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大坂の陣 幸村が率いた兵が強かった理由は?

真田幸村が音に聞こえた名将であったのは言うまでもありません しかし大坂の陣にはせ参じた時、幸村は蟄居先の九度山から脱出して駆けつけたわけで 手勢は供回りの数十人だけでした 大坂城で秀頼から軍勢を借り受けて戦ったわけですが 大坂の兵はいわば寄せ集めの雑兵、訓練もロクに受けていない兵なわけです しかも真田古来の家臣軍勢ではなく 秀頼から「君たちは真田君の下に入って命令に従う様に」的な軍勢だと思うのです(つまり完全に幸村の命令に従わない奴も居ただろうと思います) 幸村も真田丸に篭って戦っているし 配下の雑兵に十分な訓練を施せたとは思えません なのに夏の陣では一糸乱れず、伊達の三段構えを突き崩し家康の本陣まで突入しています。 寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? 単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが

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  • titelist1
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回答No.9

幸村の采配は父と共に戦った真田城で実績済みです。その後の彼の隠遁生活の日記から推測すると世に名を残す死に場所を探してしたのです。大阪勢の幸村の配下は赤甲冑で目立つことで、敵から逃げることができないようにしていました。真田勢は死を覚悟して戦ったので強かったのです。

azuki-7
質問者

お礼

あれがとうございます

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  • eroero4649
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回答No.12

後の島原の乱のときもそうでしたが、こんときも豊臣方には職にあぶれた浪人が多く参加していました。彼らは戦さの経験は豊富でしたから、「こういうときにどう振る舞えばいいのか」はよくわかっていたでしょう。また、徳川方からすればもう戦役そのものがこっちの勝ちであることは確定でしたから、「こんなところで死んだら命の無駄だ」と「自分の命最優先」になったのはしょうがないと思います。要するに相手が強かったら「あれはヤバい」とこっちの損害覚悟で力攻めもしなかっただろうし、攻め込まれたら退却しがちだったと思います。 私個人は、脚色されてる部分が多いとはいえよく頑張ったと思いますよ。 『毛利勝永の知名度は悲しいほどに低く、辛うじて玄人気取りの戦国オタクが「俺こんな隠れた名将知ってるんだぜ凄いだろ」という自己満足の為にその名を挙げるくらいである』 ~アンサイクロペディアより~

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • ngwave
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回答No.11

>寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? >単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが もう一つ、残念な話を。 真田勢は、一番大事な決戦の時に道に迷って遅刻をして、それが、大坂の早期壊滅の大きな原因になっている。 真田勢と毛利勝永が間に合わず、又兵衛が討死。 真田信繁は、「おれのせいや。もう豊臣終わった。おれも討死する」とやけになって毛利勝永になだめられている。 最後の決戦では、毛利がフライングしてしまい。作戦がグダグダに。 真田信繁は、これで完全に死に場所を決めた。 でも、快進撃をしたのは毛利勝永。 徳川主力を正面で受け止め、名だたる武将を討ち取っている。 一番押していた毛利勝永をマークして、手薄になったところを、自棄になっていた真田勢が死ぬ気で突っ込んで混乱させた。 チャンスを作ったのは毛利勝永。 真田勢は、ヤケクソで突っ込んだだけなので、たいした武将を討ち取った訳でもなく、早々と壊滅。 最後まで粘り強く頑張った毛利勝永も、誰もいなくなったので、仕方なく退却した。 難しい退却戦も見事にこなして大坂城に戻っている。 ミスも多かったけど、総合的に大坂方で一番頑張ったのは毛利勝永。 具体的な戦果もあげているし、最後まで部隊の体を保てたのも毛利勝永。 一人になっても、部隊を大坂まで帰して、最後の処理もしている。 真田勢は、敵の本隊を脅かしただけ。 蹴散らしたとか、蹂躙したとか、勢いだけで、夏の陣では具体的な戦果は無いに等しい。 部隊には間諜が多く潜んでいて、作戦も敵に漏れ漏れだった。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • ngwave
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.10

>幸村の名前の由来を知らないのですか? どの由来を信じてるのか分かりませんが、諸説ありますね。 幸村の幸は、真田家の党首が受け継いでいる幸 幸隆→昌幸→信幸 そう、党首のお兄ちゃんが使ってるので、次男に幸の字は特に必要ない。 他の弟たちも幸の字は貰ってない。 (後に徳川についた信幸は、昌幸と決別して幸を之に変えている。) 村の方は母系の名から来てるとも、刀から来ているとも言われるが、幸の時点で怪しいので、講談レベルの域を出ない。 昔は、娯楽が少なかったので、実在の人物をモデルに話に尾鰭を付けて、あることない事を広めた。 これが辻講釈や講談。 真田幸村とは、真田信繁をモデルに講談によって作られた超人。 猿飛佐助や霧隠才蔵など10人の忍者と共に戦う真田十勇士が有名。 大坂夏の陣は、もう豊臣家の元に天下は無いと、みんなで確認する集団リンチであり、もはや戦ではない。 どの大名も味方していない。テロ鎮圧といったレベル。 家康も甲冑すら付けず、レジャー(鷹狩)の服装で参加。 テキトーにやってたら、一部若干ヒヤッとする場面あり。 若干ヒヤッとした場面を作ったのが信繁。 その程度。 >寄せ集めの真田勢があれだけ強かった理由は何でしょうか? >単に幸村の采配の凄さだけでは無いと思うのですが あれだけ強かったという程も強い戦いをしていない。 数万人規模の軍勢がいたのに4月の末に始まって5月の上旬には壊滅させられている。 その間10日ほど。 烏合の衆で多勢に無勢とはいえ、アッサリ過ぎる。

azuki-7
質問者

お礼

ん? 幸が真田家の党首が受け継いでる文字ってのは違います 昌幸は幸隆の三男で 長兄は信綱 次兄は昌輝と言います 2人の兄が長篠合戦で戦死したため昌幸が家督を継いだのです 最初から跡取りだったわけではありません 幸隆の父は海野棟綱で幸の字は付きませんし

  • mm058114
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回答No.8

幸村の戦略眼による、大阪城の弱点を充分補強したこと。 幸村側の地の利というか、防御出城の優秀さ。 前田利常、井伊直孝、松平忠直の軍勢を徴発して、引き込んだ事。 雑兵も手柄をたてれば、多くの恩賞がもらえるという、功名心ではないですか?! 特に、戦闘は余程のアホでなければ、幸村じゃなくてもよかったのでは?!

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございますした

  • lv48
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回答No.7

士気の差 やる気の差です。 徳川方は勝って当たり前、褒美の期待も薄く、士気が低いです。 豊臣方は一発逆転を狙って士気が高いです。 判官びいきの武勇伝。 大きな戦は話の種が欲しいです。 幸村を英雄にした。 家康公も蹴散らされたとすれば、秀忠も関ヶ原の言い訳に都合がいい。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとヴざとます

回答No.6

azuki-7さん おはようございます。 私は、関が原の合戦の後、幸村の兵士の武士、ひとりひとりが、浪人として、うつうつとした生活の中で、大坂の陣が起こり、自分の死に場所が、見つかったと、闘ったためと思います。 新渡戸稲造の「武士道」を読むと、桜の散るような、美しさと、はかなさの中に当時の武士は死というものを考えていたし、また、そのような心を持たない、もしかしたら家康に勝って、自分たちが出世するという雑兵もいたかもしれませんが、上述のような生き方をする真田幸村と接しているうちに感化され、意識が変わったかもしれない。 ここの「日の本一のつわもの」真田幸村部隊が出来て、家康本陣に突っ込み、びびった側近が本陣の旗を捨てて逃げた。 さて、私の歴史のロマンの新説ですが、実は真田幸村は、azuki-7さんのような、ベッピンの女性であり、木曽義仲の巴御前の生まれ変わりであった。 雑兵は、azuki-7さんのようなベッピンに、めろめろになり、言うことは何でも聞いたという新説。 ここまで書いたら、当然ベストアンサーでしょう(笑)。 でも、azuki-7さんは、男勝りで怒ったら恐い、男を尻にひく女性ですか(笑)?

azuki-7
質問者

お礼

うりがとうございました

  • ngwave
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回答No.5

講談や小説の話ですか? それとも史実の話ですか? 真田昌幸の次男、真田信繁をモデルとした物語に真田幸村が登場します。 実在の人物ではありません。 >真田幸村が音に聞こえた名将であったのは言うまでもありません 音に聞こえた名将が、勝手に名前を変えられたりしません。 音に聞こえた名将は父の真田昌幸であり、その子供というだけで担ぎ上げられた存在でしかありません。 大坂側には、もはやその程度の人材しかいなかったのです。 でも、結構頑張ったので、「真田昌幸の息子の真田何某は、実は凄かったらしい。」という話が広がり、でも、ろくに誰も名前知らないので、幸村とか適当に響きの良い名前が後付けで広がったのでしょう。

azuki-7
質問者

お礼

ん? 幸村の名前の由来を知らないのですか?

noname#204885
noname#204885
回答No.4

幸村は九度山に住んでいた時点で、すでに腕の立つ野武士や牢人を密かにスカウトし、訓練を施していました。そのため、九度山を出た頃には、供回りの者十数名に加え、すでに500名ほどの軍勢を従えていたと言う説もあります。 もちろん、残りの数千名は大阪城で調達したのでしょうが、これらの幸村の意が通じる配下に10名づつ雑兵を割り振れば、軍勢として十分に統率のとれた部隊が出来上がります。 また、有名な赤備えも、部隊の全員にエリート意識と統一感を植え付け、一丸となっての勇猛果敢な行動を取らせたのではないかと思います。このあたりの部下の心の掴み方のうまさが、単なる戦上手だけはない幸村の非凡さであったと思います。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.3

うーんどうでしょう?私はそこまで秀頼が絶対的な指揮権を掌握してたとは思わないんですよねえ。 大坂城の浪人の群れのなかから各武将が適当な人数を連れて行ったような状態で、そんななかで幸村が「我こそは先陣(正確には先陣というよりただの突確陣地ですが)を切らんと思うものはわしに付き従うがよい」と声をかけて集まった連中が、浪人連中のなかでも一番の猛者連中だったという結果じゃないかと思ってます。 もともと組織化されてない人間を各武将に適当に割り振ったわけですから、武将の側からもあれを連れていきたいみたいな要望も出るでしょうし浪人のほうにも当然真田の名に呼応したもの長曾我部に呼応したもの○○にといろんな連中がいて、そういった要求を無下に断るのも無理がありますよね。そんな中であえて幸村に付き従うとなると、浪人の中でも一番精強な連中が自然に集まる気がします。

azuki-7
質問者

お礼

なるほど そういう理由ならありえそうですね 幸村ならつわものですし 手柄でも立てようものなら自分の名も上がるかも と言う思惑もあったかも知れませんね

noname#206980
noname#206980
回答No.2

いや…だから、秀頼の命令で真田配下に入ったのなら 真田の言うこと無視したら秀頼の命令を無視したことになるんですが…。 もう秀頼のもとにも帰れなくなるんですけど。 どういう意味?? 秀頼なんて気にしなくていい一兵卒だと尚の事 上の命令に従わない意味があまりないですしね。 ちゅーか、軍から逃げ出す人たちはいたとしても 戦地で命令違反する人はいないだろって意味…理解してください。

azuki-7
質問者

お礼

はい 分かりました しかし大坂の兵の大多数は募集して集めた雑兵です(こいつらは秀頼の配下でも何でもありません、つまりたまたま真田に割り振られただけで本気で戦う義理も無いわけで…) あ 何かややこしくなりそうなので ありがとうございました