>日本史の質問なんですが、将軍になっているのに右大臣などに天皇から位を貰う必要ってあるんですか?
鎌倉幕府ではその必要性はあまりなかったようです。実朝の右大臣を例外とすれば、源氏将軍も摂家将軍も頼朝の権大納言を超えることはありません(皇族将軍は除く-多くは一・二品)。ただ、政所を開設できる従3位以上の位につくことは重要で、元服後3位になることが急がれます。政所の設置によって、書類の発給形式も変わり、権門としての体裁をとることができます。
鎌倉幕府の時点では、征夷大将軍がその始まりに、鎌倉殿(総追捕使・総地頭)に対する形式的な官職に過ぎないという発生上の性格により、官職はあまり重要ではないこと。朝廷の所在地である京都から離れ、官職をもって天皇、公卿などと交わる必要性が相対的に薄かったことによると思います。さらに付け加えるならば、頼朝が先例であり、実朝を除き、この先例を超えないとの意識があったと思います。吾妻鑑には「右幕下(右近衛大将のこと)」、貞永式目には「右大将家」とされて先例として基準とされます。また、頼朝を「将軍家」と呼んでいないことも注目されます。
これに対して、足利幕府は初代尊氏、2代義詮は権大納言を超えません(死後の贈官で尊氏の太政大臣、義詮の左大臣は注目されます)。しかし、義満の時代となると、従1位、太政大臣、准三宮(皇后宮・皇太后宮・太皇太后宮に准じる扱いを受ける)と最高の官位についています。義満以降も大臣任官が多くなります。義満に関しては、個人的に上位の官職を欲したという側面も強いと思います。また、実質権力が地位を求めていったこと。幕府が京都にあって、戦乱の収まった義満時代には、公家社会との交流も多くなったこと。義満が天皇の地位を望んだとの説もありますが、それはともかく、幕府が朝廷の権能を吸収していったことは確かですから、その面でも上位の官職を求めたのだと思います。幕府の侍所(山城守護兼任)は、朝廷の山城国司、検非違使、左右京職の権能を吸収するなどの例が知られています。なお、鎌倉時代は国衙機構の守護所への吸収が顕著。
江戸時代はほとんどの将軍が将軍就任と同時に内大臣についています。先例として踏襲された面は強かったと思います。また、江戸時代は末期はともかくほとんどの期間幕府が朝廷を凌駕していますから、官職は必要ないように思われますが、官位を封建秩序・格式の道具として使い、尾張家の極官は権大納言のように、就ける官職により上下関係を表すようになっているためにも将軍が高い官職を持つ必要があったと思います。これは鎌倉、室町時代にもあり、鎌倉時代国守に任じられるのは、源氏の一門と、北条・三浦などの有力御家人しかないなどの例があります。
以上から考えても、本来将軍に官職の必要性は薄かったと思います。しかし、いろいろな要素から官職を持ったのでしょう。
以上、参考まで。
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とても詳しく書いていただいてありがとうございました。 とても参考になりました。