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ハイデガー 死への存在

一人称の死としてハイデガーの「死への存在」を論じる、とはどういうことでしょうか? また、「死への先駆」について論じたのはハイデガーですか?

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  • kt0776
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回答No.4

>やっぱり本を探して読んでみます。  それがよろしいでしょう。老婆心ながら、『存在と時間』の翻訳は、渡邊二郎(中公クラシックス)のものが読み易いと思います。岩波文庫版は、最悪という世評があります。  また、回答の続きですが、 >論題は「一人称の死としてハイデガーの『死への存在』を論じよ」  ということであれば、「ハイデガーの『死への存在』を論じよ」がメインなので、ハイデガーだけ論じれば及第点はいただけると思いますが、ご質問全体から伺いますと、ジャンケレヴィッチの「一人称の死」について講義で教官が話され、それがレジメにもあるとのことですし、論題に敢えて「一人称の死として」と規定されているからには、ジャンケレヴィッチの考え方にも触れるのが、より高い配点をいただけるのかと思われます。  まあ、講義で教官がどの程度ジャンケレヴィッチについて話されたのか、それが、レジメでどのようにまとめられているのか等々、そういうことを総合的に勘案して、ハイデガーの「死への存在」(=死に臨む存在)と結び付けて、いかに論じるかは、あなたご自身のお考え次第でしょう。  私は、ジャンケレヴィッチについては、何も読んでいないので、なんとも言えませんが、Google で検索したかぎりでは、 >死者の時間と他者の時間 http://wiki.livedoor.jp/aoymtko/d/%BB%E0%BC%D4%A4%CE%BB%FE%B4%D6%A4%C8%C2%BE%BC%D4%A4%CE%BB%FE%B4%D6  ↑こんなものが、「一人称の死」等について書いています。また、ジャンケレヴィッチ自身の著書としては、 >原章二訳『死とはなにか』(青弓社、1995年) がありますが、古い本なので、もう書店では購入できないでしょう。大学図書館では、すでに、目敏い学生が借り出しているでしょうね。私の県では、県立中央図書館で所蔵していましたが、そちらではどうでしょうね。それも、試験で出題されるとなっていれば、何方かが借り出しているかもしれませんね。  まあ、試験は、頑張ってください。

noname#165591
質問者

補足

おすすめしていただいた本を借りてきて読んでみましたが、なかなか難しくて理解に苦しんでいます。 本とプリントを参考にまとめてみようと思います。 最後に質問なのですが、 レジュメの中で、「死への先駆」のつづきとして、 死への恐怖について (1)苦痛への恐怖 (2)孤独への恐怖  (3)家族や社会の負担になることへの恐れ  (4)未知なるものを前にしての不安 (5)人生を不完全なまま終えることへの不安 (6)自己の消滅への不安 (7)死後の審判や罰に対する不安 という記述がありました。 『存在と時間』「ハイデガー『存在と時間』入門」をざっと読んでも、 上記にあたる記述が見当たらないのですが、これはハイデガーのことではないので論述においては割愛していい、ということでしょうか? 私が見落としている可能性もあるので、よろしければ最後にご回答お願いします。

その他の回答 (3)

  • kt0776
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回答No.3

 ご回答、ありがとうございました。  あなたのご質問の意図が分かりました。  講義のレジメ(?)を見て、ご質問されているので、何か、首尾一貫しないのですね。試験の論述問題でハイデガーの「死への先駆」というように、論題が既に指定されているのであれば、「一人称の死」とか、「個人閉塞した死」等々のジャンケレヴィッチのものと思われる文脈は無視してよろしいでしょう(私は、ジャンケレヴィッチの『死とはなにか』青土社、は読んでいないので、確定的なことは申せませんが)。  また、試験までに、まだ日数があるなら、大きな書店に行って、ハイデガーの『存在と時間』(中公クラシック)のIとII(全部でIIIまでですが)を購入して、ざっとでもいいから目を通すことをお勧めします。(両方買っても、¥3050です)。  ただ、まあ、このサイトで何とか間に合わせようということなのかもしれませんので、先に書いたことに加え、「(1)遠さを失う(2)近さを失う」について触れておきましょう。((3)亡くなった人と看取った人との間に等距離の間隔が残る、ということについては、ハイデガーは論じていません)。  上記で紹介した本のIIの316~317頁で、以下のように書かれています。 >死へとかかわる存在としての可能性へとかかわる存在が、死へと態度をとるさいには、死が、この存在において、またこの存在にとって可能性として露呈するというふうに、それは態度をとるべきなのである。可能性へとかかわるそのような存在を、われわれは術語的に可能性のうちへの先駆として言い表わすことにする。だが、このような態度は、可能的なものへの或る接近をそれ自身のうちに蔵してはいないであろうか、だから、その可能的なものに接近するにつれて、そのものの現実化が浮かびあがってきはしないであろうか。けれども、この接近は、なんらかの現実的なものを配慮的に気遣いつつ意のままになるものにしようとすることをめざしているのではなく、了解しつつ接近してゆくにつれて、可能的なものの可能性はかえって「いっそう大きく」なるばかりでなのである。可能性としての死へとかかわる存在の最も近い近さは、現実的なものからは可能なかぎり遠いのである。  ここで、注意すべきことは、ハイデガーの書いている「近い」「遠い」という空間性は、常識的な意味での距離の近さ、遠さではなく、ハイデガー独自の、空間論があっての「近さ」「遠さ」ということです。  その、ハイデガー独自の空間論というのは、上記紹介本のIの二十三節「世界内存在の空間性」で論じられています。その一部を紹介しておきましょう。 >現存在は、世界内部的に出会われる存在者との配慮的に気遣いつつある親密な交渉という意味において、世界の「内」で存在している。したがって、現存在になんらかの仕方において空間性が帰せられるなら、このことはこの内存在を根拠としてのみ可能である。ところがこの内存在の空間性は、遠ざかりの奪取と方向の切り開きという性格を示しているのである。/遠ざかりは現存在の世界内存在に関する現存在の一つの存在様式なのだから、そのような遠ざかりをわれわれは、遠隔性(近さ)とか、ましてや距離とかといったようなものだとは解さない。(105頁) >遠ざかりを奪取することは、差しあたってたいていは、配視的な近づけであり、調達したり準備したり手もとにもったりすることとして、近づけることなのである。(106頁)  要は、現存在=今ここに自分が在ることを自覚している存在、にとっては、主観/客観というような、俯瞰的に眺められた2点間の距離というようなイメージではなくて、「世界の内にある」ものとしての「現存在」にとっての「親密な交渉」における世界の内で、「遠い」「近い」ということが捉えられるということをよく考え直すということです。

noname#165591
質問者

補足

ありがとうございました。 やっぱり本を探して読んでみます。 論題は「一人称の死としてハイデガーの『死への存在』を論じよ」 なのですが、ここでの「一人称の死」とは、ジャンケレビッチが用いた一人称の死とはまた別のものなのでしょうか? 何度もすみません。

  • kt0776
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回答No.2

No1で回答したものです。 私の説明で、部分的にも、ご了解いただき、ありがたく存じます。 ところで、追加の質問についてなのですが、それについて回答する前にお伺いしておきたいのですが、今回のあなたの質問の「意図」は、というものはどこにあるのでしょうか?(それによって、回答内容も異なってきます)。 と申しますのは、今回のあなたの記述内容によりますと、ジャンケレヴィッチが論じていたなど、かなり詳しい議論をご存知のようなのですが、なぜ、ハイデガーの『存在と時間』については、敢えてご自身で読んでみようとなさらないのでしょうか? 当初は、私は、大学の教養課程かなにかで誰が書いたのかわからないけれど「死への先駆」という議論をしている哲学者がいるらしいと小耳に挟んで興味を持ったから、誰なのか質問してみよう――というような質問の「意図」であって、それならば原典と参考資料が分かれば、あとは、ご自身でそれらを読めばよい――ということになると考えていたのです。 にもかかからず、今回さらに、「死」についての考え方など、かなり細かい議論についてご質問されてこられるので、いったい、どういう意図のもとに、一連の質問/回答が、受け取られ対処されているのか、分からないのです。 というわけで、まず、そのあたりをお答えいただけないでしょうか?

noname#165591
質問者

補足

私が最初に質問の意図をきちんと説明しなかったために混乱させてしまってすみません。 私がこの質問をしたのは、大学の試験でハイデガーについての論述問題が出されるので、講義のときに配られたプリントを読んでまとめようとしたのですが、 そのプリントはハイデガー、ジャンケレビッチ、プルーストなど、さまざまな哲学者のさまざまな思想が全部一緒になってまとめられていて、どの哲学者がどんな考え方をしたのか、わかりにくくなっていたのです。 講義を聴いていてもわかりませんでした。 自分で調べるにしても、実際に本を探して読んでみるといったような時間がもうないので、ここで質問させていただきました。

  • kt0776
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回答No.1

 「死への先駆」を論じているのは、ハイデガーの『存在と時間』(1927年)です。また、「死への先駆」の論述は、『存在と時間』の白眉とも言える、重要な論点です。  「一人称の死」としての「死」とは、ハイデガー自身はその様な言葉遣いはしていませんが、論述の内容としては、「二人称」(あなた)の死でもなく、「三人称」(彼、彼女、彼ら)の死でもなく、「自分自身が死ぬということ」に臨む、自分自身が「死へ臨む存在」(=das Sein zum Ende)であることを深く自覚するということです。  もう少し具体的に言うと、私たちは、親や親類や、もしくはニュース等々で、「他人の死」には日常的に接していて、「死」とはどういうものか「知っている」つもりになっています。しかし、それら「他人の死」と自分自身の死とは決定的に異なる点があります。それは、自分自身の死は、それが訪れた時にはもはや自分自身は存在しないという、自分自身の存在の限界であるということです。死は見聞はできるけれど体験はできないものなのです。細かい論述は『存在と時間』自体を紐解いていただきたいのですが、そういう、自分自身の存在の限界、有限性をもたらす死へと思いを到らし、そこから過去を振り返り、そうして現在の自分自身の生を自覚しよりよく生きるというのが「死への先駆」ということです。  「死への先駆」により、現存在(=実存としての人間)は、非本来的な生から本来的な生に到るとされています。  ハイデガーの『存在と時間』は、難解な書物ですから、入門書、解説書としては、マイケル・ゲルヴェン著『ハイデッガー『存在と時間』註解』(ちくま学芸文庫)、渡邊二郎編『ハイデガー「存在と時間」入門 』(講談社学術文庫)、木田元著『ハイデガーの思想』(岩波新書)等を、参考にされるとよいでしょう。

noname#165591
質問者

補足

詳しくありがとうございました。 調べてみたら、確かに一人称の死、二人称の死・・・という言葉を用いたのは、ハイデガーではなくジャンケレビッチのようですね。 追加で質問なのですが、ハイデガーは「死への存在」で、個人閉塞した死について述べ、その特徴として (1)遠さを失う (2)近さを失う (3)亡くなった人と看取った人との間に等距離の間隔が残る などと述べていましたでしょうか? それともこれはハイデガーの論じたことではないのでしょうか?

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