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将軍家茂の参内の様子
元治元年1月21日、二条城にいた将軍家茂に右大臣の宣下があって、即日家茂は、右大臣昇任の御礼のために参内しています。 このときの参内の具体的な様子を教えてください。 天皇と家茂は、御所のどこで会ったのでしょうか。 その建物まで家茂は馬か輿で行ったのですか。 また、二人は直接会話できる位置にいて、他人を介さず会話をしたのでしょうか。 よろしくお願いします。
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>どこで会ったのでしょうか。 小御所&常御殿(常御所) >建物まで家茂は馬か輿で行ったのですか。 知識不足&時間不足により、施藥院からか否かは?ですが、 (文久三年三月七日初參内の先例(後述URL〔大樹公參内次第書〕)を 踏襲しているとすれば、施藥院から) 唐門(※宜秋門)を乗り通して車寄(=建物出入口)まで拝領の板輿で参内。 >他人を介さず会話をしたのでしょうか。 小御所では無理があるとして、 常御殿(常御所)にて二献目は天酌を賜ったとの記述(後述URL〔長橋局記〕)とか、 その席にて「誠に氣の毒なる事なりしとの勅語在らせられし」 (後述URL『続再夢紀事.第二/中根雪江著/日本史籍協会/1921-1922』)の記述など から、会話はあったと考えるのが自然だと思います。 参考URL ・『維新史料綱要.巻5/維新史料編纂事務局/昭12至15』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046677/56 <56・57/377>(101・102頁)元治元年正月 二十一日 征夷大將軍德川家茂ヲ右大臣ニ任ズ。家茂、後見德川慶喜・ 和歌山藩主德川茂承等在京ノ諸侯及高家四十餘人ヲ隨ヘテ參内、恩ヲ謝ス。 小御所ニ於テ謁ヲ賜ヒ、特ニ勅シテ、征夷ノ職掌ヲ盡シ、一定不拔ノ國是ヲ樹テ、 天裁ヲ仰ガシム。後、常御殿ニ於テ、天酌ヲ賜ヒ、優渥ナル聖旨ヲ下ス。 (引用資料省略) ・『孝明天皇紀.巻176・巻177/宮内省先帝御事蹟取調掛編/宮内省/1906』 「孝明天皇紀九十四 卷百七十七 元治元年正月下」<23~31/54> 「元治元年(甲子)正月二十一日(癸亥)」関連記述のうち、 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991911/26 <26/54>〔長橋局記〕 …廿一日…入御成常御所にて大樹公へ二こんの御盃たまふ二こんめ天しやくにてたまふ… http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991911/31 <31/54>〔任長朝臣記〕 正月廿一日癸亥雨今日(家茂公)參内 板輿拜領之間乘板輿參内車寄迄乘通云々 昨年參内之節(節)杉(〇杉は透の假訓歟)垣外ニテ下車於此度甚異 且昨年六位輩陪膳之處於今度如攝家親王宮殿上人(五位四位)陪膳云々 總テ昨年トハ大相違嗚呼武威又興振乎今日大樹右大臣拜任… ・『続再夢紀事.第二/中根雪江著/日本史籍協会/1921-1922』 「續再夢紀事 卷八(元治元年一月) 〇大樹公參内宸筆ノ勅書」 <194/239>(366・367頁) http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920601/194 ・『孝明天皇紀.巻154・巻155/宮内省先帝御事蹟取調掛編/宮内省/1906』 「孝明天皇紀八十一 卷百五十四 文久三年三月上」 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991898/25 <25~28/69> 〔大樹公參内次第書〕 初參内 … 一 於施藥院著(著)改衣冠單 一 於唐門(※宜秋門)透垣外下轅簾沓太刀之役大名高家之内可役之 於唐門内公卿殿上人昵近等(〇此書昵近稱廢止前に成るを以て此名あり) 出迎之事今度無之 … http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991898/32 <32/69>〔上洛日次記〕(文久三年)三月七日御參内… …夫ヨリ御表ヘ被爲成殿上之間前ニテ御駕籠被爲召施藥院ヘ被爲入 同所ヘ高倉侍從罷出御衣冠差上從御所御程合申來御挾箱出御轅ニテ御參内御次第… 以上 疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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- oska
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>天皇と家茂は、御所のどこで会ったのでしょうか。 まぁ、孝明天皇は小御所で会っていますね。 京都御所紫宸殿(ししんでん)の東北に、あります。 >その建物まで家茂は馬か輿で行ったのですか。 二条城から蛤御門(中立売門)のあたりにあった施薬院までは、駕籠に乗って移動しています。 施薬院で衣冠に改め、小御所までは轅(ながえ)に乗り進んだ様です。 ※轅:輿に長柄を通して10人くらいが担ぐ乗り物。 宜秋門(ぎしゅうもん)の石段の一番上で轅から降りて、沓(くつ)をはいて門内に入りました。 >二人は直接会話できる位置にいて、他人を介さず会話をしたのでしょうか。 義理の兄弟ですからね。政治的立場を除けば、直接の会話も可能だったでしよう。 が、当時の状況では「孝明天皇に拝謁」です。 孝明天皇は上段に座し、家茂は下段で拝礼した後で中段に進み、勅語を賜っただけですね。
お礼
簡潔明瞭に回答して下さったので、とても分かりやすかったです。 よく解りました。 宜秋門は「公家門」とも呼ばれていること、また小御所は、昭和29年に火災で焼失したので33年に再建されたことなど、調べてみて分かりました。
お礼
詳しいご回答ありがとうございます。 文久3年の八月十八日の政変で長州藩勢力と急進派の公家三条実美らが京から追放されたので、京の情勢は尊攘から公武合体派の勢いが増したと思います。 そうであれば、元治元年の参内は、前年文久3年の恥辱ともいえる参内と比べてどう違うのだろうと思い、質問しました。 そこで、建物まで馬か輿で行ったのですか、とお聞きしました。 ご教示の〔任長朝臣記〕によれば、 <板輿拜領之間乘板輿參内車寄迄乘通云々> <昨年參内之節杉垣外ニテ下車於此度甚異> とありますので、前年の参内は、(施薬院から)車寄せまで歩かされたが、今回は板輿が準備されていたことが解りました。 ご教示の多くの「参考URL」は大変参考になりました。 ご親切なご回答に感謝申し上げます。