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《宇宙は自分の補完です》とは どういう意味でしょう?
《宇宙は自分の補完です》とは どういう意味でしょう? 果たして意味があるのですか? 回答としてもらった内容なのですが 質問者として軽くあしらったために 補足要求に応じてもらえなかったところの文章です。
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自分は物語の主人公で、 宇宙はその主人公を引き立たせている脇役 と思えばわかりやすいと思います。 脇役は主人公の補完です。 なぜなら物語は主人公だけでは面白くないからです。 絶対に脇役が必要です。 そういった意味での補完なのだと思います。 だからここでは「互いに補い合う」、 というよりは「脇役が主人公を補う」のです。 あくまで物語は主人公にスポットライトがあてられているのです。 これと同じように、 「宇宙は自分の補完です」は 自分をスポットライトにあてているのです。 物語では主人公が主役とはじめから分かりきっていますが、 宇宙は人間を越えた絶対的存在だと一般的にはみなされます。 それに対して、「いやいや、私の人生にとっては私こそが主役だ」 と主張する必要性が現れてもおかしくありません。 ただ自分の人生を生きるためには宇宙が必要なのだと。 宇宙がなけりゃ地球も存在せず人間生きていけませんからね。 そういった点で宇宙が自分を補完してくれている、 要するに自分の人生の脇役を務めているいうことです。 宇宙を人間の上におく考えをやめて、 下におく考え方なのだと私は推測します。 また、お礼の欄をみましたが、bragelonneさんの仰る補完は 絶対に物質を対象にしなければいけない言葉だと認識されてるようですが、 そうとは限らないです。 補完とは補って完全にするという意味で それ以外に何も意味はないと思いますので。 しかもここの意味での補完は人間を完全(絶対的)に近づけるという意味 であることから、一般論である宇宙自体が絶対的なものであることの 対比要素としてうまく働く言葉だと考えることも可能かと思います。
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- sheep67
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問題が、一個一個の言葉の定義の問題であることがはっきりしてきますね。 >思考停止 ☆ は ひとがその自由意志によって思考をするしないを決めることにおいて成り立つものです これはブラジェロンさんの定義です。 別の見方として、受動的に、考えたくても考えられない、という意味にも受け取れますし、僕はそういう意味で使っているので。 受け身においての思考停止、とでも書けば良かったのかもしれませんが。 ブラジェロンさんは、常に客観的意識的で、そのスタンスでは、相補性は理解できないと思います、なぜなら、この言葉が主観的だからです。 それは言葉を発明した、ボーアの話を見てもそうだろうと思います。 人格の拠り所の問題じゃないかと。 人は性格が違うと、髪の毛一本まで定義が違いますし。 ブラジェロンさんは、客観的な視点で話、僕は主観的視点をベースにするので、同じ単語を使っても食い違いますねー。 というかここにおいて、思考停止という単語における、2人の、この単語に託したニュアンスが違うことが明らかになったわけです。 こういうところをつまびやかにしなければ、相補性の説明なんてとても無理です。 >初めの一歩についてすら了解されていないとすれば 上に書いたように、それは無理な話です。人の性格の絶大な違いを理解されておりません。 例えこういう質問の場においてもです。 同じ単語に同じ意味を持たせる仲間内だけと議論しても難しいと思います。今回の質問である、相補性の意味について説明を受けることは。 小言については気にしてません。確かにだいぶ長くなっていますし。ちょっとくたびれますねー。ゆっくりやってるんですが。 >《語り得ない》も《不可知》も 違います。それは神のことについて正確な叙述ではありません これわかりませんねー。 だったら、絶対も一体も、正確に記述じゃないですし。 >《神や絶対や無限》は 次元を異にして 《極限や究極といった概念》とは別です。 これこそまさに不正確ではないですか? それはブラジェロンさんの独自の定義です。皆の了承は取られてますか? もちろんそう取り決めする、というのなら納得はしますが、僕はそんな約束はしてませんし。 また、極限と無限、あるいは加算無限と実無限の話をされてるんでしょうが、どちらも人の思いついた物に違いなく、それは違いであって、どちらが本質に近い、と言う物ではありません。 加算無限と実無限が、単なる視点の違いであるように、 絶対と極限は、視点の違いに過ぎません。どちらが上でも本質でもないです。 この辺のことをもうちょっとつっこんどくべきだったかも知れませんが。 というより、本質に近づくために、この2つは組み合わせて使うべき概念だと思います。 人は一度に認識して捉えてしまう視点と、変化と全体性を使って理解する2つの視点を持っているのですから。それに優劣はありません。 どちらも神の世界にはほど遠いですが、組み合わせることで近づくことはできると思います。 そこを、実無限は次元が違う、とか 《分かるか分からないかが分からないところの非思考の場》 などと言うことで分かった気になるのは危険です。それは全く分かってない、と言う意味では、加算無限と違いないのですから。 無限に一歩一歩近づく加算無限が経験的なら、無限そのものをどんと表現した実無限を思いつくことも経験的です。変わりありません。認識、という形での経験則です。実無限の方が抽象的だとは思いますが、だから別物であっても優れてはいませんし、それはそういうものです。 人間は抽象的生き物でありながら、具体的な生き物でもあります。具体性加算無限を軽んじては?独りよがりです。 そこで実無限的認識によってだけ得られる神や絶対や実無限を経験事象ではない(と言われてますよね?)、とするのが、ブラジェロンさんの性格の特徴だと思います。それはブラジェロンさんの個性だと思います。人に押しつけるものではないと思います。神という言葉を非経験だとするのは、もちろん自由ですが、勝手に決められても他人は納得できないですし。 同じことは相補性補完についても言えます。だから納得できないのでこの質問をされたはずです。 なのにその説明をしたら、説明自体がおかしいと言われます。相手のスタンスを尊重しましょう!でないとわかりません。 >思考停止は経験ないし非思考ではあ り 得 ま せ ん。 思考停止は上に書いたように受動的に停止した状態を指すので、それは非思考の状態だと思います。説明足りませんでしたが。またこの一文は、ブラジェロンさん独自の定義を現します。 ありえないのは、ブラジェロンさんにとってありえないのであって、他人にとっては違うんです。わかってもらえません?
- sheep67
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追加です。 相補性は、絶対や永遠などと同じで、ある種の極限概念かも知れません。 だからそのものずばりを説明するなら、思考停止が正しいです。 なので相補性とは、永遠そのものを永遠が描かないように、相補性という言葉は相補性を描いては居ないし、相補性そのものに達した人間は居ないはずなので、ダイレクトに説明しろ、というのも無理です。 でも、極限概念を使うことで、アウトラインは描写できると思ったので、いろいろ手を変え品を変え、描こうとしてるわけです。 まーでも所詮アウトラインなので、概要なので、そのものずばりがわからないじゃないか、と言われるとそうですが。 そうなると、神も絶対も無限も、同じことになります。
お礼
★ 極限概念 ☆ は 可能無限としてそれは 経験世界に属しており 絶対としての無限ではないとあれほどさんざんやり取りをしたぢゃないですか。 絶対という領域があって そこに一歩一歩限りなく近づくということは あくまで・どこまでも 経験世界に属することです。その究極への(あるいは 究極としての)運動は 経験事象でしかありません。その究極のすがたが 必ずしも明らかにならずうまく説明し得ないとしても それは 《分かるか分からないかが分からないところの非思考の場》とは まるっきり違います。 また思考を停止する停止しないというのは まったく《わたし》の自由におこなうことです。どこから見ても経験行為であり経験事象です。 思考停止は 非経験 ないし 非思考では あ り 得 ま せ ん。 仮りに死によって思考が停止したことを考えてみてください。それも 経験事象に属すのです。神の非経験領域とは 何の関係もありません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ まーでも所詮アウトラインなので、概要なので、そのものずばりがわからないじゃないか、と言われるとそうですが。 そうなると、神も絶対も無限も、同じことになります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 同じことに成り得ません。《神や絶対や無限》は 次元を異にして 《極限や究極といった概念》とは別です。
- sheep67
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こんにちはー。 ではー >副次的な主題ないし論点を すでにおこなったやり取りときちんと絡ませておこなって欲しい ここで書いてるのは描写です。いろんな側面を描くことで、相補性の理解不能なことを示そうと思ってるので、問題ないと思います。 >あり得ません そう真っ向否定されると、僕も否定し返すしかないのですが・・困ったですねー。ブラジェロンさんがありえない、と言われるところの神も偶像になります。 此では本当に意味のない議論です。 >ほんとうの関係性は 神とわたしとの直接の――と主観しているところの――つながりです それはそうなんでしょうが、そう信じるならそう信じて、相補性などに首をつっこまない方がいいと思うんですが。それは信仰ではないように、というか信仰に自信がないように見えます。 >気持ちや心 だけでなく、自我も、自意識も、移ろいゆきます。同じです。 >神はあなたのペットではありません そんなことも神は言われたくないでしょう。天につばしています。 >わたしは相補性論について認めていません 理解する気がないと言うことですか?質問の意義が問われます。 >相補性の理論で解釈する それは無理です。こちらが基礎ですから。子供は親を産めません。 ブラジェロンさんが肩の力を抜けば分かりそうなものですが。それだけ否定されてると言うことは、うすうす相補性のことを理解されており、だからこそ否定されるんでしょう。 >知り得るか知り得ないかが分からないはずなのです 違います、あの記号の列で言いたいことは、「思考のストップ」です。 相補性もそこに属するので、説明に苦慮するんですが。 >相補性・補完性を 神に当てはめようとするその初めの一歩からして わたしにとっては おかしいのです じゃあどうしてブラジェロンさんは、神に絶対とかいう言葉を当てはめられるんでしょうか? 僕がやってはいけなくて、ブラジェロンさんはやってもいい、と言うことですか? 僕がなめてるなら、ブラジェロンさんも同じですよ。 もっとも、知り得ない神について語る地点で、確かに人は神を軽く見てますが、それにはブラジェロンさんも含め、人に例外はありません。 神について、絶対だの、一体だのいうのもまずいのでは? >《語り得ない》という判断は いったいどこから出て来ますか? 勘違いされてますが、それは、そう言った人は、考えられないから、そう言ったんでしょうねー。 >非思考の場としての信仰 相補性は、その非思考の場とこちらとの境界ではないかと思います。 なぜなら、思考が止まりますから。 考えて言うわけではなく、考えが止められるから、あとからそう判断することになります。 >上のような現実の場に持って来て論じて欲しい これも誤解されてるので仕方ないですが、思考停止をもってこいというのは無理ですね。 極端な話、死ぬときや、寝る瞬間などは、どんな人でも思考停止します。それと似てるかも知れません。 そういう状態がある、という事実です。それを見据えてますよ。 >もっとよい構制や地図をつくりだして欲しい ???これは、リクエストですか? >の質問は あくまで《宇宙は自分の補完です》の解釈です そのために持ち出したのですが・・ 補完と相補性が区切る、神様について語ることは相補性の肉付けになりますし。 相補性とは、ブラジェロンさんの話の論理の延長として説明するなら、思考停止が、おそらくぴったり来るはずです。 別の性格の人にとってはそうではない、と言うことですが。切り口の違いです。 おそばと言われても、僕はゆっくり考えたいので、そんな制限はありですか? 急ぐのであれば、ついてはいけないので。
お礼
ひつじさん ご回答をありがとうございます。 ですが わたしが前回物言いを述べたのは じゅうぶんそちらの見解を聞き互いに吟味をして来ているからです。その蓄積にもとづいて話を受けとめてください。 いいですか。 ★ 思考停止 ☆ は ひとがその自由意志によって思考をするしないを決めることにおいて成り立つものです。つまりは 経験思考にかかわる経験行為です。つまり経験世界に属します。《思考》が停止しそのときには思考していないからと言って 《思考に非ず つまり 非思考》の場が出来るかと言えば それは違います。 非経験の領域を想定しその領域と《わたし》との関係として 非思考の場ができるのです。思考によって分かるとも分からないとも分からない領域なのです。《思考停止》とはまるきり違います。思考を及ぼそうとしても 及ぶか及ばないかが分からない領域です。それが 神の国のことです。 ですから 《語り得ない》も《不可知》も 違います。それは神のことについて正確な叙述ではありません。 つまり いい加減わたしも説明して来ているのですから そのような初めの一歩についてすら了解されていないとすれば ひつじさんは わたしの述べていることを何にも聞いていないということになります。 物言いを言いたくもなりますし 小言も出て来るというものです。 どうでしょう?
- sheep67
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つまり相補性とは、=「&#??;$※♂(右)?」 と言えます。 昔の哲学者で「語り得ないことは黙ってたほうがいいー」と言った人がいましたが、語り得ないことを限界まで語ると 「&#??;$※♂(右)?」 となります。 言換えると、「&#??;$※♂(右)?」 は、無限と有限の接点(接面?)です。 でも概略のイメージとしては、だまし絵=多義図形や陰陽図が、アウトラインを理解する助けになります。それは人知を越える、現実にこの世には人の分からないものがあるんだ、という事実の理解として、ですが。 さきに、この接点が論理だと書いたですが、紛らわしいので、それは論理を生み出す母体であり、意味不明さでもある、という定義?です。できが悪い話ですが。 昔アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったときに、ボーアが、「神がなにをされるか注文を付けるべきではない」と言ったそうですが、ちょっと似てると思います。 厳密にいうと、自分の語る神と、「神」とは、別なので。 僕もそうだったですが、外部の事象について分からないことがあることが転じて、それがそのまま、即(即非の論理的に)自分の内面の問題=自分の限界、あるいは脳の限界である、という内外の相補性もあります。それで、外への限界は、内の自分を規定する、という進歩だって、前向きにも見られます。 あと、この質問の論点自体がどうもふらふらしてるようなので、焦点があってないような気がするんですが、答えるほうもちょっと迷います。 おわり
お礼
つづきです。 ツッコミを入れて行きましょう。 ★ 語り得ないもの ☆ 《語り得ない》という判断は いったいどこから出て来ますか? 《語り得ない》という思考とその判断であるしかないのでは? だったら 《語り得る(表象しうる)経験世界を超えたところ》と言ったほうが うんと分かりやすい。しかもこの非経験の領域については それの代理表現によって仮りに表わすことも 人間はしている。神と。 理論をしっかりと固めて行って欲しい。この年寄りがそこまで言っているのだから 若い人たちはやるっきゃないでしょう。 ★ 語り得ないことを限界まで語ると 「&#??;$※♂(右)?」 となります。 ☆ おかしくないように思うかも知れませんが 矛盾しています。 ★ 限界 ☆ が分かったのなら 《非経験の領域》にたしかにおっしゃるように接していると自認していることになります。もしそれが有効であるとしたら それはあくまで――非思考の場としての信仰において――主観の内側での出来事です。 そうしてしかも この非思考の場で信じた(受け容れた)神を その神という言葉でじんるいは 普遍的に用いて表現しています。つまり主観の内側を超えて 代理表現を共有しています。これまた いかに? ★ 接点だとか論理だとか 意味不明さだとか ☆ の定義を 上のような現実の場に持って来て論じて欲しい。あるいは《わたし》を離れないで その《主観》の世界におこる出来ごととして しっかりと見据えて欲しい。 《神がサイコロを振ろうが振る舞いが》その代理表現の世界をうんぬんする前に 《人間・わたし・主観》および《経験世界とそれを超える非経験の領域》そしてさらに両者をむすぶ《非思考の場》 この構制をしっかりと据えて欲しい。さもなければ もっとよい構制や地図をつくりだして欲しい。 あらためて言います。 神のもんだいは あくまで主観の内側に属するわたしのあそびです。しかもこのあそびにおける仮りの代理表現が 人びと一般に普及するという事態も起こり得る。 この質問は あくまで《宇宙は自分の補完です》の解釈です。神の問題へと持って行ったのは――それは 自由なのですが―― 回答者さんたちのほうですよ。神の問題で解釈するのも どうもあてはまらないと考えるようになったのなら この主題に即して ああやはりこの切り口は捨てようとならなければウソです。 どうもいつもそばが延びそうになる。ひつじさん わたしからのお小言です。
- sheep67
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ーーー不可知の壁 上の話とは別視点として、屁理屈になりますが、 神が非経験で超経験なら 「神の側からのわたしの包みこみなら 分かります。わたしが神を包み込むことは 無理ですが。 もうひとつにその対等でありながら互いに相手に依存しているということのようです。超経験の神が 経験存在であるわたしに依存しているなどということはあり得ません」 などと言うことすら分かりません。これは憶測であり、人間が、分からないはずの神に対して想像力をたくましくした結果、ではないでしょうか? そこにはものすごい推理が入っています。 それがブラジェロンさんが理想とする神(道)に対する直感的推測にぴったり当てはまる、と言うことは分かります。でもそれは、ブラジェロンさんの脳の特性と、神(完全性、すべて)との組み合わせ部分が、「こういう神がぴったり来る」というものとして浮かび上がってきてるはずです。 僕は神が完全であるなら、甘えも依存も悲しさも涙も弱さもみんな持っててもいい、というのもありです。 前の投稿で書きましたが、不可知の壁とは 「&#??;$※♂(右)?」 です。意味不明、矛盾と言う意味です。 推理した地点で(厳密にいうと)違うんです。(と言うこれも推理かしら? 人の考えなんてこんなものですから、人の考えはどこまで行っても相対的で絶対的になりません) 人と神、無限と有限の間に因果律がない、切れている、と言うことは、現実的には &#??;$※♂(右)? だということです。頭になんのイメージも沸かさせない言葉、と言うことです。 頭の中が &#??;$※♂(右)? になるのなら、神に向かうときの一番良い姿勢だと思います、多分。 これは、仏教での「無いということも無い」という2重否定や、聖書での「ありてあるもの」という2重肯定に見られる、人の脳内イメージを完全に消すための表現方法と似てます。 人のどんな言葉も、道しるべに過ぎないです、本当のこと「そのもの」ではないので。それはご自分で書かれてるとおりです。 また、神が超経験で非経験で、依存も包み込みもありえない、というのは、みんな人間側からの視点であり憶測だと言えます。 間違いというわけではなく(いえそれは正しいと思いますが)、それは人の脳を経由してる以上不完全です。それが正しいためには、ブラフマンと言った人が神と同レベルでないといけません。 不完全=間違い、と定義するなら、間違いとも言えますし言う人もいますが、僕は、数多くの正解、数多くある真理のひとつ、とみます。 ーーー同一性 でも、そうでありながら同時に、ブラフマンは唯一の真理です。数多い真理のひとつであり、唯一の真理である、というこの辺りが同一性であり、正反対の2つの意味が重なってしまうという訳の分からない理解を超えるところです、同一性そのものは僕も理解しないようにしています、というか嘘になるので。 人の思考と精神と意識の拠り所が壊されるので、理解できない、と言うことになります。ある意味それは宇宙の破壊です。 哲学でいう止揚、昇華、絶対矛盾自己同一、仏教の縁起、などでむりから間接的に表現される物です。(厳密な定義ではなくエッセンスとして)。 また物理の不確定性原理は、この縁起思想の、客観性を帯びた物理的スタンスからの言い換えです。 それらの本質は、因果の切断、不可知とは、本来表現できない、と言う意味です。そこを無理矢理表現した哲学宗教用語には実は中身はない、と言うことです。(有ってもわからない、有無の超越、同一性) 分からないことを認めないと、それを越えられない、と思うので。 これは有限と無限の境界であり、越えることでその境界=輪郭に迫れるんではないか、と思います。境界が境界でありながら境界ではない、と言う現実です。 でもそのまえにも、理解できないという事実を認める方が、手順として先です。それはそういう構造なので。(と越えていない僕が言ってますが・・) その意味では、相補性の定義は=「理解できない」こと、としても良いはずです。 相補性と同一性は、かなり親戚、近所、もしかしたら同じかも知れませんので、まだ探ってないですが。 相補性とは、因果律が崩壊しています。つまりそこには言葉も意味も存在しません。絶対か相対かもわかりません。お好みでどうぞ、と言うことです。 つづく
お礼
つづきにて。 そもそも《宇宙は自分の補完です》を 相補性の理論で解釈するというところまでは聞いているのですが その中身についてはまだ説得されていません。それをまづおこなうべきではないですか。 ★ 不可知 ☆ 《 agnostic; agnosticism 》という語をそもそもT.H.ハックスリ―が初めて使ったということから起こして その情報と中身の検討をひどっちさんがおしえてくれました。 【Q:不可知とは どういうことですか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6002224.html ☆ 自然科学において 《解は存在すると分かっているが それを特定することが出来ない》という意味で《 agnostic 》を使うことがあったとしても あとは神学の関係ではむしろ《非知(人の知るところにあらず)》として使っていると解したほうが分かりやすいというひとつの結論を得ています。 言いかえると 《思考に非ず= 非思考》の場という想定であり扱いです。 《可能無限など》が その数の存在は経験事実として分かっているが その数じたいを特定することが出来ない。その意味で《知り得ない( unknowable )》。けれどもそれは 《知り得るか知り得ないか》を含んだ経験思考の世界に属します。 そしてもし《 agnostic 》がその経験世界を超えたところのことを言っているのなら 《不可知》と訳すよりは 《非知 ないし 非思考の場に属する》と言ったほうが分かりやすいと考えたものです。 不可知つまり知り得ないと分かっているというのも 変な判断内容ですね。もしそれを非経験の領域について言おうとするのであればです。無根拠のものについては 知り得ないというのではなく そうではなく 知り得るか知り得ないかが分からないはずなのです。ひょっとしてひとは 思考の能力で知り得ないものをも感性で知り得るかも知れません。あくまで主観の内側でのもんだいですが。 ★ ーーー同一性 ☆ これは 梵我一如と言ったりするときの《一体性》のことですよね? ならばこれは 主観の問題だ あるいは表現の問題だという前提を基本として扱うのがよいと考えます。 いまそれほど深入りする必要もないでしょう。 《宇宙は自分の補完です》の解明に焦点をあてて欲しいのです。 ★ 聖書での「ありてあるもの」という2重肯定 ☆ たしかにそういう訳がありますし けっこう普及しているようですが 原文はこうです。 ○ Ehweh 'aser ehweh. ・ I - am who I - am. ・《〈わたしはある〉 それがわたしだ》 ☆ 一般的に言えば 《存在》論です。そしてむろんこの表現は 仮りのものです。神そのものではありません。非思考の場を 思考をともなう人間の言葉で代理して表わしたものです。概念じたいが 神であるのではありません。 ですから 相補性・補完性を 神に当てはめようとするその初めの一歩からして わたしにとっては おかしいのです。よほどうまくその代理表現をかたちづくらなければならない。その覚悟がまづ見受けられません。神を・ゆえに人間をなめてかかっているとしか思えません。 そもそも《宇宙は自分の補完です》は すべて経験世界のことがらを扱っているだけなのではないですか?
- sheep67
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こんにちは。 相補性と言わないほうが 自然本性においてひとは 世界や宇宙と親和性を持つと感じられるのではないですか? というのは、下記のお返事の 超経験の神が 経験存在であるわたしに依存しているなどということはあり得ません。 と言うことを指してますか? なら問題があります。 自分のことは棚に上げて書かせてもらいます。 ーーー関係性と相補性 それは補完あるいは相補性は、神の存在面に対して当てはめてる言葉じゃないからです。 いわれるとおり神の存在は人には依存しません。 でも神の関係性は、人に依存します。 関係性とは、心、ハート、暖かさ優しさ、心情、気持ち、という方面の物です。 ブラジェロンさんは、どうもこういう方面を削除したがってるように見えます。 神が人を作ったのもそのためですし。 認める人がいなければ、神も孤独でしょうし。 聖書でも、放蕩息子を待つ父親の例もあります。 息子が帰ってきたら神は大喜びするんですから、その心情は人と相補的だと言っておかしくはないです。と言ってもキリスト教の比喩ですが。 ブラフマン的な神は、わかってもらえるかどうか知りませんが、とても意識的認識的神です。そういう場合、神の存在面が最優先になり、なので、神に相補性を当てはめるのが不自然だ、というのは分かります。 それはタオ的な神です。詳しくは知りませんが。 でもそれは人が神に何を望むかで、神の現れる面は変わるので、それだけが神のすべて、とは行きません。 もっとも仏教の縁起概念=縁あって生じる、存在は関係に由来する、と言うことを信じるなら、おかしなことではないのですが。 前も書きましたが、例えば優しくて、人のことで心配して泣いてしまうような神様を否定するなら、それはそういう神様を望む他人の心情や、生まれつきの性格と天分を否定することになるので。 人によって、神の性質を何に収斂すべきか? が違うのですから。 正解は無限にあります。 ーーー論理 また、相補性のことを、包み込むとか、依存などと書かれてますが、相補性にそんな、人間の動作や心理にまつわるような意味はありません。僕は少なくともそういうニュアンスは込めてないですし。 それは神と人の性質についての言及です。動作や気持ちとはまた別です。 性質なので、依存もへったくりもありません。 この場合の相補性は、理系独特の、一切情のこもらないまた別の、からっとした認識です。 自分が神を必要としている、という事実さえ置き去りにしています。それとは別世界、無関係です。 論理は人を超越していて、ある意味神様に繋がります。人とは無関係です。その本質はだれもわかりません。どうして論理があるのか聞いたことないです。みんな知らずに、天与の物として使っていますが。 僕自身も相補性と言っていて、これは僕とは無関係な話だなーと思いながら言ってますから。 科学の元になる論理や客観性は、本当人間そのものとは隔絶してます。その壁を四の五の言っても、もともとそういうものですから。 論理は、有限と無限の境界線であり、この論理の性質を元にして、僕らの住んでる世界ができてますので。 あと感じるのは、不可知の壁をどこに設定するのか? あるいは神によって、脳の中でどこに設定されてるのか?これも人によって違うなと思います。 続きます
お礼
さて――投稿はありがたいですが 副次的な主題ないし論点を すでにおこなったやり取りときちんと絡ませておこなって欲しいと文句を言いたいですが まづはご回答をありがとうございます―― 項目別に応答してまいります。 ★ ーーー関係性と相補性 ★ 補完あるいは相補性は、神の存在面に対して当てはめてる言葉じゃないからです。 / いわれるとおり神の存在は人には依存しません。 ☆ これをつらぬいて欲しい。ところが ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ でも神の関係性は、人に依存します。 関係性とは、心、ハート、暖かさ優しさ、心情、気持ち、という方面の物です。 ブラジェロンさんは、どうもこういう方面を削除したがってるように見えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あり得ません。そのように捉えた神は そのように自分の心の中に描いた――仮りに姿を現わしたとまでは言えるであろうけれど――偶像の(特にこの場合は 観念としての偶像ですがその偶像の)神であるに過ぎません。 なぜなら その《関係性》がなくても ナゾの神とわたしとの不類似の類似において(= ひとが神の似姿であるという想定のもとに)畏れや有り難さやめぐみを感じるというのが ふつうの出来ごとだからです。そのときたとえ もろもろの偶像という介在を実際に経ていたとしても ほんとうの関係性は 神とわたしとの直接の――と主観しているところの――つながりです。 (α) なんで神を そんなふうに地上に降ろして来たいのか? ★ 神が人を作ったのもそのためですし。 ☆ そうだとしても それは 甘えているに過ぎない。勝手に解釈している。《めぐみの上にめぐみを》とも言われている。 生まれて来ているいまの存在が 一つ目のめぐみである。この存在が その自然のからだはやがて朽ちて行くが あたらしい人としての存在(前史に対するわが後史)は あたかも永遠に生きると言われている。これが二つ目のめぐみであると。 そのようにありがたく思っていたなら わざわざ《心、ハート、暖かさ優しさ、心情、気持ち、という方面の物》が 神の関係性であるなどと屋上屋を重ねることはするまいって。愛は信仰や希望がすでに要らなくなったあとにも残ると言われているけれど 気持ちや心は 前史のそれであればそれらもうつろいゆくものである。 (β) なんでそんなふうに――神を地上に降ろしてきて――自分の近辺や周囲の近場しか見ようとしないのか? ★ 認める人がいなければ、神も孤独でしょうし。 ☆ 馬鹿言っちゃいけない。ひとり満ち足りている存在が神である。それでこそすべてをわたしたちはゆだねることが出来る。補完ないし相補性を神にあてはめてはいけないなら 経験的な心や理性などに関わらせる関係性などは もはやどうでもよいと帰結させなければうそだ。その上で そうであっても人間は一人ひとり掛け替えのない存在であると分かる。根拠は 自分たちにあるのではない。無根拠のなぞのほうに根拠がある。ゆえに すべてはありがたく うれしく たのしく 生きがいがある。 (γ) なんで順序をさかさまにするのか? 人間が孤独であり〔じつは 孤独関係であり〕 それが癒されるのだという順序をなんで 孤独を神に押しつけてからの順序にするのか? (δ) 《放蕩息子》〔の気持ち〕がふつうに先にある。これを何で先に神の側に持っていこうとするのか? 要するに (ε) 神は 人間がいてもいなくても痛くも痒くもありません。何で順序と認識を転倒させるのか? ★ 例えば優しくて、人のことで心配して泣いてしまうような神様を否定するなら、それはそういう神様を望む他人の心情や、生まれつきの性格と天分を否定することになるので。 ☆ 神はあなたのペットではありません。順番を逆にしている。神をあなたが受け容れたなら そのきびしさとやさしさとが分かったとならなければウソです。 (ζ) 心情も何も存在じたいをささえていてくれると分かったなら 人のことで心配して泣いてしまうような神を肯定するも否定するもありません。順序を逆にしてしまって 物語をこしらえようとしてはいないか? このように順序(秩序)を逆にしてしまっていると思ったら またその逆のほうに帰っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ この場合の相補性は、理系独特の、一切情のこもらないまた別の、からっとした認識です。 自分が神を必要としている、という事実さえ置き去りにしています。それとは別世界、無関係です。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは相補性論について認めていませんので 同じ筋での話ではありませんが 神がひとり満ち足りている存在だということに関しては この内容と同じです
ご返事を補足と解釈して。 私も不完全燃焼のままではどうも気持ちが悪いので、お邪魔とは思いますが。 >そのような概念は 物質について言っているものと思うのです。人間は物質から成り立っていますが 物質そのものあるいは物質のみでもないと考えます。 私は、哲学的な意味でかかる言葉をを捉えています。物質、物理的原理などはこの際無関係でしょうね。 > なのに その物質についての事態を言い表わす《補完》を 《人間と宇宙との関係》に当てはめているのですよね。そこのところが分かりにくいです。 この際、分析的に言葉へ入り込まずに、ずーっとカメラを引いて大きくざっくりと言葉そのもので、抽象的に捉えればかかる言葉と言葉の組み合わせの全体的な関係が見えてくるのではないでしょうか。 私の解釈では「補完」とは、おたがいにおぎないあって、依存しあうといった意味で、それ以上の意味はないと思います。 ★ 自分とその自分が存在している宇宙という環境、舞台、その2項が世界のすべてだ、ということは可能でしょう。いたってまっとうな考え方だと思います。 ☆ つまりそうだとしても この二つの事項が《補完》の関係にあるとは何を言うのか? これが分からないのです。 ★ 自分がなければ、そもそも宇宙なんて存在しないんだし、 ☆ これは 一面の真実です そう、そうなんです。それ以上の意味はありません。それだけでおわり、ぷっつんです。これ以外のことを考えるのは、”この際”無用だということです。 × >が もう一面としては 《自分がなくても 宇宙は存在する〔かも知れない〕》のではないでしょうか。 もう一方の解釈ですが、 そこで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2)>>貴方にとっては”宇宙は自分の補完”に過ぎないのではないか? 自分に対置する環境すべてを自身の投影としか見ていない、それが自身の限界なのではないのか という皮肉のようなコメント。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《補完》って そういう意味ですか? 仰るとおり、前記 1)の項と、この 2)での ”補完”とは意味というか観点が違います。この場合 A+B が本当の自分であるとおいて、A:仮りの自分、B:宇宙 になるわけです。つまり自分を宇宙と同格に置くということですね。お互いに補完の関係にあることは 1)と同じですが。 >《自身の投影》は 自分の関係のないものごとに対しても出来るように思うのですが そう考えてもまちがいではありませんが、この際は(無意識に、錯覚して、と考えてもいいですが)自分を宇宙とみなしてしまっているということです。宇宙、あるいは 神 と言い換えてもいいかもしれません。いや、またややこしくなるかな--。 ご参考まで。
お礼
★ この際は(無意識に、錯覚して、と考えてもいいですが)自分を宇宙とみなしてしまっているということです。宇宙、あるいは 神 と言い換えてもいいかもしれません。いや、またややこしくなるかな--。 ☆ 残念ながら こうなりました。 お早うございます。ご回答をありがとうございます。 まづ No.10のお礼欄に辞書の定義を載せています。 ▼ (そうほ-せい 【相補性】)~~~~~ (三省堂「大辞林 第二版」より) (1)ボーアが量子力学の解釈のために導入した概念。 例えば量子力学では、粒子の位置と運動量は、不確定性原理から同時に精密に測定することができず、また物質は粒子性と波動性の二重性をもつなど、古典物理学では解釈できない互いに排他的な概念をもつ。 しかし、位置と運動量や粒子と波の概念は互いに補完的で、両者があいまって完全な記述になる。このような性質を相補性という。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから ○ 《わたし》と宇宙(あるいは分かりやすく 自然環界および第二の自然としての社会)とが互いに《補完的》であるというのは なんとなく分かりますが ではその《わたしと宇宙》は 物質の二重性としての《粒子性と波動性》との関係にたとえられるものか。 ☆ というところが問われるのではないでしょうか? 少なくともわたしには それほどかんたんな事態ではないように思われます。 光が粒子であるとともに波であるという場合 それはいづれにしても《光》であるという見方も成り立っているわけですよね。 それでは ○ 《わたしと宇宙》とは 互いに違った現われ方をしているけれども いづれにしても《それらをまとめたひとつの何らかの存在》であるという見方が成り立つのか? ☆ こういう問いになりませんか。 わたしの物言いは たとえそういう見方が――たとえば あたかも梵我一如として――成り立つとしても ことさらそんなことを言う必要はないであろうというものです。 いえ というよりは 梵我一如は 神(梵=ブラフマン)とわたし(我=アートマン)との一体であるのですから 経験世界としての宇宙とわたしとの補完関係あるいは一体性のことではありません。つまり 神(梵)は 明らかに非経験の領域です。それなら――つまり そういう言いかえにも触れておられますが それならまだ―― 一体性にかんしてなら分かります。つまり 神の側からのわたしの包みこみなら 分かります。わたしが神を包み込むことは 無理ですが。 けれども《補完性あるいは相補性》というのは ひとつにわたしと相手とが互いにあたかも対等であることが前提とされているようですし もうひとつにその対等でありながら互いに相手に依存しているということのようです。超経験の神が 経験存在であるわたしに依存しているなどということはあり得ません。定義においてあり得ません。あったら それは神ではありません。ただの想像力の産物(つまり 偶像)としての神でしかありません。 ☆☆ つまりそうだとしても この二つの事項が《補完》の関係にあるとは何を言うのか? これが分からないのです。 ☆☆ > なのに その物質についての事態を言い表わす《補完》を 《人間と宇宙との関係》に当てはめているのですよね。そこのところが分かりにくいです。 ☆ と繰り返さざるを得ないはめに落ち入ります。 つまりなぜ《補完》という言葉を用いなければならないのか これに尽きます。納得行きません。どうでしょう?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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eternal とは、絶対とは。 所詮はどうしても抽象的であらざるをえない。これについてどう手掛かりをもてるか。 というご質問として理解しました。 それで私なりの内心のことを打ち明けました。少しでもお役に立つだろうかと存じまして。 抽象的なものは言語的にも具象性が確保しにくい。 最後はsimplicityな自己の心性の涵養に行き着くかと存じます。 バベルで人々が人間の知識や論理で天に届こうとしたが、無理であった。 天界というところから、複数のアプリオリ・カテを引き寄せ、言語的知の中でさ迷うことになった。 うすっぺらとは! 私達には重要な事柄ですが。 bragelonne さんともあろう方が、人が大切にしていることに対して。
お礼
★ bragelonne さんともあろう方が ☆ という表現にふさわしい扱いをわたしは受けて来ていない。いまさら言葉だけで従えさせようとしても。 というようなひとの扱いをしているその基礎となる思想が うすっぺらでないわけがない。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonneさん このご質問に多少関連することに敷衍しながら、回答いたしました。 http://okwave.jp/qa/q6177884.htmlというご質問です。 深い意味のご質問に尊敬と感謝をしながら引用し、ご認識を少しでもご改善賜ればありがたいのですが。 以下引用文です(回答番号:No.27): 私には深遠なヒンドウ思想の一端も発言する資質も資格もないのですが、私達のSelf-Realization Fellowshipでは物と人間との一貫性を教えます。 ある意識が観念してvibrateとして一定の世界を為した。 その観念は高次のvibrationから低いvibrationへと下降していった。 一番低いvibrationの代表が物質というものだ。 そして此の世界はこの物質vibrationの為す形象のなかに一定の意識を住まわせていった。 物質である意識から植物、動物、人間、そして解脱の聖者、更に創造の意識界。 というわけで全ては創造の意識の中の存在であり、その境界は滑らかなgradualである。 全ては聖なる存在である。聖なる意識と観念の作品である。 ということで、物質と連関していても恐れることも、失望することも必要がない。 むしろ森羅万象に聖性を感とる自己の上昇向上こそが考えなさい。 全てはeternal-bliss eternal-being eternal-consciousnessである。 そういう自己と自己の世界となりなさい。 というのです。
お礼
1. 《押しつけ》の前振れとしては軽く 意見の交換 があります。 2. これがだんだん 思想じたいの交換にすすみます。思想(生活態度)を取り換えようという発動機が回り始めるという意味です。 3. やがて人格の交換に移ろうとします。人格を取り換えようと言うのです。 4. むろんそのときにも 相手つまりわたしが ご自分の人格――原始心性――を着るようになればそれでいいわけで ご自分はいっさいそういうこと(相手つまりわたしの人格を着ること)をするつもりはありません。まんまとだませればいいというものです。 5. その手法は 数と脅しです。 6. たとえば ★ 物と人間との一貫性を教えます。 ☆ そんなうすっぺらな思想に乗るわけがない。 7. 《 eternal 》と言っているではないか。毛唐のことばが多すぎる。荘厳華麗は好かんと言ったのはどこのどいつだ。 ★ ご認識を少しでもご改善賜ればありがたいのですが。 ☆ とはわたしは言いません。無理でしょう。
すみません。思考が進んでいる中でなくもがなです。例によって単純化志向で、そんなことわかってるわいとか、また逆にかえって混乱させてしまうかもですが。 >>宇宙は自分の補完です 私なりに解釈してみますと、大きく2通りの考え方があるように思います。 1)自分があって、宇宙がある。それではじめて世界は全きものとして存在しうる。 確かにこれはひとつの真実だと思います。自分がなければ、そもそも宇宙なんて存在しないんだし、自分とその自分が存在している宇宙という環境、舞台、その2項が世界のすべてだ、ということは可能でしょう。いたってまっとうな考え方だと思います。 2)>>貴方にとっては”宇宙は自分の補完”に過ぎないのではないか? 自分に対置する環境すべてを自身の投影としか見ていない、それが自身の限界なのではないのか という皮肉のようなコメント。ある意味 1)とは正反対の見方ですが、あるいはこういう解釈も可能か、と思って書き出してみました。 ご参考になれば。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 いやあ 全体として言って 分かりません。 ○ 補完 / 相補性 ☆ この用語についてわたしが分かっていないのかも知れません。ただ問題は そのような概念は 物質について言っているものと思うのです。人間は物質から成り立っていますが 物質そのものあるいは物質のみでもないと考えます。 なのに その物質についての事態を言い表わす《補完》を 《人間と宇宙との関係》に当てはめているのですよね。そこのところが分かりにくいです。 ★ 自分とその自分が存在している宇宙という環境、舞台、その2項が世界のすべてだ、ということは可能でしょう。いたってまっとうな考え方だと思います。 ☆ つまりそうだとしても この二つの事項が《補完》の関係にあるとは何を言うのか? これが分からないのです。 ★ 自分がなければ、そもそも宇宙なんて存在しないんだし、 ☆ これは 一面の真実ですが もう一面としては 《自分がなくても 宇宙は存在する〔かも知れない〕》のではないでしょうか。 そこで ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2)>>貴方にとっては”宇宙は自分の補完”に過ぎないのではないか? 自分に対置する環境すべてを自身の投影としか見ていない、それが自身の限界なのではないのか という皮肉のようなコメント。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《補完》って そういう意味ですか? 何だか違うような。《自身の投影》は 自分の関係のないものごとに対しても出来るように思うのですが どうでしょう? ぶっきらぼうですが。
お礼
そうですね。――あっ ふたたび1212さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。―― まづ ( a ) 人間が 一方で人間も質料(物質)から成る存在でありますし 他方で自然環界やあるいは第二の自然としての社会環境の中に生きている存在でもある。 ☆ ことに間違いはないですね。そうなのですが そのときわざわざ《宇宙が一人ひとりの人間を補完する》ということを言うのは なぜか? こういう疑問が発端でした。 そして同じくまづ その《補完》の意味をわたしは限定してはいません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ bragelonneさんの仰る補完は 絶対に物質を対象にしなければいけない言葉だと認識されてるようですが、 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえいえ そうではなく 《相補性》という意味で捉えよという回答に接して それなら自然科学の説く物質の問題なのですね?と問い返しているだけです。 ところが おっしゃるには ★ ~~~~~~~~~~~~~ 補完とは補って完全にするという意味で それ以外に何も意味はないと思いますので ★ ~~~~~~~~~~~~~ 自分は物語の主人公で、 宇宙はその主人公を引き立たせている脇役 と思えばわかりやすいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なんですね? そしてさらにそう言うのもわけがあって ★ ~~~~~~~~~~~~ しかもここの意味での補完は人間を完全(絶対的)に近づけるという意味 であることから、一般論である宇宙自体が絶対的なものであることの 対比要素としてうまく働く言葉だと考えることも可能かと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて どうしたものでしょう。 (1) 初めに述べた( a )の内容において 《人間》の主体性を取り立て さらには宇宙における主役として扱えという解釈事項については どうか。 (2) その必要があるとすれば 指摘されているように《宇宙が絶対的な存在として 人間に迫りくる》というのは ほんとうの現実ではないだろうという判断からのようです。 (3) どうでしょう? そんな一般論がありますか? でもあるとして 《モノ(質料・いわゆる物質)は人間の手に負えない》というのも 一面の真理ですよね。モノの自己運動に沿ってしか 人間はモノを扱い得ません。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというかのように じんるいはへりくだってモノとしての世界における事実を大切にし 曲りなりにも自然の科学を拓いて来ましたね。 (4) どうでしょう? 人間は宇宙のなかにあって もう主役になっているのぢゃありませんか? ☆ こう言うと元も子もなくなるかも知れませんが でも話は おっしゃるようなことなのであって 問題はなぜわざわざそういう表現をする命題を出して来るのか でした。 おかしいですよね? ひょっとすると 《もっとぼくにスポットライトを当ててくれぇーっ!》という叫びだったんでしょうか? でもそれにしても 何とも幼稚ですね。 いやぁ アゲンさんのお話はようく承りますし 承っておくことのできる内容なのですが はてさてでは どういう心づもりがその発言者の中にあったのかとなると これまた 推測の域を出ないということになってしまいます。 * ひょっとすると 自然科学の説く理論としてもっと中身のある話であるかも知れないのです。じつは です。でもわたしには それを見渡す知識の蓄積がないのです。といったことにも触れつつ。