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桶狭間の戦いのあと

織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは有名です。 しかしそのあとどうなったのでしょうか? 織田軍の軍勢に対して今川軍の方が多勢であったと思われます。 領地に戻って、体勢をとりなおすことはできなかったのでしょうか? 織田軍が今川領にやってきたとき、今川軍は簡単に降参して軍門に下ったのでしょうか? それとも武士の身分を取り上げられたり、追放されたりしてしまったのでしょうか? 戦国時代の戦には暗黙の了解があって、大将の首をとったら勝敗が決まることになっていたのは本当でしょうか? そんなことを聞いたことがあります。

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回答No.5

確かに今川勢の方が多勢ではありましたが、桶狭間の戦いが起こったのは5月18日で現在の暦では6月になります。 当時の戦国大名というのは兵農分離ができておらず、農民が兵隊として戦っていました。6月は田植えには大事な時期で、その大事な時期にもう一度、大きな戦をする事は今川家の来年の収入に大きく響きます。このため、義元の跡を継いだ今川氏真は敵討ちができなかったのです。 桶狭間の戦いの後、織田軍は今川家の領内には侵入していません。織田家は松平元康と同盟を結び、美濃に侵攻していきます。 織田家と同盟を結んだ元康は名を徳川家康と改め、今川家の領地に攻めかかります。 義元の子・今川氏真は有能な人物で、仇討ちこそできなかったものの家康に寝返った井伊氏や飯尾氏などを粛正していましたが、同盟者であった武田信玄が家康と結び、両方から駿河に攻め込まれると、遠江の掛川城に籠城し、半年近くも家康を相手に奮戦し、今川家の意地を見せています。 氏真の戦いぶりに苦戦した家康は和睦を持ちかけ、氏真は掛川城を開城して妻・蔵春院早川殿の実家である北条氏康の所に移ります。 その後も氏真は駿河を取り戻す工作を行い、後には上洛して織田信長に蹴鞠を披露して、長篠の戦いでは信長、家康に次ぐ大将として出陣しています。 しかし、信長は氏真に駿河を返す約束を破り、氏真は家康のもとで晩年を過ごしました。 氏真の死後、今川家は旗本として幕府に仕え、長男の範以(のりもち)の子・今川直房が高家となり、氏真の二男・高久の家系は品川氏を称しました。 大将の首を取ったとしても、戦いの勝敗が決まるとは限りませんでした。家来達だけでも戦いを続けた例もあります。しかし、多くの場合が大将が討ち死にすると志気が低下したり混乱したりして、総崩れとなり敗北となっています。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 とても詳しく解説してくださり、参考になりました。 松平元康=徳川家康でしたか! それにしても田植えがあるから敵討ちができないとは、ちょっとなさけないような話です。 信長ならやったでしょ。 そもそも今川軍は京へ登る途上だったわけで、田植えとは無縁と思われますが。

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その他の回答 (7)

  • rczd
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回答No.8

 織田信長 =兵農分離完了  他戦国大名=兵農分離未完了 というイメージを皆さんお持ちのようですが、果たして桶狭間の戦いのあった永禄三年当時、信長配下の全ての戦闘員が専業であったのでしょうか? 私は100%とはいえないと考えています。柴田・林・佐久間など主力家臣の戦闘員もどうだったのでしょうか?? 織田弾正忠家は信長の数代前から津島という商業港・商業地を支配したことで、力を付けてきたと言われています。また、信長が小姓・馬廻として採用した者たちは、中小領主層の嫡男以外の次男・三男などが多いことも事実です。更に時代は下って、小牧山へ本拠地を移し、家臣を強制移住させたことも疑いありません。ただ、このような状況証拠だけで戦闘員の専業化が巷間で言われ続けています。 信長が家督を継いだ段階で専業化がなっていたとは思えませんし、家督継承後に専業化を断行したとの文書類も残されておりません。あくまで状況だけから類推されたことです。 専業化は農業など生産に関わる人口を削り取ることに直結し、領地内の生産力を落とし、すなわち領主の収入を落とすことに他なりません。一方で専業戦闘員を扶養するための支出が増えます。 信長ともいえども、一気呵成にこれを断行するわけにはいきません。徐々に専業率を増やしていったと考える方が妥当と思います。 *話をそらしてしまい、申し訳ございませんでした。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 考えてみれば、敵国の収穫前の田んぼに火を放てばかなりの打撃になりますね。 そんな話は聞かないので戦国時代は「仁義ある戦い」だったのですね。 のんびりしてたから60年も続いたのでしょう。

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回答No.7

>それにしても田植えがあるから敵討ちができないとは、ちょっとなさけないよう な話です。 >信長ならやったでしょ。 >そもそも今川軍は京へ登る途上だったわけで、田植えとは無縁と思われますが。 情けないというか、それは当時のどの大名でも同じです。 農兵に負担をかけすぎると、収入に関わります。収入がなければ領国の経営もできない訳で、仇討ちどころではなかったのです。 また、今川軍が京都へ行くつもりだったというのは、最近では否定されています。 何故かというと今川義元自身が永禄二年に出した軍役書に「上洛」という文字や京都に上るという事が書かれていない事と、後に上洛する信長や武田信玄のように足利将軍からの上洛命令もなかった事。また、二万五千程度の軍勢では上洛できないという事が上げられます。 そのため最近では尾張攻略か味方の城の救出というのが定説になりつつあります。 それに京都へ上るにしても、本国がボロボロになれば、前に上洛した大内義興のようにすぐに軍勢の補給ができなくなり、すぐに帰らなくならなければなりません。そのため、農繁期に多くの戦いはできなかったのです。

yoshinobu_09
質問者

お礼

再度の解答、ありがとうございます。 今川軍は上洛のためと思い込んでいました。 半農期の件理解しました。

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  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.6

No.5の返答についてのコメントです。 >それにしても田植えがあるから敵討ちができないとは、 >ちょっとなさけないような話です。 >信長ならやったでしょ。 これは氏真が無能だったと言うよりも、信長がそれだけ天才的な 革命児であったということではないでしょうか。 今川氏真に限らず他の戦国大名は兵農分離ができなかった ため、田植え時と稲刈り時には兵を動員できず、そのため 長期戦をしたくてもできない事情がありました。 戦国大名は、家臣が自分の領地から連れてくる農民兵を集めて 軍隊としたのであり、田植え・稲刈りを妨害するとなると、 まず家臣が大反対したことでしょう。 武田信繁(信玄の父親)の例をあがるまでもなく、家臣の 総反対されては、大名の座から追放されてしまいます。 逆にいうと、信長の軍団があれだけ勢力を拡張できたのは、 兵農分離に成功して1年365日稼動可能な軍団を組織できた ことが第一の理由です。 信長自身は決して戦上手ではなく、合戦では何度も負けた 経歴があります。 しかし、農民兵を大量動員できない時期に敵国に侵攻し、 城や砦を一つずつ陥としていくと、敵国の武将や地侍が不安 を覚え、やがて信長方の調略に応じて投降する(これが得意 だったのが、秀吉・光秀・滝川などの中途採用武将たち) という手順で、領国を拡大していきました。

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  • oriro1208
  • ベストアンサー率40% (66/165)
回答No.4

こんにちは。 最終的には武田家と徳川家に分割併合されてしまいました。義元の首は尾張国内で掛け渡された後、今川家臣の岡部元信が引き受け駿府まで守護して戻りました。

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  • suppi-
  • ベストアンサー率14% (24/167)
回答No.3

織田軍の軍勢に対して今川軍の方が多勢であったと思われますが、まず、直後は、混乱していたので、それこそ、領地に戻って、体勢をとりなおすのが、最優先だったかと思います。 織田軍が今川領にやってきたというより、最前線にいた松平元康が、独立をし、織田信長と同盟を組みました。 今川家では、仇を討とうと考えた人もいたと思うのですが、後を継いだ今川氏真は、無理と考えたみたいです。 大将の首を取ったら、勝敗が決まるわけじゃないですが、兵の動揺がひどい為、戦争どころじゃないのです。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 松平元康も思い切ったことをやったものです。 主君を討った相手とすぐ同盟をするなんて。 もっともその決定が松平家にとって最良の結果になるのですが。 きっと前々から独立をしたかったのでしょう。

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回答No.2

 封建制度下で総大将が首を討たれたということは現代戦で指揮官が戦死した以上の意味がありますから。  もうその戦争での撤退は必須、それどころか後継者がよほどの才能がなければその後の支配体制すら危うくなります。  付け加えるとこの氏真というのが無能な二代目の代名詞みたいな人物で、父の仇である信長を前に得意の蹴鞠を披露してみせたそうです。あの執念深い信長から逃れる為には仕方なかった、正面切って戦えないと見込んだ等といえるかも知れないけれどちょっとねぇ……。  或る創業社長は自分の息子に対して「世界一無能な二代目は武田勝頼だが、お前はその勝頼以下だ!」と罵倒したそうですが、彼の名誉の為に氏真に変えてもらいたい(勝頼はいろいろな面で不運過ぎたのであり、断じて無能ではないです)。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 下克上の世の中では、二代目はやってゆくのが難しそうですね。 今川軍は当時最強といわれてたと思うのですが、たった一人いなくなっただけでばらばらになってしまうとは。 武田勝頼にはわたしも同情します。 運もなかったですが、相手が悪すぎました。

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回答No.1

まず、「大将の首を~」という部分ですが、必ずそうしなければならない、ということはないと思います。ただ、当時は農民などを徴集して作った雑兵と言われる兵士たちが殆どです。彼らは、大将に忠義を誓っていたのではなくて、勝ち馬に乗っておこぼれに預かるのが目的なので、形勢不利となればすぐに逃げ出してしまいます。大将が討たれたりすれば、長期的にはともかく、その戦で立て直すのはかなり難しいでしょう。 で、義元が討たれたあとの今川家ですが、義元が討たれた後、後を継いだのは息子の氏真でした。が、氏真は義元ほどの統率力が無く、有力家臣であった徳川家康が独立して織田信長に付き、さらに同盟を結んでいた武田信玄に攻め込まれるという形になって1569年に家康に降伏、同じく同盟を結んでいた北条氏康の下へ亡命し、大名・今川家は滅亡しました。 ただ、氏真自身は一流の文化人だったこともあって、北条家でしばらく身を隠した後に、徳川家康に保護され、江戸時代は高家として今川家の名を残すことに成功しています。

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 当時の軍人は半農が多かったのですね。 今川家が高家として存続したとは知りませんでした。

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