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ドス・パソスの「非線形の語り口」について
ジョン・ドス・パソス(John Roderigo Dos Passos)の「非線形の語り口(Nonlinear narrative)」について質問です。 まず、「非線形の語り口」とは何を意味しているのでしょうか。確かにドス・パソスは独特の文体をもっていますが、どういう理由でそれを「非線形の語り口」と呼ぶのかがわかりません。「非線形」という語が何に由来しているのかがわからないのです。 また、「非線形の語り口」がわかるなら、「非線形の語り口でないもの」はどのようなものなのか、具体例を挙げて説明してもらえると嬉しいです。
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「線形性」というのは、原点を通る一次関数のグラフを頭に思い浮かべてください。つまり、線が一直線につながって、一定の割合でまっすぐに変化していくグラフです。 文学では、多くの場合、このX軸に語りの時間の経過が相当します。Y軸に物語内部の時間が相当します。 「線形の物語」というと、語りの時間の経過と、物語内部の時間の経過が一致しながら、物語が進展するものです。 「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんが川で洗濯をしていると、川上の方から…」というふうに。語られる順番で物語内部の時間が経過し、それに応じて物語も進展していくのです。 時間にはもうひとつ、大きな機能があります。 多くの場合、小説内部のある時間(T-1)で起こった事柄は、のちの時間(T-2)で起こった事柄の原因となっているのです。 桃が流れてきたことが、桃太郎が生まれる根拠となり、カラスが鬼ヶ島の様子を伝えることが桃太郎出立の根拠となります。そうやって、出来事が出来事を生み、結論に至るのです。 小学一年生に日記を書かせると、たいてい「今日ぼくは朝、六時に起きました。それからラジオ体操に行って、帰ってから朝ご飯を食べました…」というふうに、語り手の時間の経過と、話の内容の時間は一致し、まっすぐに進んでいきます。 あるいは、ケンカをしている小学生に、「どうしたの?」と聞いてみる。たいてい、腹が立ったことをぶちまけてきますから、何がなんだかわからない。そんなときに、先生はたいてい「最初から順番に話してごらん」と言いますね。それは、語りの時間の経過と出来事の時間の経過を一致させることで、先に起こったことが後に起こったことの原因になったことがはっきりし、因果関係が整理されるからです。 このように、物語の一番シンプルな形が時間軸に沿った「線形の物語」なのです。というのも言語そのものがこのような線形性を持っているからにほかならないのですが。 ただ、それだとどうしても物語として単純すぎる。つぎ、どうなっていくかがあまりに容易に予測できてしまう。そう思って、作家はいろいろ工夫を凝らします。 特に、偉大な小説がディケンズやバルザック、フローベール、あるいはトルストイやドストエフスキーによって19世紀に数多く書かれ、小説という形式が完成したあとの、20世紀の作家たちは、新しい形式を模索していくのです。そのとき多く試みられたのが、線形の時間軸の解体です。 たとえば朝から物語を始めるのではなく、いきなり夜から始めてみる。夜に起こった奇妙な出来事は、実は朝、こんなことがあったからだ…と種明かしをするのです。そうやって謎を作ることによって、読者の興味を引くことができます。ただ、この程度のことなら19世紀の小説でも、ふつうに行われています。 もっと複雑にしてみる。起こったことが起こった順番ではなく、バラバラにされ、さまざまな年代が入り乱れ、交錯するような作品が、20世紀に入って書かれるようになりました。 ただ、物語という形式を取るかぎり、X軸というのは動かしようがありません。一人称の語り手であれ、誰ともつかない語り手であれ、語りというのは本が1ページから始まって、2ページ、3ページと進んでいくように、一定方向に進むしかないのです(たとえばフォークナーであれば『エミリーに薔薇を』)。 そこで、さまざまな語り手を用意してみる。膨大でまとまりのない意識の流れを作中に導入してみる(たとえば同じフォークナーの『アブサロム・アブサロム』)。極端に切りつめた文体によって、過去を語らずに「現在」のみを描く(たとえばヘミングウェイの短篇)。あるいは、終わったところからもう一度最初に戻る「円環する時間」を導入する(たとえばガルシア=マルケスの『百年の孤独』)。さまざまな作家がさまざまな工夫をしています。 そうして、この新しいスタイルに非常に意識的だった作家のひとりにドス・パソスがいます。『マンハッタン乗換駅』や『U・S・A』をお読みになればわかると思いますが、複数の語り手がさまざまに語り、登場人物は入り乱れます。全編に登場する人物がいるかと思えば、途中でぷつんと消える人もいる。さらに、見出しや歌や演説や報告書が引用され、実在の人物も数多く登場し、作家自身の意識の流れである「カメラ・アイ」が随所に提示されます。実在の人物も数多く登場し、彼らの言葉がまたあるいはマーゴ・ダウリングの話とディック・サヴァッジの話がどう関連するのか、それとも無関係なのか、わからないままです。 ただ、その向こうに、猥雑で活気があり、破壊的で活力のある「場」が立ち上ってくる。 こうしたドス・パソスの「非線形の語り」というのがどのようなものか、だいたいおわかりになったでしょうか。まあ、こんな説明よりも『マンハッタン乗換駅』を読んでみれば、ああ、これか、と腑に落ちると思いますよ。
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- ghostbuster
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すいません。 一箇所、訂正。 カッコで例としてフォークナーの『エミリーに薔薇を』をあげていますが、その位置がおかしい。 >起こったことが起こった順番ではなく、バラバラになり、さまざまな年代が入り乱れ、交錯するような作品が、20世紀に入って書かれるようになりました。 の例として、『エミリー…』を挙げたつもりでした。 あとで挿入したんですが、その位置がずれてました。
お礼
丁寧な解説ありがとうございます。 フォークナーもガルシア=マルケスもヘミングウェイも手を付けたことがありますが、正直なところその実験的な性質が今ひとつ理解できなかったので、とても参考になりました。 日常的には、語りの時間の経過と物語内部の時間の経過を意識することはありませんし、そもそもそういうものが存在しているかどうかさえ考えないことが多いのですが、あなたの説明のおかげで文学者たちが何と格闘していたのかがはっきり輪郭をもってきたように思います。 できればそうした文学史を俯瞰した知識がどこから得られるのかも知りたいです。できれば引用元があるとありがたいです。