- ベストアンサー
兵農分離以前
織田信長が兵農分離を確立させた事により 戦闘専門の兵士と部隊ができ戦のたびに農民が借り出されることはなくなりました それ以前は 稲刈り期や盆 正月は戦はしないというのが無秩序の戦国時代にあって暗黙の了解だったようです しかし その暗黙の了解を破って盆や正月に戦が行われた(敵地に攻め込んだ)武将は居るのでしょうか?
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
戦国時代の戦の多くは、相手の収穫物の収奪や奴隷の生け捕り目的です。 よって稲刈り期は戦をしないどころかむしろ戦のきっかけになる時期です。 当時の遠征は10万石につきだいたい三千人つまり人口の10%に満たない数字です。 この程度の動員をかけたからといって農作業に支障が出ないとは言いませんがいきなり破綻するわけでもありません。
その他の回答 (7)
- izuhara
- ベストアンサー率31% (97/310)
信長が兵農分離を確立させたというのは現在では全く根拠のない俗説となっています。実際にいつ頃兵農分離が達成されたのかは不明です。少なくとも島原の乱では幕府側の大名が村落に動員をかけています。 したがって、時期を信長以前に限定せずに、東大史料編纂所の大日本史料データベースから正月(とりあえず七日まで)に侵攻があったと思われる記事を抽出しますと 文明12年1月4日 長尾景春、武蔵児玉に陣す、太田道灌、之を撃たんとして、同国塚田に陣し、上杉定正、大谷に進み、尋で、沓懸に次す、景春戦はずして秩父に退く、 永正13年1月2日 備後三吉致高、安芸宍戸元源等、毛利興元の属城備後長野城を攻む、尋で、興元、致高を同国志和知城に、元源を安芸甲立五竜城等に撃つ、 永禄12年1月5日 三好政康等、京都に入り、足利義昭を本圀寺に囲む、三好義継、池田勝正、伊丹親興等来り援け、政康等を走らす 元亀1年1月4日 武田信玄、今川氏真の属城駿河花沢城を攻む、之を陥る、 天正1年1月6日 大隅肝属兼亮、同国末吉を侵す、島津義久の将北郷時久父子、同国住吉原に邀へ撃ちて、之を破る、進みて松山を攻め、再、之を破る、 天正2年1月3日 龍造寺隆信、草野鎮永を肥前鏡城に攻め、尋で、之を陥る、 天正12年1月1日 紀伊根来雑賀の一揆、和泉岸和田に中村一氏を襲ふ、一氏、兵を出して之と戦ふ、 現在残っている史料(それも『大日本史料』刊行分)でこれだけありますから、実際はもっと多くあったのでしょう。果たして暗黙の了解などあったのかどうか疑問です。
お礼
ありがとうございます
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
No.4です。 やっぱり、間違ってましたか? 私は学研の歴史群像シリーズで多く情報を得てます。 そこから、独自の想像ロマンを造りあげるわけですが、皆さんお詳しいので、最近はあまり歴史カテゴリに投稿してません。 ちょっと、どのような、回答が来るか、興味があり、にわか知識ですが、投稿いたしました。 話しがずれてしまった投稿なら申し訳ありません。
お礼
ありがとうございます
- shirouuda
- ベストアンサー率17% (14/78)
>NO4氏 >もう皆さん当然のごとく知っておられるでしょうが、日本の戦国時代の合戦は占いを信じて合戦の日を考えていて 初耳です。いかなる史料、または研究書にある記述なのでしょうか? 軍配師に占いをさせたらしいですが、 それで肝心な事を決定していたとは初耳です。 戦国の戦いの占いなど、 今日の建築前の地鎮祭みたいなものだと思ってましたが。
お礼
ありがとうございました
- amenhotep2000
- ベストアンサー率31% (72/227)
こんばんは。 どうなんでしょうね。 もう皆さん当然のごとく知っておられるでしょうが、日本の戦国時代の合戦は占いを信じて合戦の日を考えていて、毛利元就なんかは、それを逆手に取って占いの悪い日に奇襲などしていたらしいですから、なんとしても勝ちたいと思えば、やった武将もいるかもしれませんね。 しかし、武士道に反しますね。 西洋では、戦闘専門の兵士としてお金をもらって戦う傭兵というのが出来たら、騎士道精神がすたれ、本気で民のために戦う戦争がなくなったと何かの本で読んだ気がします。 私は、自分の国の民を守るため、武士道精神を貫いて戦うところに戦国のロマンを感じますよ。 もちろん、大阪の陣では、傭兵のような武士でしたが、武士として、死に場所を求める潔い精神は、日本ならではですかね。 回答になってなくてすみません。
お礼
ありがとうございます
- mekuriya
- ベストアンサー率27% (1118/4052)
そんな暗黙の了解など存在しない。第一次月山富田城の戦いは1年4ヶ月の長期間、大内軍が遠征していたのです。盆も正月もない。城の包囲を解いたら今までの苦労は水の泡ですから。それは1542年のことで織田信長はまだ子供で世に出ていません。そうなんでもかんでも織田信長の功績みたいに言われると困ってしまいます。
お礼
あー 質問のしかた悪かったかな 盆とか正月に戦を仕掛けに(攻め込んだ)って事でした 前からやってて長引いて 盆と正月にもかかった というのは普通にあるでしょ
- shirouuda
- ベストアンサー率17% (14/78)
ウィキによる川中島の戦いの出兵期間。 上杉、武田両軍とも、農繁期に出兵していることがわかる。 第一次合戦 1553年 7月、武田軍は再び北信濃に侵攻し、・・・9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。・・・景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信も10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。 第二次合戦 [編集] 1555年 晴信は同年3月、景虎は4月に善光寺奪回のため善光寺平北部に出陣した。・・・7月19日、長尾軍が犀川を渡って戦いをしかけるが決着はつかず、両軍は200日余に渡り対陣することになる[3]。・・・閏10月15日、駿河国の今川義元の仲介で和睦が成立し、両軍は撤兵した 第三次合戦 [編集] 1557年 晴信はさらに同3月14日に出陣し、・・・長尾方でも攻勢を強め、4月18日には景虎自身が出陣し善光寺平に着陣した・・・武田方では7月5日に安積郡小谷城を攻略すると北信・川中島へと侵攻し[10]、8月下旬には「上野原」において武田・長尾方は合戦を行う[11]。景虎は旭山城を再興したのみで大きな戦果もなく、9月に越後国へ引き揚げ、晴信も10月には甲斐国へ帰国した。 第四次合戦 1561年 上杉政虎は、8月15日に善光寺に着陣し、・・・武田信玄は、海津城の武田氏家臣・高坂昌信から政虎が出陣したという知らせを受け、16日に甲府を進発した。 (ユリウス暦では1561年10月18日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1561年10月28日)午前8時頃、川中島を包む深い霧が晴れた 第五次合戦 1564年 信玄が江馬氏を、輝虎が三木氏を支援して介入する。8月、輝虎は信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣した。信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出するが決戦は避け、2ヶ月に渡り対陣する。10月になって、両軍は撤退して終わった。
お礼
ありがとうございます 農民はさぞ疲れたと思います
- shirouuda
- ベストアンサー率17% (14/78)
>織田信長が兵農分離を確立させた事により 戦闘専門の兵士と部隊ができ戦のたびに農民が借り出されることはなくなりました その旧説は、代表的な提唱者だった、歴史学者小和田哲夫先生が訂正しています。 最近の小和田先生は、「織田信長の兵農分離は一部のみ」と。 この旧説の論拠とされた、信長公記の城下町の防火対策の記述も、当時、数万人を動員できた信長が数百人を引っ越しさせたということでしかなく、規模が小さすぎます。つまり、解釈の誤りでした。 また、川中島の5回の出兵も、すべて、農繁期にかかっており、上杉も武田も農繁期に大動員していたことが窺えます。桶狭間もモロに田植え時期。今川家もです。 ☆旧暦と新暦の違い、当時の農業の遅い田植えや刈り入れの時期等も計算にいれての話です。 当時は、どこの大名家も農民兵が主力でした。農民兵といえども、労働力の一部でしかありません。また、当時の農家は、単婚家族の自作農などめずらしく、一族+従属民(下人)の大家族による農業経営でしたから、一部の男が出兵しても農業は継続可能でした。さらに、出兵した家には年貢の減免が認められましたし。 結局、兵農分離は、教科書通り、豊臣政権により進んだものであり、その目的も、農繁期の出兵では無くて、身分秩序の確立や、動員兵数の確定のためでした。
お礼
ありがとうございました
お礼
ありがとうございませんでした