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詳しい方お願いします
大阪の陣で徳川と豊臣の和睦の交渉を常高院が行ったらしいのですがその和睦条件の中に外堀を埋めるのを家康は内堀まで埋めてしまったのは家康が常高院に密命をしたのでしょうか?しかも常高院の息子の京極忠高が工場奉行だった。常高院は息子の出世のために姉の淀殿を裏切ると知りながら和睦の交渉を行ったのでしょうか?工場奉行はなかなか手柄がたてられない役職と聞いたんですが・・・・詳しい方ぜひお願いします。
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- rurubonpp
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日本文芸社の「乱世をスクープ!戦国史新聞」によれば、「かって豊臣秀吉が諸将に大阪城攻略法を語った」とあります。その方法を徳川家康が実行したわけです。 このことを考えると、初めから内堀まで埋めるというのは予定の行動だったのでしょう。それを考えれば当然、京極家は徳川方であり、その指令はあったものと考えるべきと思います。 大阪方にも、豊臣秀吉の大阪城攻略法を聞いていた人もいたでしょうが、いかにすばやく察せられずに内堀を埋めるか。淀殿と血縁関係にあった京極家が適任だったのかも知れません。血縁関係だったため気が緩んだのかも知れません。
- a-koshino
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常高院がだまされたのか、姉を裏切ったのかは本人でないとわからないでしょうけれど、妹とはいえ敵方の家の人間に、淀の方が外交の全権を与えた時点で、もう終わってるような。 常高院に付き添ってる京極家の者たちは当然、豊臣より徳川に味方してますから、常高院に正確な情報が伝わる保証もありません。
- yurisukeyo
- ベストアンサー率28% (48/170)
歴史文献については特に、江戸幕府直前という時期諸藩、さまざまな立場の人が一つの事実に対し、自分の解釈を加えて書いてあるものが多く残されています。それの一つ一つを加味し自分で解釈し多分これが一番事実に近いであろうと憶測することで成り立っています。 この点で、司馬遼太郎の小説では、家康側近の画策で、個々につながりなく、物事を進め、工夫にどさくさで外堀を埋めるよう、交渉の内容も知らせず命令したように話が組み立てられています。山岡荘八の伊達政宗では、家康すらも最後の倉庫蔵で豊臣家を滅亡されせるつもりはなかったという筋書きで物語を進めています。 いずれにしても、常光院は、裏切るつもりはあまりなかったように書かれています。事実に連なる真相は、多くの文献の中から自分で判断した方が良いかと思います。私自身は、だますつもりはなかっただろうと判断しています。
お礼
秀吉が諸将に攻略法を話していたとは知りませんでした。ありがとうございます!