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禅を理解できる本

今日は。 私は、白隠禅師の本を読み、禅に興味を持ちました。 そして、彼の作った座禅和讃や粉引歌等の歌を歌いながら 日常の作業を行う「動中の工夫」を行ったところ、 頓悟のような心境や、腹に胆力が座ったみたいな感じになって 度胸が付いたようになり、 他人に対する愛情みたいな感情も自然に湧いてきたり 小さな事にこだわらない様な心境になれたりと 不思議なこれまで味わった事のない体験をしました。 そこで、なぜこのような心の変化が起こるのか 科学的に知りたいと思っています。 何か、この辺りの事情を科学的に 理解出来るような本があったら私に教えて下さい。

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回答No.3

禅は教えも、お経も、そもそも何も持っていない事が特徴です。それゆえに分り難くなっていますが、仏典であっても、聖書であっても、長ったらしく書いてありますので、読めば読むほど更なる疑問の虜になると思います。 宗教は体験から『身体で知る』事によって、分かる事が出来る経験則を語っているものです。自転車に乗る場合を思い起こして下さい、頭での理解だけでは自転車に乗れるようにはなれない事と同じです。 或いは水泳でも同じですが、入門書を読んだだけでは泳げる事が無いように『体験から学ぶ他は無いという意味です。』 お経や禅なども同じです。入門書を読んであらかた理解出来た様な気がしたところで、所詮は『知的理解』でしかありませんので、『体得』に到る前段階にしか過ぎません。 究極的な体験を経験する事で『体得』出来る経験則が禅に於ける最終目的であり、目標です。是が『見性』して成仏するという事を意味します。 この体験以後『死にも生にも執着が無くなります。』この事を禅では『生死の問題が解決した。』と表現しています。別な表現をするなら『一生の大事が了畢した。』とも表現します。 禅が何も教えない問答に『人生とは何でしょうか?』という弟子に向かって『何故お前はそう思うのだ?』と師匠が逆襲をして、その問答は終了します。 その疑問を抱いた本人の中に答えが『もう既に用意されている事』を師匠は指摘しただけです。 自分自身で疑問を持って、自分自身でその疑問を解決する事が『禅』の要諦です。 科学的な根拠です。頭の中に真実を見ている自分の心(真我)があって、その心との対立や矛盾や分裂が疑問や悩みの元になっている事です。もう一つの心とは『自我意識』です、或いは顕在意識という言い方もあります。 人間の心の構造です。それは脳の機能によって生じているメカニズムです。人間には二つの心があるからです。科学的な証拠をウイキペデアから紹介して置きます。 『”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』 この事実を、自分自身の体験から裏付けている動画を紹介します。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。 この体験こそ、『見性体験』です。『自分自身を知る』という体験です。キリスト者なら『神と和解している最中』という意味です。 この体験は『自分自身が永遠の存在』であった事を体得する体験です。この経験以後では『自分の肉体としての生命には余り意味が無い事、或いは現世的なお金や見栄や欲にも余り意味が無い事』を体感する体験である事から、それ以後『全てに執着する心』が無くなります。 このように『沸き上がる雑念に振り回されなくなる事によって』心の中は”何時も紫綬まり反って、静寂になっている”様を『涅槃』と形容しています。 禅を学ぶなら『鈴木大拙博士』の著書が良いと思います。博士のお陰で、自分自身の『無意識の中にも意識が在った事』を体験した事があります。 博士は25歳で見性していますので、書いたものには無駄が無いからです。強調するところもわきまえているからです。

kirakiraaruku
質問者

お礼

鈴木大拙博士ですか、さっそくチェックしてみます。 難しいお話を有難う御座います。

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回答No.5

禅とは瞑想することです。では瞑想とは、どの様な心の状態を言うのでしょうか。  瞑想とは、起きていて夢を見ることです。起きているので、その夢を自分の意思でコントロールすることが出来ます。夢は、自分の意思とは関係なく進んで行きます。しかし、瞑想では、望む人に出会い、会話を楽しみ、望むものに触ることが出来ます。その感じは、起きている時と何ら変わりありません。また、記憶する機能も働いているので、瞑想を止めてもその事を記憶しています。  ではどの様にしたら、起きていて夢を見ることが出来るのでしょうか。それには、先ず座ることです。横に寝てしまっては、本当に寝てしまうからです。そして、ほんの少しだけ目を開けます。僅かで構いません。眠ってしまうのを防ぐだけで良いのです。  そして、臍の下10cm位の所を軽く意識します。思考している時、意識は上の方にあります。何かを考えて、意識を脳の位置に持ってくると、瞑想の状態には入れません。何も考えず、全てを捨て去ります。すると、意識は、次第に下に降りて来ます。  悩みも欲も何かをしなければならないと言う意識も、全て捨て去ります。自分自身も捨てて下さい。何も要りません。何もしません。自分もいりません。瞑想に入らなければならないと考えてもいけません。何かを感じようとしてもいけません。すると、次第に眠くなって来ます。それを、僅かに目を開いて、ただ本当に寝てしまわない様にするだけで良いのです。  そうしていると、後ろの頭頂部の辺りで、音が響いてきます。その音は、瞑想の都度異なります。私の場合は、ピアノの音であったり、お経の声であったりすることが多い様です。その音に耳を澄ませます。それは、次第に大きくはっきりとした音になってきます。  すると、今度は、額の中央の辺りで、ひっきりなしに動き回っているものを感じます。大きさは一円玉位です。ウニの様に、何本もの黒い枝が伸びたり縮んだり様々な方向へ向いたりと、不規則に激しく動いています。その動きを妨げてはいけません。思考すると、その枝を操作することとなり、動きを止めてしまいます。それは、動きを止められると消えてしまいます。  その動き回るものは、全てになります。言わば世界の種です。それに頼り切って下さい。思考することは「自力本願」です。思考を止めて、私の全てをその動き回るものに委ねます。この世界の種に頼り切ることを、「他力本願」と言います。  その動き回るものに私を預け切っていると、それは次第に大きくなって行きます。その黒い枝の1本1本は、家や木や池や石などあらゆる存在にせわしなく絶えず変化しながら、絶えず動き回る様になります。そして、どんどん大きくなって行きます。  すると突然、広々とした空間が開けます。今までせわしなく変化していた存在の中に、私が入り込んでしまっています。私は、一瞬にしてそれに吸い込まれました。せわしなく動き回っていた1本1本の黒い枝は、実際にその空間の中で家になり、車になり、木になり、池となっています。そして、無秩序に動き回っていたその存在は、車として規則正しく動き、木の葉として秩序通りにそよぐ様になります。私がドアを開けると、ドアは動きます。私の行動に合わせて因果関係通りに、それは動く様になります。今まで、後頭部で鳴り響いていた音は、風の音や人の声となっています。これが瞑想状態です。  この世界は現実の世界ではないと言う意識はまだあります。しかし、現実の世界と全く変わりません。起きていて、広い周りを見渡している時と全く同じ状態です。風が吹くと髪がゆれ涼しく感じます。車の音も聞こえます。振動も感じます。すがすがしい空気を、深呼吸することも出来ます。 会いたかった人に会うことも出来ます。その人の肌は、ぷよぷよとした感覚があり毛穴まで見えます。話もします。  私は、自由自在にその世界で思考し、活動することが出来ます。この世界は私そのものです。この木も家も宝石も人も、私の欲しいものは既に私のものです。私は、こんなにすばらしい世界を所有しているのです。

kirakiraaruku
質問者

お礼

長い回答を有難う御座います、お礼が遅れて申し訳ありません。

noname#224207
noname#224207
回答No.4

>なぜこのような心の変化が起こるのか、科学的に知りたいと思っています。 「頓悟のような心境」が科学的に説明ができないので、世の脳科学者は日夜研究を続けています。 まだまだ道半ばですが、茂木健一郎という人が、判り易く、一般人向けの本を多数出されています。 直接禅がどうのとは、書かれてはいませんが、むしろ思い当たることが多いかと思います。 取敢えず 「脳」整理法 ちくま新書 意識とはなにか ちくま新書 が手頃かと、思います。 尚、「科学」という学問の思考方法は、現象を細分化して要素毎に考えていくのを非常に得意とします。 ひらめき、頓悟などということに関してはおそろしく下手クソな学問思考方法だということを御理解下さい。 あまり「科学」というものに頼ると混乱してしますので注意して下さい。 「科学」を万能と思うのが現代人の悪い癖です。

kirakiraaruku
質問者

お礼

茂木健一郎氏ですか、有難う御座います。 さっそくチェックしてみます。

回答No.2

仏教は東洋の考え方の一部で、西洋の哲学とも科学とも無縁で異質であるのだよ。 仏教を科学する論調は新興宗教の各種仮説のみで確立していない。 科学的合理性を仏教に求めると、変な宗教にはまってクルクルパーの洗脳されるからやめておきたまえ。 それよりも仏教の専門書を100冊単位で満遍なく読んだ方が全容が見えてくる。 残念ながら仏教を志すというなら簡単な道のりではないのだよ。

kirakiraaruku
質問者

お礼

まぁ、私は仏教を志すというほどではありません。 専門書を100冊ですか、有難う御座います。

  • kurinal
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回答No.1

こんばんは。 「他力」ではなく、「自力」だからではないですか。 自ら、与えることの出来ない存在は、卑屈になると言います。 「他力」では、卑屈になるより、ないのです。

kirakiraaruku
質問者

お礼

自力だからですか、有難う御座います。

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