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《宇宙は自分の補完です》とは どういう意味でしょう?
《宇宙は自分の補完です》とは どういう意味でしょう? 果たして意味があるのですか? 回答としてもらった内容なのですが 質問者として軽くあしらったために 補足要求に応じてもらえなかったところの文章です。
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自分は物語の主人公で、 宇宙はその主人公を引き立たせている脇役 と思えばわかりやすいと思います。 脇役は主人公の補完です。 なぜなら物語は主人公だけでは面白くないからです。 絶対に脇役が必要です。 そういった意味での補完なのだと思います。 だからここでは「互いに補い合う」、 というよりは「脇役が主人公を補う」のです。 あくまで物語は主人公にスポットライトがあてられているのです。 これと同じように、 「宇宙は自分の補完です」は 自分をスポットライトにあてているのです。 物語では主人公が主役とはじめから分かりきっていますが、 宇宙は人間を越えた絶対的存在だと一般的にはみなされます。 それに対して、「いやいや、私の人生にとっては私こそが主役だ」 と主張する必要性が現れてもおかしくありません。 ただ自分の人生を生きるためには宇宙が必要なのだと。 宇宙がなけりゃ地球も存在せず人間生きていけませんからね。 そういった点で宇宙が自分を補完してくれている、 要するに自分の人生の脇役を務めているいうことです。 宇宙を人間の上におく考えをやめて、 下におく考え方なのだと私は推測します。 また、お礼の欄をみましたが、bragelonneさんの仰る補完は 絶対に物質を対象にしなければいけない言葉だと認識されてるようですが、 そうとは限らないです。 補完とは補って完全にするという意味で それ以外に何も意味はないと思いますので。 しかもここの意味での補完は人間を完全(絶対的)に近づけるという意味 であることから、一般論である宇宙自体が絶対的なものであることの 対比要素としてうまく働く言葉だと考えることも可能かと思います。
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- sheep67
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お礼が変なのですが、どういう意味でしょうか・・・
宇宙を絶対的全体、つまりすべての場所=宇宙ととらえるか、それとも自我の観測対象の総体ととらえるかによって事情が変わってきそうですね。私は前者の立場ですが、後者の場合でも総体そのものは観測対象ではないという欠点がありますね。
お礼
エンテレケイアさん ご回答をありがとうございます。 ううーん。少しわかりづらいですね わたしには。 ★( a ) 宇宙を絶対的全体、つまりすべての場所=宇宙ととらえる ☆ これはおそらく無神論の立ち場からの 経験世界の捉え方なのでしょう。《宇宙》を超えたところについては そう言ったあとでは(つまり《超えたところ》と想定したあとでは) もう触れないという立ち場であり そういう世界観であるのではないかと。 ★( b ) 宇宙を自我の観測対象の総体ととらえる ☆ これは 分かりづらいですね。上の( a )の場合について そこからさらに認識の主体を《自我》に限るというかたちを採ることなのでしょうか? それほど変わらないはずですが 人間主義とでも呼ぶ性格もしくは特徴を帯びると言うべきでしょうか。 ただし 次のようにも触れていますね。 ★ 後者(= b )の場合でも総体そのものは観測対象ではないという欠点がありますね。 ☆ ううーん。ということは むしろ《宇宙》は 誰かの《自我》と相同だということなのでしょうか? 《自我》という観測の主体は 観測の対象としての《宇宙》であり じつはその宇宙の総体そのものであると。 ううーん。何だかまだ分からないですね。捉えがたいですね。どうなんでしょう。
- sheep67
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こんにちは。 >宇宙の中に 自分がなぜ含まれませんか? もちろん含まれます。いわれるとおり当然です。 >なぜ自分だけを 宇宙の外に位置づけるのでしょう? 外になど位置づけておりません。そんな奇妙なことはしていません。 お礼を読んでて気付いたことがあります。 それは、宇宙の内と外か? という視点を基準にされてますが、 相補性を唱える人は、自分と宇宙は同じか?違うか? という視点だと言えます。 その自分と宇宙を測る物差しの違いは何かと考えたんですが、 認識と把握の違い? だろうと思います。 つまり言われるとおり、 認識能力を使えば、宇宙の中に自分がいる、という構図は当然だし、 把握能力を使えば、自分と宇宙は別物である、というのも当然です。 つまり主張の違いは、この2つの人の持つ能力の違いに由来すると思います。 能力or性格の違いが見方の違いを生み、概念や世界観、信仰の違いにまで達すると見ています。 ーーー 把握と認識の、僕なりの定義については、 認識=認知。あるがままを認めること。受容すること。すべてを公平に見て取る能力。 把握=人格の性質に由来。一個一個の要素を最大限に理解すること。捉えること。手中に収めること。 と勝手に定義してるところのものです。 生まれつき、認識の得意な人、把握の得意な人がいる、と思っています。
お礼
( A )★ ~~~~~~~~~~~~~~~ >なぜ自分だけを 宇宙の外に位置づけるのでしょう? 外になど位置づけておりません。そんな奇妙なことはしていません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ( B )★ 把握能力を使えば、自分と宇宙は別物である、というのも当然です。
- sheep67
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そちらで疑問点をうまくまとめてもらってるので、つづきを >ただし そこには《自分》も含まれている。 これはなぜ自分が含まれますか? これが説明可能であれば、それを元に、こちらも説明しやすいですが。
お礼
問い求めがつづきます。 ○ 宇宙の中に 自分がなぜ含まれませんか? ○ なぜ自分だけを 宇宙の外に位置づけるのでしょう? という返答になるのは とうぜんでしょう。自分は宇宙の中にいるのだから。
- sheep67
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こんばんは。 論理的な流れや、やりとりでの心情を検討したんですが、 ひとつ気付いたことがあります。 それは、ブラジェロンさんが、本気で補完や相補性を理解しようという気がないと思います。 むしろ否定されてる。お題とは正反対に。 議論の噛み合いの悪さは、それが原因と思います。 ブラジェロンさんが、何が何でも知りたい、命を賭けても自分の価値観をすべてなげうっても補完の意味を絶対に知りたい、という気持ちになったら、また質問してください。 いろいろ理屈をこねましたが、他者の言葉や価値観、世界観を理解するには、それが一番です。 理屈で押すことは止めます。 僕も論理に執着するあまり、全体が見えてませんでした。 いろいろ勉強になりました。 ではー。
お礼
理解するためには 分からないところを訊かずばなるまい。 訊いたところについて答えられなかったからと言って 逆切れされてもなぁ。
補足
☆☆ (No.26お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ ★ 宇宙:自分以外の全てを意味する。 ☆ これについて質問者は ちがった見方をしていますということをお伝えいたします。 ○ 宇宙:一般には自然環界および第二の自然としての社会(むろん 人間関係のことであり ほかの人びとのことです)。――ただし そこには《自分》も含まれている。 ☆ これを少々無理にでも言いかえるなら ○ 《わたし》は宇宙の一部であるが 《宇宙》をあたかも宿している。 ☆ なら どないしたら ▼ 宇宙は自分の補完です。 ☆ ということになるねん? なぜわざわざそう言わねばならないのか? という見方を持っていますので まだ回答者さまがたのご見解には 説得されないでおります。そこのところを受けとめてもらって さらにおぎなった説明をいただけるならさいわい至極に存じますが いかがでしょう? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- ukiyotonbo
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>ははっ。怒ってらあ。 >赤い血が流れていると見える。 bragelonne は、さぞ、楽しかろう。恍惚と至福。 人を怒らせ、赤い血を流させて、 ははっ と笑う。 bragelonne の世界では、私の怒りと私の赤い血がはっきりと見えている。 それこそがbragelonne世界。めくるめく加虐と倒錯。 人間とは呼べないなどと自ら言い放ったのは、なんのことはない、そのbragelonne世界のことじゃよ。 bragelonne世界の主たるbragelonneにはわからんだろうな。
お礼
浮世とんぼさん ご回答をありがとうございます。 あぁ よかった。よかった。魂が去勢されていなかった。(へへっ。どこまでも 上から目線ぢゃわい)。 直前のマサさんとのやり取りを読んでつかあさい。 * ただし M にはなるなよ。 * あとで見なおします。
補足
おぎないます。 ★ bragelonne は、さぞ、楽しかろう。恍惚と至福。 ☆ 《恍惚と至福》とまでは行かない。もっと大物に対してひと泡吹かせたのなら 少しはそれらに近づくかも分からないが 蝉や蜻蛉ぢゃあねぇ。 ★ 人を怒らせ、赤い血を流させて、 ははっ と笑う。 ☆ 《赤い血が流れていると見える》と言ったまで。《赤い血を流させて》とすり替えるのは やはり小物の証拠だなあや。 あとはもういいだろう。 安寧のミサイルが的を外さず 胸板に着いただろうか? 何でも 一歩一歩だよ~~~ん。わたしはそれだけの道のりを歩いて来たのだから。 そう言わないよりは 言って明らかにしたほうが 若い人たちのためになるとおもうんだけれど。 昔は 小野道風(みちかぜ・とうふう)の故事をしきりに聞かされたものだけれど。あぁ こっちは蛙だったか。
- masa2211
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誰も、露骨に書かないなあ。書いたら消される可能性あり。でも、あえて書きます。 一般論の場合 >そもそも《宇宙は自分の補完です》を 相補性の理論で解釈する 私なら、相補性を使う気はありません。 補完の意味:広辞苑によると、「足りないところをおぎなって完全にすること。」 (互いに補うとは書いてない。相補でなく片側通行でもこの条件を満たす。) で、 自分:人類を意味しない。個人を意味する。 宇宙:自分以外の全てを意味する。 であるので、 ・個人はそれだけでは完全ではない。 という意味は確定。 宇宙は? 個人が滅亡しても宇宙が存続するなら宇宙単独で完全なので相補の関係ではなく片側通行。 個人が滅亡した時点で宇宙の存続が停止するなら、相補の関係。 哲学的には両方アリですが、言った本人がどちらの立場なのかは、前後関係、あるいは 言った本人の言動を知らない限りわかりません。 なのに、相補性だと決め付けて議論しているのはなぜ? 元記事が判っていて、それをとぼけているから? そりゃあ、bragelonneさんは、誰が、どういうシチュエーションで発言したかは知っている だろうけど、それを明らかにしていないから、回答者はどっちの立場か仮定しての回答にならざるをえないのだけど。 まあ、どっちの立場でも共通な意味づけとして、 「人は、一人では生きていけない」 くらいに解釈します。 ※これは、必ずしも、相補性を必要としていません。片側通行(宇宙はそれ単独で完全)でもokです。 前後条件ありの場合 次に、どういう状況であの発言があったかを見るという反則技を使うと..... ああ、そういう状況なのか。 (リンク張るのは反則だろうから張りません。とうに皆にバレてるだろうけど。) 当該発言に続いてこうなっています。 >よって、ご自身こそ、変容されることをお勧めいたします。 前後関係まで含むと事態は明白ではないか。ただし、当該文の解釈は2とおり考えられます。 どちらの解釈でも、結論を露骨に書くと、 ・「自分の心情を押しつけることしかしないひと」に当てはまる典型的人物はbragelonneであると私は思う。 というのを婉曲に表現した。 あのシチュエーションではそうなるがな。 ※私も、その結論に賛成票を入れる。というか、大多数の人は賛成票だと思う。 解釈その1 宇宙:自分以外の全てを意味する という見方そのものがオカシイとクレームを入れた。 人間各人は、それぞれ独自の考えで独自の行動をしている という見方を否定し、自分とその他にしか分けていないということだがら自己中心的な見方だもんなあ。 解釈その2 皮肉を言った。 bragelonneさんの質問は、結局は、「自分の○○という意見は正しいか」という形であり、 「間違い」という回答に対し、「いや、私はこう思う」 え?こう思う? それじゃあ、回答者が「私と価値観が違う」といえば平行線となり議論終わりじゃんか。 どうせ反論するなら「○○のところがよくわからない」「その考えだとこういう矛盾があるが、どう解釈するか」 なら、意味わかりますが、そうではなくてただ単に自分の考えを述べているのがてんこ盛り。 なので、 ・bragelonneは自分の考えが常に正しいと思っている。他人の考えは受け付けない。 という見方ができる。 よって、宇宙を自分の補完とする必要性を感じていない。それではいけない、宇宙は自分の補完なので、もっと他人の考えは受け付ろ、と発言した。
お礼
あははっ。もうひとつおまけに あははっ。 たのしいですね まささん。ご回答をありがとうございます。空港の交通整理管制官みたいなものですかね。 じつはこのあと三時か四時ころまで野暮用があります。取り急ぎのお応えです。 ★ 宇宙:自分以外の全てを意味する。 ☆ これについて質問者は ちがった見方をしていますということをお伝えいたします。 ○ 宇宙:一般には自然環界および第二の自然としての社会(むろん 人間関係のことであり ほかの人びとのことです)。――ただし そこには《自分》も含まれている。 ☆ これを少々無理にでも言いかえるなら ○ 《わたし》は宇宙の一部であるが 《宇宙》をあたかも宿している。 ☆ なら どないしたら ▼ 宇宙は自分の補完です。 ☆ ということになるねん? なぜわざわざそう言わねばならないのか? という見方を持っていますので まだ回答者さまがたのご見解には 説得されないでおります。そこのところを受けとめてもらって さらにおぎなった説明をいただけるならさいわい至極に存じますが いかがでしょう? おぎなって欲しいところは 次でもあります。 ★ 自分:人類を意味しない。個人を意味する。 ☆ 人類をも個人をも同時に意味するのではないか? したがって ★ ・bragelonneは自分の考えが常に正しいと思っている。他人の考えは受け付けない。 ☆ については こうなります。 ○ ブラジュロンヌは 自分の考えが これまでしかるべき時間をかけて考えて来た主題とその扱い方としてのひとまづの結論についてなら 《つねに》とは行かないが 妥当であると思っている。 ○ ただしこれを見直す必要がある。特に 世間一般の考えと違っている場合には しっかりと考え直さねばならない。 ○ よってほかの人たちの考えを 特に批判を 聞きたい。説得されなければ その疑問点を明らかにして反批判をおこなう。 ○ ブラジュロンヌが妥当だと思っている自分の考えは したがって普遍性を持つと自負している。言いかえると 人びとにとってブラジュロンヌの考えは 《他人の考え》だとは思っていない。みんなの考えつまり 共同主観(コモンセンス)だと思っている。 ○ 常識なら 押しつけにはならない。ただふるいものとあたらしいものとがあり いわゆる過渡期であるなら だいたいにおいて ふたつのあいだにあらそいが繰り広げられる。 あとで見なおします。よろしく。
補足
おぎないます。 ただし次の点を添えれば お礼欄に述べたところで足りるのではないかと考えますが どうでしょう? ☆☆ 【Q:ひとは だれから おそわるか】 ~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html 次の命題を検証するのをたすけてくださいというのが 質問趣旨です。 【命題】:おしえる者は ほんとうには ただ記号(つまり通常は ことば)を伝えるだけである。 これを受け取って おそわる者は 自分の記憶野に尋ね 知解し 当否を判断する。 ゆえに 単なる知識や情報のやり取りでないなら ひとは だれからも おそわることはない。自分で能力を開くのである。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《心情》にしたところで 自己表現するところまでは表現の自由に従います。まして情報や理論や見解・主張にかんしてなら すべて基本的に表現の自由に従うのは あたりまえです。 さらにどうも勘違いがあると思われるのは 《ひと(他人)におそわるのは みっともない。恥だ》といったみみっちい考え方ではないでしょうか。 ○ ひとは 他人からおそわることはない。他人から得た情報をとおして 自分からおそわるのだ。自分で自分におしえるのだ。 ☆ こうなります。だから 妥当な考えに就けばよいのです。面子など心配しなくてよいものを。
- sheep67
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つづきです >初めっからまだ何も明らかにしていなかったということになるぢゃないですか。 ここまで議論して初めてそれが見えたのだから仕方ありませんね。 >《思考停止》は 神の領域にかかわるものとなるとでも言うのでしょうか? 早急な結論です。 非経験=神の領域、とは言えるかどうかわかりませんね。 またたかが寝る瞬間にいちいち神にあるとは思えないですが、非経験には変わりありません。 >二重性は 人間の性格が生みだしたのですか 人の脳は、完全性全体の、部分部分を、分担してる、と言うと思います。 もっとも3人寄れば文殊の知恵になるのかどうかわかりませんが。 性格が生み出すというのは、人によって守備範囲が違う、つまり性格が違う、と言う意味です。 性格が違えば、神から与えられるものも違います。 >非思考の場は 非経験の領域という前提に立ってその神とわたしとの対面として成り立ちます おかしいですね。 非思考の場だから、神とわたしの体面だ、とは限りません。勘違いされてます。 と言うか分からない、と言う方が正確です。憶測はできますが。 >思考停止は その非思考の場だということになりますか? それこそ主観がすでにはたらかなくなっているのですから 非思考の場じたいが成り立たなくなっています 何度も言いますが、意志による物ではないことはわかってもらえてますね? 受動的であるから、それは、主観でも客観でもありません。と言うより分からないのですから。 非思考の場、という言葉の定義は微妙ですが、 ブラジェロンさんは、主観で成り立つ場だといいたそうですが、それはおかしいです。 非思考の場、ですよ? 主観も客観もありませんし。
お礼
死は 非経験ではなく 未体験という内容の経験行為に大きくは属します。
- sheep67
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まとめちゃうと、 意味の分からない言葉を理解するには、相手の世界観、相手の宇宙を理解しないとまず無理です。 言葉は、少なくとも相補性という言葉は、その世界観の結晶として象徴として、代表?として生まれてるからです。 だからこそ直で論理表現は無理ですし、象徴化されるときに、極限なり無限なりを通過してるので。 言葉や意味は皆ある種の象徴であり、事実現実がそのまま言葉になってるわけはないこと、を認められるなら、理解不能な言葉を理解するには、それを生み出した世界観を身を以て知ることが大事だ、と言うことになります。 一番枝葉になる言語の定義の違いから、その人の基本的な世界観を作る直観の違いに遡及し、その視点を基礎にして見ることで、相補性はずいぶん説明しやすくなります。 大変な手間になりますが。 でも、大体言いたいことが言えたような気がしますー。
- sheep67
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>死によって思考が停止したことを考えてみてください。それも 経験事象に属すのです。 客観的、観測経験としてはそうですが、主体的主観的にはそれはあり得ません。寝る瞬間にしても、主観的経験として、覚えている人間はいませんし。 話の前提の問題ですね。 前にちょっと書きましたが、この辺りの、ブラジェロンさんがいらっとされてる言葉の定義、それを生み出す人の性格の違い、人が議論をするさいに使われる前提について話したいのであり、それがひいては相補性の理解に繋がる、と思います。 つまり相補性を生み出した人間の性格にまで遡及しないと、おそらくはわかってもらえないと思います。 ですが、・・どうしましょう・・
お礼
★ ~~~~~~~~~~~~~~ >死によって思考が停止したことを考えてみてください。それも 経験事象に属すのです。 客観的、観測経験としてはそうですが、主体的主観的にはそれはあり得ません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まづわたしのこの物言いは 《思考停止》は 神の領域と何らかかわらないもので 経験世界に属するということを言うために 例として挙げたものです。そのことをよく受けとめてください。 もし仮りに ★ 客観的、観測経験としてはそうですが、主体的主観的にはそれはあり得ません。 ☆ が正しければ 《思考停止》は 神の領域にかかわるものとなるとでも言うのでしょうか? いま何を論じているか。そのとき何が 論点であるか。これをしっかりと捉えて 問い求めをすすめるようにしてください。 話がかみ合わなければ やり取りの意味がなくなります。 ★ つまり相補性を生み出した人間の性格にまで遡及しないと、おそらくはわかってもらえないと思います。 ☆ ぢゃあ そんな段階だというのなら 初めっからまだ何も明らかにしていなかったということになるぢゃないですか。 ★ つまり相補性を生み出した人間の性格 ☆ えっ? 何ですって? 相補性を人間の性格が生みだしたのですか? 光の粒子性と波動性といった二重性は 人間の性格が生みだしたのですか? ○ ひとの死を外から経験することはあっても 自分の死を経験する者はいない。だとすれば 死は主体的主観的には 《非経験》だからというので神の領域に属することだと言うのでしょうか? ○ つまりだから 死にともなう或る種の仕方での思考停止は わたしと神との非思考の場と同じことになるとでも言うのでしょうか? ○ 非思考の場は 非経験の領域という前提に立ってその神とわたしとの対面として成り立ちます。死によるあるいは生きているときにおける思考停止は その非思考の場だということになりますか? それこそ主観がすでにはたらかなくなっているのですから 非思考の場じたいが成り立たなくなっています。 まちがいはまちがいだと認めるところから 話がゆたかなものになります。 あやまつなら わたしはある。
お礼
そうですね。――あっ ふたたび1212さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。―― まづ ( a ) 人間が 一方で人間も質料(物質)から成る存在でありますし 他方で自然環界やあるいは第二の自然としての社会環境の中に生きている存在でもある。 ☆ ことに間違いはないですね。そうなのですが そのときわざわざ《宇宙が一人ひとりの人間を補完する》ということを言うのは なぜか? こういう疑問が発端でした。 そして同じくまづ その《補完》の意味をわたしは限定してはいません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ bragelonneさんの仰る補完は 絶対に物質を対象にしなければいけない言葉だと認識されてるようですが、 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いえいえ そうではなく 《相補性》という意味で捉えよという回答に接して それなら自然科学の説く物質の問題なのですね?と問い返しているだけです。 ところが おっしゃるには ★ ~~~~~~~~~~~~~ 補完とは補って完全にするという意味で それ以外に何も意味はないと思いますので ★ ~~~~~~~~~~~~~ 自分は物語の主人公で、 宇宙はその主人公を引き立たせている脇役 と思えばわかりやすいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なんですね? そしてさらにそう言うのもわけがあって ★ ~~~~~~~~~~~~ しかもここの意味での補完は人間を完全(絶対的)に近づけるという意味 であることから、一般論である宇宙自体が絶対的なものであることの 対比要素としてうまく働く言葉だと考えることも可能かと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ さて どうしたものでしょう。 (1) 初めに述べた( a )の内容において 《人間》の主体性を取り立て さらには宇宙における主役として扱えという解釈事項については どうか。 (2) その必要があるとすれば 指摘されているように《宇宙が絶対的な存在として 人間に迫りくる》というのは ほんとうの現実ではないだろうという判断からのようです。 (3) どうでしょう? そんな一般論がありますか? でもあるとして 《モノ(質料・いわゆる物質)は人間の手に負えない》というのも 一面の真理ですよね。モノの自己運動に沿ってしか 人間はモノを扱い得ません。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというかのように じんるいはへりくだってモノとしての世界における事実を大切にし 曲りなりにも自然の科学を拓いて来ましたね。 (4) どうでしょう? 人間は宇宙のなかにあって もう主役になっているのぢゃありませんか? ☆ こう言うと元も子もなくなるかも知れませんが でも話は おっしゃるようなことなのであって 問題はなぜわざわざそういう表現をする命題を出して来るのか でした。 おかしいですよね? ひょっとすると 《もっとぼくにスポットライトを当ててくれぇーっ!》という叫びだったんでしょうか? でもそれにしても 何とも幼稚ですね。 いやぁ アゲンさんのお話はようく承りますし 承っておくことのできる内容なのですが はてさてでは どういう心づもりがその発言者の中にあったのかとなると これまた 推測の域を出ないということになってしまいます。 * ひょっとすると 自然科学の説く理論としてもっと中身のある話であるかも知れないのです。じつは です。でもわたしには それを見渡す知識の蓄積がないのです。といったことにも触れつつ。