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何故将軍家ではない者が、将軍家の御留流を習えたのか?
毎度お世話になります。 高杉晋作は長州藩士の子として生まれました。 将軍家とはおそらく所縁(ゆかり)は有りません。 それなのにどのようにして、将軍家の御留流である、新陰流を 習得出来たのでしょうか? これは新陰流のみならず、小野派一刀流にも言えます。 小野派一刀流も将軍家の御留流だったと記憶しております。 ですが、幕末には山南敬助や大石鍬次郎が小野派を習得出来ております。 これは何故でしょうか?ご存知の方何卒ご教授願います。
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> 将軍家の御留流である、新陰流を | > 小野派一刀流も将軍家の御留流だったと記憶しております。 「柳生新陰流宗家」「小野派一刀流宗家」のどちらも将軍家に指南 したとは言っていますが、御留流というような主張は一切していま せん。自らの格式を上げるような主張をしない場合、そのような事 実はないからだと考えてよいと思います。それどころか「将軍の外 多数の門人を有し」といった表現をするし、柳生では江戸で将軍家 に教えていたのは傍流の扱いだし、小野派は津軽の藩主に一子相伝 を持ってかれて断絶しかかってたと認めています。 デマでしょうね。
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- Mr_Holland
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あやふやな知識で申し訳ないが、 新陰流は全国各地の大名家にも門人を送り、藩の流派になっていたと思います。 先日の番組「そのとき歴史が動いた」でやっていましたが、毛利家も新陰流だったはずです。 その関係で新陰流を習うことができたのではないでしょうか。
お礼
ご回答有り難うございます。 >新陰流は全国各地の大名家にも門人を送り・・ この辺りが「将軍家の流儀」と言える所以なのでしょうね。 ですが、これでは御留流とは名ばかりですね。 大変参考になりました。 深謝!【'07 1/17 14:33】
お礼
ご回答有り難うございます。 「御留流ではなく、将軍家の指南役だった」という事ですね。 なるほど!辻褄が合いますね。スッキリしました。 深謝!【'07 1/17 14:55】