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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:文の意味と構造)

建築のなかの建築とは?住宅作品との関係を解説

このQ&Aのポイント
  • 建築のなかの建築が住宅である、という言い方には、ふだん小規模の仕事しかしてこなかった設計家のコンプレックスがあるだろう。
  • すべてのすぐれた建築家はすべてすぐれた住宅作品を遺している。
  • 建築のなかの建築なので、住み手の情念を十分に呑み込んでいる。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hakobulu
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回答No.4

1. 「そう大げさに構えるのはしばらくおくとして」の意味 : 他のみなさんもおっしゃっているとおりですが、 「今例に挙げた建築家について言及すると、大掛かりな論を展開しなければならず、また、時間もかかりますのでまたの機会にしますが~」といった意味です。 次のように、()内の意味が省略されているとお考えになると良いでしょう。 しかし、古来すぐれた建築家はすべてすぐれた住宅作品を遺している。(たとえば)パッラーディオ、ワーグナー、ライト、コルビュジエ……(といった建築家などもそうである。しかし、このように名前を挙げたからといって、彼らの住宅作品についてこれから言及しようとしているわけではない。今の段階では、)そう大げさに構えるのはしばらくおくとして~ 2. やはり頭から尻尾まで揃っている建物として、住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合からも、また空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分にそれを堪能させてくれるその住宅づくりのすべてが、要するに建築のなかの建築なのである。 : a. まず最初に、「また空間の造形から」の「また」は不要ですから削除してお考えになってください。 以下の説明でも外して記述します。 b. この文の基本的骨格は、 『その住宅づくりのすべてが、要するに建築のなかの建築なのである。』 という部分です。 「その住宅づくり」とは何かという説明が、その前の、 「やはり頭から尻尾まで揃っている建物として、住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合からも、空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分にそれを堪能させてくれる」 という部分。 この部分全体が、『「その住宅づくり」とはどのような住宅づくりなのか』の説明になっています。 以下、この説明部分について解説します。 c. 「頭から尻尾まで揃っている建物」 →「頭」というのはおそらく芸術性・美しさを追求した建物といった意味でしょう。「尻尾」というのは現実的で、味気ないほどに機能性を重視した建物といった意味になると思います。 住宅というのは、ある程度の美しさと、現実的な機能の両方を備えている必要がありますから、それを「頭から尻尾まで揃っている」と表現しているわけです。 「揃っている」は「要求されている」と言い換えることもできるでしょう。 d. 「住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合からも」 → 堅固な土台や床板、見た目の美しい壁や屋根、部屋の配置、窓の形状や大きさなどなど、住宅という一生で最大の買い物に際して、人は全神経を傾け、最大の関心を寄せます。 まるで欲望の渦が現実化するかのようです。 こうした、住宅注文者の家に対する多様な願望(欲望)を「どろどろした情念」と表現しているのだと思います。 これらの熱い欲望(情念)を受け止める(介入する)形で、建築家は設計や制作に取り掛かるわけです。 このようにして、建築家は住み手の情念に深く関わっていくことになります。 「設計側の介入の度合からも」は、「設計側の介入の度合の深さから考えても」という意味になります。 e. 「空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分にそれを堪能させてくれる」 → 全体的な構図から、細部に至るまで、十分に建築家としての力を発揮することができる、といった意味になるでしょう。 f. b の説明部分の要旨は、 「やはり頭から尻尾まで揃っている建物として、[] 空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分にそれを堪能させてくれる」 という箇所です。 間に挟まれている[住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合からも、]という箇所は、あくまで補足説明として付け加えられているだけです。 3. もう少し砕いて総合すると次のようになります。 これらの建築家について本格的に触れるのはしばらくおくとして、 やはり、芸術性(美的センス)から現実的機能美まで揃っている(要求される)建物として、 [ 住み手のどろどろとした情念(願望)を十分に理解していこうとする設計側の介入の度合の深さから考えても、] 空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分に建築家としての力量を発揮することができる(という属性を持っている) その住宅づくりのすべてが、要するに建築のなかの建築なのである。 [ ] 部分を挿入句としてお考えになるとわかりやすくなると思います。 ◇ >【 】で囲まれた文の構造と表現したい意味です。 : →【 】で囲まれた文の構造と表現したい内容です。 とするほうが適切です。   

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。よく理解できました。大変助かりました。本当にありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • TANUHACHI
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回答No.5

 典型的な悪文です。一つのセンテンスが長すぎて主語と動詞の関係が明確ではありません。 具体的にこの文章の主語は「すべて」であり、動詞は「である」です。この主語に様々なおひれ(修飾要素)が付いている。  この文章を読み易くする一例を以下に示します(そうおおげさに以下文末に至る部分)。 >そうおおげさに構えるのは一先ず別問題とする。では(筆者が)考える「住宅作りの要素」とは何か。第一に建物としての機能と要件を十分に備えていること、第二にはそこに住み暮らす者を満足させることである。  その上で「設計者」として留意すべきは住む者の日々の意識、たとえば安らぎがほしいなどの時には何かホッとさせてくれるような空間作りを細部に忍ばせるなどの工夫である。それが設計者としての楽しみでもある。  この文章が読みにくい最大の問題点は「住み手のどろどろとした情念」「十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合」の表記に具体性がなく、「空間の造形」と「ディテールの触感」が全く同一内容であることを理解せずにツラツラと文字を連ねている点にあります。全く無意味な表記です。  この文章の趣旨は「建築のなかの建築なのである」ものは何かといえば、それは「住む者を十分に満足させる要素を余すところなく備えていることを条件とする」、とのことであり、これ以外は全く中身のないくだらない文章といえます。

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご親切に教えていただきありがとうございます。よくわかりました。大変参考になりました。本当にありがとうございました。

  • snaporaz
  • ベストアンサー率40% (939/2342)
回答No.3

「大げさに構えるのはしばらくおいておいて」というのは、 「“建築のなかの建築が住宅である”という言葉」の外にある背景や事情を、建築史的に、あるいは建築家(作家)論として考察する(深読みする)のはここではやめておいて、 という意味でしょう。 つまりここでは、「純粋に住宅建築を目の前に実在するハードとして評価する」としたときに、 「頭から尻尾まで揃っている」つまり形の上でも機能的にも完結している、 ユーザーと設計者の想念のぶつかり合いや調和、妥協点が見て取れる、 ヒューマンサイズで(大建築ではないので)すべてのディテールについて意図を感じやすい、 といった意味で、建築を鑑賞する、味わうのに作品のスケール感としてもほどよいのが住宅というものである。 ということです。 他の回答にあるほどではないですが、悪文だと思います。日本語教材としてはふさわしくない。日本語を、というより建築を勉強なさっているのでしょうから、駄文を読むなというわけにもいかないのでしかたがないですけど。 質問文そのものは短いですがきれいな日本語ですよ。外国人の文章であることを感じさせません。

awayuki_cn
質問者

お礼

 早速のご回答ありがとうございます。とても参考になりました。本当にありがとうございました。がんばります。

回答No.2

こういう日本語は困りますね。悪文の典型ですから、まともに付き合うことは無いわけで、こういうのは捨て置くのがベストなんです。しかし、日本語を学ぶ側からしますれば、そうもいかない事情もおありなのでしょうね。お気の毒としか言いようがありません。 まず、冒頭、「建築のなかの建築が住宅である、という言い方には、ふだん小規模の仕事しかしてこなかった設計家のコンプレックスがあるだろう。」と断言してしまう傲慢さがいけません。日本古来の真の「職人」気質は、そういうことを許しません。この著者は、日本文化を理解していません。「日本の職人芸を余りナメないでくれ」と、そう思っていると、結局、この著者は、住宅作りこそが最高の仕事と言っているのですから、悪ふざけにも、ほどがあります。 「そう大げさに構えるのはしばらくおくとして」もダメですね。当人に特に哲学、思想的な「構え」があるはずも無く、単に、著名な建築家を列挙して、そういう方々に対しての造詣が浅いのを棚に上げて、そういうのを「横に置いて」、話を進めようとしているだけなんですね。こういうのを「構え」とは言いません。文脈を複雑にして、何を言いたいのか不明確にしたいだけで、要するに読者を「煙に巻く戦法」なんですね。こういうのは、小林秀雄という文芸評論家がこしらえた手法です。 次いで、「どろどろとした情念」とは、依頼側の要求です。人は誰しも、ドロドロとした「暗部」を持っています。そういうことを発見したのは、多分、明治の文豪、漱石ですが、そういう「暗部」が時として、「建築注文」そのものの中に、無意識に浮き上がります。依頼された側は、依頼主に潜む「暗部」を突き付けられて、身を震わせます。「注文」とは、人として業の深さ、即ち、「暗部」なのです。 「設計側の介入の度合からも、また空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分にそれを堪能させてくれるその住宅づくりのすべてが、要するに建築のなかの建築なのである。」とは、注文主(依頼主)の「暗部」を「清濁併せ呑む」精神にて、その善悪の全てを総括的に受け容れた上で、なおかつ、造詣の細部に至るまで、注文者の予想を遥かに上回る「上出来な首尾」にて、彼らの「住宅」を提供することこそが、建築というものの最高峰であり、醍醐味であるということ。それが、また、建築家の至福の時でもあるということ。

awayuki_cn
質問者

お礼

 早速のご回答ありがとうございます。ご意見は大変参考になりました。本当にありがとうございました。

  • bakansky
  • ベストアンサー率48% (3502/7245)
回答No.1

> そう大げさに構えるのはしばらくおくとして  直前の 「古来すぐれた建築家はすべてすぐれた住宅作品を遺している。パッラーディオ、ワーグナー、ライト、コルビュジエ……」 という部分を受けています。  「そのような大建築家の住宅設計について、いま、ここで論じることはしないでおくが・・・」 といった趣旨の文だと思われます。 > やはり頭から尻尾まで揃っている建物として、住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合からも、また空間の造形からディテールの触感にいたるまで、十分にそれを堪能させてくれるその住宅づくりのすべてが、要するに建築のなかの建築なのである。  (少し書き換え) → 頭から尻尾まで揃っている建物である住宅は、住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合が強いものであり、また空間の造形からディテールの触感にいたるまでを設計することは、作る側に十分にそれを堪能させてくれる。住宅をつくることにはすべてが含まれているから、建築のなかの建築であるといえるのである。 まだややこしいかもしれません。部分的に見ると、 > 頭から尻尾まで揃っている建物  「頭から尻尾まで揃っている」 のは動物のこと。「それ自体で完結している」 ということを言いたいのだと思います。つまり、建物としての住宅には、建築におけるあらゆる要素が含まれている。 > 住み手のどろどろとした情念を十分に呑みこんでいこうとする設計側の介入の度合  「住み手のどろどろとした情念」 は、その家に住む人の生々しい生活の場が住宅なのだ、ということを言いたくて 「どろどろとした情念」 という、日本人的な感性に訴える表現を用いている。「十分に呑みこんでいこうとする」 というのは、その住宅に住む人のことを考えて、その人の生活の利便性なども考慮に入れて住宅を設計する、という意味合い。「呑みこんで」 というのは、「考慮に入れて」 くらいの意味。 > 十分にそれを堪能させてくれるその住宅づくりのすべてが  これは作り手の視点から述べている。住宅を作ることは、作り手に 「十分にそれを堪能させてくれる」 ということです。「それ」 というのは、「空間の造形からディテールの触感にいたるまで」 を、作り手のイメージするとおりに設計に反映させることです。その住宅に住む人のことを頭に描いて、あたかも自分が住むような気分で、こうであったらいいなと思うような住宅を作っていくことに、作る側の者がやりがいを感じる、ということです。 * ここではあまり丁寧に説明を尽くすことができませんが、いくらかでも理解を深めていく一助になれば幸いです。

awayuki_cn
質問者

お礼

 ご丁寧に教えていただきありがとうございます。よくわかるようになりました。大変助かりました。本当にありがとうございました。