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禅やヴィッパナサーに興味があり、マインドビギナーズ
禅やヴィッパナサーに興味があり、マインドビギナーズマインドや 禅的シンプル生活を読みました。実際に座りにも行きました 日常生活において、活かせるようになるには座り続けるしかないのでしょうか? あとは、心の色々なのを捨てるって言いますが、具体的にはどうしたら捨てられるでしょうか? フラットな目線は常に意識をしていればいいのでしょうか? 何もないのが坐禅だと思いますが、本でおすすめがあったり禅語も興味あり調べています
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blueair(青空=せいくう)さん、こんにちは。 見性(けんしょう)って、Answer No.6で、tumaritou1さんが、冒頭に、 「禅の目的は『自分自身を知る=見性』です。」と書いています。簡単に言えば、自分の心の中に、仏、あるいは、仏の領域を見出すことです。 禅問答で、「片方の手で打つ拍手」とは何か? また、「ひょうたんでナマズを捕る」とは何か? という問いがあったと記憶します。 この二つの禅問答は、これまで話して来た、空・無・有、の体験を物語っています。 まず、「片方の手で打つ拍手」、とは、空を打っても拍手の音が無い、ということで、空・無、の体験を暗示します。 次に、「ひょうたんでナマズを捕る」、とは、ヌルヌルと捕えがたい、ということで、空・有、の体験の暗示です。 これらは、空に触れた時の体験を示しています。 空、に触れた時、初めは、無、の体験から始まります。空=仏を体験する能力がないため、無、になっちゃうのです。 それが時間をかけて、体験能力が成長してきます。 すると、無、の体験が、有、になってきます。 心の中で、ヌルヌルと滑る感じ、滑らかさの感じ、どこまでも滑って行くような体験は、空=仏の、無限性とか、無限の相関関係、といった性質の直接体験になります。 この先については、私もよく分かりません。 blueair(青空=せいくう)さんが、よく探究され、もっと味わい深い体験をなされることを願います。
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- KaitoYuriya
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blueair、訳すと(青空、せいくう)さん、回答を読んでいただいてありがとうございます。 答えると自分が学ぶ、って本当ですね。今回、私は、答えてはいたけれど、自分のことばかり見ていた、と気づきました。 改めて、blueairさんの書いた文章を読んでみました。 『禅マインドビギナーズ・マインド』って、スティーブ・ジョブズが影響を受けた本なんですね。 『禅的シンプルライフ』は、プレジデントの別冊でしょうか?この二冊、ネットで調べて私も興味を持ち、読んでみようと感じました。 そうそう、blueairさん、「超絶瞑想」って書いていましたけど、「超越瞑想」です。心の領域を「超越」するという意味です。心の領域を超越して、心の源、に触れると、空・無、の体験になります(前回の回答)。 禅を在家で続けるって、きっと、すごくかっこいいことです。ただし、覚悟が必要ですね。一生かけて極めるんだ、というその覚悟自体で、もう十分格好がいい。日常生活にも、それがにじみ出てくるでしょう。 覚悟を決めたら、あとは気楽に取り組むこと以外はないでしょう。 目線。禅は、半眼にするんでしたね。この意味は、何でしょうか? もし目を閉じれば、心の内面に没入しやすい。では、半眼のメリットは何でしょうか? 今、ここ、という体験が実感しやすい、とか、でしょうか? blueairさんは「フラットな目線」とおっしゃってますが、これは、内面にも外面にも偏らない、ということでしょうか? どちらにしろ、いろいろ試みて体験してみて、ある納得にたどり着く、ということが、いいことだ、と感じます。 blueairさんは、何もないのが坐禅、とお書きになっています。 毎日坐禅したからと言って、何か特別な成果を期待しない方がいい、ということでしょうか? そうですね。ただ覚悟して、淡々と続けるだけです。すると、何かにじみ出てくるものがあるのです。 あるいは、何もない、と言うのは、空・無の体験、と言うことでしょうか? ・・・おそらく、回答者のどなたかがおっしゃっていましたが、見性、の発見、確立、というのが、禅なんですね。 見性、を発見するプロセスもまた禅でしょうから、雑念でいっぱいである状態も、また禅である、と言うことができますね。 見性、とは、たとえ雑念があっても、それに巻き込まれていない、心の中の空な感じ、ということだ、と考えます。それを見つけ、維持し、確立できれば素晴らしいことです。 では、気楽にがんばってください。
お礼
>『禅的シンプルライフ』… とは正しくは『禅、シンプル生活のすすめ (知的生きかた文庫) 枡野 俊明』 でした。すいません >フラットな目線は… 自分の価値観・考えで、すべてを見ないことですかね >何もないのが座禅… ある本に、座禅はやり続けても何もないってことが書いてあったのを見て、そのままそう書きました。 見性って言葉初めて知りました。見性を維持でき、確立できたら大変素晴らしいと思います。 長く遠い道かと思いますが…
- ri-zyu
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>捨てるとは忘れるってことですか? この質問も捨ててください 捨てられないのは世間で言うところの安心を得たい為だと思います 宗教的安心とは世間で言っている相対的な安心ではなく絶対的安心です 相対的な安心は不安対安心という縮図です 宗教的な安心は対が有りながら対を無くすこと です。 他力宗的には全てを神に任すと言う事です 不安も安心も全て仏にお任せすると言う事です。 http://www.eonet.ne.jp/~sunamori/daruma.htm
お礼
回答ありがとうございます。すべてを託すわけですね。
- ri-zyu
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>捨てるとは忘れるってことですか? 捨てられないのは安心を得たい為だと思います、宗教的安心とは世間で言っている相対的な安心ではなく絶対的安心です 相対的な安心は不安対安心という縮図です 宗教的な安心は対が有りながら対を無くすことです。 他力宗的には全てを神に任すと言う事です 不安も安心も全て仏にお任せすると言う事です。 http://www.eonet.ne.jp/~sunamori/daruma.htm
- tumaritou1
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禅の目的は『自分自身を知る=見性』です。是は自分自身の内部(脳内)に人格が二つ存在している事を体感、或いは体験すると言う意味です。 科学的な証拠を二つ程上げておきます、その後で、『心の色々なのを捨てるって、、、』と言う場合の、何を捨てるのかを具体的に書いてみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した もう一つは、脳の障害によって二つの意識が交互に出ている動画です。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 右脳の意識は『生命維持装置』として働いています。身体も行動も心にも、多大な影響を及ぼしていますが『自我意識』との関係は『没交渉』自我意識には大変判り難い存在として内在しています。 はっきりと判る場合もあります。『身体の機能』を働かせている意識と、交替制が崩れる場合に、『自律神経失調症や難治性の症候群や心身症と言っています。 『行動に関する機能』を働かせている意識と、交替制が崩れた場合を『神経症』と呼んでいます。 『心に湧き上がる感情や、考えに関する機能』を働かせている意識との交替制が崩れた場合に『心を病む』と呼んでいます。 全ての障害は『見性』する事で完治します。『内在する心同士の戦い』をこのように障害として感じているからです。 最後に『心の色々なのを捨てるって、、、』と言う捨て方を書いてみます。 右脳の意識は『感情を湧き上がらせる働きがその機能の一つです。』恐怖症が完治する場合では『恐怖を湧き上がらせていた意識との出会いによて、完治します。是が見性体験ですが、『湧き上がる感情』の処理の仕方の事を『捨てる』と表現しています。 湧き上がる感情の内の良い感情と、悪い感情を差別しなくなる事が出来た場合が『分別を捨てた事』になります。 第三祖、僧璨の信心名がこの事情を良く説明しています。脳梁の中(意識の根底で)右脳からの感情が湧き上がる情報を、お互いに交換していますが、『自我意識の分別作用で』自我意識は、情報の受取りを拒否しています。 この拒否の仕方が強い場合『防衛機制が働く事』を意味します。是が恐怖症の原因ですが、健常者の人たちも多かれ少なかれ『真実の情報に対して、自我と言う分別心』と言うイロ眼鏡で見ています。 貴方の場合なら、『禅やヴィッパナサーに興味があり、、、』と云う事になっています。心底からの満足感が得られない不満となっています。 右脳からの情報を、自我と言うフェルターなしで、受け取る事が『禅』の醍醐味と思います。 動画のように、涅槃の心境に到るために、『湧き上がる雑念』をただそのままにして置くだけで、自我意識のフェルターはかからなくなります。 『死人のようになりはてて、湧き上がる感情の相手をしない場合』少しは近ずいた事を意味します。
お礼
なるほど、理解が難しいのですが詳しくありがとうございます
- KaitoYuriya
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ご質問が二つありました。 1.負の感情を味わうことは、それにレッテルを貼ること? 2.空、無の具体的な体験方法は? 1..味わうこと、と、レッテルを貼ること、は、もっと基本に戻れば、自己コントロール下に置くこと。 負の感情が強すぎて、ワーッと巻き込まれそうな時には、ゴミが消える、きれいになる、いいことが起こってる、あるいは、ありがとう、などとレッテルを貼って、過度な巻き込まれ、を防ぎます。 過度な、というと、どの程度か、ということになりますが、他者に迷惑がかからない程度にする、ということです。 味わうこと、ができる場合、既に自己コントロール下にありますから、そのまま収まるまで続けます。 収まる、の判断とは、負の感情が収束して、別のことを考えている、という状態です。 それから、深呼吸、伸びなど、心身を日常生活になじませるようにして、普段の生活に戻ります。 2..空と無の体験、これは、目覚めの意識を、意識の源まで導く、ということです。 目覚め、を維持するために、意識内に、目覚めを保つための、何らかの活動が必要です。 また、源まで到達するために、途中で弾かれたり、網にかかったり、堂々巡り、しないような工夫が必要です。 (ウィキペディアより引用) ヴィパッサナーとは「よく観る」「物事をあるがままに見る」という意味である。一般に仏教においては、集中力を育てるサマタ瞑想と、物事をあるがままに観察するヴィパッサナー瞑想とが双修され、この点は南伝仏教でも北伝仏教でも変わらない。(引用終わり) 日本の禅、ひたすら座る曹洞宗、問答をする臨済宗、そのルーツは、インドの仏教、ということですが、さらに遡れば、バラモン教に行き着きます。 お釈迦さまも、王子の時代に、バラモン僧から、瞑想を学んだと考えられます。(私の仮説です。) お釈迦さまが、様々な苦行を経て、菩提樹の下で瞑想して悟りを開いた時の瞑想は、バラモン僧から学んだ瞑想ではないでしょうか?(私の仮説) 1950年代、第二次世界大戦が終って冷戦が始まるころまで、インドのヒマラヤ、 シャンカラチャリヤの座に、純粋なまま保管されていた瞑想法があります。 おそらく、この瞑想法が、お釈迦さまが、菩提樹の下で行った瞑想ではないか、と考えます。(私の仮説) この瞑想法は、ヴィパッサナー瞑想(観る)とも、サマタ瞑想(集中する)とも違います。おそらく、もっと簡単、自然、シンプルなものです。 つまり、先程あげた二つの条件を、簡単に満たすものです。 ・目覚め、を維持するための、何らかの活動。 ・源まで到達するために、途中で弾かれたり、網にかかったり、堂々巡り、しないような工夫。 この方法は、超越瞑想、で検索してみてください。 今、この方法を学ぶには、十数万円かかります。ただ、一度学べば、一生の宝になるでしょう。 座禅の伝統は、美しきもの、よきものだと思います。日本的なものを深く味わう、とか、職業として 宗教家になる場合、素晴らしい道だと思います。 ただ、もっとルーツにせまりたい、という時、こんにち、その道も開けています。 (以上)です。
お礼
回答ありがとうございます。超絶瞑想はお金かかりすぎるのでちょっと…とは思いましたが、 いろいろな解説ありがとうございます
- KaitoYuriya
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空の体験が無になります。 人の心が空に触れると無の体験をします。 心が、心の源の空に接触した時に無を体験します。 自覚する意識が、意識の源の空に到達した時、初めての体験に目がくらみ、何も体験できず、無の体験になります。 何度も空に触れて馴れて来ると、そこは空ではなく、充満性だということが、わかってきます。体験も無ではなく有になります。 まず、意識内の護美(ゴミ)を捨て、 空と無の体験をし、 充満性と有の体験に至ります。 (以上)です。
お礼
回答ありがとうございます 具体的に方法はないのですか?
- KaitoYuriya
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常識から始めましょう。自分の物を捨てる場合、それを手に取って、ゴミ箱に捨てますね。 物を捨てる場合、捨てよう、という意識があり、それを手に取って、判別して、ポイします。 物を捨てる時には、捨てよう、という意識を抑圧しても、手に取ろうとする意識を抑圧しても、解決にはなりません。無駄です。そのような空疎な自己コントロールは、ゴミがたまる一方に。 さて、意識内の出来事で、捨てる、とは何でしょう? 当然、意識内のゴミは捨てます。大切な思い出も、時として忘れ去られる必要があるかも。でも、社会の常識は、捨ててはいけませんね。 話を絞ります。意識内のゴミを捨てる、とは何か? 意識内のゴミとは、劣等感とか自己嫌悪とか、理由のない怒りや憎しみとか、一般に、悪感情のかたまりと、それにまつわる関連イメージのことです。 意識内のゴミも、捨てる時は、手に取らなければなりません。抑圧しては、捨てられません。抑圧すれば溜まる一方です。 意識内のゴミを手に取る、とは、どういう事か? それは、内省して思い出す、ということです。まず、表層の関連イメージが出できて、次に、より深くにある悪感情のかたまり、が出てきます。 ここで注意すべきことは、自己意識内の(-)に振り回されない、ということ。ましてや外部に投影してはダメです。これはゴミ、とレッテルを貼ってクールに保つこと。ここにこそ、人間の自己コントロールの価値があります。 さて、意識内のゴミを手に取り、次に、これを捨てます。意識内のゴミを捨てる、とはどういう事か? それは、感じ続ける、味わい続ける、ということです。つまり、悪感情のエネルギーを放出させ、多少なりとも自己コントロール下に置く、ということになります。 あるいは、意識内のゴミには、ゴミの言い分や、存在理由があるかもしれません。それを聞き届ける態度、もし、ゴミにも存在価値があったら、それに感謝するくらいのゆとりがあれば、もっとスムーズに捨てられるでしょう。 もう一つ注意です。内省して、意識内のゴミを手に取り、捨てた時は、日常生活に戻る前に、深呼吸をするとか、目をとじたまま数分間心を静めるとか、横になるとか、とにかく、心身の状態を、日常モードにすり合わせてから、日常に戻ることが必要です。 これを繰り返し、意識内をきれいにすると、体も健康になります。各種の身体的精神的な能力も向上するでしょう。 (以上)です。
お礼
回答ありがとうございます。 うまく掴めないのですが、ネガティブや負の感情を味わうって、レッテルを貼る ってことでしょうか?
心は物質ではないので、捨てられる様なものではありません。「捨てる」という禅特有の言い回しに気をつけて。 何もないのが坐禅というか、何も生じさせないのが坐禅。無心に至ろうとするのではなく、無心のままで居る。仏のままで居る。ひとたび心が生じれば、仏は心の陰に隠れてしまう。畢竟、禅は無生なり。 坐禅は、する事ではなく、しない事。しない事とは何かを知るには、とりあえず坐禅するしかないです。
お礼
回答ありがとうございます。坐禅すればいいのですね
- ri-zyu
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>心の色々なのを捨てるって言いますが、具体的にはどうしたら捨てられるでしょうか? この質問も捨ててください。 欲望が苦しみだから欲望を捨てろという、悟りを開こうという欲望を捨ててください。 鈴木大拙氏の書物 西田幾多郎 善の研究
お礼
回答ありがとうございます。捨てるとは忘れるってことですか? 鈴木大拙の本は全てでしょうか?
お礼
回答またありがとうございます。難しい言い回しですね。 今回はよくわかりませんでした。