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異説 桶狭間
現在通説となっている"桶狭間の合戦"には、ここ何年かの間に大きな変遷がありました。 私が子供の頃は、信長率いる少数精鋭部隊による迂回奇襲が常識でした。 ですが、このところの十数年間に"迂回奇襲説"は真っ向から否定され(TVドラマや関連本での表記も皆目無くなった)、信長軍が低地の中嶋砦より攻め上り快勝を収める"正面強襲説"が有力となり、私自身"桶狭間"のイメージが様変わりして仕舞いました。 しかし、ここ最近"迂回奇襲説"が復活してきています。 主力の正面強襲部隊以外に、今川本隊(桶狭間山)の背後に廻り込んでいたと思われる別働隊の存在が取り沙汰されています。 もしこの別働隊の存在が本当だとすると、織田軍はただでさえ劣勢の兵力を膳照寺や鳴海城方面に割き、それ以外に別部隊を抽出していたことになり、戦の常道としてこの様な作戦が成り立つのか不思議でなりません。 やはり信長の天才たる所以なのでしょうか? 皆さんのご意見をお聞かせください。
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- kimari14
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お礼
大変参考になりました。 回答を寄せて下さいました皆様方に感謝いたします。 歴史というものは勝者による勝者のための歴史ですから、勝者に都合良く敵方の戦力は多く見積もるし、より勇ましく虚勢を張った脚色がなされたであろうことは容易に想像ができます。 後世の人がどれを史実として受け取るのかは、その時代時代の世相に大きく影響を受け、捻じ曲げられ歪曲化されたものが当然の歴史認識として定着しているのだから日々変化するのが当たり前なのかもしれません。 回答者さんの言われたように、今川軍の永禄3年5月の遠征は上洛を目指したわけでも、尾張の併合を目論んだのでもなく単に新分国である西三河の安定化を目的とした後詰戦に過ぎないのかもしれませんし、 信長は信長で、決して義元の首を狙ったわけではなく、乱戦に持ち込み今川の一部隊に一撃を与えられればそれで十分と考えた故の部隊配置なのかもしれません。