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将軍の地位

日本史の質問なんですが、将軍になっているのに右大臣などに天皇から位を貰う必要ってあるんですか?

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  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.6

>日本史の質問なんですが、将軍になっているのに右大臣などに天皇から位を貰う必要ってあるんですか? 鎌倉幕府ではその必要性はあまりなかったようです。実朝の右大臣を例外とすれば、源氏将軍も摂家将軍も頼朝の権大納言を超えることはありません(皇族将軍は除く-多くは一・二品)。ただ、政所を開設できる従3位以上の位につくことは重要で、元服後3位になることが急がれます。政所の設置によって、書類の発給形式も変わり、権門としての体裁をとることができます。 鎌倉幕府の時点では、征夷大将軍がその始まりに、鎌倉殿(総追捕使・総地頭)に対する形式的な官職に過ぎないという発生上の性格により、官職はあまり重要ではないこと。朝廷の所在地である京都から離れ、官職をもって天皇、公卿などと交わる必要性が相対的に薄かったことによると思います。さらに付け加えるならば、頼朝が先例であり、実朝を除き、この先例を超えないとの意識があったと思います。吾妻鑑には「右幕下(右近衛大将のこと)」、貞永式目には「右大将家」とされて先例として基準とされます。また、頼朝を「将軍家」と呼んでいないことも注目されます。 これに対して、足利幕府は初代尊氏、2代義詮は権大納言を超えません(死後の贈官で尊氏の太政大臣、義詮の左大臣は注目されます)。しかし、義満の時代となると、従1位、太政大臣、准三宮(皇后宮・皇太后宮・太皇太后宮に准じる扱いを受ける)と最高の官位についています。義満以降も大臣任官が多くなります。義満に関しては、個人的に上位の官職を欲したという側面も強いと思います。また、実質権力が地位を求めていったこと。幕府が京都にあって、戦乱の収まった義満時代には、公家社会との交流も多くなったこと。義満が天皇の地位を望んだとの説もありますが、それはともかく、幕府が朝廷の権能を吸収していったことは確かですから、その面でも上位の官職を求めたのだと思います。幕府の侍所(山城守護兼任)は、朝廷の山城国司、検非違使、左右京職の権能を吸収するなどの例が知られています。なお、鎌倉時代は国衙機構の守護所への吸収が顕著。 江戸時代はほとんどの将軍が将軍就任と同時に内大臣についています。先例として踏襲された面は強かったと思います。また、江戸時代は末期はともかくほとんどの期間幕府が朝廷を凌駕していますから、官職は必要ないように思われますが、官位を封建秩序・格式の道具として使い、尾張家の極官は権大納言のように、就ける官職により上下関係を表すようになっているためにも将軍が高い官職を持つ必要があったと思います。これは鎌倉、室町時代にもあり、鎌倉時代国守に任じられるのは、源氏の一門と、北条・三浦などの有力御家人しかないなどの例があります。 以上から考えても、本来将軍に官職の必要性は薄かったと思います。しかし、いろいろな要素から官職を持ったのでしょう。 以上、参考まで。

godevil
質問者

お礼

とても詳しく書いていただいてありがとうございました。 とても参考になりました。

その他の回答 (5)

  • D-1coffee
  • ベストアンサー率23% (46/196)
回答No.5

ひょっとして将軍って征夷大将軍?? ならそうってしっかり書いてえな こんないい加減な質問しんただからあんさんも誠意みせてえな これぞ本物の誠意大将軍

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.4

職位と官位とは別物です。 将軍職は職位になります。  これに箔をつけるのが官位です。 ちょうど軍人の大将といっても勲章のないのが将軍にあたります。 いろいろ手柄を立てて勲章をもらうのが官位に相当すると思ってください。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

質問の対象は、徳川将軍家だという理解でお書きします。 ● さて、政治制度をこうしますので、よろしく。 という、事は歴史上滅多にないことです。だいたいにおいては、前例でこうだったとか、今現在敵対相手がこうだから対抗上、こうしないと。というような感じで歴史、特に政治史は進んでいきます。 ● 将軍って偉いんかい? 征夷大将軍ってのは、朝廷の中ではそんなに偉くない。頼朝のことを吾妻鏡では、故右大将軍と呼んでいます。右近衛将軍の事で、こっちは 征夷大将軍は、坂上田村麻呂が任官したとき従四位下。右近衛将軍は正三位です。なんで頼朝が征夷大将軍をねらったかというと、こっちは、京都にいなくてもいい役職。右近衛将軍は京都常駐なので、鎌倉に帰れない。なので征夷大将軍をねらったらしい。 ただ、頼朝が征夷大将軍に成ったものだから、その後の武家の棟梁は征夷大将軍になることになってしまった。 ● 京都 そして 西日本政権との合体 鎌倉幕府は東日本ローカルでしたので、次の足利家としては、西日本・京都を完全制覇する必要があった。なので、三代将軍義満は太政大臣になりました。そのあとの将軍も、内大臣だったり、右大臣だったり、それなりの朝廷での高位高官になっています。 ● 関白 秀吉 秀吉は関白として天下を統一しました。なので息子の秀頼も、関ヶ原の戦いの段階で、権大納言。家康が将軍になった1603年には、秀頼は内大臣になっています。内大臣は、前任者が家康で、後任が秀忠。 豊臣家に対抗するには、徳川家も朝廷の官位で、家康>秀頼 にしないとならんわけです。 だって、その前10年くらいは、秀吉のもと、「朝廷の官位で、おまえらの偉さを表示するからな」という体制が続いていたわけですから、ちょっとやそっとでは、体制は変わらない。 ということで、豊臣家を潰したあとでも、徳川家では前例に従って、朝廷から官位をもらうというのが 習い性になったわけです。 ちなみに 征夷大将軍も 朝廷からもらいます。

回答No.2

 将軍は武家の最高の地位です。幕府と天皇家がそれでも足りないと思ったときにそのほかの位を贈ったと思います。

  • D-1coffee
  • ベストアンサー率23% (46/196)
回答No.1

将軍は単なる1つの役職です。部下が1000人くらいいても凄いです が、なんせ右大臣は日本の右腕の支配者ですから。。。 全然かないません。

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