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本能寺が起こらなかった場合の各方面の攻略について
あくまでIFの話なのですが…。 本能寺の変が起こらなかった場合、信長の指示通り、毛利輝元には羽柴秀吉が、上杉景勝には柴田勝家が、北条氏政には滝川一益が、長曽我部元親には丹羽長秀と織田信孝が、それぞれ攻略に当たっていたと思われます。 本能寺の変が発生した時の前後あたりで、秀吉は備中高松城を水攻めにして陥落、勝家は越中の魚津城を落としたように記憶してるのですが、本能寺の変の発生を知り、後は史実の通りですが…。 ここでお聞きしたいのですが、本能寺の変が起こらなかった場合、各方面の攻略を担当した武将達(ここでは勝家、秀吉、一益、長秀と信孝とします)はそれぞれの攻略相手を支配下に治めることができる力をもっていたのでしょうか? 北条氏や長曽我部氏は秀吉が、最終的に10万単位の兵士を送り込んで配下にしています。 それからすると信長配下の武将達はもちろん有能ではあるでしょうが、動かせても数万の兵士がやっと、というところではないでしょうか。 仮定の話ではありますが、その状況で各歴戦の大名達を攻略する能力を上記の武将達が持っていたか、皆さんの考えをお聞かせいただければ、と思います。
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中国攻め 鳥取、高松と力攻めではなく、ゆっくりと攻め落としていきました。 高松が落城寸前になって、信長に援軍を要請したのは有名な話ですが、これはすでに勝利が決定的だったので信長に花を持たせようとしたゴマすりという説と 落城後の毛利本軍との一大決戦に備えてとの説があります。 この援軍は光秀が率いることになっていた(が裏切って本能寺の変になります)ので、順調に攻略は進んでいったかと思います。 北陸攻め 手取り川の戦い直後(1577)では、加賀北部までが上杉勢力圏で南部までが織田勢力となっていました。 が謙信の死後の上杉家のお家騒動により軍事力が急速に低下。新発田重家の裏切りにより越前は大混乱、 本能寺の時点ですでに越中まで織田勢力下になっています。 上杉が新発田重家を攻め落とせたのは本能寺(1582)のはるか後の1588年のことですから、 こちらも本能寺がなければ順調に攻め落としていたであろうと思います。 四国攻め こちらもあくまでも準備段階の話ですのでまったくわかりません。これからはじめるという段階で すでに戦端が開かれ天王山も過ぎていたような中国や北陸とはまったく状況が違います。 もしある程度苦戦するようなことになったとしても、とりあえず現状維持をしておけば、そのうち中国側からの援軍もあったでしょうとは思います。 関東攻め? この時点では北条と織田は同盟関係にあったので攻めていたわけではありません。 基本的には武田氏滅亡の後の空白地域の維持・拡大が目的です。 もちろん武田攻めの折、どっちつかずの対応をとった北条家は次に攻められることは覚悟していたと思いますし、 滝川軍も隙があれば攻め込んでいたでしょうが、実際は本能寺の変で隙を見せたために北条により一方的に打ち破られています。 ということでこちらは四国攻めよりもさらに前の段階ですね。 旧武田家臣団を吸収した徳川軍との共同戦線になると思いますが、北陸からの援軍もあるでしょうし、こちらもそう苦戦はしないのではないでしょうか。 まぁどの戦線においてもこの時点で相当の戦力差がついていますから、武将の能力差以前に戦略レベルですでに決着がついている段階だと思います。
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- umigame3
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質問の回答とずれるのですが、「本能寺が無ければ」・・・ 歴史の流れでは天下をほぼ手中とした「秀吉」が登場し、その流れの上に「徳川」がいる。 信長が後世に大きくもてはやされる理由は「秀吉」の栄達に他ならないと思うのです。 少々粗っぽいですが、歴史上の「信長」の役割とは「秀吉」を生み出した・・・ という点に帰結すると思うのです。「秀吉」がチャンスを掴んだ事件こそ「本能寺」。 では、「本能寺の変」が無ければ・・・。 「秀吉」が登場しない・・・という点が歴史に大きなインパクトを与えることになると思うのです。 結果的には「秀吉」は一武将として生涯を終えて栄達する事は無かったのかもしれません。 従って、「本能寺の変が無い」⇒「秀吉が登場しない」⇒「内乱が続く」⇒??? 私見ですが、、、信長が60歳まで生きるとすると。。 信長没後、織田一族対甲州から関東を制圧した「徳川家」との戦いとなったのでは ないでしょうか?でも、牽制すべく「徳川」も配置換えがあったのか。。。 まさに小さな出来事が全体を動かす。。。「バタフライエフェクト」ですね。 ・・・ちょっと質問の趣旨とは違いましたね。
お礼
信長の役割は秀吉を生み出した…。そしてその後の家康、江戸幕府を生んだことになるのですね…。歴史の連続性を強く感じます。 秀吉が登場せず信長が60歳まで生き、徳川家との戦い…。多くの仮想歴史小説に取り上げられる題材ですね、私もよく買って読んでいます。 「…ちょっと質問の趣旨とは違いましたね。」いえいえ、おもしろいご意見ありがとうございました。
- bossnass
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あくまでもIFとして考えると、信長的思考では彼一代では統一は無理だったでしょうね。 信長は室町幕府からの古くさい統治システムや宗教や産業構造を純粋 なまでにも破壊しようとしました。 征服活動も、「俺に従うか、さもなくば死を選ぶか」的なデジタリック な思考でしたので、抵抗大名はがむしゃらに抵抗し、そのため本能寺 の変前には各地で無理が生じ始めていました。 武田信玄上洛の際は、さすがの信長も覚悟を決めていたそうです。 秀吉の方策は、各地の大名に「従えば得」と考えさせるようなもので したので意外なほど短期間で統一が完了しました。 当時の戦国大名は、ほとんどが隣国との抗争でしたので、 その隣国との調停を秀吉が仲介したり、隣国に対抗するために秀吉 が自分の傘下に入る利を説いたりしたので短期間で済んだのです。 下克上と熾烈な身内争いから上り詰めた信長と、百姓出身の柔軟な 発想で、理想よりも現実派の秀吉の違いでしょう。 勝家、秀吉、一益、長秀が、当時戦術に長けた武将であったとして なおかつ兵力がそこそこ持っていたとしても、おおもと(信長)の 戦略が硬直した痛々しいぐらい純粋だったのでは、統一なんて どのくらいかかったのでしょうね。例え成し遂げても死屍累々な 状況になっていたでしょう。 あくまでもIFですが。
お礼
「成し遂げても死屍累々」これは、恐れをなして従う大名もいるでしょうが、必ず反発も呼びそうですね。 安土桃山時代の豪放な時代のイメージとマッチしてか、秀吉の天下統一は明るく取り上げられる傾向にあるように思いますが、信長が統一してた場合、だいぶ違ったイメージになりそうですね。 結果を出すことに追いまくられる配下の武将達の苦労がしのばれます…。 ご回答ありがとうございました。
- daitoua2600
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皆さんの回答のとおりだと思います。 ただ何かの本で読んだのですが、信長の場合は秀吉より天下統一が遅くなったかもしれないという説があるようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- yakyutuku
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すでに回答が出ていますが、毛利以外は抑えでしょう。毛利を秀吉、光秀、足りなければ信長直卒といった織田家主力部隊で落とす。その間、他の諸将は最悪現状維持をすればいいのです。対集団戦は一番強いのを落とせば、あとは潰すもよし、降服させるもよしです。
お礼
ご回答ありがとうございます!
できたでしょう。 できるから信長が攻略に当たらせたのだと思います。 また、上杉や北条はどちらかといえば押さえ役であったのだと思います。そんな大大名を一度に相手にするのは無理な話ですから。そのうち順番に信長自ら滅ぼしに行く予定だったのではないでしょうか。 また、秀吉の四国平定や北条征伐もそんな大軍をもってしなくても成功したと思います。秀吉は年をとっていたので焦っていたのではないのでしょうか。それに自分の威光を知らしめるためにも大軍を率いるのは効果的だったのでしょう。事実、長曽我部も北条も大した抵抗もせず降伏してますから。 個人的な考えですが参考程度に聞いていただければ幸いです。
お礼
なるほど。秀吉以外は抑えですか。それはもっともですね! 秀吉はいいとして、北条のような大名を果たして攻略できたのかな?と疑問に思ったもので。 ご回答ありがとうございます。
お礼
上杉氏が越中を再奪取したのは1588年ですか、本能寺の変から6年もかかってたんですね。それは知らなかったです。 四国は確かに中国からの援軍が期待できそうですね。 関東は…北条もそうですが、何と言っても家康の動向次第のところはありますね、さらに北陸からの援軍もあれば攻略は早めにできたかもしれませんね。 ご回答ありがとうございました。