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大坂の陣について。何を変えたかった?得をした人
大坂の陣について。 ・彼らは何を変えたかったんでしょう ・戦によって得をしたのは誰? ・戦を避けることは出来なかったのですか? 解答お願いします。 大坂の陣といっても、冬の陣、夏の陣とあり、 違った方向からみれば、思想や出来事の見え方も変わるのでしょうが… その辺りの事も含め、総合的に教えてください。 私は今高校生なので、わかりやすい説明をお願いします。 また、必ずしも資料に基づいた正確な説明である必要はありません。
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もう一度豊臣の世を取り戻したかったんです じゃなきゃ真田幸村は豊臣には付きません 得をしたのは小笠原家です 大阪夏の陣で実は戦死した徳川家康の影武者を小笠原秀政が勤めたおかげで小笠原家は加増されています 戦を避けることはできたはずです 徳川は 豊臣が大阪城を退去するか 淀を人質にすれば秀頼の命は保障すると言っていました しかし淀が拒否ったので無理でした 素直に従ってりゃよかったのに
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- sync-mag
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歴史学者の笠谷和比古氏は、関ヶ原の合戦を豊臣政権内の権力闘争と位置づけています。以下、笠谷氏の論考にしたがって「回答」します。 関ヶ原の合戦にいたる争いは、本来三成派対反三成派(武断派と徳川系の連合)の対決でした。にもかかわらず、これを三成は力業で豊臣氏対反豊臣の戦いに変えてしまいました。しかし、その意味合いの変化は中途半端だったため、合戦の終了後もただちに徳川氏の天下が確立されたわけではありません。 この時点では、朝廷を権威の頂点として、西日本を関白の豊臣家、東日本を将軍の徳川家といった鼎立が構想され、そのなかで徳川家が圧倒的な優位を占めるという形を家康は構想したのです。豊臣氏がこの時点で無力化されたわけではなかったことは、この傍証となるでしょう。 家康の業績は天下を取ったという結果から遡って正当化、物語化されましたが、その時々での行動はじつは目先の事態に反応しているにすぎず、一貫して見いだされる目標は徳川家の安泰です。この目的からすれば、全国の武将が家康に逆らえなくなったのですから、家康にとってはそれで充分だったわけです。豊臣氏を解体・消滅させるだけの力がなかったことの裏返しでもありますが。 しかし、この鼎立状態が徳川家の安泰を保障するのは、あくまでも家康という卓越した人物がいればこそにすぎません。と、家康と比べればはるかに権威と実力に劣る秀忠と、家康後を考えなければならない幕閣たちは危惧したのです。家康も、時とともにこちらに考えを変えていきます。 また、大坂の陣のきっっかけとなった方広寺の鐘銘事件は、よくいわれる家康の言いがかりとも言いきれない側面があります。つまり、豊臣氏とその周りの人物たちには家康後に体制を覆す、もしくはもっと豊臣氏が有利な形で権力構造を改変する意図があったのではないかと疑われます。 ならば、この時点で大坂の陣は不可避であったと言わざるを得ないでしょう。無論、大坂方には武力で事態を決する意図まであったとは思えません。力量の差は一目瞭然で、戦えば負けるのはわかりきっていましたから。望んだのは家康後の改変であって、存命中に雌雄を決する意図はなかったでしょう。 というわけで、 >彼らは何を変えたかったのでしょう。 →秀忠および幕閣には豊臣氏を消滅させて徳川体制の盤石化を図る意図があり、家康もこれに納得したのです。 >戦によって得をしたのは誰? →上記の人びとでしょう。強いていえば、これ以後国内で戦争の可能性は長期にわたってなくなったのですから、一般庶民も得をしたと言えるのでは? >戦を避けることは出来なかったのですか? →関ヶ原の合戦後に豊臣家がもっと無力化されていれば避けられたかもしれませんが、関ヶ原戦そのものがもともと豊臣家を否定するものではないため、これは難しかったでしょう。結局、起こるべくして起こった、というしかないのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。 笠谷和比古さんという方は、そういった論考をなさっているんですね。 >これ以後国内で戦争の可能性は長期にわたってなくなったのですから、一般庶民も得をした という部分には納得でした。
- hekiyu
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・彼らは何を変えたかったんでしょう ↑ 変える? ただの権力闘争でしょう。 豊臣支配の世の中を、徳川支配の世の中に 変えたかっただけです。 ・戦によって得をしたのは誰? ↑ 徳川一族と、それに味方をした人達です。 ・戦を避けることは出来なかったのですか? ↑ 豊臣が完全に膝を屈して、地方の弱小大名に みずから落ちれば、回避できたかもしれません。 そうでなければ無理でしょう。 徳川からみれば、いつ寝首をかかれるか判った もんじゃありません。 それは豊臣から見ても同じです。
お礼
よく分かりました。 ありがとうございました。
- tanuki4u
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冬の陣 夏の陣と言っても、男子が女子を口説くのに、クリスマスがあって正月があってというようなもの。 一度でダメなら二度目も頑張るということ。 大阪の陣以前の状況で、説明がされていないが理解の上で重要なのは、 「実は豊臣家の権力は、大阪の陣以前においては強力であった」 ということ。 京都の公家社会で、豊臣家ファンが多かったとか、西日本の大名が秀頼に正月の挨拶をしていたとか、イメージ的なことは書いてあると思いますが、消された資料があります。 摂津河内和泉など65万石の直轄地・・・という説明がされますが、実はそれ以外の土地に対する宛行状が見つかってきており、実は関ヶ原の戦い以前の石高220万石余りを保有していたのではと考えられてきています。 http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2010/05/post-bf94.html 関ヶ原の戦い以前の、徳川家康が関東で250万石余りとされています。 200万石以上の石高=直轄兵力 + それなりの総指揮官 + 協力勢力をまとめる政治力 これができれば、日本のトップに立てる(家康が実際やった)と考えるのは、難しいことではない。 二番目と 三番目は少なくともトップが成人になれば、可能性は生まれる。
お礼
豊臣家の権力は大坂の陣までは強力だったんですね。 回答ありがとうございます。
- jkpawapuro
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徳川家康が豊臣家を滅亡させて徳川政権を盤石にしたかった。 徳川家 家康は豊臣家を潰したくてたまらない。 豊臣家からしたら妥協したところで相手はさらなる無理難題をおしつけ最後には戦をふっかけてくるだろうから避けられるわけが無い。
お礼
徳川家は豊臣家を滅亡させたかったんですね。 ありがとうございました。
- e_16
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>必ずしも資料に基づいた正確な説明である必要はありません。 1.打倒、前田敦子ですね、 2.篠田真理子 3.できましたよ
お礼
ありがとうございました。
- kyoromatu
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何でも安易に他人に聞いてばかりいるそういう姿勢では 勉強にならないと思いますよ また社会に出てからもその癖は抜けなくなりますよね ネット時代です 検索かければいくらでも資料なんて集まるでしょう
お礼
ありがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 豊臣が戦争に踏み切ったのは、徳川から無理な要求を突きつけられて、他に策が無かったからだと思っていましたが、違うんですね。 豊臣は、「自分達の世を取り戻したい」という目的があって戦争に踏み切った。 よくわかりました。