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ハイデガーは現象学から何を引き出したのか
フッサールの弟子がハイデガーで、フッサールに感動して哲学の道に進んだのがサルトル。これはよく知られていますが、ハイデガーの概論書を読んでも、またはサルトルの実存思想について少しずつ知識が身についても、そこに一体どのように現象学が導入されているのかよくわかりません。 方法論として、ということかと解釈していますが、それにしても、ハイデガーの存在思想の中に、フッサール流の「現象学的還元」とか「厳密学」といった特徴を見出すことに困難を感じています。 詳しくご存じの方、または大まかなイメージをお持ちの方、お教えいただけるとありがたいです。
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手持ちの入門書に詳しく(?)書いてありましたので、引用させていただきます。 >>>「わかりたいあなたのための 現代思想・入門」、小坂修平・竹田青嗣・志賀隆生 他著、宝島社文庫、2000/4/8、 p.90-92からの引用(この部分は竹田氏が担当) 現象学の最も枢要な方法上の中心点は、まず<意識>という局面に立ち戻り、そこから世界の現れ(=現象)を記述してゆくということだった。(中略)現象学のこの方法は、もともと、認識と対象あるいは思惟と存在の【一致】をどう見いだすかという、【認識論】上の問題として現れたのだった。ハイデガーは現象学のこの方法を基本的に受け継ぐのだが、そのとき、この方法の意義を彼なりの仕方でもういちど捉え直したのである。つまりハイデガーは、この方法を、認識論の問題としてより、【存在論】の問題の基礎として位置付けし直したのだ。 (中略) ハイデガーは、問題の基礎をまず次のように描く。【もの】がなぜあるのかとか、なんのためにあるのかは、さしあたって【もの】が【人間にとって】どういう存在としてあるか、という方向でだけ答えられる。つまり【もの】の客観的秩序といわれているものは、じつはそれが人間【にとって】現れるような秩序のことだ。現象学はそれを「意識にとって」というかたちではじめて明確にした。そこで次に問題となるのは、では、人間という存在は、いったいどのような存在なのか、ということである。 (中略) <<< 【】は本文では傍点です。 この後、本文では、(【もの】の存在を規定する)「現存在」としての人間を規定するもの(存在)をハイデガーの用語「気遣い(きづかい)」として説明しています。 すなわち、フッサールの現象学を基盤として、視点を変えているということになるようです。
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- reificatio
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現象学のそもそもの意図は、デカルトの二元論に対する回答です。つまり、世界を物理的な事実の集合以外のものではないと考えてしまうと、心については全く異なるカテゴリに属する語彙で語るほかはなくなり、あとでそれを一つのものとして考えるのが難しくなる。しかし対象となる世界を現象という概念でとらえることにより、一元論として語ることができるようになる。そんなところでしょうか。ところで、フッサールの意図を、日本の大方の研究者は捉えそこなっている、と私は思います。論理学や物理学は確かに心に関する一人称的な事実を表現できない(いつかはできる、という立場は無視します)。しかし彼は、「だから現象学は一人称的な考えによってそれらを補完する」といっているのではなく、「だから科学とは別の方法で心を三人称的に記述する」といっているのだと私は読みます。彼の著書を虚心にひもとくなら、そう結論するほかないと思うのです。これは大変困難な仕事で、とてもフッサールがそれを成し遂げたとは言えないでしょう。 問題はこの一人称的な事実です。日本の大方のフッサールファンと同様、ハイデガーもサルトルも(フッサールが根本的な問題は解決してくれたのだから)一人称的な事実に引きつけて世界を語ることが可能だと考えてしまったようなのです。フッサールの問題を引き継いだわけではありません。つまり日常卑近の経験について語っていけば、いつかは世界の真理が明らかになると思っているのです。私に言わせれば、これは現象学に関する根本的な誤解です。まあ、所詮彼らはアマチュアですね。 専門家からはおしかりを受けかねない意見です。しかし、そう思って二人の主著を読んでみてください。絶対に頷ける部分があると思います。
お礼
ありがとうございます! 「所詮アマチュア」は、多分フッサールとハイデガーが袂を分かつ契機になった発想だと思います。まあ半分事実で、半分は(ハイデガーの言い分では)問題視というか関心の対象が変わってしまった(そもそもの現象学を突き詰める前に)ということだと私は認識しています。 でもなんだかわかってきた気もします。 フッサール/ハイデガー 「現象」/「存在者」 「現象」の原理/(「現存在」の)存在 「エポケー」すべきもの/「本質存在」 でどうですか? reificatioさんは私の結論に近い気もします。
- hegelian
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「ハイデガーの存在思想の中に、フッサール流の「現象学的還元」とか「厳密学」といった特徴を見出すことに困難を感じています。」 全く同感です。私もこの2人の思想のつながりについて、いろいろと解説書を読んでみたのですが、スルーしてしまうか、直接触れていないものが多いようで、少なくとも私自身は納得した理解を得ていません。 これでハイデガーが現象学と全く別の系譜に位置づけられているなら構わないのですが、ハイデガーは現象学系の思想家とされていますよね。『存在と時間』の中にも現象学を説明した項があるのですが、私はこれにもフッサールとの関連性をあまり感じないのです。 そこで、私自身は以下のように解釈しています。 ハイデガーが『大英百科事典』の「現象学」の項目の執筆を請け負った際に書いた文書の中に、こういうものがあります。 「哲学は、存在するものについての思惟を自省するという仕方で、この存在の闡明を果たそうとしているのである。」(略)「こうした意識への還帰の必然性を原理的に解明すること(略)、これがすなわち現象学なのである。」 つまりハイデガーに言わせれば、存在に対する意識を解明する点で、フッサールの思想と共通点があるよ、ということなのではないでしょうか。(自分のやりたいことをやるための方便のようにも聞こえますが。) ちなみに上記の引用は、木田元著『現象学の思想」(ちくま学芸文庫)46~47頁からの孫引きです。
お礼
ありがとうございます! 木田元さんのを私も読んでいるので、ちょうど同じ部分の欠落があるかもしれません。ハイデガーの研究者はあんまり「現象学」という部分にこだわらないようですから。まあ、関心が全然違う方向にあると思われますし。
こんばんは、Hidocchiと申します。 以下に参考となるサイトを列記させていただきました。残念ながら、愚生には思想展開等をまとめてご説明できるだけの力(オツム)はございません(そもそも、サルトルが“現象学”に影響を受けたことすら知りませんでした)。つきましては、以下のサイトの列挙のみにて、ご勘弁くださいませ。 (1-1)ハイデッガーとの関連 http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card57222.html http://phanomemo.blog.so-net.ne.jp/2006-01-20-1 (1-2)ハイデッガーとの意見の相違 http://53820.diarynote.jp/200408131359290000/ (2)サルトルとの関連 http://www33.ocn.ne.jp/~homosignificans/symbolnoumi/content/works/papers/sartre.html 「サルトルは人間を〈意識〉と捉える。~」以下をご参照くださいませ。 ご参考になれば幸いでございます。
お礼
ありがとうございます!すごくよくわかりました。
お礼
ありがとうございます!なんかすげーつながった。