム勢力が侵入して社会が混乱し、出家集団をささえる在家集団のシステムが瓦解すると、仏教は簡単に消滅してしまいますから。 仏教の教法システムは、真の意味での普遍宗教のそれにはなりえなかったということの証明ではないでしょうか。 ○つまりは 執念深い《男》が 何かの発言を聞いて 理解しえず 変に仕返しをするようになるといった影響をも及ぼしかねない問題だとすれば 女の場合に限らないとなりますから 言っておく必要はありましょう。 史実ではないと考えられますが、あるんですよ、こういう仏伝。 以前、ご紹介した《ウッパラ=ヴァンナー》の話。 真正の聖女と言ってよいウッパラ=ヴァンナーが、ブッダの留守中にブッダの居室に入ろうとするデーヴァダッタの姿を見かける。で、「ブッダに非礼だ」と注意する。デーヴァダッタは、このことを恨みに思い、ある出来事をきっかけに、彼女の頭を叩き割って殺してしまう。 この話を使って、ダンマパダの一節を説明してくれれば、すべたが丸くおさまるのですけれど…。むしろ、この話しの方がふさわしいですから。 仏伝の製作者の頭に「女、馬鹿だし、嫉妬深いし…」みたいな根強い当時の女性蔑視の考え方があったのではと。 実在のブッダがそんなことを考えていたと言うのではありません。ブッダのおばさんで、育ての親であるゴータミーの出家を許す前に、 「アーナンダよ、その場合、女性とはいえ、さとりに達することができよう」 と言って、出家を許していますので。 でも「女性とはいえ」なのです。ブッダにしても根強い女性蔑視の考えがあったことだけはうかがえます。 ☆☆☆ ☆ ただし聖書では たぶん《香り》としてでも 何がしか引導を渡すかのごとく 納得させることを伴なうのではないかとは思います。 これも 理論化はむつかしいと思いますので 印象を述べてまた感想として 次のような主題を引き出してくるだけのことになるかと思います。 (あ) ほろびる者にも ほろびることに納得を得させることは 大事ではないか? の問題。 《香り》ですか… The Story によると、 マーガンディヤの悪だくみで王殺人未遂の嫌疑を掛けられたサーマーワティーに、王の放った矢があたらなかった…。 これは《神明裁判》の一種でしょうから、《香り》には十分だと考えますが… この時点で、彼女は「王の放った矢が実は自分に向けられたものである。それは紛れもなく、破滅への《香り》だ」と気づくべきだったのでは。 そうでなくても、何か変だと思い、普通、その意味を考えようとするのではないでしょうか。 でも、相手は《おバカ》なマーガンディヤですから、 ブッダが直接、マーガンディヤのもとに行き、教え諭す必要があったと考えられます。 でも、ブッダの話を聞く耳を持っていたかどうか。それ以前に彼女が会おうとするかどうか… なんとも微妙です。 ☆☆☆ 言葉による説得では無理なので、この《矢》をもって、彼女に教え諭そうとした。フォローした、 ということで、駄目でしょうか。
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- vasco
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そして鬼塚勝也の再評価が始まる…。
お礼
ヰキぺで鬼塚について見てみましたが よく分かりません。
- NemurinekoNya
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○ マーガンディヤー本人になぜ語らなかったのか? かのじょからの直接の求婚ではなかったからでしょうか? わたしの寡聞の知識によりますと、 当時のバラモン階級は、 血統主義・純血主義(特に父系) 強大な父権をもつ父権主義(アーリア民族の伝統) 徹底的な男尊女卑 でございます。 江戸時代の支配階級であった武家の価値観をさらに徹底したイメージです。 言葉は悪いですけれど、古代インド社会では、女は人間の範疇に入っていません。 家父長が「あそこに嫁に行け」と言えば、その娘は自身の意志にかかわらず絶対服従しなければなりません。 なので、当時の常識・慣習にしたがったまでで、マーガンディヤの娘に求婚の断りを述べる必要がなかったということになりましょうか。 現代の価値観をこの時代に押しはめて考えるのは危険だと考えます。 ◆〔マーガンディヤーの〕父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。 たいして重要な問題ではないのですが、ちょっと気にかかったもので。 仏伝に何と書いてあろうが、ブッダの《婿入り》はありえないと考えます。 先に紹介した通り、バラモン階級は、(父系の)血統・純潔を非常に重視します。 《クシャトリア》階級出身とはいえ、非アーリア系のブッダを(跡取り息子として)養子に迎えるなど、絶対にありえない。考えられない。 他のカースト(有力なクシャトリア、たぶん富裕なヴァイシャも)への嫁入りは別です。女(息子を産んだ母親は違います。母親の力は強いです)は人間扱い、人間である男と同等扱いされていませんでしたから。現に、この仏伝では、マーガンディヤの娘は、王のもとに嫁いでいることになっていますから。 当時のインド社会の強い女性蔑視の風潮は、仏伝の中にも見ることができます。たとえば、アーナンダがブッダに「どうして女性は集会や外の社会的仕事に参加できないのか?」と質問した時、ブッダは 「女は、怒りやすい、嫉妬深い、物惜しみする、馬鹿なんだ」 みたいに答えているくらいですから(僕が言ったんじゃないですよ、ブッダが言ったんです)。 要するに、実在したブッダは、この当時の女性蔑視の考え方を脱却していません。 女には《五障》がある。女は絶対に「悟れない」なんて書いてある仏伝もあり、女性の出家、ブッダの育ての親でさえ、なかなか出家を認めなかったくらいですので。 (女は悟れないという考え方は、のちに、一度男に生まれ変われば成仏できると修正される) ☆☆☆ ★ ルール2 ブッダはかならず真実を言う ☆ というその真実を なぜ間接的に聞えよがしに語ったのか? なぜそれだけで済ませたのか? それはそれで両親に対する語りとしてならよいとして なぜそれだけで済ませたのか? 仏教の教えは、その人の理解能力(機根)によって、誤って解釈、理解されてしまう。 現に、この話が載っている仏伝には、このブッダの話を聞いて、両親は出家したとされています。 なのに《マーガンディヤの娘》は出家しなかった。 三人の前でひとしく説いたけれど、《マーガンディヤの娘》がおバカ・阿呆だったから、《教え》を誤解したということになりましょうか。 説くだけ、無駄、無駄。無駄どころか、更なる重大な過ちを犯し輪廻の業を作るので、彼女にはこれ以上は説かなかった… マーガンディヤの娘は、ブッダ(の教え)に接したばかりに自滅した… この説法のためらいの姿勢、あるんですよ、仏教には。 悟りを得たブッダのもとに梵天がやってきて、法を説いてくれるように懇願しますよね(梵天勧請)。 有名な法華経方便品にも同じような話がある。 どうせ説いても、おバカな神々や人間には分かってもらえないし、誤解されて、さらなる輪廻の(宿)業を作るだけさ。ならば、説かないのが世のため人のため、説くのやめちゃおうって姿勢。 小乗・大乗、通じてこの姿勢がどこかにある。密教では、さらに拍車がかかる。 法華経では、サーリプトラが三度懇願して、《おまえがそこまで言うのならば》とようやく、法華経を説きはじめる。 で、この教えを聞いた仏弟子のなかには、《こんなの信じられない》と席を立ってしまう者が出る。 さすがに、《衆生済度》《利他即自利》を建前とする大乗なので、これではいかんということで、立ち去った仏弟子たちに、ブッダは幻の人間を遣わし、その過ちを気づかせるんですけれども、どこか貴族主義というか、高踏主義というか、そういうものが仏教には色濃くある。(世俗の)宗教としての限界がある。 仏教教典、特に実在のブッダが説いたとされる経典には、《教え》を真剣に追い求める気がないのなら、わざわざこっちから教えなくっていいさ、という消極的な一面が見え隠れする。 でも、ブッダに《教え》や《救い》を真剣に求めるならば、その人の理解能力に応じて、教えを言葉という形だけではなく、その人の実践を通じて理解できるように分かりやすく説く(対機応法)。 仏教は《自力救済》が原則だから、当たり前といえば当たり前なんですけれど、どこか人情味が薄い、人に冷淡、人を突き放したところが、仏教にはある。これは事実だと思います。 今の日本のお寺さんや東南アジアの上座部仏教のお坊さんにも、世のため人のために、進んで《ブッダの教え》を説こうという姿勢は、あまり見られませんし… 出家主義の仏教という宗教の特質が、ここに現われているのではと… ○すなわち いまの話の設定にもとづくかぎりでは ブッダは このマーガンディヤーなる人間と相い対する《実存》のかたちとしては 阿呆です。 マーガンディヤーが阿呆だったから そのように振る舞ったのでしょうか? bragelonneさんのおっしゃる通り、この仏伝に見られるブッダは、その意味で人に非常に冷たい、冷淡、酷薄です。人情の機微を理解しようともしない。人情の機微を理解する力があるかどうかも不明です。人間的感情があるかどうかさえ不明です。 なので、ブッダは世間的に《阿呆》呼ばわれされても仕方ありません。 世間的に言えば、はっきり言って《阿呆》です。 ☆☆☆ 仏教の閉じた体系の中では、《無明》という最強アイテムで、何でも片付けてしまいます。 《ほとけの教え》を聞き、理解できないのも、誤解するのも《無明》故。その誤解に基づき、諸悪を重ねるのも《無明》故。それで破滅するのも《無明》故。真理が見えないのも《無明》故。輪廻するのも、《無明》故。悟れないのも《無明》故… 何でも仏教は《無明》で片付てしまう。 そして、最後は 《これ、分からないんだ。おバカな奴》 《それは、おまえが無明の闇に包まれているから、この有難い教説が理解できないのだ》 と最終兵器を使いますから。 なので、この物語に登場するブッダを《阿呆》呼ばわりする、bragelonneさんと僕は、ともども、 仏教的には、深い《無明》の闇に包まれた、どうしようもない《阿呆》ということになります。 仏教とは、そういう教義・論理体系なんです、はい。 説明に困ると、すぐに《不可説》、《不可思議》、凡夫にはうかがい知ることができない深遠な境地、《唯仏与仏》ただ仏と仏にしか分からない、などなどの言葉をつかってお茶を濁します。 罰当たりなわたしなどは、「ならば、最初から、余計なことを言わなければいいだろう」と思っています。 そして、 「まぁ、この物語は、ブッダ滅後、時代がかなり下った時に作られた物語ですから…」と逃げる(笑い)。 ☆☆☆ 「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人 の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。 大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは この女の足にさえ触れようとは思わぬ」 (『スッタニパータ835』) この言葉ねぇ~、問題発言ですよねぇ~。 この仏伝を見る限り、この迂闊な発言がすべての悲劇をひきおこしていますから。 《ダンマパダ》などに、 「善い言葉をつかえ」 「人を傷つけるような言葉を使うな」 「人を傷つけるような言葉を使うと、いずれ自身を傷つけることになる」 みたいなことを弟子に言っていますからね。 矛盾していますよねぇ~。 現にブッダの発したとされる不用意なこの言葉のために、《阿呆》呼ばわれされてますから。 自身の評判を傷つけるというかたちで、《悪い言葉を使うとこういうひどい目に会う》《自業自得》ということを示している。 この事実をもって、この話は仏教として完結する、 ということで、いかがでしょうか。 この物語の事件が実在にあったのかどうかは別にして、この言葉はいただけませんよね。
お礼
★ ~~~ ・・・この物語に登場するブッダを《阿呆》呼ばわりする、bragelonneさんと僕は、ともども、 仏教的には、深い《無明》の闇に包まれた、どうしようもない《阿呆》ということになります。 仏教とは、そういう教義・論理体系なんです、はい。 説明に困ると、すぐに《不可説》、《不可思議》、凡夫にはうかがい知ることができない深遠な境地、《唯仏与仏》ただ仏と仏にしか分からない、などなどの言葉をつかってお茶を濁します。 ~~~~~~ ☆ おもしろいですね。 ねむりねこにゃあさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 冒頭の理解がすすめば 大概の仏説は おもしろおかしく楽しめそうです。その深さにおいてよい意味でも そしてひとに伝わり難いことにおいてわるい意味でも 《唯我独尊》ということなのでしょうか? * そうですね。ほとんど理論を離れたような取り扱いをもう少しつづけるとしますが: § 1 発言のゆくえ・つまりそれがおよぼす影響について。 ちょっとしたおしゃべり程度の中にも基本があるとすれば それは 発言の軽さと言うのか重みと言うべきかの問題が わづかに残るということではないでしょうか? 発言したあと 必要なかぎりでその影響の行方に関して 注意しておくということではないでしょうか? すなわち まづ ★ ~~~ 言葉は悪いですけれど、古代インド社会では、女は人間の範疇に入っていません。 ・・・ 現代の価値観をこの時代に押しはめて考えるのは危険だと考えます。 ~~~~~ ☆ この問題つまり 時代錯誤による解釈の問題 これをも微妙にすり抜けると思うのです。 どういうことか? ○ 女は人間ではないから ブッダはおのれの実存のあり方として直接に向き合って話をする必要はなかったとしても 間接的にブッダの発言が女に伝えられるわけですから その結果 どういう影響が出るか? これについては ひととおりのことをブッダは考えておいてもおかしくはない。むしろ ふつうのことです。 という問題です。人間の範疇に入らない女が ブッダの発言を聞いたあと どういうことを仕出かすか? これについて 必要なかぎりで考慮しておいてよいはずだ。です。 事件の後追いをするだけになり つねに超然的な態度を取っているというのは 普遍性に欠けましょう。つまり 理論においては普遍性を問い求めているが 生活世界においては偏頗な態度が見られるのではないか。こういう問題だと見ます。 つまりは 執念深い《男》が 何かの発言を聞いて 理解しえず 変に仕返しをするようになるといった影響をも及ぼしかねない問題だとすれば 女の場合に限らないとなりますから 言っておく必要はありましょう。 * § 2 ひとがほろびるとは どういうことか? ★ マーガンディヤの娘は、ブッダ(の教え)に接したばかりに自滅した… ☆ これにつきましては 次のパウロの見方が想い起こされます。 ▲ (パウロ:コリント後書2:15-16) ~~~~ 15: ・・・救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 16: 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし聖書では たぶん《香り》としてでも 何がしか引導を渡すかのごとく 納得させることを伴なうのではないかとは思います。 これも 理論化はむつかしいと思いますので 印象を述べてまた感想として 次のような主題を引き出してくるだけのことになるかと思います。 (あ) ほろびる者にも ほろびることに納得を得させることは 大事ではないか? の問題。 (い) けれども 《ほろびる》のは ふるき人を脱ぎあたらしき人を着るためであるとすれば それは《前史》を終わらしめるという積極的な事態であるとも考えられる。この点は どうなっているのか? ☆ (い)は 問うたこともあります。まだまだです。(あ)は いまの問題です。この意味は ★ この仏伝に見られるブッダは、その意味で人に非常に冷たい、冷淡、酷薄です。人情の機微を理解しようともしない。 ☆ であっても構わないから 相手にどういう事態が起きているのかを 少しでも――ちょっとしたイメージとしてでも――分かるように こちらは つとめる。このことは ブッダであることの肝心要であるとも考えられるからです。 《人がブッダに成るか成らないかにかんしての冷酷》とは そういう《渡し》の仕事と一体であると思われるからです。 * § 3 《その足にさえ触れたくない糞尿に満ちた女》(『スッタニパータ835』)をめぐって。 いえ これは 《真実》であるなら この表現にはこだわりません。 そして 女には直接向き合って話をせずともよいとなれば それも問いません。 ですから あとは やはり§ 1および§ 2のふたつの問題に尽きると考えます。 発言したそのあと起こる影響について考えておくこと。および もしそれが 《ほろびる》ことだとすれば そのコトへと《渡す》つとめを 果たしていてもよかったと思われること。このふたつです。 事件を後追いし 後づけをしているだけではないか? こういう物言いです。 すべてのすべてにわたって このスッタニパータの発言で引導をわたしたというのであれば そのように《あとづけ》をして人びとに理解させるのが筋であるように思われます。 ですから ほんとうにマーガンディヤーが自滅の道をゆくということであったのなら 人びとにその点で気をつけていなさいと ひとこと 注意をしておいてもよかった。こうも思われます。 ブッダを被告として わたしが検事役で ねむりねこさんは弁護士となっておられるように思います。真理は 中間にありましょうか。それとも ねむりねこさんの理論のほうに傾きましょうか。
- NemurinekoNya
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こんちちは、です。 ☆☆☆ ルール1 (ひとの)未来は予見できない ルール2 ブッダはかならず真実を言う ルール3 ブッダは求めにかならず応じる。質問には答える(甘えの制限) ルール4 自由意志にもとづく行為の責任はみずから負わなければならない を設定すれば、説明はつくのではと考えます。 ルール1については、議論がわかれると思いますが、 僕は、人に自由意志というものがあるならば、たとえ《超越者》が存在したとしても、《超越者》であっても、人の未来は予見できないと考えます。 超越者に予見できるのは、人の自由意志にもとづく決定の茫漠たる確率分布のようなもの。 (量子力学で説く電子の雲みたいなもの。電子の位置、状態は確率分布の形でしか表わすことはできない。そんなイメージです。これなら、全知性とたぶん矛盾しない。状態と状態の確率分布を正確に知っているので) それも、行為者の意思決定にさいし、時々刻々確率分布は変化してしまう。つまり、確定的な未来は存在しないからです。 ルール3は、わたしは《超越者への甘え》を認めない立場なので、これがギリギリの妥協点です。 ☆☆☆ ブッダがサーワーマティーの未来の予言に言及しなかったのは、ルール1とルール2からの必然的帰結です。 それはできない。未来は不確定であり、ブッダはかならず真実を答えるからです。 彼女が彼女自身の未来についてブッダに尋ねたとしても、おそらく、答えなかったものと考えられます。 ルール3に抵触するようにみえますが、「分からない」ということを行為で示したわけであり、ルール3には抵触しません。 ☆☆☆ では、マーガンディヤの娘の場合はどうでしょうか。 《糞尿にみちた(この女が)何ものなのであろう。わたしはそれに足でさえも触れたくないのだ》(スッタニパータ 835) この言葉で彼女は傷ついた。それは事実でしょう。しかし、ブッダは事実を述べただけです。表現には問題はありますが、この言葉を直接聞いたと考えられるマーガンディヤは、この言葉の真意をブッダに尋ねるチャンスはあったわけです。真実は、手を伸ばせばかならず届く目の前にあった。しかし、彼女はそのチャンスを活かそうとしなかった。彼女はそう決定した。この自由意志にもとづく責任は彼女自身が負うべきです。ブッダにルール3以上のものを期待するというのは、甘えですから。 甘えるという自由意志の決定もあるではないか。たしかにその通りです。しかし、それは主体的な行動ではなく、他者の意志の支配を受けることであり、そこには真の意味での自由意志は存在しない。 彼女は愚かなのだ、未熟だったのだ。それでそのチャンスを活かせなかったのだ。そうかもしれませんが、そのような未熟な前状態を選択したのは、彼女自身です。その責は彼女自身が負うべきです。わたしは、《質問できる選択肢が彼女になかった》とは考えませんが… ブッダに復讐をしよう。マーガンディヤはそう決心し、それを実行に移します。そして、その企みはことごとく失敗します。 普通、いくら未熟であったとしても、ここでブッダに対する畏怖のような念を抱くはずです。その原因は分からないままでも、その原因を尋ねようとするはずです。そして、その答えは、彼女の目の前にあった。にもかかわらず、彼女はここでもそのチャンスを逸してしまう。これは彼女自身の責任です。 慈悲や思いやりはブッダに存在しないのか? ブッダは、彼女の重要なターニングポイントで、絶えず、いたのです。そして、彼女の求める答えを提供していた。分け隔てなく、彼女の前にいたのです。したがって、この批判はあたらないとないと考えます。 ☆☆☆ サーマーワティーの館がマーガンディヤの企みで放火された。これは、サーマーワティーとマーガンディヤの関係性で生じたので、ブッダとは関係ない問題だと考えます。ですが、サーマーワティーは運悪くそこにいた。しかし、その館にいるという決定をしたのも、サーマーワティーの自由意志の決定です。これまでの自由意志の決定の積み重ねのうえに成立しているだけです。したがって、善悪とは無関係に、その決定の責任は彼女自身が負わなければならない、と考えます。 ☆☆☆ と、わたしのアマテラス型(?)頭脳は申しております。 本来なら人格・パーソナリティーに与える先天的要因、環境的要因を考慮にいれないといけないのでしょうが、それではあまりに問題が大きくなりすぎて、僕の手には負えなくなりますので、あえて除外しました。 厳しすぎますかぁ。人情味がひとかけらも感じられませんか。 でも、このブッダをキリスト出現以降の《神》、あるいは真理そのものに置き変えれば、神は《シルシ》をめったに与えないわけですので、結構、甘いと思いますよ。マーガンディヤの場合に関して言えば、求める答えは常に彼女の手の届く範囲にあったわけですから。 この話の事件は実際起こったのか分かりませんし、単なる宗教説話文学とみなせば、自由意志とその決定にもとづく行為の責任は自分で負わなければならない、その意味でこの物語は《カルマ(行為)の法則》を表しているのではと考えたもので。そう考えれば、《ダンマパダ》の一節が引用されているのも納得できる気がしたもので。 しか~し、物語には、サーマーワティーが焼死したとはひと言も書いていません。 王は《生きていたら気持ち悪い、恐い》みたいなことを言っていますが、それは彼が死んだと思っただけ。 上手く逃げ出したということで駄目でしょうか? これなら、すべて丸くおさまるということで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 わたしの物言いは このマーガンディヤー事件にかんしましては ごくふつうの雑談程度のものです。ブッダは ことこのマーガンディヤーに相い対する場合にかぎってコトがうまく運ばなかったようですよねというたぐいのものです。 その前に物語に沿って二点ほど取り上げて考えてみます。 ★ しか~し、物語には、サーマーワティーが焼死したとはひと言も書いていません。 ☆ これは わたしも確かに 次の話に従ったまでで そのことは確かめていませんでした。 ▲ (サーマーワティーは 焼き殺されたか) ~~~~ 《このサーマーワ゛ティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。・・・そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記すところ。 僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴が伝える。 ・・・マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。サーマーワ゛ティーは どんな死に方をしても 永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに聖者の位を得て死を迎えている。 (寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》 ~~~~~~~~~ ☆ そうではなく もしサーマワティーが ★ 上手く逃げ出したということで駄目でしょうか? ☆ これなら すくわれます。 もう一点 参考程度に取り上げる話です。 ● (ブッダは もっと早くマーガンディヤーの復讐心に気づくべきだったのではないか?) ~~~~~ ・・・ マーガンディヤーはコーサンビー国の王と結婚し、王妃となる。釈迦がコーサンビ-国に布教に来たとき、彼女は屈辱的な過去を思い出すのである。 そこで、釈迦に復讐するために、人々を扇動し、王妃の命令によって托鉢に歩く釈迦に石を投げさせ、罵詈讒謗を浴びせたのである。 (『徒然草2001 法則編』) ~~~~~~~~~~~~ ☆ このかぎりで 挙げられた四つのルールにもかかわらず ブッダは自分のほうから何がしかの手を打つべきだったと 単純に考えられます。このあと サーマーワティー殺人事件に到るかどうかを別にしてです。予見のもんだいではなく そのときその場での問題としてです。 これは おしえがどうだ ブッダの智慧がこうだとは関係なく マーガンディヤーとのあいだの過去の事件についてブッダは考え直してみることがあってもよさそうなのにという意味です。 ですから 理論の問題ではないのです。 そこでこの理論の問題ではない雑談程度の物言いは 次です。 ● (きわめて単純に言って 婿入りの申し出に対するブッダの断わり方が 問題ではないか?) ~~~~~~ 〔マーガンディヤーの〕父親は釈迦に還俗して、婿入りすることをしきりにすすめる。 ある日、釈迦はマーガンディヤーの両親の家を訪問し、両親と娘の3人にむかって説法をはじめた。娘のマーガンディヤーには直接せずに、両親に説法をするのである。内容は次のようであった。 「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人 の魔女〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。 大小便の詰め込まれたこの女が、そもそも何になるというのだ。われは この女の足にさえ触れようとは思わぬ」 (『スッタニパータ835』) (『徒然草2001 法則編』) ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり ぎゃくに言って 次のような応答の仕方ならだいじょうぶだったのにという意味です。 すなわち このスッタニパータの一節は 《両親》に向かって説法のかたちで返されたものです。ですから それなら・つまり両親(または父親)に対するのみであるなら 何の問題もない。それが 真実であるならです。 けれども この説法を交えて返した断わりの意志表示を 娘のマーガンディヤーが聞いています。かのじょがいるその場で 両親に向けての応答となっています。 ★ しかし、ブッダは事実を述べただけです。 ☆ としましても おそらくその判断は――どういう実際のマーガンディヤーの生活態度などから推し測ったのか? などという疑いも持たれないでもありませんが それは措いておくとしまして この判断は―― ごくふつうに考えるなら 直接本人に語ってしかるべきである。こう考えられますし こうとしか考えられません。 ★ ルール2 ブッダはかならず真実を言う ☆ というその真実を なぜ間接的に聞えよがしに語ったのか? なぜそれだけで済ませたのか? それはそれで両親に対する語りとしてならよいとして なぜそれだけで済ませたのか? マーガンディヤー本人になぜ語らなかったのか? かのじょからの直接の求婚ではなかったからでしょうか? それならそれで マーガンディヤーをその席からしりぞかせて 両親のみに向かって話をすればよかった。 (あるいは 要するにもっと単純に言えば 《わたしは出家者として生きる》とだけ答えて伝えれば 話は済むと思われます)。 (あるいは 《足でさえ触りたくない糞尿に満ちた女》という真実をすでに表現したのなら その表現行為がそのあとどういう効果を持ちどんな影響をおよぼすか そのことについて少しは考えるものと ブディズムいかんを問わずに 思われます)。 すなわち いまの話の設定にもとづくかぎりでは ブッダは このマーガンディヤーなる人間と相い対する《実存》のかたちとしては 阿呆です。 マーガンディヤーが阿呆だったから そのように振る舞ったのでしょうか? * 締め切りの期日は 撤回しておきます。
- NemurinekoNya
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☆☆☆ ○次の事件をめぐる主題は どうでしょう? たしかいちど話題になったと思いますが。 《蛇の話》のところで、話題だけは出ましたね。 ☆☆☆ 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html 必ずしも経典に記されているのではないようですが どうもブッダの考え方はおかしいと思われる事件です。 つまり それは インドのブディストから見れば 美女の魅力にもたじろがないブッダというふうにして称賛さえされているようなのです。 この部分を読むと、わたしは、 「他に表現の仕方があるのではないでしょうか?これでは、女性に嫌われますよ」 と思わず眉をしかめてしまいます。 本題から逸れてしまいました。本題に戻って、 この部分は、 《 それは インドのブディストから見れば 美女の魅力にもたじろがないブッダというふうにして称賛さえされているようなのです》 という面も確かにあると思いますが、そのように考えるよりは、 《肉体を不浄なものとみなす考え、そして、肉体への執着、我執を取り除く》という仏教の考え方、《(肉体の)不浄観》の表明、 あるいは、 拭っても拭いきれない根源的欲望《性欲》を戒めている、 と考える方が良いのではないでしょうか。 基本的にこの時代に作成されたお経は、出家修行者のためのものでしょうから。 ものの本によると、《四念処》などにある《不浄観》という観法、かなりえぐいようですよ。 己れの肉体が朽ち腐敗してゆくさまを、心にありありと思い描いたりするそうです。 この《不浄観》という観法を行った《実在のブッダ》のお弟子さんのなかには、 己れの肉体の不浄を恥じて自殺したり、おたがいに殺しあったり、あるいは「これをやるから、俺を殺してくれ」という依頼殺人事件などが実際に起きて、 ブッダはあわてて《自殺はいけない。殺人を依頼してもいけない》というような掟を作ったそうです。 ☆☆☆ ○ 王妃マーガンディヤーによって館ごと放火され犠牲になった別の王妃サーマーワティーの物語 (マーガンディヤーは ブッダに侮辱を受けており サーマーワティーは仏弟子のような存在だったので 腹いせにこの女性を襲った) http://www.tipitaka.net/tipitaka/dhp/verseload.p … この話は、ブッダ滅後、かなり後世に作成された物語のようですね。 《スッタニパータ》などにあるマーガンディヤの話、そして《ダンマパダ》などから、着想を得たというところでしょう。 宗教説話文学の一つと考えれば、いいのではないでしょうか。 とはいえ、このマーガンディヤの娘を自分と引き寄せ、 ”自分のまいた種は自分で刈らねばならぬ”とか”自業自得“、う~ん、これではつまらない解釈だな、みずからの死、滅びに気づかず、日々愚かな行動を積み重ねている自分の愚かさ、浅はかさ、罪深さを象徴していると読みとって、自らを反省する と読みとれば、これはこれで含蓄に富む物語だと思います。 程度の差はあれ、この物語中のマーガンディヤの娘とわたしたち(bragelonneさんや皆さんは違うかもしれませんが、少なくとも私)はそれほど変わらないのでしょうから。 因果の法則は、《善因善果・悪因悪果》でもいいのですが、《善因楽果・悪因苦果》です。 しかも、善行が楽果、悪行が苦果にすぐに結びつくわけではありません。 マーガンディヤの娘のように、聖女を焼き殺して一時的な喜び(仏教的な表現を使えば、《無明にもとづく顛倒した喜び》ってことになるんでしょうね)を得たとしても、彼女は最終的にみずからの悪行で苦果を得た。 ずるい論理と言えば、ずるい論理なのですが、そういうことになるようです。 ちなみに、 殺人を犯した後、みずからの行いをひどく後悔し、《良い人になろう》と思ったら、《悪因善果・悪因楽果》になるのでは? という議論を、説一切有部の有名な論師《衆賢・サンガパドラ》が自身の著で取り扱っているようです。 サーマーワティーは可愛そうですが、ここでは、マーガンディヤの罪深さを引き立てる役でしょう。 同情はしますけれども、視点・論点が違うのではないでしょうか、 最後に、 悟りを得た尼僧《ウッパラ=ヴァンナー・蓮華色尼》が従兄(アーナンダ・仏弟子のアーナンダとは別人)に暴行され、挙句の果てには、仏敵とされる《デーヴァダッタ》に殺されるって、もっとひどい話があるみたいですよ。
お礼
ありがとうございます。 おおむね 承知いたしました。 ここで尾を引くかどうかは分かりませんが ひとつのことだけは 異なる見方を持ちました。 ★ ~~~ サーマーワティーは可愛そうですが、ここでは、マーガンディヤの罪深さを引き立てる役でしょう。 同情はしますけれども、視点・論点が違うのではないでしょうか、 ~~~~~ ☆ マーガンディヤーをとがめることについては 問題ないと考えます。 ただし サーマーワティーの悲惨さについては もっと何とかならなかったかと考えます。 つまり 事前にブッダなら知恵を出して防ぐ手立てを考えるのではないか? これです。 マーガンディヤーが未熟な人間であると知っているのなら その状態にある人間として扱わねばならないはずです。あなたは罪深いですよという意味合いのことを言ったか または言ったかたちにして接し終わったと もし考えていたなら それはおかしい。知恵が足りません。 ふつうの市井の人びとでも そのような執念深い人間にはどう対処すればよいか いろいろ考えるはずです。ブッダは マーガンディヤーが事件を起こすがままにしていたと思われても仕方がないように思われるからです。 しばらく そうですね二三日おいて 閉めたいと思います。
- NemurinekoNya
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◆(4) ブッダは 輪廻を苦としたけれど この輪廻はブラフマニズムにおいては この世に生まれて来ている人びとそれぞれの境遇を説明するために編み出されたものではないのでしょうか? ○不確かな見聞によっていますが 要するに現世の身分が人によって分かれるのは 前世における神(ブラフマン)との関係としての信心と行為によるのだと。 手元に《リグ・ヴェーダ》がないので、原文をお示しすることはできないのですけれども、 『(神々が)犠牲獣たる《プルシャ・原人》を切り分かった時、 その口にバラモン(ブラフマン・ブラーフマナ)、両腕にクシャトリア、両腿からヴァイシャに、 両足からは奉仕をつとめるシュードラが生じた』 これが身分制・カーストの根拠の一つとされているのは、確かなようです。 なのですが、このブラフマン(ブラーフマナ)・梵というのは、かなり胡散臭い概念のようです。 もっとも古いところでは、《ヴェーダ》くらいの意味だったようです。 その後、人間バラモンが行う《祭式》で神々を使役する《力》にグレードアップ。 さらに、《造物主》プラジャーパティや《天則・リタ》と同一視。 かくして、ブラフマンは宇宙の最高原理となった。 思想的要請もあったのでしょうが、おそらく、バラモンがみずからの地位を高め、その地位を確固なものにするために、 ブラフマンの位置を高めたというのが本当のところではないでしょうか。 さらに、最古層のバラモンの教えに輪廻の考え方は存在しなかったようです。 死者は、ヤマ天(閻魔大王)の支配する最高天で永遠に幸せに暮らすと信じられてた。 その後、死後、ヤマの最高天に行った行った人たちもふたたび死んでしまう《再死》のではないか? という疑問が生まれた。 そして、《輪廻の思想》が誕生。これは、被支配民族の民間信仰を採り入れたのではないかと… ということのようです。 この芽生えてきた《輪廻》の考えを、バラモンが権力拡大のために積極的に使ったらしいです。 俺たち(バラモン)が《祭式》をすれば、死後、いいところに行けるぞ。さもないと…という感じだったのでしょう。 輪廻は神《ブラフマン》と結びつけるより、この世の神・バラモン《ブラフマン》と結びつけて考えるべきではないでしょうか。 バラモン教は、基本的に祭式宗教ですから。 と、身も蓋もない話をしてしまいました。 死後、人の霊はお月様に向かうのですが、お月様が不死の世界の門番役で、いくつか質問をするそうです。それで、答えられないと、この世に逆戻り。答えられると、不死の世界。 そうそう、バラモン教では、シュードラは一代かぎりの存在です。一度死ぬと、この世に再び生まれない、再生しません。 再生できるのは上位3カースト、つまり、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャで、この上位3カーストを《再生族》とも呼びます。 なんともひどい話です。 ○身分は もしたとえあったとしてもそれは基本的に一代限りだと捉えること これもふつうの考えなのではないでしょうか。 これは、かなり、微妙だと思います。 確かに、そのように書いてもウパニシャッドもあるようなのですが、 バラモンはバラモンに、クシャトリアはクシャトリアに、ヴァイシャはヴァイシャにとする《ヴェーダ》もあるようなので。 「もし不善の行為をすれば不善の果報があり、非難されるべき行為をすれば、それ相応の果報がある。この果報は、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラのいずれにもあるのであるから、バラモンだけが『自分たちだけが清浄である』とは言えない。善いことをすれば善い果報があり、清浄なことをすれば清浄な果報があるのだが、もしこの果報がバラモンだけであって、クシャトリヤやヴァイシャやシュードラにないのであるならば、バラモンは『自分たちは清浄である』と言うことができよう。しかし、四種のヴァルナのいずれにもこの果報が与えられるとすれば、バラモンだけが『自分たちは清浄である』と言うことはできないであろう」 (長阿含経) と、ブッダは言っていますので、なんとも微妙なところです。 おそらく、バラモンはバラモンに生まれ変わるとひろく信じられていたのではないでしょうか。 とはいえ、ブッダの生きた時代、商品・貨幣経済の進展にともない、世俗権力としてのバラモンの地位はかなり没落していたようです。 商品・貨幣経済で成功したシュードラに召使いとして仕えていたバラモンもいたそうです。 バラモンと言っても、現在の聖職者のような存在ではなく、一市民として生業を持ち、それで暮らしを立てていましたから。 当時のバラモン階級に属する人、意外に大変そうだったようです。 ブッダの教団内では、四姓平等だったとされています。 ただ、奴隷階級のシュードラが実際にブッダの教団内にいたのかについては、疑問がもたれています。 尼僧集団にはいたことは確かなようです。世俗の信者からクレームがついたエピソードが《長阿含経》にあるので。 ○いわゆるマッチポンプとしての教義を打ち立てたとすらうたがわれます。のではないでしょうか? これもなんとも微妙な問題です。 ブッダが《輪廻》を本当に信じていたのか? 自分の教えへと導くために、プラフとして、当時信じられていた《輪廻の思想》を利用したのではないか? これはわたしの考えですが、 おそらく、教導のために《輪廻の思想》を利用したのだ、 と思います。 根拠はないです。《ダンマパダ》や《スッタニパータ》などを読んでいて、漠然とそのように感じられるだけです。 《輪廻》を取り払っても、ブッダの教えは、宗教としてではなく、哲学として成立しますから。 いえ、《輪廻》を一切取り除いた方が、むしろ、哲学としては完成度が高くなるようにも感じられますから。 というわけで、宗教としてではなく、世界最初の苦の実存哲学ととらるというのは、駄目でしょうか? (笑い) ☆☆☆ ○でも どこかにブッダに対するうたがいが わたしには残っています。ブッダ あやまてりという部分があると考えます。 出家者でなくても おしえが窮屈に感じるところがあると思います。論理として辻褄が合うとしてもです。全面的な《苦》の史観 これと同じ土俵にあがるなら 茶の木畠に入ってしまうと思います。 僕には、《ブッダに対するうたがい》はありませんが、 《ブッダ あやまてりという部分》はあります。 ブッダの教えを全面的に無批判に受け入れるつもりは、まったく、ありません。 《愛する者と別れることは苦しい。だったら、愛するな!!》 ごもっとも、おっしゃる通りでございます。理窟に合っております。道理に適っております。これぞ縁起の理法でございます。 しかし、人を愛する心を切り捨てた人間を、人間と呼べるのか… とことん、罰(ばち)当たりにできておりますので、わたくしは。 実在したブッダの教えは、確かに窮屈なところがあります。これは同感です。 何もかも捨てた出家修行者なら、その教えを忠実に実行することは可能なのかもしれまんが、実社会に生きる人間がそれを実行することは、絶対にできません。不可能です。また、すべきだとも考えていません。 ただ、実在したブッダの教えが、誕生から死を含む《生》を厭うという意味での《厭生主義》なのかといえば、そうでは無い、と考えます。 説一切有部が編集した《ウダーナヴァルガ》30章《楽しみ》には、《楽しみ》が列挙されています。 修行者、修行生活の楽しみなので、これを日常生活にそのまま当てはめることはできませんが、 ブッダの教えの最終到達点は《生をよりよく楽しむこと》、つまり、《厭生主義》の克服だと考えております。
お礼
いやはや もっと最初から言ってくださっていればよかったのに: ★ (《輪廻》の思想は 方便のまた方便である) ~~~~ ブッダが《輪廻》を本当に信じていたのか? 自分の教えへと導くために、プラフとして、当時信じられていた《輪廻の思想》を利用したのではないか? これはわたしの考えですが、 おそらく、教導のために《輪廻の思想》を利用したのだ、 と思います。 根拠はないです。《ダンマパダ》や《スッタニパータ》などを読んでいて、漠然とそのように感じられるだけです。 《輪廻》を取り払っても、ブッダの教えは、宗教としてではなく、哲学として成立しますから。 いえ、《輪廻》を一切取り除いた方が、むしろ、哲学としては完成度が高くなるようにも感じられますから。 というわけで、宗教としてではなく、世界最初の苦の実存哲学ととらるというのは、駄目でしょうか? (笑い) ~~~~~~~~ ご回答をありがとうございます。 そうして つけ加えるに・大事も大事であることとして: ★ (《苦》の克服と言っても 厭世史観ではない) ~~~~ ただ、実在したブッダの教えが、誕生から死を含む《生》を厭うという意味での《厭生主義》なのかといえば、そうでは無い、と考えます。 説一切有部が編集した《ウダーナヴァルガ》30章《楽しみ》には、《楽しみ》が列挙されています。 修行者、修行生活の楽しみなので、これを日常生活にそのまま当てはめることはできませんが、 ブッダの教えの最終到達点は《生をよりよく楽しむこと》、つまり、《厭生主義》の克服だと考えております。 ~~~~~~~ ★ (ブッダの性愛論は?) ~~~~ 僕には、《ブッダに対するうたがい》はありませんが、 《ブッダ あやまてりという部分》はあります。 ブッダの教えを全面的に無批判に受け入れるつもりは、まったく、ありません。 《愛する者と別れることは苦しい。だったら、愛するな!!》 ごもっとも、おっしゃる通りでございます。理窟に合っております。道理に適っております。これぞ縁起の理法でございます。 しかし、人を愛する心を切り捨てた人間を、人間と呼べるのか… とことん、罰(ばち)当たりにできておりますので、わたくしは。 ~~~~~~ 次の事件をめぐる主題は どうでしょう? たしかいちど話題になったと思いますが。 【Q:ブッダの美女マーガンディヤー事件】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5121424.html 必ずしも経典に記されているのではないようですが どうもブッダの考え方はおかしいと思われる事件です。 つまり それは インドのブディストから見れば 美女の魅力にもたじろがないブッダというふうにして称賛さえされているようなのです。 上記の質問の趣旨説明欄のほかに 次の資料があります。 ○ 王妃マーガンディヤーによって館ごと放火され犠牲になった別の王妃サーマーワティーの物語 (マーガンディヤーは ブッダに侮辱を受けており サーマーワティーは仏弟子のような存在だったので 腹いせにこの女性を襲った) http://www.tipitaka.net/tipitaka/dhp/verseload.php?verse=021 * バラモンをめぐる時代情況や教義の形成過程についておそわりました。ありがとうございます。 * このあたりで たぶん締めくくっていただけるかと思い この質問はおしまいとしてよろしいように思いますが。
- NemurinekoNya
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仏教から一度、はなれます。 インドでは、人生で追求すべき目的《アルタ》は、法《教え》、利(益)、愛欲《カーマ》とされています。 そして、人が一生においてたどるべき段階を、学生期→家住期→林住期→遊行期の四つに分けます《四住期》。 学生期では、ある年齢に達すると、家をいったん離れて、バラモンのところで《教え》を学びます。 家住期では、利益と愛欲が追求されます。 遊行期がいわゆる出家(期間)です。 で、仏教に戻ります。 ブッダは出家以前、つまり《家住期》において、 原始経典に示されている通り、性愛《カーマ》を追求します。 そして、財産を継ぐべき一子《ラーフラ》を設けます。家住期においての最低限の義務を果たします。 その後、まもなく出家します。 《家住期》における《性愛》の《むさぼり》は、《林住期》《遊行期》への移行を阻害しないという範囲内において、是認されます。 そのリミッターの機能を果たすのが《学生期》に学んだ《教え》になります。 そして、仏教は、基本的に《出家者の教え》です。 出家修行者は、《輪廻》からの解脱に向けてひたすら修行します。 したがって、実在した《ブッダ》の教えは、けっして、種の絶滅を目的とした教えにはなりません。 もっとも、《四住期》、三つの《アルタ》の教えが釈尊の時代に確立されていたかどうかは疑問がありますけれど、その原初形態はすでに確立していたことだけは確かなようです。 ということを踏まえて、 (γ‐1) 生まれつづけてよいのではないかというのは 苦をまねく生存欲でありそれへの執着に過ぎないか? 《実在のブッダ》の教えは、今の生の段階において輪廻のくびきから解き放たれることを目的としますので、 生まれつづけようという欲求は、全否定されるでしょうね。 しかし、大乗では、《菩薩》は《衆生済度》という目標のために《生存欲》を断たない。 大乗では《むさぼり》なる煩悩の意味、目的の根本的な質的変換をはかれば、《生存欲》は是認される。 むしろ、肯定される。 それが、大乗仏教のめざす生き方というのは、どうでしょうか。 (γ‐2) 寿命をまっとうしたいというのは・そしてそのように世代を継いで生きつづけることが 《むさぼり》なる煩悩であるのか? ○《寿命をまっとうしたい》 この問題、突き詰めて行くと、私見では、 菩提樹の下で悟った後、ブッダはどうして存在しうるのか? 《無明》《煩悩》がなくなったのだから、この世からきれいさっぱり消えるべきなのでは? なんて、きわめて厄介な問題になってゆくんですよ。 それはさて置き、 仏教には《不殺生戒》《生き物は殺してはいけない》というアプリオリの原則があります。 これは自分にもあてはまることなので、《寿命》はまっとうしなければならない。 《殺業》という輪廻に直結するあらたな業をつくることになるからです。 そういうことになると思います。 でも、bragelonneさんは、これでは納得しないと思いますので、 少し宗教的意味合いを付加して、 死んだら、仏法に触れる機会を失うことになる。 仏道修行を行えなくなる。解脱の機会、《自己救済》の機会を失うことになる。 ということでどうでしょうか。 ○世代を継いで生きつづけることが 《むさぼり》なる煩悩であるのか? 冒頭で紹介した通り、ブッダは、《家住期》において《世代を継ぐこと》を否定していません。 ただし、出家者は駄目です。 五戒の一つ《不邪婬戒》は、《在家》と《出家者》では意味が違いますので。 (γ‐3) 《病気》は それを治すことが目的であるのではなく 病気にかかり得るこの身に生まれなくなることを目指させるためのシルシなのか? 《シルシ》ではない。それでは、みずからの行為《業》《カルマ》を超える存在を認めることになる。 《病気》はみずからの《カルマ》が招いたもの、その結果にすぎない。 《病気》を治すのは、あくまで、みずからの力による《自己救済》のためと考えるべきである。 (γ‐4) 獲得した知恵によって人間がその寿命を長く延ばすことは やはり生存欲でありムサボリでありブッダの智慧にさからうものか? そうはならない。 生に執著すると、輪廻のための新たな業を作るおそれがあるが、 寿命を伸ばす目的は、《自己救済》《他者救済》のためである。 これは、ブッダの智慧、教えに反しない。 生存欲を動物的なものから《自己救済》《他者救済》のためと質的変換をはかればよい。 (γ‐5) ヨガを初めとする修行実践の意味はどこにあるのか? 実際におこなってみないと分からないのだろうか? けれどもそれは 社会に生きるという実践修行に代えることは出来ないものか? 《ヨーガ》《禅定》《止観》を抜きに仏教は語れない。 そして、仏教の教えは、《ヨーガ》の実修のための教えである。 経典自体に意味があるのではない。 それは、《ヨーガ》の体験によって、世界の真実を感得できるからである。 (これを《非経験・非思考の庭》とするかどうかは微妙、議論のわかれるところだと思います) その《ヨーガ》体験によって《真実智》が生まれる。 《六波羅蜜》で《般若波羅蜜》の前段階で《禅定波羅蜜》を立てるのは、このためである。 《念仏》とは、本来、名号を唱える《称名念仏》の意味ではない。 《念仏》とは、心の中で《阿弥陀仏》《極楽浄土》などを思い描くことで、これは広い意味での《禅定》である。 《称名念仏》はそれを簡素化したものであるが、目的は《称名》自体にあるのではない。 《称名》によって得られる《なにか》が大切なのである。 その意味で、《称名念仏》も《ヨーガ》の一種とみなすことが可能である。 また、社会に生きる実践行とは、まさしく《般若経》で説く《六波羅蜜》の実践である。 《六波羅蜜》は、出家修行者である《声聞》の修行に対するアンチテーゼである。 在家修行者において実践されるものである。 そのことは、《布施》《持戒》《忍辱》波羅蜜が《六波羅蜜》に組み込まれていることより明らか。 《布施》をキリスト教の《隣人愛》、《忍辱》を《汝の敵を愛せよ》、 《持戒》を《神の掟》を守ることとでも読み替えればよい。 《精進》は《キリストの教え》の実行。 《禅定》は《瞑想》、《キリストを感じること》。 《般若》は… というのはどうでしょうか。 《六波羅蜜》の完全な実践は難しいですが、《六波羅蜜》の実践は実社会でこそ意味を持つと考えますがいかがでしょう。 (δ‐4) 上の(あ)が グノーシス主義の超主知主義のごとき観念論――それゆえ 性愛といった即物的な議論ないし実践に結びつくのではないか――を破っていると思います。ただし 《完成》と《途中の過程》とに分けないかたちを ここではとなえます。分けているという場合は 神がまだ人間の自由意志にまかせたと言っていない段階ではないでしょうか? 《六波羅蜜》はそれぞれが《不一不二》の関係ですから、分けて考えてはいけないのではないでしょうか。 直観的には、 《六波羅蜜》をそれぞれに分けて実践者が踏むべき段階と考えたら、何かに対する《甘え》があると思います。 そして、その《甘え》は、神や仏がこの世から手を引いた現在において、 何かに頼っているということであり、人間がいまだ完全な《自由意志》を獲得していないのではないでしょうか。 (δ‐5) グノーシス主義について けっこう忘れていますが もし善神と悪神との二元論から出発して 途中の過程では悪神が優勢であって 終末には善神が勝利するという筋道だったとしたら これは言わばじんるいの《前史》だと捉えます。例の《へび》と同じように 大きく《錯覚》の部類に属するのではないでしょうか? 僕もけっこう忘れています。 でも、グノーシス主義のなかには、善神と悪神の闘争という単純な図式にとらえるのではなく、 この物質世界の創造神《デミウルゴス》は単なる悪神ではなく、みずからには属さない霊魂を 物質・肉体という軛の中に閉じ込めているとする学派もありますよね。 その軛を解き放つために、本来、神であるイエスがこの世に遣わされた… 物心二元論ですけれど、これなんて、結構、いい線をいっているのではないか、と思います。 予定調和ではないですし、人間の《自由意志》、そして、智慧《ソフィア》をうまく説明できますし… とはいえ、 ゾロアスター教的なグノーシスは、やはり、bragelonneさんのおっしゃる、『じんるい《前史》』でしょうね。 同感です。 だからと言って、それが無意味と言うつもりはありません。 僕は、それがいかなる宗教であれ、それが人様に迷惑をかけない範囲内なら、認めます。尊重します。 でも、同時に、宗教が戦争に使われたのなら、その目的が何であれ、「それは間違っている」と拒否します。 《神さま》《仏さま》《神もどき》が人殺しを認めている、それを望んでいる、とは考えられませんから。 ○日本と世界の夜明けは近いでしょうか? さあぁ~ こればっかりは、人さまのことをあれこれ言える身分ではないもので。 でも、それが何であれ、自分が《神もどき》を信じているのにもかかわらず、 そのことを気づかず、自分が信じる《神もどき》に不信感、疑いの目を向けないうちは、 駄目なのではないでしょうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ◆(1) グノーシスから入ります。 ▲ (ヰキぺ:アイオーン) ~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%B3#.E3.83.97.E3.83.AC.E3.83.BC.E3.83.AD.E3.83.BC.E3.83.9E § グノーシス主義 1966年の「グノーシス主義の起源に関する国際学会」等の定義によれば、グノーシス主義は、以下の点をふまえた神話を創作することが一般であると考えられている。 1.反宇宙的二元論: この世界は悪であり、この世界を創造した劣悪な神とは別に、善なる「至高者」が存在する。 2.人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」への確信: 人間は、劣悪な造物主に創造されたが、人間の内部には至高者に由来する要素が閉じこめられている。 3.人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在: 以上のことを知らない人間に対して、至高者の下からそれを知らせる使いがやって来て、認識を促す。 この「至高者」の下には、至高者に由来する諸の神的存在があり、グノーシス主義の創作神話では、この神的存在を「アイオーン」と呼ぶ。 § キリスト教グノーシス主義 キリスト教グノーシス主義では、人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者とは、もちろん「イエス」であり、イエスは「父なる神」(=至高者)の下から派遣され、旧約聖書の創造神(=劣悪なる造物主)の束縛から人間を解放するため、「本来的自己の認識」を説く福音をもたらしたという神話を持つ(神話の詳細は、グノーシス各派により異なる。)。 ~~~~~~~ ◆(2) ブディズムと似ているようです。 ○ 《この世界は悪である》――《生老病死の四苦 それを繰り返す輪廻》 ○ 《人間内部に存在する「神的火花」「本来的自己」》 ――《光り輝いている自性清浄心》 ○ 《人間に「本来的自己」を認識させる啓示者・救済者の存在》 ――《輪廻からの解脱を説くブッダ》 ◆(3) 《解放者として派遣される》のはイエスであるという説も 似ています。そしておそらく それでもキリスト・イエスは 次の点で根本的に異なるものと考えます。 ○ アダムらの原罪は 人には自由意志がそなわることを知らせたのみ。 ○ 原罪は もともと錯覚である。錯覚が 人びとを悩ませ苦しめた。この錯覚であることを イエスはみづからがはりつけになることで示した。 ○ 悪はその名で呼ぶ現象があるのみであって 存在していない。言うならば 生きることないし生命あるいは存在としての善があるのみ。 ○ つまりは この善をねじ曲げることをも自由意志はおこなう。善をねじ曲げることが 負の善でありこれを悪と呼ぶのみ。 たとえば ● (ヨハネ福音3:14-16) ~~~ 14: そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない(=磔になる)。 15: それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。 16: 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 ~~~~~~~~~~~~~~ ◆(4) ブッダは 輪廻を苦としたけれど この輪廻はブラフマニズムにおいては この世に生まれて来ている人びとそれぞれの境遇を説明するために編み出されたものではないのでしょうか? 不確かな見聞によっていますが 要するに現世の身分が人によって分かれるのは 前世における神(ブラフマン)との関係としての信心と行為によるのだと。 逆境の内に人生を始めなければならなかったこと これは 確かに苦であると一般に捉えられますが これを受けとめることから 人生が始まり充実したものにも成るというのが ふつうの考え方だと思います。 また いわゆる悪に走る場合もあれば あたかも根っからの悪人であると見られる場合もある。そしてこれらすべては 自由意志のなせるわざであるとふつうは 考えると思います。 したがって 身分は もしたとえあったとしてもそれは基本的に一代限りだと捉えること これもふつうの考えなのではないでしょうか。実際にこの理論どおりになっているかは 別とすることが出来る主題だと考えます。(社会政策などの主題へと移るという意味において)。 これで 哲学は済むと思います。 ブラフマニズムは 神との関係としての信仰を 身分制の説明のための宗教教義として利用している。身分制の保守である。 その説明における輪廻 これをブッダはあたかもそのまま自分の思想に受け容れてしまった。しかもこれを《苦》と言った。そこから解放されるべき苦と見た。どうもこれは わざわざそう見たと思われます。 いわゆるマッチポンプとしての教義を打ち立てたとすらうたがわれます。のではないでしょうか? わたしからの物言いは こういう視点からのこういったたぐいのものです。 ◆(5) ★ ~~~ ○日本と世界の夜明けは近いでしょうか? さあぁ~ こればっかりは、人さまのことをあれこれ言える身分ではないもので。 でも、それが何であれ、自分が《神もどき》を信じているのにもかかわらず、 そのことを気づかず、自分が信じる《神もどき》に不信感、疑いの目を向けないうちは、 駄目なのではないでしょうか。 ~~~~~~~~ ☆ 《自分が信じる〈神もどき〉に不信感、疑いの目を向け》るように さらにさらに問い求めてまいります。それは哲学のつとめでしょうから。 * ブディズムとしてのご説明とそれについてのご見解 これらは論理としてそのまま 然りとして受け留めざるを得ません。視点をずらして応答しました。学問から行けば 乱暴であり もし何がしかの反論内容を持ったとしてもそれを咀嚼して欲しいというのは横着なことであるかも知れません。 でも どこかにブッダに対するうたがいが わたしには残っています。ブッダ あやまてりという部分があると考えます。 出家者でなくても おしえが窮屈に感じるところがあると思います。論理として辻褄が合うとしてもです。全面的な《苦》の史観 これと同じ土俵にあがるなら 茶の木畠に入ってしまうと思います。 ★ 《六波羅蜜》 ☆ は ブディズムという枠を離れて哲学として探究するとよいのではないかと考えます。 ほかに ★ ヨーガ / 念仏 ☆ など るる説明をいただきました。 同じ土俵に上がらなかったのは 禁じ手を使ってしまったでしょうか。 * ★ ~~~ 僕は、それがいかなる宗教であれ、それが人様に迷惑をかけない範囲内なら、認めます。尊重します。 でも、同時に、宗教が戦争に使われたのなら、その目的が何であれ、「それは間違っている」と拒否します。 ~~~~~~ ☆ 諾なりとして わたしはさらに《組織宗教》を批判します。 それが 個人の信仰を 現世利益のみや組織の繁栄のみや社会の現行秩序に固執するその保守やの目的に利用するのであれば それは 表現の自由や結社の自由にも反するといううたがいです。そういう場合は 信仰とは関係のない結社だというかたちを採るべきだという理由からです。
- codotjtp
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無心状態から清浄さが失われますと、経絡…
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 無心 ☆ ということが 自性清浄にかかわるというご見解でしょうか? 同じということでしょうか? もしそうだとしますと たとえばその無心の状態をたもつには どうすればよいかという問題があり そのためには ★ 経絡 ☆ にかんする身体の調整が資するということでしょうか? そうかも知れません。 あとは どこまで一般性を持つかになりましょうか。 ただしわたしは 経絡や無心について くわしいことは何も知りません。 みなさんに向けても ご説明があると捉えやすいと思います。
- NemurinekoNya
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☆ を先取りしているような錯覚に落ち入ることが出来ます。つまり 勇み足を承知で言うとすれば このような《無執着》なる境地に到ったという錯覚のまま その道をどこまでも歩み 一生を終えてもそれほどマチガイだとは言えないかも知れない。 そう、《布施波羅蜜》でえられる《無執著》は最終的には捨てられる仮のもので、錯覚。 真の《無執著》の境地に立てるのは、《般若波羅蜜》すなわち《菩薩行》が完成したとき。 《菩薩》は、《衆生済度》のために、この世という泥田の中を、永遠と思える長い時間、這い回る。 この世からすべての衆生が消え去った時、はじめて《般若波羅蜜》《菩薩行》が完成する。 般若の智慧が完成しているから、実は、誰も救ってはいない、自分さえ救ってはいない、と気づく。 なぜなら、すべては空だから。そして、はじめて空の本当の意味がわかる。 それが《般若経》の説く《菩薩行》《六波羅蜜》だ、と、ぼくは思います。 頭でっかちの考え方ですかね。 とことん頭がアマテラス型にできているもので。 ☆《無明ないし煩悩》もただの錯覚である。というのかも知れないぢゃないですか。 悟ってしまえば、《無明》《煩悩》もただの錯覚。それは(汚れた)心が勝手に作り出した物だから。 ☆無明を《根本的な生存欲》と定義する解釈も出されていたと思います。(宮元啓一でしたか)。 あくまで個人的な考えで、しかも仏教から離れますが、 人間をふくめて多くの生き物には《自分勝手・わがまま》遺伝子があるそうので、 無明を《根本的な生存欲》ととらえていいのではないでしょうか。 で、自然界が調和して見えるのは、たまたま身勝手な生き物同士のバランスがとれているから。 動物間や植物間の共生関係と言っても、 どちらか一方が自分に役に立たなくなれば、すぐに解消されてしまう。 しかも、人間は禁断の《智慧の実》を食べてしまった。 その智慧を武器に人間は、他の動物にはない強力な力を手に入れてしまった。 もはや動物には戻れない。 《力》、《自分だけがよければいい》という思いは、自分では制御できないほど強大になりすぎた。 その克服の智慧の一つが《自利》を《利他》とみなす仏教の思想。 そして、キリスト教の《隣人愛》や《神の恵みの意味を考えること》… などなど、 と、分不相応なことを言ってみました。 話を戻して、 無明を《根本的な生存欲》とみなしていいのではないでしょうか。 なにも科学技術の発達していなかった大昔の定義を、 金科玉条のように、今も守り通す必要はないと思います。 仏教を含めるインド教の最終目標は、 輪廻からの解脱、つまり、この世に再び生まれないこと、《再生しないこと》。 その《再生しないこと》を妨げるものが《無明》なので、 《無明》は《根本的な生存欲》と定義できると思います。 でも、この定義だと、《智慧》(知性や知識ではないです)の重要性が分かりにくくなるかな。 インド教では、なによりヨーガの実修で得られる《智慧》が重要視されるので、 この一面が消えちゃうのは、まずいかも。 ☆不用意に言えばですが 生きることの《苦》視 これが いけません。善悪は 相対的な経験世界におけるひとつの判断にかかわっています。苦楽の苦は ことさら無明=煩悩の過大視につながりかねません。 《苦》の克服がブッダの出発点ですからねぇ~、こればっかりは… 実在したブッダの教えは、基本的に出家修行者ための教え、そして、厭世主義がベースですから。 しかし、《善因楽果・悪因苦果》の観点から、これは克服できるのではないでしょうか。 善因を作るのは、みずからの善い行い。 自分と他人のために善い行いをすれば、自分も楽しい。 自分と他人に悪い行いをすれば、自分は苦しく感じる。 今はそう感じなくても、いずれ苦しく感じるようになる。 その《苦》の克服のために、みずからの《行い》《三業》《カルマ》を反省し、善い行いをする。 《もろもろの悪をなさず 善(行)につとめなさい。 それが仏教です》がつまるところ仏教!! なにも杓子定規に、善い行いを《出家者のための仏教》の善い行いに結びつける必要はない。 すこし世俗道徳的過ぎますか(笑い)。 ご指摘のとおり、最後に頼るところは、《般若経》に出てくる般若の智慧・無分別智なんでしょうね。 そうでないと、仏教はたんなる厭世主義の思想、《出家・隠遁者のための教え》で終ってしまいますから。 ○もっとも苦ないし無明を明らかに見ること これが ブッダとしての目覚めにつながるのだという見方もあり ということでしょうか。 その解明のために始まったのが、いわゆる小乗のアビダルマ哲学ですよね。 《苦》とは何か、《煩悩》《無明》とは何か。 《わたし》(《アートマン》じゃないです)とは何か。 《実在のブッダ》とは何であったのか? アビダルマ哲学は、その飽くなき追求。 でも、それだけではないけない、ということで、始まったのが《大乗仏教》らしいです。 実際、言ったかどうかは分かりませんけれど、合言葉は《ブッダ(の精神)に帰れ》。 歴史上に実在したブッダも布教の旅をしていますので。 ☆ こうなりますと 例の《原罪》の論議にも似て来ます。… 父なる神 ←→法身 神・キリスト←→阿弥陀仏(報身) 原罪 ←→宿業 福音 ←→弥陀の本願 神の愛 ←→弥陀の慈悲 パウロも親鸞も異端視され、教会や仏教界から追放されていますし… つい最近の思いつきです。はっきり言って、深く考えていません。 仏教学者の岩本裕が《仏教入門・中公新書》で 阿弥陀信仰・浄土信仰は、キリスト教の影響を受けて成立した みたいなことを書いていたのを、思い出したもので。 ☆そして この状態の世界こそが ブッダの出たゆえんであり 神ののぞむ社会であると考えられまいか。 《神の国》、《涅槃》へ至る道はすべて与えた。 そして、神はしりぞき、世は末法。 あとは、個人の選択、《自由意志》の問題。 《あとは自分たちで何とかせい!!》でいいんじゃないでしょうかねぇ~。 でも、その考え、かなりグノーシス的ですよ。 僕は結構、グノーシス、好きですけれど、 いいんですかぁ~? ☆ ここまで議論はすすむとしますと ヒンドゥーの人びととも無理なく手をたずさえることが出来るというものです。 《実在のブッダ》は、実は、アートマンの存在を否定していなかったのではないか? という考え方もあるんですよ。 《諸法無我》、これは《諸法は無我》《諸法は無自性》と解釈されていますが、 もともとは《物質的・精神的存在はアートマンではない》 という意味で、《アートマン》の存在を否定していないのではないか… ブッダは輪廻の主体としての《アートマンもどき》を想定していたのではないか。 《無我》が《無自性》の意味になったのは、仏教の教義が確定した、のちの世のことではないか… 著名な仏教学者の中村元は、《諸法無我》を《諸法非我》としています。 だとすれば、 《諸行無常》と似た意味に解釈できる《諸法無我》をブッダがたてた必要性を理解できる。 《諸法無我》ではなく《諸法非我》とした方が理に適っている。 そうすれば、輪廻の主体が《なん》であるのかも議論しなくてすむ。 それは、とりあえず《アートマンもどき》とすれば良い。 《アートマンもどき》が何であれ、修行の観点からすれば、まったく関係ない。 悟れば、その正体がおのずと分かる。 上座部仏教では、部派ごとに名称は異なるが、輪廻の主体《アートマンもどき》を設定していた。 《如来蔵》発生の経緯も理解できる。 《法身》《法界》も説明がつく… 頭では分かっているんですが、《諸法無我》の方が好きなんで。 まっ、しょせんは、仏教も数あるインド教の一つですって。
お礼
ご回答をありがとうございます。 (γ) 《人はブッダに成れば もう生まれて来ない》――なぜなら《根本的な生存欲》たる無明が消えたから――なる命題が 飲み込めません。 ★ ~~~ 仏教を含めるインド教の最終目標は、 輪廻からの解脱、つまり、この世に再び生まれないこと、《再生しないこと》。 その《再生しないこと》を妨げるものが《無明》なので、 《無明》は《根本的な生存欲》と定義できると思います。 ~~~~~ (γ‐1) 生まれつづけてよいのではないかというのは 苦をまねく生存欲でありそれへの執着に過ぎないか? (γ‐2) 寿命をまっとうしたいというのは・そしてそのように世代を継いで生きつづけることが 《むさぼり》なる煩悩であるのか? (γ‐3) 《病気》は それを治すことが目的であるのではなく 病気にかかり得るこの身に生まれなくなることを目指させるためのシルシなのか? (γ‐4) 獲得した知恵によって人間がその寿命を長く延ばすことは やはり生存欲でありムサボリでありブッダの智慧にさからうものか? ★ ~~~ でも、この定義だと、《智慧》(知性や知識ではないです)の重要性が分かりにくくなるかな。 インド教では、なによりヨーガの実修で得られる《智慧》が重要視されるので、 この一面が消えちゃうのは、まずいかも。 ~~~~~~ (γ‐5) ヨガを初めとする修行実践の意味はどこにあるのか? 実際におこなってみないと分からないのだろうか? けれどもそれは 社会に生きるという実践修行に代えることは出来ないものか? (δ) 知恵つながりで 《グノーシス主義》の問題 ★ ~~~ 《神の国》、《涅槃》へ至る道はすべて与えた。 そして、神はしりぞき、世は末法。 あとは、個人の選択、《自由意志》の問題。 《あとは自分たちで何とかせい!!》でいいんじゃないでしょうかねぇ~。 でも、その考え、かなりグノーシス的ですよ。 僕は結構、グノーシス、好きですけれど、 いいんですかぁ~? ~~~~ (δ‐1) おそらく善悪二元論に拠ることなく 知性ないし教義(それらの単独分立主義)から自由であること この二点において 違いがあると考えます。 (δ‐2) 人間の自由意志にすべてまかせたという場合にも その自由意志は 《非経験の場》なるナゾの何ものかへのおそれ――きよらかなおそれ――を知っており 人はそのおそれのもとに聖なる甘えを知っている。 (δ‐3) 自由意志をつつむようなこの《非思考の庭》 この庭がわが心に成るなら それは 《境地》である。この境地から現われる知恵の中身や実際にそれが苦悩を克服する過程などを よく言えばグノーシス主義は説明しようとしているのかも知れない。 ★ ~~~~ (あ) そう、《布施波羅蜜》でえられる《無執著》は最終的には捨てられる仮のもので、錯覚。 真の《無執著》の境地に立てるのは、《般若波羅蜜》すなわち《菩薩行》が完成したとき。 《菩薩》は、《衆生済度》のために、この世という泥田の中を、永遠と思える長い時間、這い回る。 (い) この世からすべての衆生が消え去った時、はじめて《般若波羅蜜》《菩薩行》が完成する。 (う) 般若の智慧が完成しているから、実は、誰も救ってはいない、自分さえ救ってはいない、と気づく。 (え) なぜなら、すべては空だから。そして、はじめて空の本当の意味がわかる。 それが《般若経》の説く《菩薩行》《六波羅蜜》だ、と、ぼくは思います。 ~~~~~ (δ‐4) 上の(あ)が グノーシス主義の超主知主義のごとき観念論――それゆえ 性愛といった即物的な議論ないし実践に結びつくのではないか――を破っていると思います。ただし 《完成》と《途中の過程》とに分けないかたちを ここではとなえます。分けているという場合は 神がまだ人間の自由意志にまかせたと言っていない段階ではないでしょうか? (δ‐5) グノーシス主義について けっこう忘れていますが もし善神と悪神との二元論から出発して 途中の過程では悪神が優勢であって 終末には善神が勝利するという筋道だったとしたら これは言わばじんるいの《前史》だと捉えます。例の《へび》と同じように 大きく《錯覚》の部類に属するのではないでしょうか? * あとは 保留しました。あとのお楽しみのごとく。 ★ ~~~ 父なる神 ←→法身 神・キリスト←→阿弥陀仏(報身) 原罪 ←→宿業 福音 ←→弥陀の本願 神の愛 ←→弥陀の慈悲 ~~~~ ★ 著名な仏教学者の中村元は、《諸法無我》を《諸法非我》としています。 ★ 《アートマンもどき》 ☆ これを――別の視点に置きかえますが―― 神の偶像つまり《観念の神》にたとえることが出来ると思います。つまり誰やらが《神は死んだ》と言ったその場合の神です。 神は死んだから 人間に道をゆづったのではなく その心が伝わったゆえにしりぞいたものと思われます。 《神もどき》でふざけ遊んでいた時代は長かったでしょうか。いまでもそうでしょうか? つまり《観念の神》とか《アイドルとしての神》とか言って来ていたのですが 《神もどき》という表現にすると いっそう分かりやすい。ようです。パクらせていただきます。 日本と世界の夜明けは近いでしょうか?
- NemurinekoNya
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十二支縁起 無明→行→識→名色→六入(六処)→触→受→愛→取→有→生→老死 十二支縁起と赤ちゃんの誕生(有)から《無明》の存在が帰結されます。 十二支縁起が正しい、論理学の用語で言えば《真》であるならば、 《無明》の存在は、赤ちゃん誕生の《必要条件》だからです。 (β‐7) 《もはや”清浄"ではない》という意味は 《生まれつきの状態として清浄でありつつ すでに無明が入り込んでおり どちらかと言うと 無明のチカラのほうがつよい》ということではないのだろうか? 《無明》《煩悩》は強くて執拗です。 《無明》のために、永遠の過去から《無始以来》、人間は輪廻転生を繰り返していますから。 仏教には人間の行為・《業》を超える力は存在はありません。 だから、人間の行為である《善行》を通じて、輪廻の原因である《業》を超えることが出来るというわけです。 ☆ というさとりの方程式において すでに生まれつき清浄であり明知も〔潜在的なチカラとして〕そなわっている。ということではないのか? それゆえにも 即身成仏が説かれ得たと。 現実の赤ちゃんの心は汚れているけれど、その本性として《清浄》である。 あるいは、悟りの根源である《如来蔵》を宿しているという意味に解釈して… 僕は悩みの立場、修行論的立場から《自性清浄心》をとらないので考える、この立場はとりませんけれ ども、 《如来蔵》を説く《勝鬘経(しょうまんぎょう)》にとっても面白い記述があったので、紹介します。 『《如来の法身》こそは、究極完全な常住性、 究極完全な《アートマン》、 究極完全な安楽性、究極完全な清浄性でございます』 (一諦章) 『世尊よ、この《如来蔵》がもし衆生の中にないとすれば、人が苦を厭い、 涅槃を望み、あこがれ、これを得ようと誓うこともないでしょう。 (中略) 《如来蔵》ははじめも知らず、永遠をのもの、不生不滅な性質ですから、苦を感受します。 それゆえにこそ、《如来蔵》は苦を厭い、涅槃を望み、これを得ようと誓う主体なのです。 (少し略) 《如来蔵》は、かれらの言う《アートマン》、《存在》、《生命》、 《個人存在(ぷとがら)のような《実体》ではありません。』 (如来蔵章) 究極完全な《アートマン》である《如来蔵》が苦を厭うから、《悟り》を望むから、です。 《苦》の原因は《悪行》であり《苦》を厭うから《悟り》《涅槃》を望むので、 だから、《修行》をするということなのでしょうねぇ~。 よって、《如来蔵》(自性清浄心)の観点から立てば、答えは ”イエス”です。 《勝鬘経》で説く《如来蔵》思想では、 《法身》も究極完全体な《アートマン》だ と明言しているので、 どう見ても《梵我一如》の思想になるわなぁ~、これ… と独り言!! (β‐9) 《エポケー》が単なる《思考停止》の意味なら、駄目でしょうね。 輪廻の原因である《業・カルマ》を作るのは、 《善・悪》に色づけされた人間の行為《業・カルマ》。 《善・悪》でない、仏教用語で言うと《無記》の行為は、力が弱いので、 輪廻の原因となる《業・カルマ》を作れないもので。 ○善行ないし修行によっておこなうことは 余計な業を意図的に削ぎ落として行くことなのであろうか? 原始仏教・上座部仏教(いわゆる小乗仏教)的には、全面的に”YES・イエス“。 でも、この質問は、《般若経》などでとく《無執著》の観点からの批判ですね。 そう。《善行》・《修行》にとらわれていたら、 そこにはまだ《わたし》という自我観念(普通の自我の意味)がある。 《教え》へのこだわりがある。 それが《悟り》への妨げになる《業・カルマ》を作る。 大乗的には、ことさら《自分》をたてて意図的に《善行》・《修行》を行ってはいけない。 だからって、「《善行》《六波羅蜜》をするな」という言うんじゃないですよ。 なにもにもとらわれない《無執著》の境地に立って、 《般若経》は、《善行》《六波羅蜜》をすすんで行え、ということを言っているんですから。 《六波羅蜜》の最初《布施波羅蜜》で、 《三輪清浄》をといているでしょう。 《三輪》、つまり《与えられる人》、《与える物》、《与える自分》、 そうしたことへのこだわりがあってはいけない、《無執著》。 《布施行》が完成、つまり、《布施波羅蜜》の境地に達すると、自然と《無執著》の境地になる。 でも、本当に《布施波羅蜜》が完成するのは、《般若波羅蜜》が完成したときなんですけれどもね。 ☆ これは 《一闡提》といった用語で記憶していますが またそれとは別ですか? たぶん仏性に例外はないと思うのですが。 似ているんですけれども、 《無性有情》は《一闡提》(いっせんだい)とは別な概念です。 《一闡提》は、《断善根》とあるとおり、善根(善い行いをする力)を断った人という意味です。 そこから、《善根》(善行を行う力)のない人の意味が出てきます。だから、《悟れない》。 具体的には、仏教を非難する人、親を殺すなどの五逆罪を犯すような極悪人ですね。 サンスクリット語の意味では、《欲求する人》くらいの意味らしいですね。 《無性有情》は先天的に《悟る》能力がまったくない人・《衆生》です。 生まれかわり死に変わりする《無始以来の輪廻》の中で、 いくら過去に遡っても、《悟りにいたる能力》が見あたらない。 そして、今後も解脱の教えである、もっとも広い意味での《仏教》にまったく無縁の人のことです。 《声聞》《独覚》《菩薩》になる先天的なまったく能力がない。 《如来蔵》《仏性》《自性清浄心》を持っていない人のことです。(これはさすがに言い過ぎ?) したがって、未来永劫、輪廻の世界をさまよい歩くというわけです。 《唯識の教え》をもって(インド)大乗仏教の完成とみなすならば、 その完成体である大乗仏教は、 《一切衆生 悉有仏性》 の立場を断固拒否します。 ヨーガの実修という修行のなかから生まれた《唯識の教え》は、その実修的立場から、 《一切衆生 悉有仏性》。それは絶対にありえない!! とします。 ある意味で、パウロや親鸞に似ているんじゃないですか、唯識のこの立場。 自分は《無姓有情》なのではないかという絶対の不信感、絶望感、 その先に、《神の救い》、《弥陀の本願》をおくかどうかの違い… 事実、唯識思想の完成後(?)に誕生したとされる《入楞伽経》には、 《無性有情》も仏さまの《慈悲》で悟ることができる みたいなことが書かれているそうです。 (僕は《入楞迦経》を読んだことがないので、だいぶ前に読んだ本からの受け売りの知識!!) ☆☆ (β‐2) ・・・つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。 ☆ これが ブディストの真骨頂だと思うのですが どうでしょう? でしょうね。 これが《菩薩道》!! 《維摩経》に見られるとおり、これが《自利・利他》の教えでしょうね。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 今回は 法身の議論に出来るだけ入らずに どれだけブッダに成れるかを問い求め得ればと思いました。 その見方から行けば 最後に確認いただいたことは おおきな収穫です。何ものにも代えがたい核心なのではないでしょうか。 ★ ~~~~~ ☆☆ (β‐2) ・・・つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。 ☆ これが ブディストの真骨頂だと思うのですが どうでしょう? でしょうね。 これが《菩薩道》!! 《維摩経》に見られるとおり、これが《自利・利他》の教えでしょうね。 ~~~~~~~ ☆ 言いかえると すでに 拙いながらも 実践の道にあるというその地点と動態そのものから ブッダのおしえをまなぶという順序すらあると言えるように思いました。 この道の上を歩いているのなら ★ 《布施波羅蜜》の境地に達すると、自然と《無執著》の境地になる。 ☆ を先取りしているような錯覚に落ち入ることが出来ます。つまり 勇み足を承知で言うとすれば このような《無執着》なる境地に到ったという錯覚のまま その道をどこまでも歩み 一生を終えてもそれほどマチガイだとは言えないかも知れない。 というのも――例によって 飛躍しますが―― ひょっとすると〔ブッダの見地からは でしょうか〕《無明ないし煩悩》もただの錯覚である。というのかも知れないぢゃないですか。 無明を《根本的な生存欲》と定義する解釈も出されていたと思います。(宮元啓一でしたか)。 たしかにここまでの規定をおこなうなら ★ ~~~ 十二支縁起と赤ちゃんの誕生(有)から《無明》の存在が帰結されます。 十二支縁起が正しい、論理学の用語で言えば《真》であるならば、 《無明》の存在は、赤ちゃん誕生の《必要条件》だからです。 ~~~~~ ☆ という見方にもつながって行くようにも思われます。 つまり そのこころは? そうですね。 もしブディズムにおける因果応報説が 善因善果・悪因悪果では必ずしもなく 善因楽果・悪因苦果だとしますと たしかに無明の問題は 《苦》の問題になるということですよね。 でも ひょっとすると またまたですが ブッダ あやまてりという論点として 生老病死は 四苦ではなくて 四楽だとは言わないまでも まづ空だと見ることは出来るわけでしょうから どうなんでしょう。どういう落ちをつければよいか。 《生老〈健・病〉死》 これは ふつうの人間のあり方だ。とでも言って行けばよいのではないでしょうか? 空観からすれば 《健康病気は一体だ》とでも言うのではないでしょうか。 不用意に言えばですが 生きることの《苦》視 これが いけません。善悪は 相対的な経験世界におけるひとつの判断にかかわっています。苦楽の苦は ことさら無明=煩悩の過大視につながりかねません。 もっとも苦ないし無明を明らかに見ること これが ブッダとしての目覚めにつながるのだという見方もあり ということでしょうか。 ★ ~~~ ある意味で、パウロや親鸞に似ているんじゃないですか、唯識のこの立場。 自分は《無姓有情》なのではないかという絶対の不信感、絶望感、 その先に、《神の救い》、《弥陀の本願》をおくかどうかの違い… ~~~~~ ☆ こうなりますと 例の《原罪》の論議にも似て来ます。アダムらから始まった原罪も 第二のアダムと言われるイエス・キリストの出現によって 言わばチャラになったとわたしは見ているのですが それでもそのあと 原罪による緊張感のようなものでしょうか これがあると――理論としても――世界の解釈が納得の行くものになる。こう見る人が少なくありません。絶えません。 ★ ~~~ 《一闡提》は、《断善根》とあるとおり、善根(善い行いをする力)を断った人という意味です。 そこから、《善根》(善行を行う力)のない人の意味が出てきます。だから、《悟れない》。 具体的には、仏教を非難する人、親を殺すなどの五逆罪を犯すような極悪人ですね。 《無性有情》は先天的に《悟る》能力がまったくない人・《衆生》です。 ~~~~~ ☆ ありがとうございます。 そうだとしますと・そして《さばく》という観点を加えて捉えるなら どうもこの《一闡提》にしても《無性有情》にしても ブッダや神の視点に立って言っているように思われます。 言いかえると 人間は だれが一闡提でありかれが無性有情であるかは分からない。まして《さばく》ことは出来ない。こう考えられて来ます。 そして キリスト・イエスの立ち場からは 《末法》はありません。天国も千年王国も最後の審判も ぜんぶタトエとしての物語だと言い切ってよいと考えます。《わたしはすでにこの世に勝利している》が 実現したというところにわたしたちは 立っていると見ます。 ★ ~~~~ 《唯識の教え》をもって(インド)大乗仏教の完成とみなすならば、 その完成体である大乗仏教は、 《一切衆生 悉有仏性》 の立場を断固拒否します。 ~~~~~~ ☆ つまり 神に背くことは裁きとつなげて捉えられることはなくなった。ならば 神の聖霊がひとに宿るということをことさら言う必要もなくなった。 言いかえると 神の国と地上の国とはすでにそれら互いをどのように区別して分離させればよいかが分からないほど この地上において互いに入り組んでいる。からみ合っている。 すでに神の国であるとも言い得る。清浄心と塵や汚れとがすでに前者の状態ないしハタラキがつねに垣間見得る情況にまで成った。 神はしりぞいた。ブッダも末法だ。 そして この状態の世界こそが ブッダの出たゆえんであり 神ののぞむ社会であると考えられまいか。 どこか安易にいわゆる人びとの成仏を言い過ぎであるような例の本覚思想 これがすでにみづからもしりぞくかたちにおいてなら ひそかにそれの勝利の呼び声が高くなっているのかも知れません。 しかも ★ ~~~~ 《勝鬘経》で説く《如来蔵》思想では、 《法身》も究極完全体な《アートマン》だ と明言しているので、 どう見ても《梵我一如》の思想になるわなぁ~、これ… と独り言!! ~~~~~~ ☆ ここまで議論はすすむとしますと ヒンドゥーの人びととも無理なく手をたずさえることが出来るというものです。 めでたし めでたし。なのですが・・・。
- codotjtp
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「『相対無』をも認識し得る自我」が覚醒しますと、 其の時点で、其の人間は純粋な清浄心を失ってしまっていますので、 若し其の清浄心の回復が求められているのでしたら、 精進なる徒労の継続的な悪足掻きを強いられざるを得なくなるでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ですが おっしゃっていることがよく飲み込めません。 いぶかしいと思うところを述べてお礼に代えます。 ★ 「『相対無』をも認識し得る自我」が覚醒しますと、 ☆ 無は ふつう経験世界における《相対無》のことです。つまり そのつど有るか無いかどちらかひとつとして決まる場合だと思います。 自我とは 《わたし》のことと理解するならば 人間の《わたし》は 一般にごくふつうに相対無を・つまり無を認識し得ます。 その《わたし》は 特別に《覚醒》せずとも 無や有を認識し得ます。 ★ 其の時点で、其の人間は純粋な清浄心を失ってしまっていますので、 ☆ まづ初めの定義において ▲(ヰキぺ) ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。 ☆ ですから 清浄心は 《うしなわれる》のではなく 汚れによって覆われてしまうといった現象が起きる。その状態として 無明=煩悩 と言われるようです。 ★ 若し其の清浄心の回復が求められているのでしたら、 ☆ そうです。 ★ 精進なる徒労の継続的な悪足掻きを強いられざるを得なくなるでしょう。 ☆ ブディズムにおいて《精進》は そのとおりだと思われると同時に なぜそれが《徒労》だと初めから決めつけられるのか? は分かりません。 ★ 継続的な悪足掻き ☆ かどうか はっきりしませんが 一般に ○ 自力と呼ばれる聖道門と 他力と呼ばれる易行道とがある。 と考えます。後者が 《聖なる甘え》に通じると見るものです。
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お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 正直、ブッダが向かう先は、《お利口で善い子》のサーマーワティーではなく、《おバカで悪い子》のマーガンディヤだったと思います。 ☆ この見方は 控えていました。きれいごとに終わりかねないと思われたからです。 でも きちんと出してもらったからには 《誰に対しても なるべく(自分の度量のゆるす範囲で)隣り人となる》という行き方を わたしからも つけ添えておきたいと思います。 * ★ ~~~ ・・・ この仏伝の製作者もそうでしょう。瀬戸内寂聴の言葉を見るかぎり、彼女も「ブッダはマーガンディヤをなぜ救わなかったのか?」という疑問を感じていないようです。だからでしょう、《彼女には何の生命がなかった》みたいな酷い言葉を口にできるのは。 ・・・ ~~~~~ ☆ そうですね。次のように無難なしめくくり方でもあります。 ▲ (寂聴:《悪女 聖女を焼き殺す》の結語) ~~~ 人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は 考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間 で はかってはならないのだろう。 (瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』 p.159) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * 次のご指摘は 考え及ばなかったのでした。 ★ ~~~~ 女性を人間とみなさい当時のバラモン教支配の社会では、ありえないほど、ブッダは女性に優しいんですよ。 身分の賤しい女性が救いを求めにやってくれば、なんら差別をすることなく、理解力に応じて教えを説く。在家の妻帯男性信者には、「妻を敬え、尊敬しろ。装飾品を与えよ。大切にしなさい」と説く。女性出家信者も認める。これらは当時では信じられないほど、画期的なことなんですよ。 でも、みずから救いを、教えを求めなければ、わざわざこちらから出向いて教えを説くようなことはしない。 ~~~~~~ ☆ 《でも》以下が 言われてみれば 確かに独特なようですね。 ★ 色々な意味で仏教には《唯我独尊》的な要素があると思います。 ★ お行儀のいい人向けの宗教なんですよ、仏教は。大乗の般若経なんかにも、《悪い人に交わるな》みたいなことを書いていますし…。真宗の人は、うちは違うぞ、と、ほくそ笑むかもしれませんが。 ☆ 同じくですが なお引用します。《教法システム》にまで及ぶこととは知りませんでした。 ★ ~~~~ ブッダの教法姿勢は、ご指摘の通り、普遍性をもちえていない、と考えます。 当時のインド社会というごく狭い枠の中でしか成立しえないものだからです。 そのインドの中でにおいてさえ、イスラム勢力が侵入して社会が混乱し、出家集団をささえる在家集団のシステムが瓦解すると、仏教は簡単に消滅してしまいますから。 仏教の教法システムは、真の意味での普遍宗教のそれにはなりえなかったということの証明ではないでしょうか。 ~~~~~~~~ * ★ 《ウッパラ=ヴァンナー》の話。 ☆ かつてデーワダッタを悪者と見るこには 誇張があると 加藤周一だったかが言っていて デーワダッタにかんしては その後割り引いて受け取っていました。史実ではないとしても 考え方の上で真実に近いということなのですね。男の話としてなら ブッダもかまってみるというところでしょうか。(ちょっと言い過ぎでしょうか)。 * ★ ~~~~ 《香り》ですか… The Story によると、 マーガンディヤの悪だくみで王殺人未遂の嫌疑を掛けられたサーマーワティーに、王の放った矢があたらなかった…。 これは《神明裁判》の一種でしょうから、《香り》には十分だと考えますが… この時点で、彼女(=マーガンディヤー)は「王の放った矢が実は自分に向けられたものである。それは紛れもなく、破滅への《香り》だ」と気づくべきだったのでは。 そうでなくても、何か変だと思い、普通、その意味を考えようとするのではないでしょうか。 ~~~~~ ☆ なるほどですね。 ★ 言葉による説得では無理なので、この《矢》をもって、彼女に教え諭そうとした。フォローした、 / ということで、駄目でしょうか。 ☆ たぶん ここから踏み出す次の段階は 《みづからの悪をさとるのに ほかの人の犠牲をともなうことがある》事例 この事例を――いささか安易な言い方ですが―― 《前史》とすべく考え方を練って行くこと。これではないかと考えました。 しかもそれは そうだとすれば 例の《友のために命を投げ出すことほどの愛はない》の考え方をも突き抜けようとする大胆な方向での志向性です。(このような向こう見ずの言葉を発したあとにはわたしは よく《へへっ》という言葉を添えるならわしですが さすがびびります)。 * ねむりねこさん おかげさまで いいスレになったと思います。 みなさんにも たのしんでもらえたのではないでしょうか。 いましばらく開いています。補遺などありましたら お寄せくださいませ。