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ハイデガーの「存在それ自体」について
ハイデガーの『存在と時間』を読んだのですが、 「存在それ自体」というものを追求することに疑問を感じています。 「存在それ自体」というのもやはりカテゴリーにすぎないのではないでしょうか。 以下のような箇所があるのですが、私には理解できません。 三角形は「形」の一種であり、勇気や節制は「徳」の一種です。 そして、現存在も「存在」の一種なのですから、「存在」も類なのでは? 確かに存在が、徳や形よりも探究しにくいものであるのは同意するのですが、類を「それ自体」として追及するとイデア論の二の舞になるのではと思います。 未完に終わった『存在と時間』の存在自体が、「徳それ自体」を追及してアポリアに陥るソクラテスを思わせます。まぁこれは冗談ですが。 <引用開始> 「存在」は、類と種との関係に従って概念的に分節されている存在者全体の、最上位の領域を画定する概念ではない。「また存在は類ではない」。存在の「普遍性」は、あらゆる類的普遍性を「ふみこえる」ものである。(中略)事象的実質をそなえている最上位の類概念は多様であるのに対して、この超越的「普遍者」は一様である。この統一性を、アリストテレスがすでに類比の統一として認識していた。 <引用終了> M・ハイデガー(細谷貞雄訳)『存在と時間(上)』筑摩書房、1994年、29頁
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- easy_all
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>ちなみに私は、あわてて今アリストテレスの『形而上学』を精読しようとしている いえいえ、私も岩波文庫「形而上学」を持っていましたが、 ちゃんと読んだのは、「存在と時間」の注に、何度も出て来るから、です。それも、注に出る箇所しか、精読してないです。 >『存在と時間』の中では、「存在それ自体の意味」と「存在するとはどのようにしてか」という2つの問いがあると思うのですが、私が気になるのは前者のほうの意味でのことです。 まったく同感です。「存在それ自体の意味」つまり、生きる意味・生きる歓喜を、ハイデガーはこの書で解明した。私はそう信じています。 また「存在と時間」は、未完の大著で、第1編21節には、書かれる筈だった第3編のアウトラインが示されています。 こんな事を話すと、jojopop999さんはびっくりされると思いますが、 その書かれなかった「存在と時間」の全貌を、 三島由紀夫が記述しているのです。 「人間には三つの宿命的な病気というか、宿命的な欠陥がある。その一つは事物への関心(ゾルゲ)であり、もう一つは人間への関心であり、もう一つは神への関心である。 人類がこの三つの関心を捨てれば、あるいは滅亡を免れるかもしれないが、私の見るところでは、この三つは不治の病なのです。」 (「美しい星」新潮文庫、214頁) 1:事物への関心、とは、道具存在を使いこなして生きる、現存在です。 2:人間への関心、とは、今・時間に流されて、いつか自分は死ぬという現実から目をそらし、逃げ回る現存在の空虚さから脱自し、 実存して生きる、個人の生き方です。 3:神への関心、とは(これが書かれず、未完の大著となったのですが) すべての個人が、実存に覚醒したとき、神の世界を築ける。聖書で言う、神の世界に人は招かれる、とハイデガーは言いたかったのだ。と私は信じています。 三島はそれを、「滅亡を免れる」と記述した。いや、ハイデガーの世界を実現しなければ、核兵器によって人類は滅亡する、との三島の預言だ。 と私は思っているのです 事物の世界→人の世界→神の世界、と高みに登攀するのが、人として生きる道であり、 そのステップの登攀が、ハイデガーのいう『超越』だと思っています。 昭和45年に自決した、三島の時代には、当たり前ですが中公クラシックスは無かった。 三島こそ、ほとんど異常とも言える程の、ケタちがいの読解力をもつ日本人だと思います 三島はまた、この「美しい星」と「金閣寺」「鏡子の家」で、ノーベル賞をねらった、と私は確信しています。 サルトルが、彼独自の哲学によってノーベル賞に推挙されたように、 ハイデガーの実存哲学を、この3作品が文学としているから、です。
- easy_all
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>日本語としてこなれているのは、どっちでしょうか? すみません、これを忘れていました。 私は、中公クラシックスしか読んでいないのですが、訳注がすばらしいです。 本文だけでは理解不能な箇所には、ていねいな注がつけられています。
- easy_all
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old_sho さんへ >「存在」が類・種ではないとして、それが、「あらゆる主語の術語になる」とどう繋がるか、 日本語では 1.私はある。=私は存在する。 2.私は日本人である。 と、「ある、存在する。である」という言葉が、1・2のように、どんな文章でも作れる。どんな文の述語になれる。だから、類・種というカテゴリーを超越している。 >それは単に「主語」と言う概念の規定によるもので、「主語」を特別なものにするという前提になっている、と感じます。したがって、「存在」を主語に「何か」と問うのは、それこそ「何なんだ」。 そうですね。確かにこの一文だけでは、言葉に囚われているようです。が、 当時の、アリストテレス研究は、トマスアクィナスによる注釈書に拠っていました。 だがハイデガーは、原典でアリストテレスを読み、そんな手法をとった初めての人だと言います。(木田元「哲学は人生の役に立つのか」) 質問者さんが引用された部分の、直前には、アリストテレス・アクィナスの文章が載せられています。 『類・種を論じた、アリストテレス「形而上学」の伝統を、そのまま受けつぎ、新しい存在論をここに樹立するのだ』という ハイデガーの決意が、こめられているのでは?と考えています。
- old_sho
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読まれたお二人に割り込んで、申し訳ないですが。 「存在」が類・種ではないとして、それが、「あらゆる主語の術語になる」とどう繋がるか、読めば分かるかも知れないですが。読む前から、それは単に「主語」と言う概念の規定によるもので、「主語」を特別なものにするという前提になっている、と感じます。したがって、「存在」を主語に「何か」と問うのは、それこそ「何なんだ」。 ――中公の原・渡辺訳と、ちくまの細谷訳、引用された個所でもずいぶん違いますね。easy_allさんは、日本語訳で理解できるかと言う文を引用されていましたが、日本語としてこなれているのは、どっちでしょうか?両方を読むのはしんどいので。 jojopop999さん、失礼しました。
- easy_all
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恐縮ながら、○章○節、と教えて頂けるとありがたいです。 1節.中公クラシックスでは、こう訳されます。 「存在」は、存在者が類と種にしたがって概念的に分節されているかぎりでは、存在者の最高の領界を限界づけはしないのである。すなわち、「存在ハ類デハナイ」。存在の「普遍性」は類にふさわしいすべての普遍性を「越え出ている」。 「存在」は中世存在論の名称にしたがえば一つの「超越者」である。事象を含んだ諸最高類概念が多様であるのに対して、こうした超越的な「普遍的なもの」は統一をもっており、この統一をすでにアリストテレスは類比の統一と認めた。<引用終り> 「類と種」とは、日本語では種類で、アリストテレスが世界のすべてを分類した、やり方、分類の基準です。 この一文を読む、準備として、 ある、存在する。・・・この言葉は、何か??? 私は、ある。→「私は、存在する」と言えば、生きているか?死んでいるか?真か偽か?を述べる。 私は、日本人である。→私(主語)の、述語になっている。 ある、存在する。←この言葉は、あらゆる主語の述語となり、あらゆる真か偽か?を述べる。 この存在、ある、とは何なのか?「存在と時間」は、このアリストテレス以来の哲学の大問題を、哲学の伝統にのっとって、探求するものだ。 『実存』への道程を探求するもので、決して(ヤスパースのように)実存そのものを記述するのではない。その意味で、この書は「実存哲学」ではない。 「存在」とは、アリストテレスの類・種といった分類では、決して定義できない。概念によって世界を分節する、という方法(後に、構造主義が明らかにした、世界の分節)では、「存在」を定義し、その定義の外ワク・定義の領界の外がわを限界づけ出来ないのだ。 類、として分類できるような普遍性、つまり普遍な分類可能性を、超越している。 そんな「存在」を、中世では神と呼んだ。 事象を包括する概念を定義しようとしたら、まったく多様になってしまう。そうではなくて、「存在」を探求するこの著書の記述は、統一に至るものだ。 アリストテレスの哲学は、この統一を、類比の統一と言った。「存在」は、あらゆる主語の、述語になれる。真も偽も、あらゆる類比を統一する、という意味だ。
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回答ありがとうございます。 非常に勉強になります。 存在が他の概念によって定義できない、というのは分かるのですが、個別的存在は存在に属する概念ですので、存在内で上下関係はありますよね。 ですから、存在それ自体と個別的存在というのは、形と三角形のような類と種の関係になると思うのです。存在というグループそのものは何にも定義されないとしても。 『存在と時間』の中では、「存在それ自体の意味」と「存在するとはどのようにしてか」という2つの問いがあると思うのですが、私が気になるのは前者のほうの意味でのことです。 ちなみに私は、あわてて今アリストテレスの『形而上学』を精読しようとしているほど無学な人間ですので、この問題に質問する資格すら無かったのではないかと今更ながら慄いています。
- old_sho
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回答ではなく、質問になって申し訳ないのですが、次かその次に読もうと棚上げになっている書ですので、お聞きしたいのです。 私は存在が類にならないと言うのは理解出来るように思っていますが、存在自体を追求すると言う西洋人の考え方は理解出来ません。それは結局彼にあっては「神」と言う方向に行ってしまったらしいので、捨て置いて、方法として、論理の組立として、この書を読み終わって、ハイデッガー式の切り口を身に付ける、と言いますか、何かそういったものは、あったでしょうか。あるいは現象学から一歩も出ないとか。ぶしつけな質問で申し訳ありませんが。
お礼
回答ありがとうございます。 ハイデガー的な切り口ですか・・・私は哲学初学者なのでそこまでのものは全く身に付いておりませんが、 ハイデガーは存在自体をイデア的な構造で捉えて、人間がどのようにして存在を認識するかを現象学的なアプローチで描こうとしていたように見えました。
お礼
まず、岩波の桑木務訳はやめたほうがいいです。 訳がドイツ語に忠実すぎて何を言っているのかさっぱりです。 その点、ちくま版はある程度噛み砕いた表現をしているのでわかりやすいです。 中公版のほうが註が充実しているとのことで、 そちらを重視する方はそちらのほうがよいでしょう。