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復活とは? 不死の境地とは?
健康が保たれている・損なわれているにかかわらず わたしたちは 言ってみれば 余命いくばくかの状態で生きています。百年・八十年・・・・三十年・二十年というふうに たとえ明確にではなくとも まちがいのない形で 余命は決まっています。 そこで持ち上がるのが 人生論です。 哲学がいやしくも 幸福を主題にするかぎりで 人生論の行きつくところは 浄福あるいは覚りとは何ぞやです。 この現在の肉(身体=精神)の生をも超えて 再生=復活あるいは不死の境地という想定にまで わたしたちの想像力もしくは直観力は 伸びるようです。 最近 次のような概念もしくは考え方を反芻しました。 1. すべてを 終わり=目的から 始める。 2. では 終わりは どこにおくか。 3. 永遠の現在というばあいにも 千年あるいは五百年を生きつづけても 退屈であるのではないか。 4. 一たん死んで そのあとの再生なのか。それとも そうではなく いまの体のまま 二百年ないし百五十年を生きるというのか。(二百年なら 実際問題としては 永遠であるだろう)。 ・・・(かなしいかな ここまでで止まりました)。 この《終わり=最終目的=意志の休息》の議論について ご見解を述べて おしえていただけませんか。 復活については 一定の解釈を 持っていますが――つまり 《真理が すべてにおいて すべてである》というものですが―― ほかにもおしえてください。 不死の境地については 解脱・涅槃あるいは清浄心のことだとまでは理解しますが おしえを乞いたいと思います。(ブッダ葬送とまで言っている人間ですが よろしかったら ご教授ください)。 あるいは 非・復活の論 反・再生の説 その他その他についても おしえてください。 あるいは ひょっとして 理想社会の議論とつながっているのかとも思ったりします。自由なご見解をお寄せください。
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○ 霊の呼びかけを受け容れる ☆ だけによって 向上すると思っています。つまり 第一義としては 経験思考や努力によるのではなく 非思考つまり信仰によると思っています。(簡単に言えば 絶対他力ですね)。 否定しません。尊重します。僕は、自然な向上心でいいと思います。おそらく、基本的に差異はないと思います。 ☆☆ ・・・経験存在としての《肉(身体および精神)》なる《わたし》が 死ぬとしても それは いま予感している復活路線にとって もはや 何のおそれも ありません。 ☆ この箇所が 語弊を持ったかも知れません。これは 死後を問題にしない と表明しているのですけれど うまく言えていないかも知れないですね。 死後よりも生存中の復活(ある種の反省と出直し)を意味しているのならば、賛成です。異論ありません。なぜならば、超経験・絶対への逆転換(個々の死)は、やはり、超経験になっていると言わねば、論理的な整合性は取れないからです。死後の復活は、他者の記憶の中だけにしておきましょう。ここは、共通認識にできたと確信します。もう、書き残しはありません。これにて、今度こそ退散します。うまく誘導していただけたと思います。ありがとうございました。
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- arayata333
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「ゆとり」があれば 他の人への愛は必ず芽生えるという理論は成り立たないでしょうが、 大きな視野から展望するなら《「しあわせと名づけられるゆとり」があれば 必ず、無心な利他は芽生える》という論理は成り立つと思います。 「しあわせ」と言える状態は、 感性の発達無しにありえるとは私は考えていません。 これには異論はさまざまあるかと思いますが、究極的にはそう言えるとわたしは思っています。 が同時に 生物としての弱さも持っている人間には「ゆとり」と言える生活状況もおおいに必要ということなのです。 しかし生物としての弱さということには、 もともとの人間という生物が弱いということを必ずしも意味していない(頭でっかちの必要性あるいは左脳も使う必要性が 実際にそのもともとの生命力を弱めてしまっている点もありますし、 似たことでは言葉の獲得がかえって知能を混乱させてる部分も多々みられますし、 薬の悪循環がむしろ苦痛を深めて「ゆとり」を奪ってたりもして、 これからのあるべき社会像への道はけして単純とは言えません。)のですが、 大きく大空から力強く言えることとしては、《「しあわせという名で呼べるゆとり」ならば、かならず人の心には矛盾や無理や偽善やウソのない愛が芽生える》という理論は成り立つと私は 思っているのです。 演繹的にも、帰納的にも 究極的に破れない理論としてです。 そして、私は この理論がしっかり理解されない限り、復活を考えても無意味だと思う者でもあるのです。 この理論から考えられる いくつかのそのへんの検証をしていってみます。 (1) 個人的には感性が ある地点まで成熟しない限り 私は心には>退屈<がやってくると思う。 この>退屈<を私は 生物の弱さの属性としては考えていません。 仏教思想の中の「日々是好日」とか 聖書の「明日のことは思い煩うなかれ」とかの あたりの思索とも関わるかと思いますが、 これって感性が 実際に日々新鮮で無いと これも頭を混乱させてしまうだけの思索展開になってゆくと思います。 そして、その>退屈<を克服できるだけの 子供のような新鮮な心を私たちの心に取り戻すことがない限り、 神にはその力があったにせよ、簡単中の簡単であったにせよ(ほんとうは、存在が存在させられているのは実際の事実なのですから その困難さは存在しないと考えることはぜんぜん難しいことじゃないんですが^^) たぶん、永遠の時間なんて人間の脳にとって地獄でしかないでしょうから というよりおそらくやがてはこれが最高の地獄ともなりえてしまうので、 そんな馬鹿なことを神の知性が実行するはずがないと いうのが一つです。 (2) もし、人間がたった一人の存在だったとしたら、子供のような新鮮な心が日々持続しようとも、その人は「しあわせ」であり続けられるでしょうか? まず、人類全員が そのような心を獲得しないかぎり、果たして現実的に復活に意味があり希望があるのかどうか?、 それはバッハの音楽のような力強さを私たちにもたらしてくれる何かの希望の厚みを与えてくれるものとさへならないのではないか? 感性自体には希望はあります。 それはそこからさらにさらに、はるかにはるかに頂上なしの山に通じているからです。 どこまでもどこまでもさらに感性の道は より豊かによりひろさと深さをもってつづいているからです。 いつか私たちは、生物の弱さをもったままでも ほんとうにキリストのように苦痛や恐怖も超えて人を愛せるようになるかと思います。 でも 今の今は、ほとんどの人においてそれは無理だと思います。 これは信仰の問題となるかと思いますが、私は仏陀もそういう心に達していたと思っています。 正確に言うと そういうふうに信じるべき存在と思っているということです。 なぜならば、そのように信頼することによって、 ともすれば天狗になりがちな感性の発達の道程にて いつもその道に謙虚になれるはずだからです。 史実が解らない、 実際はどうだったか解らない、 生物の弱さを別に神秘的な超能力とかではなくわれわれと同じまま克服した証明となるようなものもない。 という仏陀への反抗ということならば、 史実なら新約聖書も今一不明確なところがあるという点から その反抗には意味がなくなるかと思います。 あくまで私の場合は、感性教育の一環としての謙虚さの問題としての仏陀への信仰を言っています。 そちらの言われる 埋葬後の信仰ということなのかもしれませんが。 「しあわせ」とは その意味からも社会の問題でもあるのです。 (3) 同じことかもしれませんが、 別な観点からも言いたいです。 私たち人間は 生物としての弱さを持っています。 深い苦痛や恐怖を見つめたりコントロールしたりできないはずです。 そんな私たちにおいて、 私たちは、肉親が殺されても 許しあえる存在だと思いますか? そこまで私たちの愛は深いと思いますか? そんな愛を道徳の押し付けとか催眠的教育とかで創れると思いますか? 私には 不可能だと思います。 しかし、感性の道が(神の与えられたこの体のすばらしさの認識の道が)どこまでいっても尽きない泉であり どもまでの深い海であり どこまで登っても展望の開き続ける世界ならば、 やがては私たちは それがゆっくりと感じられはするでしょうが、 かならず いつかは強くなれるはずです。 が、 逆に 人が人を許せない状態の時に、復活がやってきて このまま生物としての生活かつ社会人としての生活を永遠に維持することは出来ないでしょう。 すべての人がすべての人を許せるようになることが先決です。 すこしでも もうゆるぎない子供のような新鮮な心を取り戻すことのほうが先決だと思います。 それなしに どうせ、「永遠の現在」という時間は無い、というのが私の哲学なんです。 * 私は 五感を離れた天国とか復活は想像できないのですが? ? 私には 地球を離れた天国とか復活は想像できないのですが? ? そういうウソが方便としての価値を持たないと言ってるのではなくて、ここでは実際の希望としての「復活」論を論じています。 * わたしは、ここに 善の戦士 という概念を訴えたいです。 「永遠の現在」の謎の時間を手に入れるよりも前に、 その命をかけた闘いがなければ、命を削った闘いがなければ、 当面はたとえば、 薬のあり方をめぐっての闘いがなければ、 つまり「永遠の現在」でなく「現在」の人間としての闘いがなければ、 それは私たちの「時間」の中に永久にどうせやってこない。 ここにて この認識を共有できないものでしょうか? それが哲学者の心の中の信仰なのではないでしょうか? 「今」に目をも心をいや全身全霊を向けることが です。 理想社会への十字架を少しでも担ぐ道です。 * この闘いの良心の地点からは、 これからは私も 仏教の理論の世界についてはうやむやな言い方ではない批判も始める必要を感じるようになっています。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。《芸術》のほうもそうですが 締めるのは いつでも締められると思って 放っておいた状態でした。 まだまだ たしかに 探究はつづきます。最終の結論として述べていただいたと思うのですが これから踏み出す課題も述べてもらっていますし たぶん この踏み出しの地点での協力・連帯あるいはまた別行動といったことについても 広く人びとを糾合するというにあたっては 探索はつづくものと考えます。 全体として すでに方向づけも終えていて 互いに それぞれが これまで 歩み出して来ていた道を 確認しあうといった地点にあると思います。そういう点を確認しあっているわけです。いま この質疑応答において。 その前提で 異同をも明らかにするという作業があります。 《異》のほうに傾いて 評言をのべさせてもらいたいと思います。 いきなりですが 自然本性について どう思われますか? 存在は 存在すべくあるという意味で 善であるという命題。生命の尊重が 善であるという公理。そして 自由意志 あるいは それによる表現の自由。また この自由が 互いに対等であることより ひとは 平等であるという理念。これらをとうとぶという愛の普遍性。 仏性とも言うわけですが ひとは 無条件で 善であり自由であり愛すべき存在であるという命題です。 この自由意志は みづからの自由や愛に逆らう自由も持つということにより みづからの存在や能力を傷つけた。うそを言ったし そのうそを ためにするという偽りにまで発展させた。 したがって 自然本性なる《わたし》に自己還帰すれば 浄福であり 復活につながる。という見解です。手放しの楽観論です。至高の能天気です。《ただ 霊の息吹きを受け取りなさい》というのみだというわけです。――でも 《仏性》は どうなんですか? 寝てしまっていて 起き上がって来ないといったところなのでしょうか? どうなんでしょうか。 あえて 単純な図式的なことがらで 応答させていただきました。いかがでしょう。
オコリザルです。 最新の大霊界ギャグです。 このところの高次元の霊体のセールストークに変化がありました。 (白旗を掲げながら)やってきて、「あなた様のおっしゃるのは除霊ではなく浄霊ですか?」とのたまいます。 霊は除霊を望みません。 たとえば「無に返れ」と日本人らしく宣告するとはっきりします。 無に返ることが無の境地に至る成仏ではなく消滅を意味します。 「浄霊」で少しは取っ掛かりになるかなと思ったら内訳は「われらを支える教祖様になってください」でした。 現実的にこの信仰は魂を売り飛ばすことを意味します。 霊媒師体験のある私に言わせれば、幽霊相手の除霊は一銭の徳にもなりませんが、宿主たる本人を翻弄する新興宗教解説なら世間一般に十分儲かっています。 そんな儲け話なのですが終始一貫して常識人たる私は聞く耳も持ちません。 霊と煩悩の関係について霊を肯定する方から証言が欲しいところです。
補足
primeapeさん しばらくぶりです。ご回答をありがとうございます。 そうですね。現実に そういう情況があるということですね。 悪は それ自体としては 存在していない。人間存在という善に付随して その損傷としてのみ 現象していると捉える立ち場に立つ者ですが そうしますと いまそのように primeapeさんが置かれている情況というのは 現実に起こっているのであると同時に その現実は どうも そこに苦悩している人びとが 自分から望んで陥った情況なのである。現実であって 現実ではない。しかも 人びとは そのことを半ばは ちゃんと知っているのだと思われます。 悪の場合と同じように――善なる存在を みづから進んで うそによって傷つけようとして 現象させているその悪という状態と同じように―― 現実とは何かをじゅうぶん知っているのに わざと そうではない想像=妄想を起こして それを霊界と称して 遊んでいるだけである。だから 現実であって 現実ではない。のではないでしょうか。 ★ 霊と煩悩の関係について霊を肯定する方から証言が欲しいところです。 ☆ 《霊なる超経験を肯定する》立ち場から見れば 以上のような見方になりますが まづ ★ 霊と煩悩の関係について ☆ は 《非思考=信仰》が直面する《霊》と 上に分析した《想像=妄想としての非現実》を《霊界》と呼んでいる場合のそれとは 別だと捉えます。つまり 後者では 霊界をあたまの中に仮想現実としてこしらえているだけであり そこに遊ぶ精神は 煩悩(無明)そのものだということになります。ふつうの精神を持てあましている・その結果 弄んでいるのではないでしょうか。 昔 《モラトリアム人間》という言い方が 提出されたことがあります。何につけ ものごとに対して自分で判断をせず結論を出さず 行動を迫られても決断を先に延ばす傾向にあるというものです。 もし その類型で捉えるなら それと同じように決断を自分で下すことをようしない状態にある人たちが ★ 「われらを支える教祖様になってください」 ☆ と言ってくるというのでしたら それは あるいは 多少の前進なのかも知れません。行動を――きわめて消極的に 責任逃れの装置を まづ真っ先に作っておいてのごとくでありながら―― 少しは起こそうとする動きであるかも知れません。そして 確かにそれは いわゆる新興宗教が 受け留めて 商売の相手にしているということかも知れません。そういう現実の部分があるでしょうね。 ひとつには 個人が一人で考え自分一人ではっきりとした結論を出して すすんで行動するということを嫌うならわしが このくにには あります。それが 《和を以て貴しと為す》ことだと思いこんでいる人びとが 多いわけです。要するに お上には従えと今も かたくなに信じている人びとです。でも たとえ ★ 教祖様 ☆ から受けたものであっても その指針なら 自分も おこなってみようと もし考えたのなら それは きわめて愚かなものでありながら 積極的な行動へ踏み出す微細な一歩であるかも知れません。まぁ ないかも知れません。 というように受け取りましたが ひとつには むしろ 仏教という現象 これを 徹底的に分析し しかるべきは しかるべく批判していくことが 現状打破の一歩になるかも知れません。空を覆う雲のほうを 先に吹き払うという寸法です。 直前のご回答では krya1998 さんから ◆ アウト・ローやodds、外れものの生き方に大変、人のこの世的なありようをみています。少しすねたり、ひがんだり、落ちぶれ根性というようなのは、私の気性らしくないのはよく判りますが、だから何かいいなぁと思っています。 ☆ というような述懐が出されています。その人たちに直接に接してこそ 問題のありかから始めて わかるようになるのでしょうが わたしたちの社会全体を蔽う繭――過保護なとも言うべき ほんとうは統治のための装置としてのこの目に見えぬ繭――について 明らかにしていくのも 一法かと考えます。 多少でも お応えできましたでしょうか。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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この不肖の私を確認、知ってくださっているbrageloneに何か申し上げないでおられませんですからね。無論このしがない私の輪廻転生の中の今生についてもご報告申し上げます。私に見える、ということはそれは私自身のことですものね。 ☆前回の わたしの評言は 無駄でしたか。残念。 そんなことはありません。十分私の血肉にしています。そしてまた更に、よく勉強します。 あぁ骨は自分は感じないのです。でも脊柱は何も触らなくても、何も動作をしなくても、意識と感覚を集中できています。とても爽快です。 ここのご回答や、brageloneさんのお話を、今進行形のことに区切りがついたら、勉強します。その報告はここの投稿には適さないと存じますので、bragelone様の目を向けていただけるように、質問を起こしてみます。ありがとう御座います。 しがないではやくざの話も惹かれていますが、私はhttp://kikitai.teacup.com/qa4391498.htmlこういうアウト・ローやodds、外れものの生き方に大変、人のこの世的なありようをみています。少しすねたり、ひがんだり、落ちぶれ根性というようなのは、私の気性らしくないのはよく判りますが、だから何かいいなぁと思っています。
お礼
krya1998 さん。やはり ★★ (ANo.68)~~~~~~~~~~~~~~~~ それで、私は水を差すようなことに為りますが、やはりご質問の復活や不死には積極的意味を持っておりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という結論のみのご投稿でしたか。お礼を申し述べて わたしのご返答としては 次の箇所の再掲載にて 果たそうと思います。 ★★ (ANo.35) ~~~~~~~~~~~~~~~ fractalもDrosteも、允に取り留めない世界ですよね。あぁ私の中の解釈ですが。これにいくら関与しても仕方ない、非生産的であると存じます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《非生産的であ》あろうがなかろうが 《惹かれて》いくものには 魅力がある といったところでしょうか。《復活》論については 知ったことじゃない というところでしょうか。 また 覗いてみてください。
補足
訂正です。 前回(No.68)の補足欄にて ▼ マリア信仰を追う ☆ のURLが 間違っていました。二つの内のもう一つのほうでした。 (正)http://www.medieviste.org/archive/documents/filiere2.pdf おわびして 訂正します。すみませんでした。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
bragelone様 相変わらず大勢のお方が、たくさんのご投稿をお寄せくださっておりますね。 それで、私はミ水を差すようなことに為りますが、やはりご質問の復活や不死には積極的意味を持っておりません。 ご参考までに、この肉体世界での人間のしがなさをよく検討するために、一つは【媒介・境・間・遍歴・来訪】というキーワードでの人の身の際を勉強しております。そういうことのために、質問を出しました。 http://kikitai.teacup.com/qa4390806.html http://kikitai.teacup.com/qa4393059.html そして回答も投稿しております。 http://kikitai.teacup.com/qa4383911.html 関連したことを書き込んでおりますので、お時間が取れましたら、お目を煩わせてください。 また私の蒙の啓明のためになることがありましたら、どうかお教えください。
お礼
アドワ゛イスをありがとうございます。 ところで ★ この肉体世界での人間のしがなさをよく検討するために、一つは【媒介・境・間・遍歴・来訪】というキーワードでの人の身の際を勉強しております。 ☆ の結果は いかがなのでしょう? 中間の結論でもかまいませんから ご回答として お寄せください。 ▲ 嶋崎正樹:媒介者の系譜 ☆ については 読んだあと この質問に関係していましたら 評言をご返答いたします。 * 前回の わたしの評言は 無駄でしたか。残念。
補足
▲ 嶋崎正樹:媒介者の系譜 ☆ には ▲ マリア信仰を追う(http://www.medieviste.org/archive/documents/filiere1.pdf) ☆ の紹介記事があります。 ○ 処女懐胎 から 聖母信仰 ☆ にまで到る習俗です。《処女懐胎》は 聖書にも 書いてありますが たとえだと考えます。 もしこれが 《聖母信仰》にまで慣習化しているとすれば 《復活》観には 甚大な影響を与えていると思います。 まづ 経験事態としても 性愛をさげすんだり 処女性を崇めたりするでしょうし その結果としては イエスを かれは われらの長子であり のちには 友であると言われるのに きわめて特殊な存在にしてしまうということ こういった影響が 挙げられるのではないでしょうか。 しかも 怒るイエス 大食漢で大酒飲み(マタイ11:19)のイエスが 人間であると同時に 神の霊そのものであると想定され キリストと呼ばれた。わたしたちは この神に対して 非思考という態度でしか接することがむつかしいという信仰に立つのだと思います。どこから 《聖母信仰》に変わってしまうのでしょう。 このように感じました。
- qsxdrfvgyh
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>相対における無為は 経験世界が 超経験世界に開いた窓のようなものですね。そういう意味での接点という理解でいいですか? そのような解釈でいいと思います。超経験世界・絶対は、未来であり、無為は現在であり、有為は過去と考えますから、無為(現在)は、超経験世界・絶対(未来)の接点だと応用しても、意味が通ります。ここで、未来とは、方向付けされていない、あらゆる可能性を持つゆえに、分化していない、偏っていない状態として、絶対なのだと僕は見ています。ですから、一般的に、特異な状態を予想するような未来観ではないことを表明しておきます。数日後の日経平均の終値予想的な意味の未来とは違います。偏った状態を予想するのは、有為の延長で見る愚かな認識水準の未来論ですので、正しく見れていないと、brageloneさんならば、理解していただけると思います。 >その超経験世界を わたしは 単純に《絶対》と規定します。そのあと それの説明のために 《無限・永遠・不可変性・真理》などの属性をつけ加えます。もし これを 分かりやすいように 擬人化すれば 《絶対者》であり 《神》であるとなります。これらすべては なぞです。なぞの領域を 《霊》と言って表わすこともある。というわけです。 擬人化した《絶対者=神》の語を用いて さらにこの世界を説明するとき 《創造の主体》であるという物語が 作られました。経験世界は すべてが 被造物であるという物語による説明です。 異論ありません。 >《超経験の領域》を 《神》と呼ぶのと同じように 《霊》という言葉でも 代理表現しているだけです。 この神が 霊として・・・経験世界へと開いたあの《窓》から 人間にやってくる。この息を吹きかけられた人は 復活の予感を得さしめられる。という夢です。 超経験世界・絶対(未来)から無為(現在)への相転換は、未完・未了の一回として持続していると、以前に書いたとおり、(神の)「息を吹きかけられ」続けていると僕も思います。でも、それは、復活でしょうか。これが復活の定義だと言えば、反論のしようもないのですが、一瞬一瞬が大事で、その時々に生まれ変わるくらいの意気込みで行動するのだよという教えなのでしょうか。それならば、なるほどねと思うわけです。 >おそらく この《悪に傾く〈わたし〉》の状態を ★ 行動できていない時(当然、死の時も)、「私」は消滅していると考えます。 ☆ と規定しておられるのでしょう。もしその意味で進めるならば ○ 旧き人〔としての《わたし》〕と新しき人〔としての《わたし》〕 ☆ について 了解していただけるのではないでしょうか。人生の或る時点において 神が 霊として あの窓から 《わたし》にやってきたとき その息吹きに燃え立たしめられて 人生の道が方向転換をします。その時点を境にして 旧い・新しいが 捉えられます。悪の増大する右肩上がり(?)の方向が 転換します。死への一本道が 流れが逆流してのごとく巻き返して 生が生であるようになった。《わたし》が《わたし》であるようになった。悪ないし死が 死なしめられます。死が死ぬ つまり 《わたし》は あらためて生きる。これは 復活ですよね。 他力(ここでは、阿弥陀仏ではなく絶対者の力、又は、究極の他者の力)によって倫理が与えられ、悪から善に方向転換することを復活と言うというような定義のようですね。これは、これで、否定しがたい美しき説なのですが、この世はそれほど理想的ではないと思うのです。復活もあれば、非復活もあります。仏教では、菩提心がないと、仏性は顕現しないと言います。心がけのないものは、他力だけでは救いようがないようです。ここでは、復活にしろ、仏性の顕現にしろ、前提条件は「自然な向上心」としておきましょう。そして、行動できてこその復活です。死後への延長は無意味ですから、止めましょう。ここ(死後への延長の話)だけ、無理しているように見えるのですが。聖書否定はできないのでしょうね。進化論も支持しないのでしょうね。
補足
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 大筋で 再度・再再度 見解が一致しました。ご説明ありがとうございます。 細かい部分で 聖書やその――わたしが否定している――宗教にかかわって 誤解が生じていると思います。今回は その点についてだけです。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・死が死ぬ つまり 《わたし》は あらためて生きる。これは 復活ですよね。 ○ 《「私」の消滅》が 消滅させられる。 ☆ のだと考えます。「私」の復活だと思います。実際には その予感なのだと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《復活の予感》という言い方が 二重の誤解を生むようです。 一方では すでにこの世においての復活を言っているので ★ ・・・(神の)「息を吹きかけられ」続けていると僕も思います。でも、それは、復活でしょうか。 ☆ という批判が 必至です。ただ この誤解については 比較的 容易に 解けると思います。 ☆☆ 《悪に傾く〈わたし〉》の状態 あるいは 《霊の指し示すところに逆らう自由意志》のはたらき ☆ これをも 同時に 言っていると思います。逆に言えば ★ 心がけ / 「自然な向上心」 ☆ が前提となって はたらくならば 《悪への傾き・霊への逆らい》に到らずに 復活の道に就くと思われます。わたしの場合は このとき 心がけ・向上心とまで 倫理的には見ずに ただ ○ 霊の呼びかけを受け容れる ☆ だけによって 向上すると思っています。つまり 第一義としては 経験思考や努力によるのではなく 非思考つまり信仰によると思っています。(簡単に言えば 絶対他力ですね)。 いま一つ別様の誤解は 死後の問題です。 ★ 死後への延長は無意味ですから、止めましょう。ここ(死後への延長の話)だけ、無理しているように見えるのですが。聖書否定はできないのでしょうね。進化論も支持しないのでしょうね。 ☆☆ となれば 経験存在としての《肉(身体および精神)》なる《わたし》が 死ぬとしても それは いま予感している復活路線にとって もはや 何のおそれも ありません。 ☆ この箇所が 語弊を持ったかも知れません。これは 死後を問題にしない と表明しているのですけれど うまく言えていないかも知れないですね。 ★ 進化論 ☆ は 経験思想ですから(――経験科学だというべきでしょうか それでも この場合には 同じことですから――) 復活論には関係しません。進化したものであろうが なかろうが この《わたし》の存在の――みづからの悪の軌跡からの――よみがえりを問題にしているのですから。もちろん 生きているあいだに どうするか・どう考えるか・どう考えないか・どういう非思考をみづからに得るか だと思います。 * 今後は この互いの復活論――いわばその基礎――にもとづき そこから どう踏み出すか どのように出発を方向づけるか もはや何を目指すかでは必ずしもなく 何を目指さないか。さらにあるいは 何々はもはや必要ではないと分かり それら何々の交通整理を いかにおこなっていくか。(良心・信教・表現・結社の自由を 必要最大限に守るかたちでの交通整理です。それには 井戸端会議を と言っています)。これが ひとつの方向だと考えます。 全体として いかがでしょうか。
- qsxdrfvgyh
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>(b) 《無我》は 《死へ向かう生を生きるわたし》が 方向転換せしめられ 《すでに死んだ つまり 死へ向かう一本道にあるわたしが死んだ》とき以降の状態 としては どうでしょう? ★ 「私」は消滅していると想定しています。 ☆ この実際のことが 分かりません。たとえば ○ 《「私」は消滅していると想定してい》る主体は 《わたし》であり それとして 存在していると思うのですが いかがでしょう? そのとおりです。《「私」は消滅していると想定してい》る主体は 《わたし》であり、存在しているという部分は、全く正しい表現です。つまり、行動できている時、主体・私はあります。しかし、行動できていない時、主体・私はありません。生きている今、想定するという行動をしている時、行動主体の私は存在していて当然です。生存中でも、行動できていない時(当然、死の時も)、「私」は消滅していると考えます。なんら矛盾はありません。常に存在する・しないという単純発想ではないのです。 ☆ それゆえにこそ 霊に触れられているかのようにして 霊をみづからに宿す・ゆえに 復活の予感を持つ。しかも この経験現実において そうする。と考えるのですが? 霊の常在観ゆえに復活の予感在りという点、永遠不滅の霊魂観は、なにゆえに、有為の世界で絶対視できるのでしょうか。仮に、霊魂が常在だとしても全くの無力なので、有っても無くてもどちらでもいいのです。セーニカ外道との問答の一例を出すと、 「ゴータマよ、もし霊魂が無ければ、誰が記憶するのか。」 「セーニカ外道よ、もし霊魂が有るならば、なぜ忘れるのか。もし記憶する働きが霊魂にあれば、どうして悪い事を記憶したり、覚えのないことを記憶したり、記憶したことを忘れたりするのか。」 霊魂には様々な能力が全く無い実態が、涅槃経では次々と暴露されていくわけです。宿っていても無効であるのです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶対と相対(第一仮構相) 相対における 無為と有為(第二仮構相) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この仮構は 論理的に おかしいと思います。なぜなら 《相対》の世界は すでに 経験現実の世界です。そこに《無為》を想定するのは ちょっと解せません。 前回の「仏陀葬送質問」とも関連しますが、無為は絶対と相対が接するものとして、brageloneさんにヒントを教えてもらった部分です。相対領域の顕現は有為ですが、有為のみではなく、顕現していない無為なる絶対もあって、有為と一体・一如化しているという想定です。経験現実の世界と言う時、有為の世界のことだけ見ているようですね。《相対》の世界は、有為(経験現実)と無為(非自性)の対立概念で一体的に理解しようという立場なので、少しだけ複雑なだけなのです。相対の意味を互いに別様に定義しているようですね。 こうなると 初めに戻って ○ 勝義諦 無為 真理 真如 実相 // 世俗諦 有為 ☆ などの定義を明確にしていったほうが よいかと思います。 ○ 絶対:経験世界を超えたところ(これを 霊とも言う) // 相対:有限・可変性なる経験世界 ☆ これが 出発点にある定義だと思います。ここから きちんと定義をつくっていくとよいと思います。 brageloneさんは、絶対を霊、相対を有限・可変としていますが、僕の定義は、絶対は、最強の力(唯一・完全・普遍)に満たされ、自性的で、非空観であり、相対が創造された時、絶対が相転換して、その内部が、最弱の力(無力な無為)で満たされ、非自性的で、空観であると考えています。前回の「仏陀葬送質問」でも同様の回答を見ることができるはずです。 あと一点。 ★ 厳密には、自己の死は、この世の出来事ではないと解釈します。他者だけが、経験できる現実として、この有為の世界で死に立ち会うと見るのです。 ☆ 死が 人によって 経験に属したり 属さなかったりするのは やはり 想定として 妥当性に欠けるように思うのですが? 「人によって」ではありません。自己の死では、「常に、自己が不在扱いになっている」だけです。自己に限定して経験不可なのです。でも、死にかけ体験まではできるのですよ。そこまでなのです。
お礼
○ 《「私」の消滅》が 消滅させられる。 ☆ のだと考えます。「私」の復活だと思います。実際には その予感なのだと思います。あの《窓》にしても 夢の中のお話であるに過ぎないかも知れません。 となれば 経験存在としての《肉(身体および精神)》なる《わたし》が 死ぬとしても それは いま予感している復活路線にとって もはや 何のおそれも ありません。たぶん 予期していないときに そのように肉のからだが朽ちることについて 残念という思いが残るのかも知れませんが。 ▲ (コリント前書15:55)~~~~~~~~~~ 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と歌うときは 来ると思います。(《死のとげ》とは 《悪ないし罪》のことです。善なる存在・生命に傷をつけるのは 《とげ》が刺さるかのようです。つまりは そのつどは 小さなとげであるに過ぎない と同時に それが 積もるなら 朽ちる前に体は 腐るかも知れません)。 吟味・反論をお願いします。
補足
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 相対における無為は 経験世界が 超経験世界に開いた窓のようなものですね。そういう意味での接点という理解でいいですか? その超経験世界を わたしは 単純に《絶対》と規定します。そのあと それの説明のために 《無限・永遠・不可変性・真理》などの属性をつけ加えます。もし これを 分かりやすいように 擬人化すれば 《絶対者》であり 《神》であるとなります。これらすべては なぞです。なぞの領域を 《霊》と言って表わすこともある。というわけです。 擬人化した《絶対者=神》の語を用いて さらにこの世界を説明するとき 《創造の主体》であるという物語が 作られました。経験世界は すべてが 被造物であるという物語による説明です。 ★ 相転換 ☆ というのも 或る種の説明物語だと思います。 このような想定です。比較対照をお願いします。 ★ 永遠不滅の霊魂観は、なにゆえに、有為の世界で絶対視できるのでしょうか。 ☆ 《霊魂》というときには 人間が死後になるそのものという印象を持つのですが そうだとすれば わたしの場合 《永遠不滅の霊魂観》を持ったことは ありません。《超経験の領域》を 《神》と呼ぶのと同じように 《霊》という言葉でも 代理表現しているだけです。 この神が 霊として――などと言うと けっきょく 何も語っていないのに等しいのですが―― 経験世界へと開いたあの《窓》から 人間にやってくる。この息を吹きかけられた人は 復活の予感を得さしめられる。という夢です。 このように霊感を得ていても 人は 自由意志によって それに逆らうことも 自由です。ですから 《記憶が確かでなくなる》こともありますし 《善きことは これこれだと分かっていても それに逆らって その善に損傷を与える》ようなことをしでかします。つまり 悪を行ない得ます。 ちなみに 上に述べましたように 《永遠不滅の霊魂が記憶する》といったこととは まったく別です。そんなことは 想定していません。(念のために言えば ただし 霊=神は 定義からして 永遠ですよ)。 ○ わたし ☆ の定義も それぞれなのですかね。わたし( bragelone )の場合は このように話している主体が 自己を呼ぶときの名称として 《わたし》を使っています。そこから広がって 話す主体 また その存在じたいを表わすこともあります。要するに 一人ひとりの経験存在です。 ただし 《わたしが わたしである / わたしが わたしする》というふうに表現することがあります。それは とりもなおさず 《わたしが わたしでなくなる》状態を想定しているからです。さきほどの《善に損傷を与える=すなわち 悪を行なう》ときの《わたし》が それです。《存在ないし生命》が 《善》です。これを傷つける考えや行ないは 善の欠如をもたらすこととして 《悪》と呼びます。もともと《悪》があったとは 見ていないわけです。善なる存在なる《わたし》に みづからが こうむらせたその欠如が 悪です。 おそらく この《悪に傾く〈わたし〉》の状態を ★ 行動できていない時(当然、死の時も)、「私」は消滅していると考えます。 ☆ と規定しておられるのでしょう。もしその意味で進めるならば ○ 旧き人〔としての《わたし》〕と新しき人〔としての《わたし》〕 ☆ について 了解していただけるのではないでしょうか。人生の或る時点において 神が 霊として あの窓から 《わたし》にやってきたとき その息吹きに燃え立たしめられて 人生の道が方向転換をします。その時点を境にして 旧い・新しいが 捉えられます。悪の増大する右肩上がり(?)の方向が 転換します。死への一本道が 流れが逆流してのごとく巻き返して 生が生であるようになった。《わたし》が《わたし》であるようになった。悪ないし死が 死なしめられます。死が死ぬ つまり 《わたし》は あらためて生きる。これは 復活ですよね。
- qsxdrfvgyh
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できるところまで、たとえ話を究めてみます。 >(1)No.25補足欄にて 《似像(にすがた)》のことを書いております。神(無為)は 自分の像に似せて 有為の世界における人を作ったという想定です。 仮りにこれにもとづけば 無為を 複素数と仮定するときには 有為の内の人間については やはり同じく複素数として見たいという傾きを持ちます。のぞみ薄ですか? なるほど、有為も基本的に複素数でいいと考えます。ただし、虚部をゼロ倍するという方法で、無為から有為になっていると考えてはどうでしょうか。よって、実部のみが残るという顕現の様式となると解釈します。こうして、相対、有為のイメージは、具体的に可能になると考えます。虚部のイメージって、具体的にはよく分からないでしょう。 >もし仮定し得たときには 実部と虚部との《一体》ではなく 複素数どうしの――相似関係としての―― 一体・一如という見方になります。 無為では、複素数を分解せずに、一体・一如と扱い、一如としては実体上、沈黙・無記になっている(具体的なイメージを表現できない)と思うのです。有為では、虚部が欠落することで、相対の世界を顕現していると見ます。一如の部分的な消滅が、偏りを表現できるようになったと解釈します。偏るから、イメージできるという格好です。 >(2) ★ 「究極の他者」――☆ これは 《無為・絶対》でよいと思います。そして (2-1)★ 「究極の他者」になる――☆ としたときには 上の《一体》の問題だと思います。 絶対と相対(第一仮構相) 相対における 無為と有為(第二仮構相) という仮構を想定し、「究極の他者」は、相対の有為から(純粋な)絶対への逆転換だと、以前に書いたとおり、無為というよりも絶対と関係していると考えています。ですから、一体・一如の問題というよりは、唯一・絶対に属する問題だと考えます。 >(2-2)★ 「自己の死は、自己の人生の出来事ではない」――☆ これをめぐっては どういう解釈になるでしょう。つまり まづ《死》は 経験現実の延長であると言えると思います。〔そして これを受け容れるという議論も すでに しています〕。 僕は、ウィトゲンシュタイと同様に、自己の死を自己の経験現実とは見ませんし、その延長とも見ないことに賛成なのです。自己の死は、逆転換と見ているのです。他者の死には立会えますが、厳密には、自己の死は、この世の出来事ではないと解釈します。他者だけが、経験できる現実として、この有為の世界で死に立ち会うと見るのです。そして、自己の死では、「常に、自己が不在扱いになっている」とでも言う状況です。 >ですが 生から死へ移ることと この死へ移るべき生が 無為の世界と接していることを体得して 復活することとは 別だと考えます。 無為の世界に接するのではなく、絶対領域に逆転換するという想定です。 >そこで (a) 復活を覚えるわたしは 《自己執着》とは別だと考えるのですが いかがでしょう? 絶対領域は、唯一・絶対ですから、私とか他者とかの区別を超越しているのです。自己執着はあってはなりません。別扱いではありません。 >(b) 《無我》は 《死へ向かう生を生きるわたし》が 方向転換せしめられ 《すでに死んだ つまり 死へ向かう一本道にあるわたしが死んだ》とき以降の状態 としては どうでしょう? 「私」は消滅していると想定しています。 >(c) でも そのときには 旧いわたしが死なしめられたのであって 新しいわたしは (a)の《復活を覚えるわたし》として 生きている。と思うのですが どうでしょう? 「私」は消滅していると想定しています。旧い私も新しい私もありません。唯一・絶対を貫徹すると、復活の余地などありません。相対、有為の「滅と生」という仮構を延長して「死と復活」を想定するのは、論理的には、お粗末だと思いますよ。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 今回は 分からないところが はっきりと出てまいりました。 二点について おうかがいします。 ★ 「私」は消滅していると想定しています。 ☆ この実際のことが 分かりません。たとえば ○ 《「私」は消滅していると想定してい》る主体は 《わたし》であり それとして 存在していると思うのですが いかがでしょう? ☆ それゆえにこそ 霊に触れられているかのようにして 霊をみづからに宿す・ゆえに 復活の予感を持つ。しかも この経験現実において そうする。と考えるのですが? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 絶対と相対(第一仮構相) 相対における 無為と有為(第二仮構相) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この仮構は 論理的に おかしいと思います。なぜなら 《相対》の世界は すでに 経験現実の世界です。そこに《無為》を想定するのは ちょっと解せません。 こうなると 初めに戻って ○ 勝義諦 無為 真理 真如 実相 // 世俗諦 有為 ☆ などの定義を明確にしていったほうが よいかと思います。 ○ 絶対:経験世界を超えたところ(これを 霊とも言う) // 相対:有限・可変性なる経験世界 ☆ これが 出発点にある定義だと思います。ここから きちんと定義をつくっていくとよいと思います。 あと一点。 ★ 厳密には、自己の死は、この世の出来事ではないと解釈します。他者だけが、経験できる現実として、この有為の世界で死に立ち会うと見るのです。 ☆ 死が 人によって 経験に属したり 属さなかったりするのは やはり 想定として 妥当性に欠けるように思うのですが?
- arayata333
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★☆ 「復活」の概念は 自分の中では(書きましたことから解ると思われます)、通過点として思索経験された形の概念となっています。 でも、考えてみれば私の中にては その通過点にいたるまでの時間はかなり長いものでした(人にあのように表現できるような心境にいたるまでの時間です。)。 それを過ぎると 迂回の必要性は無くなるかと思います。 最初のご質問文の中の 3、4の「退屈」と関わる問題も消えています。 あくまで「永遠」は永遠ですが、 ごく普通に常に今が新鮮であり続けるだけのことです。 感性はさらにどんどん深まってゆく可能性があり先が見えないので その過程で、“誰もが この地点は通過できるのでは”という考えです。 しかし、そこへの道には、時には感性教育とか 人によっては禅とか 聖書との出会いとかが必要だったり、 さまざまな地点からのさまざまな思索が必要だったりするわけでしょうし、 その迂回地点での思索展開とかを否定してはいません。 私は このような通過点を何年か前に感じることができたので、やっぱり感性教育とかかわるような地点が一番早道かなとは思いますが、その観点からも他の人の考えは知りたいです。 よく自分自身のその過程を振り返ってみれば、復活とか以前に神の問題で一種の絶望状態の苦しみを経過ももしています。 今それがあまりにも簡単な通過点として感じられるからといって、 よく考えてみるなら「甘い」わけではなかったと思い直しています。 * >信仰は みづからを出さないとき 生きると考えている者ですが< という部分には、気迫を感じますが、 ほんとうは、この公の場では「信仰」というところを「正しい信仰」というふうに言い直す必要があったり、 さらには「非思考への信仰」の説明が必要だったりするところ、 なかなか表現の世界というのは大変なところと思います。 * ▲イエスも怒った というところについてですが、 私はこれを「イエスも怒りという感情のコントロールが出来ない時があった」というふうには受け取っていません。 が、それが何かの模範のための演技であったのかどうかは、すくなくとも私に判断できることろでは無いとも思ってはいます。 生物は何か 自分の望みややろうとしていたことや理想とすることを急に止められたり逆撫でされるとそこに怒りが生じるように出来ています。しかし人間はそこにプラスしてそれを「見つめる」ことも可能な能力も本来宿しています。 そこからそれを演技としてコントロールすることも出来ます。 其のときには演技はウソの場(関係性)ではなく、真実そのものでありえる場(関係性)ともなる可能性は宿すという考えがあるのです。 でも、それならば、その演技の真実を越える立場もまたありえるところ、 キリストのような 賛美の場であるべき場所へのそれこそ宇宙大の心を持った人にとっての その場での商売は、生物としては其のぐらいの怒りが起って自然だったのだとも思います。 その感情にただ単に身を任せて見せたという そのような模範であるのかもしれません。 でも、そこにても結局、私達は、与えられたせっかくの感性を伸ばしてゆくことで 其の気持ちに少しでも近づいてゆくことが出来るようになっているのに ? とやはり、感性教育へと私の心は走っていきます。 《目に見える世界》を、つまり生物としてのこの体と五感の中に尊い贈り物あるし、可能性の世界があるし、 そして《神殿(私がここで言ってる意味では体のことです)》や《聖域(コミュニティーや祈りの場所、大地、あるいは物質と言ってもいいかと思います。)があると私は思っているわけですが、 感性教育の本質は やはり聖書で言えば「野のユリ」の美しさを感じる心にあります。 他の感性はそれに付随してこそ生きてくるものと考えるのが本質的は感性教育の世界です。 もしかしたらですが、 その感性教育の世界にて、私ももっと怒るべきなのかもしれません。 音楽家とかが 軽く音楽とかその他の芸術で儲けることを肯定したりする気持ちとかは、人間性の真実と矛盾しています。 簡単には言えないことかもしれませんが、ほんらい一番お金で買えない宝物をすでに持ってるはずの人が…という疑問があったりします。 そのへんを私はうやむやにすべき人間ではないのでしょう。現代音楽産業(あるいは現代芸術)の間違った所は本気で指摘すべき立場なのでしょう。 私は確かに若いとき何度も聖書は読みましたが、あとは記憶のみとなっています。 聖書の専門家のようなbragelone様の直感は そういうことなのかもしれませんね。 音楽家等の文化人(現代芸術家)のそのへんの自覚の甘さこそが、 「復活」という希望の通過点のそれこそ希望に満ちた庶民(弱き存在)の力強い文化を遅らせているのかもしれません。 生物である弱さを自覚するほどに 思いっきり歌える可能性がそこにあるというのに むむ。 む。
お礼
arayata333さん ご回答をありがとうございます。 ★ 感性教育 ☆ あるいは 体験をつうじての生の転換 あるいは 人であることを通じての感化というような交通関係 のようですね。一貫しておられます。 ★ 野のユリ ☆ みなさんのためにも 参照箇所を引きます。 ▲ (旧約聖書・雅歌2:1)~~~~~~~~~~ わたしはシャロン〔野〕のばら、谷のゆりです。 ▲ (ルカ福音12:25~27)~~~~~~~~~~ あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。 野の花のことを考えて見るがよい。 紡ぎもせず、織りもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あとは 言わずもがなでしたと おゆるしを乞いつつ。
- qsxdrfvgyh
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No.60で、「無為なる世界」と「有為なる世界」が、《接している》という表現は、なかなかいいですね と書きました。 そして、無為なる世界は、絶対領域の相転換だと僕は想定していますから、絶対の痕跡があるはずだと思います。 これらを整合的に物語りにすると、次のようになるでしょう。 無為なる世界の虚部(i)こそが、「不変の実体」あるいは「霊魂」の象徴だと解釈してみましょう。ここに、唯一・絶対にして不変の痕跡が残っていると考えるわけです。そして、この無為なる世界の虚部がゼロになる時、有為なる世界の実数が、相対世界を象徴し、顕現する(接する)と解釈できるのではないかという感じです。ですから、無為なる世界は、純虚数よりも複素数の方が、たとえ話としては都合がよさそうです。 無為、現在では、このように霊魂を認めるとしても、有為、過去では、霊魂のような不変の実体を認めるわけにはいきません。 また、「経験現実」は、無為なる世界では、適用外の観点であり、有為の世界のみに適用可能と見ます。 さらに、「自己の死は、自己の人生の出来事ではない」という意味内容でウィトゲンシュタイの『論考』から以前引用し、「究極の他者」(つまり、自己ではないもの)になるとしてきたとおりですから、死以降も自己に執着しない、無我を貫徹したいと思います。 結局、絶対の痕跡、「不変の実体」あるいは「霊魂」の象徴だった無為なる世界の虚部(i)は、無為ゆえに実体化し得ない、無効な項として存在し続ける役割と見るべきではないでしょうか。 よって、自己執着的な復活観は、退けるべきでしょうね。いかがでしょうか。 そして、このようにならない、論理的に整合的な物語も見てみたいようにも思います。いかがでしょうか。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 今回も 補足要求です。 (1)No.25補足欄にて 《似像(にすがた)》のことを書いております。神(無為)は 自分の像に似せて 有為の世界における人を作ったという想定です。 仮りにこれにもとづけば 無為を 複素数と仮定するときには 有為の内の人間については やはり同じく複素数として見たいという傾きを持ちます。のぞみ薄ですか? もし仮定し得たときには 実部と虚部との《一体》ではなく 複素数どうしの――相似関係としての―― 一体・一如という見方になります。 (2) ★ 「究極の他者」――☆ これは 《無為・絶対》でよいと思います。そして (2-1)★ 「究極の他者」になる――☆ としたときには 上の《一体》の問題だと思います。 (2-2)★ 「自己の死は、自己の人生の出来事ではない」――☆ これをめぐっては どういう解釈になるでしょう。つまり まづ《死》は 経験現実の延長であると言えると思います。〔そして これを受け容れるという議論も すでに しています〕。ですが 生から死へ移ることと この死へ移るべき生が 無為の世界と接していることを体得して 復活することとは 別だと考えます。そこで (a) 復活を覚えるわたしは 《自己執着》とは別だと考えるのですが いかがでしょう? (b) 《無我》は 《死へ向かう生を生きるわたし》が 方向転換せしめられ 《すでに死んだ つまり 死へ向かう一本道にあるわたしが死んだ》とき以降の状態 としては どうでしょう? (c) でも そのときには 旧いわたしが死なしめられたのであって 新しいわたしは (a)の《復活を覚えるわたし》として 生きている。と思うのですが どうでしょう? * 虚数のたとえは 数学につよかりせば よからましものを。です。(ほかの方からの参加は 質問者のわたしが 要請するなら いいのではないでしょうか)。
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
★ 虚数 ☆ は 実数の部分をも含む複素数のことでは なかったですか? つまり どうしてもわたしのほうをも生かしていたい のですが。 慎重さに欠けていました。「無為」の例示なので、やはり、「純虚数」としなければならないでしょうね。恐らく、ご推察のとおりです。 ☆ 実部( a )も虚部( bi )も 0(ゼロ)でないときの《虚数》であれば 《生きて 復活している》という状態が 夢想されます。か?《思い出》だけでは さびしいという煩悩満開からの強引妄想でした。たたき台にでもなりますか? そうですね。実部も虚部もゼロで無い複素数の場合も、「無為」の例示としては、否定できないかもしれません。となると、虚部の解釈では、「もうすでに死んでいる時のこと」を連想しますが、実部の解釈では、生者を連想できそうですね。しかし、実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、一体・一如とするならば、虚実並存の化け物のようにも思われます。この世のものではなさそうです。いかがでしょうか。所詮、たとえ話の解釈遊びのようですが。結局、復活イメージって、どのようなものでしょうか。
お礼
qsxdrfvgyhさん ご回答をありがとうございます。 今回は 註をつけたり 質問をしたりになります。独語のごとくです。 (1)☆☆ 《思い出》〔や 《歴史的評価》〕だけでは さびしいという煩悩満開 ☆ これは 生き永らえたいという意味ではなく 意思疎通が行なえて 互いに了解し得るということ つまり コミュニケーションの成立を願うという意味です。 間主観性というのでしょうか 互いに異なるところと同じところとを 互いに認めて 全体として 社会的な共同主観(コモンセンス)が 形成されている。そういう情況・動態のことです。 (2) 実数は 正負とも 経験現実に対応すると思いますが――つまり単純に言って 《あるか ないか》だと思いますが―― 《純虚数》は どうなんでしょう? わたしは 残念ながら 知識がすらすらとは伸びません。 (2-1) 複素数において ★ 実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、 ☆ ということでしたら 両者を含む全体が 生者としての経験現実になり得るのかどうか。 (2-2)細かく ○ 無為は 複素数(《虚数》としての)なのか 純虚数なのか。 ○ 有為は 実数なのか。複素数にまで 伸びるのか。 (2-3)いづれの場合にも ★ 実部と虚部を別々に解釈すべきではなく、一体・一如とするならば、虚実並存の化け物のようにも思われます。この世のものではなさそうです。 ☆ この《一体・一如》について どう捉えるか。 ○ 無為が 有為に接しているというのは 《一体・一如》であるというのか。そうなり得ると言おうとするのか。 (3) あるいは むしろ ○ 生と死とは どう違うのか? ○ 生者が死者になるという経験現実があるとき 生者にしろ死者にしろ その人にとって 復活とは どういう事態として 想定されるのか? ○ (前項の註として:)生者と死者とは 横並びであるのではないか。どちらも 経験世界に属するのではないか。 ○ (同じく:)復活は 人にとって 縦の関係 あるいは 立体的な関係 あるいは その動態的な関係 あるいは その四次元を超えたところとの関係。だというとき どのように代理表現し得るのか。 * もとに戻って 取りあえず ここまでを考えました。バトンタッチです。
お礼
qsxdrfvgyhさん たいへんありがとうございます。いよいよ 漕ぎ着けましたね。長い間にわたって お世話になりました。感謝申し上げます。さらにまた お願いするかも知れません。重ねて よろしくお願い申し上げます。 ひとこと 覚書のように述べておくとすれば qsxdrfvgyhさんの理論において 次の二点は 必ずしも 一般性を持ってしまっているかどうかは まだ分かりません。いくつかの理論の可能性があるという意味です。 1.過去=有為 → 現在=無為 → 未来=絶対 2.超経験・絶対への逆転換=個々の死 ☆ 総じていえば わたしの立ち場としてですが それは 死後もしくは 生きているときに与えられた復活への方向転換の後に起きる死の時点は 問題にしていない というものです。その意味での無記です。 言いかえると 生きているときに 復活に向けて もしくは すでに 復活したと言ってのように 生き切る これに尽きるという立ち場です。生き残しは しない という立ち場です。 ほかのみなさんが この質問でのさらに一言としてでも 投稿されるのを もうしばらく待って 締めたいと思います。よろしくお願いいたします。そして すでに前もって みなさんに 重ねて 感謝申し上げたいと存じます。ありがとうございました。 * ブッディスムについて 論理的に明らかにする一つの理論が提示されたが 論理を包むようにして 説明したいというご見解が あるかも知れません。それは たぶん qsxdrfvgyhさんの《自然の向上心》 このあたりのことを さらに説明したいといったところではないでしょうか。(もちろん qsxdrfvgyhさんご自身も よろしかったら どうぞ)。
補足
補足です。 《復活の人》は どんな状態にあるか。たとえば 次のようにうたわれます。少々 ふつうの人が引くような例を引きます。 ▲ (旧約聖書・詩篇 84:1~7)~~~~~~~~~~ 万軍の主よ、あなたのいますところは どれほど愛されていることでしょう。 主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです。 命の神に向かって、わたしの身も心も叫びます。 あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り つばめは巣をかけて、雛を置いています。 万軍の主、わたしの王、わたしの神よ。 いかに幸いなことでしょう あなたの家に住むことができるなら まして、あなたを賛美することができるなら。 いかに幸いなことでしょう あなたによって勇気を出し 心に広い道を見ている人は。 嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。 雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。 彼らはいよいよ力を増して進み ついに、シオンで神にまみえるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《あなたによって勇気を出し / 心に広い道を見ている》というのは 《自然の向上心》のことだと思いました。 ▼ (詩篇63:1~5)~~~~~~~~~~~~~ 神よ、あなたはわたしの神、 わたしは切にあなたをたずね求め、 わが魂はあなたを渇き望む。 水無き、乾き衰えた地にあるように、 わが肉体はあなたを慕いこがれる。 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、 聖所にあって目をあなたに注いだ。 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、 わがくちびるはあなたをほめたたえる。 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、 手をあげて、み名を呼びまつる。 わたしが床の上であなたを思いだし、 夜のふけるままにあなたを深く思うとき、 わたしの魂は髄とあぶらとをもって もてなされるように飽き足り、 わたしの口は喜びのくちびるをもって あなたをほめたたえる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ》というのは 《あなたのいつくしみ〔なる存在理由〕は いのち〔なる存在〕にもまさる》と言っているかのようでした。 かく言うわたしも 引いてしまう部分があります。ただ これらは 旧約の時代の自己表現でもあります。たぶん わたしたちは 新約の時代以降に存在するというだけで 或る種のかたちで この詩編の内容を超えているとも思います。ただし 過去は 現在にとって 非連続にして連続しているとも 考えられますから 参照しうるとも思います。