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大阪城砲撃について

大坂の陣での徳川方大砲による砲撃で腰元が玉に当たって死亡し、淀君がその威力に驚いて講和条件を飲むに至ったとの話は本当でしょうか? 疑問は当時の大砲を使い城外からの砲撃で天守閣の一部に正確に命中したのかという事です。相当近くから砲撃できたのでしょうか。なお砲撃したと思われる場所と天守閣までの距離など分かりましたらありがたいのですが。

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  • ベストアンサー
  • komes
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回答No.8

その後調べた所幾つか新事実がありましたので補足します。 大阪方はフランキを使用したようですがこれは前にも書きましたように 暴発の危険性もあり操作が難しいものでした。 またガス漏れのため射程もみじかかったようです。 徳川方は輸入のカルバリン砲という鉄製の前装式大砲で14キロの鉄丸を4~5千mとばせたようです。 従って大阪城本丸に十分届く性能でした。 両者の砲撃戦で大阪方の決定的な不利は火薬の不足にあったようで、十分な反撃ができず、徳川方から一方的砲撃を受けたようです。

hirarno36
質問者

お礼

フランキ砲は大坂方だったのですか。大坂城の大砲がつかえなかったのは火薬不足。籠城戦の不利を衝かれた訳ですね。 一方徳川方のカルバリン砲は高性能で、大坂城に届くというのですね。 もちろん威力をもっていたので破壊するに至ったわけであり、ぎりぎり届いたのではないということですね。認識改めます。 再度調査してくださいまして感謝しております。ありがとうございました。

その他の回答 (7)

  • komes
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回答No.7

大阪の陣でも砲の仰角を適当に選べば射程距離を伸ばす事を知っておれば、ある程度射程距離を延長することは可能だった筈です。 通常の鉄砲では射程も短く、仰角を与える必要もありませんから狙いも直接射撃だけで仰角という思想自体不必要でした。 大筒で始めて必要になる知識です。 フランキという大筒はたしか装薬室を付け外しする構造で、発射毎に装薬室を取りはづし、装填し直す仕組みですから装薬室はきっちり取り付けねば危険ですし構造上も工作が難しいものです。 砲の操作も熟練を要しました。  従って大阪の陣での使用には疑問を感じます。 射程には仰角の他砲身の長さも影響します。 大鉄砲というのは銃身も長い装薬量も多いものでした。 天守閣への命中は多数の砲撃の中の偶然の産物と思いますが、大阪城本丸や天守閣は攻撃不可能と思いこんでいたわけですから衝撃は極めて大きかったと思います。 国産砲と輸入砲では砲身の材質、鋳造技術の点でかなりの差があったとおもいます。  従って砲身破裂を防ぐ為装薬量も控えめに成らざるをえません。

hirarno36
質問者

お礼

komes様には毎度お世話になっています。 フランキ砲はもちろん外国製ですので、そのころ輸入されていたとしても、操作に熟練した者がいなければ使用は危険ということですね。そんなに危険で操作が難しいとあれば、国産を使用していた可能性の方が高いです。なにより故障した場合国産は修理が利きますし。 目的が脅しのために、「とにかく数を撃っていたらたまたま天守閣に当たった」程度で狙って撃ったのかどうかは怪しいと思っています。狙って当たるなら夏の陣ではもっと使っていたのではと考えてしまいます。 でも当たったのは事実のようですので、距離的問題はそんなになかったということでしょう。 回答ありがとうございました。

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.6

>それともあれは単なる後世の見学用飾りで置いているものでしょうか。 おそらくそうだと思います。もちろん一門や二門砲があった可能性はありますが、どちらにしろ当時の砲弾は火薬が入っていませんので、文字通りの直撃弾しか意味がありません。隕石に当たるような幸運を狙うようなものです。数百という数があってしょっちゅう球が降ってくれば怖いでしょうが、直射のできない距離では基本的に威嚇効果しかありません。ただその威嚇効果が、恐怖感と睡眠不足による疲労をもたらして、史実のような効果をもたらしたのです。

hirarno36
質問者

お礼

そうですね。破裂弾は幕末だったのかも知れませんね。 あの大砲は飾りでしょうね。大阪城自体が何度も焼失していますもの。もちろん豊臣も財力はあった訳で、大砲を持っていなかったとは言い切れませんが。 前の回答者の方々の答えにもあったように北及び北東などの方角からが一番近いとは言え、天守閣二層目が距離の限界で、現実にはそうそう命中は無理だったのでは?と思っています。「数撃てば当たる」状態が史実だったのかも知れません。 回答ありがとうございました。

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.5

出所は忘れましたが、徳川方の砲撃には国友なにがしという砲術家がいて砲の仰角と射程の計算を行い、大阪城の天守閣の方向に向け砲撃を行ったといいます。 徳川方の戦略としては早期に講和を結び、大阪城の外堀、防御設備を破壊しなければ勝利できませんから砲撃により城方に恐怖を与える必要がありました。 この為昼夜をとわず砲撃や、ときの声をあげ城方を不眠症に陥れる作戦をとり、その一旦として天守閣の砲撃を行ったのです。 使用したのは輸入品の大筒です。 フランキというのは工作の難しい構造で、まだ実用されなかったと思います。 距離の関係で天守閣に近い北東か東方に砲座を作ったと思います。 命中弾は偶然でしょうが期待どうりの効果を与え、本丸、天守閣ですら安全ではないという恐怖心を与えました。

hirarno36
質問者

お礼

国友村は近江にあるのでしたっけ。鉄砲の産地ですよね。 砲術家と言えば稲富流がありますね。こちらは改めて質問たてさせてもらいます。 やはり北東が妥当な気がします。距離的に一番近いのですが、大筒の威力は国産と輸入品とでは違いがあったのでしょうか?それとフランキ砲はまだ実用されていなかったのですか。何かの本で徳川方が使ったとのことは私の記憶違いでしょうね。 あんなのにドッカンドッカンやられたら精神的にたまらないのに、まさかの命中でさぞ恐怖したことでしょう。 回答ありがとうございます。

  • eroero1919
  • ベストアンサー率27% (3007/11113)
回答No.4

あまり自信はないのですが。雷が近くに落ちると衝撃波でまさに爆発音がします。結構ビビりますよ。それが連日続くのですから城中の腰元たちはパニックになったことでしょう。今でも雷が鳴ると大抵女性たちがパニックを起こしますよね。 また篭城する側からすると「どこにも逃げられない」のですから爆発音と着弾による物が壊れる音を聞けば戦場経験のない女性達は助かりたい一心であれやこれやと淀の方を説得したのではないかと想像します。パニックというのは伝染しますからね。 小説家なら、武士と仲良くなっちゃった腰元がこっそり隠れて武士とコトに及んだときにそこに着弾し犠牲になった、なんて話を作るかもしれません。

hirarno36
質問者

お礼

淀殿も女性であるからには、パニクッた可能性もありますね。侍女連中の慌てぶりは想像できます。 小説家なら、の話、「玉が玉に当たった」(失礼)も面白いかも(笑) 考察ありがとうございました。

  • yakyutuku
  • ベストアンサー率14% (267/1890)
回答No.3

特に答えを知っているわけではありませんが、推測してみます。 参考URLの図に縮尺は入っていませんが、近年大阪城の三の丸の堀が見つかったことにより、大坂城のサイズは1km四方とわかっています。 となると射程が1~1,5であるなら、本丸を射程に押さえるためには北、北東、東方向に限定されます。さらに砲の安全を考えると、万一の渡河攻撃を考えると、東側は選びにくいです。それに図には入っていませんが、北の丸を攻撃することを考えると、ここでは射程からも本丸の影に入ることからも、適切ではないです。 そう考える高槻街道沿い、京街道沿いのどちらか、あるいは両方と思います。とくに、高槻街道沿いの池田利隆が、その指揮にはうってつけのように思えます。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:%E5%A4%A7%E5%9D%82%E5%86%AC%E3%81%AE%E9%99%A3.png
hirarno36
質問者

お礼

具体的考察ありがとうございます。池田利隆の位置は淀川を挟んで北側ですね。淀川は大河なので渡河攻撃されにくいでしょう。ですのでおっしゃるように攻撃する側にとって北側は有利となると思います。 ところで大阪城を訪れた方は見たことがあると思いますが、大阪城にも大砲が設置されています。迎撃はできたのでしょうか。それともあれは単なる後世の見学用飾りで置いているものでしょうか。 回答ありがとうございます。

noname#40116
noname#40116
回答No.2

この時の大砲は1門ではなく、300門もの大砲が揃えられ(『難波戦記』では数百挺)、12月16日~19日頃にかけて、連日発射されました。 大砲の大半が、堺などで作られたもので、口径33ミリ、銃身2メートルと言いますから、ばかでかい鉄砲のようなシロモノです。これは、約200グラムの鉛玉を1500~1600mとばせたそうです。 それより大きいのが、これも国産で、約4kgの鉛玉を飛ばせる、口径93ミリ全長2.25mの大筒。 さらに、イギリス・オランダから買い入れた、16~20kgの玉を飛ばせる巨砲も十数門まじっていたとのこと。 ちなみに、兵庫・有馬温泉では、醍醐寺座主三宝院義演により、砲声を聞く茶会が催されたといいます。

hirarno36
質問者

お礼

300門!その財力に驚きます。 数百でも凄いですね。 イギリス製はフランキ砲と呼ばれたものでしょうか?国産は大友宗麟の国崩しと同一なのでしょうか。しかし4キロは重いですね。連日なら音でも脅しになったことでしょうね。 これだけの砲門をどの辺に設置したのでしょうか。距離は相当あったのでしょうか。 醍醐寺での催しは珍しいですね。種子島の場合は時々ニュースで見たりしますが。 回答ありがとうございます。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

正確に命中したというよりも、太閤の命日に当たる日に秀頼が城内の豊国大明神に参拝するというので豊国大明神の社殿をめがけて撃ったら、的をはずれて天守閣の二重目にあたって淀殿の侍女が死んだという話があります。

hirarno36
質問者

お礼

そうなんですか。最初から天守閣を狙ったのではなかったのですね。 でも結果外堀を埋める交渉に応じることになり、作戦としては成功なんでしょうかね? 天守閣の二層目に当たったのですか。一番上ではなかったのですね。でもどこから撃ったのか分からないですが凄い威力です。 回答ありがとうございました。

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