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戦国武将はホ○・・・?(^^;

昔、友達に聞いたのですが、織田信長や武田信玄といった戦国武将は遠い所に戦に出かける時、「小姓」という言わば美少年の家来を一緒に戦に連れて行きますよね?もちろん戦にも参加させるのでしょうが他の目的で大将であるそれらの武将の夜の慰めをする為に連れて行くと聞いた事があるのですが、これは本当なんですか? だとすると戦国武将は皆ホ○なんでしょうか? あ、でも皆大体奥さんとか側室いたし両刀・・・なんでしょうか?(^^;

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  • ubon
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回答No.1

みんながみんなとは言いませんが、両刀が多かったらしいですねぇ。 ホ○のことを当時は衆道といい、やっちゃう作法まで決まってたらしいです。 やられちゃうほうも、愛する男のためのことですから、 いざ戦場に出れば、けっこう勇敢に戦ったものだとか。 織田信長とともに本能寺で死んだ森蘭丸なんてのはまさにそうですし、 前田利家も若い頃は信長のお相手を勤めたものだといいます。 豊臣秀吉にはこの辺の趣味はまったくなかったといいます。 (その代わり並外れた女好き。人妻に手を出すことも全くお構いなし) 徳川家康は若い頃にわずかにお相手がいたようですが、 中年以降はやはりなかったようですね。 (こっちは妾をぞろぞろと連れ歩き、小姓代わりに身の回りの世話に 使ったとか。戦場に女連れという当時のタブーもお構いなし。) なお、当時はキリスト教が丁度日本に入ってきた頃でもありまして、 黒田官兵衛シメオン考高(秀吉の天下取りの頃の軍師、福岡藩黒田家の祖) のように、一生を妻とのみ添い遂げた、なんて人もいます。 ホ○ってのは江戸時代に入ってもけっこう大らかに行われていたらしいです。 女遊びも含め、この面だけは世界でも珍しくタブーのない社会だったとか。

noname#1645
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど~。 秀吉が女好きというのは知ってました(笑) しかし当時はそれが普通だったとは・・・。(^^;

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noname#3096
noname#3096
回答No.6

間違っていました。すみません。 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=197495

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=197495
noname#1645
質問者

お礼

ありがとうございました~。

noname#3096
noname#3096
回答No.5

下記URLを御参照下さい。↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/search.php3

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/search.php3
  • starflora
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回答No.4

    これについては色々なことが語れるというか、考察としてあるのですが、あまり色々なことを書くのも手間なので、核心的な点について述べます。男性の「同性愛」のこういう場合の意味について述べます。女性同性愛については言及しません。     第一に、同年齢あるいは少し年齢がずれてもいいのですが、「友人の関係」と、「男性同士の恋愛関係」は別のものとしてあります。非常に男性同士仲がよく、一緒に寝たりしていると、ホモではないかというような話になりますが、ホモセクシャルで仲がいい場合と、強い友情で仲がいい場合があり、この二つは別のことです。     これは非常に一般的な少年-青年心理学での知見なののですが、一般に思春期の少年は、「男性性」に憧れを持ちます。これは「或る意味」きわめて健全な「アイデンティティ確立」への心理的準備とも言えます。特定の年長の男性を「格好良い」と感じ、言葉や行動や考え方などを、その男性に合わせようとするというか、真似をします。     いわば、「男性としてのモデル」を見つけて、自分をそれに合わせて見るのです。この憧れは、「一体感」への要求にもなり、こういう思春期の少年に憧れられるタイプの男性が、少年愛への志向を持っていた場合、この二人は、適切な出会いの機会を通じて、「少年と年長者のあいだの同性愛関係」になります。この関係はきわめて自然な関係で、少年が、男性として成長し成熟すると、関係は友情に移行し、少年は、男性の大人となって、女性へと性の関心を明確に向けます。     これは男性の成長途上に「必ずある」通過性の「同性愛」で、普通は、身体関係まで進まないので、それと気づくことがないのですが、格好のいい、成人男性をモデルに取り込んで、男性成人としてのスタイルを築くということは、普通の男性の成長途上で起こっていることです。     このような男性としての成長途上の通過性同性愛の事実と相関して、「戦士社会」における同性愛があり、これは、同年齢同士と、年長者と年少者の関係の二つがあり、後者が一般的です。前者の同年齢の同性愛は、後者の展開したものと言えます。     戦士社会においては、「男性性」が何よりも尊ばれます。この場合の「男性性」とは、戦士としての強靱な肉体、精神、克己の心、意志の力などです。また、共同体への義務への忠誠も含まれます。一人前の「男の戦士」となるには、体力、身体、勇気、闘争の技術、克己心、指導性、知識、経験、そして上級者や下級者に対する適切な言動、敵味方に対するマナーなどが要請されます。     身体や闘争の技術、体力などは、体育場で、同世代の少年たちや年長の経験ある戦士や、指導者との訓練で身につきますが、精神の部分を育成するにはどうすればよいのか、それは、端的に、優れた戦士である年長者の言動を模倣し、年長者から教育を受けることが、もっとも有効な教育法であるということが、戦士社会では、経験的に分かっています。     年長者・年少者へのマナー、敵味方へのマナー、克己心などが重要になるのは、戦争になると、なによりも規律が重要となるからで、また、女性への愛情に溺れていては、戦士として「弱くなる」ことが経験的に分かっているので、戦場へは、原則的に、ステディな女性は同伴しないことが、軍隊の規律と志気の上での常識となります。     戦場近くの軍隊の近くにいるのは、娼婦と、そして同性の戦士たちとなります。ここで、「機会的同性愛」と言って、女性がいない場合には、同性に愛情を抱くようになるという自然な感情があるのですが、その場合にも、「規律」を定めて、戦士としておかしくならないようにする配慮が必要になるのです。     戦場の戦士には、同性愛が積極的に勧められ、それも、マナーにかなった同性愛が認められ推奨されます。マナーに適ったというのは、戦士の意味は、戦うためにあるので、そのため、女性を切って来たのに、戦場で同性愛に迷い込んで、戦士としての効率が落ちては困るので、落ちないような、寧ろ戦士としてより勇敢になるような同性愛のマナー・礼儀が古代の軍隊では決まっていたのです。     戦士社会における「少年愛」というのがそのマナーの洗練されたもので、古典ギリシアには、この戦士社会の少年愛が典型的に存在し、法律で、少年愛を定めていたポリスもあります。     最初に述べた、思春期の少年は、年長の男性に憧れるというごく自然な心理を適用し、戦士と少年を組み合わせるのです。こうして、戦士は、少年の手本となるような立派な男の戦士となるよう自己を磨き、少年はまた、戦士を見習って、優れた男性となるよう修行するということです。その場合、Coitus per Anum は、何ら恥ずべき行為ではなく、古典ギリシアで、「徳(アレテー)のある男性」が、少年をその徳により感化し、少年に「徳」を注ぎ、一人前の立派な徳を持つ男=戦士とすると言うことは、プラトーンも書いているのですが、「徳(アレテー)」のギリシア語での意味を正確に知らないと、隠れている半面の意味が理解できなくなります。     アレテー(徳)とは、「徳」と訳されるので、もっと重要な意味が隠れるのですが、「アレテー」とは、元々「男性としての優れた性質」のことで、「男性戦士としての優秀性」のことなのです。少年を教育して「徳」を与えるというのは、戦士社会では、文字通り、少年を訓練して一人前の成人戦士に育てることであり、戦場でのマナーを教えることも、教育に入り、男性としての教育を、「徳(アレテー=男性的優秀性)を与える、育てる」と言ったのですが、男性的優秀性は、まさに、女性を妊娠させることのできる、その精液(Sperma)にあるとも考えられ、少年愛で、少年に女性の代わりに「精液」を与えることは、「男性性」を与えることになり、これを「徳を少年に注ぎ与える」とも言ったのです。     これは真面目な話で、確かに、女性を妊娠させるポテンシャルは、男性の精液にあるので、女性同士では、どうやっても、子どもはできません。     戦士社会では、こうして、年少者を相手とする少年愛は、男性の卓越性の顕現とも見られ、名のある武将、指揮者、指導者は、「優れた少年」を選び、これを愛することが、指導者としての条件にもなったのです。     日本の戦国武将も、少年を愛さないでは、十分な「男」と認められなかったし、戦士としても、武将としても認められなかったということがあるのです。     少年を愛する形の男色は、戦士=武士の心得の一つであり、少年に憧れられ、愛せられ、自分も少年を愛するほどの力量のない戦士は、戦士として失格だとも極端には言えるのです。     こういう戦士社会の「徳」のありようや、マナーが消えた後で、なお、男を追いかける男は、やはり普通でないのであり、それは「ホモ」だということになるかも知れませんが、ホモと言ってもかなり複雑で、単純な話ではありません。     戦国武将は、優れた少年を小姓として傍らに置き、小姓の尊敬を受け、小姓を愛し、小姓を優れた戦士にすることが義務だったし、それが自分自身を磨き、また、小姓が成長して戦士になると、もっとも頼もしい、信頼できる部下になるので、こういう小姓を持つことは是非必要なことだったのです。     女色専門の秀吉でも、寵愛する小姓は大勢おり、秀吉は彼らと肉体的な関係は結ばなかったようですが、それぞれ優れた武将として育てています。例えば、石田三成は、秀吉子飼いの武将で、秀吉の小姓出身ですし、かの剛胆な加藤清正も秀吉の小姓出身です。     小姓として身近に置き、戦の指揮の仕方や、軍のとりまとめの段取りや、また、武将としての気概、ここぞという時に見せる闘志を小姓に実例として示し、優れた才能ある小姓を、将来の指揮者・武将として育て、子飼いの武将として、忠実な部下を得るという目的もあったのです。     戦国武将が小姓を持つことは必要なことであり、また臣下からも要請され、小姓と肌を合わせることも、精神を伝えるということで、単に女の代わりとか、そういうこと以上の意味を持っていたのです。    

noname#1645
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど~ 単に「ホ○」でくくってはいけないんですね。

  • ToshiJP
  • ベストアンサー率38% (482/1255)
回答No.3

何かの本で読んだ記憶がありますが、戦国時代は、いったん戦場へ出ると何ヶ月もかえってこれない場合が多いので、つれていけない女性のかわりに小姓をつれていったといいます(身の回りの世話と夜の世話)。 あとは戦場でなくても、女性が出産したときや、生理のときは「不浄」とかんがえられ、男性には近づけなかったといいます。そんなときの代わり、という意味もあったのでしょう。 まあ両刀ですな。でもそれが文化として受け入れられていた時代でもあったわけです。 徳川3代将軍、家光は成人してしばらくするまで男性にしか興味がなく、後継ぎが心配されたといいます。正室をもらってもいきなり別居で側室も持たず小姓と遊んでいたといいます。後にいい女性にあって正常?な恋に気づき、あとは子供ポンポンできたんですがね(笑)

noname#1645
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 家光、すごいですね(笑) 嫁さん貰ってもしばらくは男に行ってましたか(^^;

  • phanbura
  • ベストアンサー率29% (21/71)
回答No.2

両刀の人は多かったかもしれませんね。(^_^;) 下の方が上げておられる以外で有名なものに、質問文にもある武田信玄がいます。 高坂弾正という人にあてた恋文が今も保管されていますから、こちらは「夜の慰め」というよりは、本当に「恋人(もしくは愛人)」だったのかもしれませんね。 いずれにせよ、性の感覚がかなりフレキシブルだったようです。(^^ゞ

noname#1645
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 信玄はそのけがあった人で有名だったのですね(^^; 何かイメージが・・・。(笑)

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