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綱吉が宝永2年3月5日に右大臣になった理由

徳川綱吉が、宝永2年(1705年)3月5日に急に右大臣になった理由は何なのでしょうか? 徳川綱吉は、延宝8年(1680年)5月に将軍後継者となり、従二位権大納言になっています。 そして、その年の8月に、正二位内大臣および右近衛大将となり、さらに将軍宣下を受けて将軍になっています。 しかし、その後20年以上もの間、徳川綱吉の官位に変化はありませんでした。 何故、20年以上もの間、官位に変化はなかったのに、宝永2年(1705年)3月5日になって急に右大臣になったのでしょうか? この直前とかに何か出来事でもあったのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • ithi
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回答No.1

xxyyajtmdj さん、こんばんは。 兄家綱のころのような慶安事件もないことですし、短期間で内大臣から右大臣に挙がる必要ないことです。平時ですから、実はおかしく感じなくてもいいのかもしれません。25年も将軍在職のままですし、逆に内大臣から右大臣なっても不思議はないです。吉宗も在職26年で右大臣になりました。強いてあげれば、甲府宰相綱豊を後継者に選び、家宣と改名したことでしょうか? 家綱 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1 吉宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97

noname#224504
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 綱吉が右大臣になった宝永2年3月5日には、家宣も従二位権大納言になっているみたいです。 だから、甲府宰相綱豊を後継者に選び、家宣と改名したことが理由だと思います。 ありがとうございました。

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