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《宇宙は自分の補完です》とは どういう意味でしょう?

《宇宙は自分の補完です》とは どういう意味でしょう?  果たして意味があるのですか?  回答としてもらった内容なのですが 質問者として軽くあしらったために 補足要求に応じてもらえなかったところの文章です。

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  • again1212
  • ベストアンサー率35% (30/84)
回答No.19

自分は物語の主人公で、 宇宙はその主人公を引き立たせている脇役 と思えばわかりやすいと思います。 脇役は主人公の補完です。 なぜなら物語は主人公だけでは面白くないからです。 絶対に脇役が必要です。 そういった意味での補完なのだと思います。 だからここでは「互いに補い合う」、 というよりは「脇役が主人公を補う」のです。 あくまで物語は主人公にスポットライトがあてられているのです。 これと同じように、 「宇宙は自分の補完です」は 自分をスポットライトにあてているのです。 物語では主人公が主役とはじめから分かりきっていますが、 宇宙は人間を越えた絶対的存在だと一般的にはみなされます。 それに対して、「いやいや、私の人生にとっては私こそが主役だ」 と主張する必要性が現れてもおかしくありません。 ただ自分の人生を生きるためには宇宙が必要なのだと。 宇宙がなけりゃ地球も存在せず人間生きていけませんからね。 そういった点で宇宙が自分を補完してくれている、 要するに自分の人生の脇役を務めているいうことです。 宇宙を人間の上におく考えをやめて、 下におく考え方なのだと私は推測します。 また、お礼の欄をみましたが、bragelonneさんの仰る補完は 絶対に物質を対象にしなければいけない言葉だと認識されてるようですが、 そうとは限らないです。 補完とは補って完全にするという意味で それ以外に何も意味はないと思いますので。 しかもここの意味での補完は人間を完全(絶対的)に近づけるという意味 であることから、一般論である宇宙自体が絶対的なものであることの 対比要素としてうまく働く言葉だと考えることも可能かと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。――あっ ふたたび1212さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。――  まづ   ( a ) 人間が 一方で人間も質料(物質)から成る存在でありますし 他方で自然環界やあるいは第二の自然としての社会環境の中に生きている存在でもある。  ☆ ことに間違いはないですね。そうなのですが そのときわざわざ《宇宙が一人ひとりの人間を補完する》ということを言うのは なぜか? こういう疑問が発端でした。    そして同じくまづ その《補完》の意味をわたしは限定してはいません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  bragelonneさんの仰る補完は  絶対に物質を対象にしなければいけない言葉だと認識されてるようですが、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いえいえ そうではなく 《相補性》という意味で捉えよという回答に接して それなら自然科学の説く物質の問題なのですね?と問い返しているだけです。    ところが おっしゃるには  ★ ~~~~~~~~~~~~~  補完とは補って完全にするという意味で  それ以外に何も意味はないと思いますので  ★ ~~~~~~~~~~~~~  自分は物語の主人公で、  宇宙はその主人公を引き立たせている脇役  と思えばわかりやすいと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なんですね? そしてさらにそう言うのもわけがあって  ★ ~~~~~~~~~~~~  しかもここの意味での補完は人間を完全(絶対的)に近づけるという意味  であることから、一般論である宇宙自体が絶対的なものであることの  対比要素としてうまく働く言葉だと考えることも可能かと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さて どうしたものでしょう。  (1) 初めに述べた( a )の内容において 《人間》の主体性を取り立て さらには宇宙における主役として扱えという解釈事項については どうか。  (2) その必要があるとすれば 指摘されているように《宇宙が絶対的な存在として 人間に迫りくる》というのは ほんとうの現実ではないだろうという判断からのようです。  (3) どうでしょう? そんな一般論がありますか? でもあるとして 《モノ(質料・いわゆる物質)は人間の手に負えない》というのも 一面の真理ですよね。モノの自己運動に沿ってしか 人間はモノを扱い得ません。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれというかのように じんるいはへりくだってモノとしての世界における事実を大切にし 曲りなりにも自然の科学を拓いて来ましたね。  (4) どうでしょう? 人間は宇宙のなかにあって もう主役になっているのぢゃありませんか?  ☆ こう言うと元も子もなくなるかも知れませんが でも話は おっしゃるようなことなのであって 問題はなぜわざわざそういう表現をする命題を出して来るのか でした。  おかしいですよね? ひょっとすると 《もっとぼくにスポットライトを当ててくれぇーっ!》という叫びだったんでしょうか?   でもそれにしても 何とも幼稚ですね。  いやぁ アゲンさんのお話はようく承りますし 承っておくことのできる内容なのですが はてさてでは どういう心づもりがその発言者の中にあったのかとなると これまた 推測の域を出ないということになってしまいます。  * ひょっとすると 自然科学の説く理論としてもっと中身のある話であるかも知れないのです。じつは です。でもわたしには それを見渡す知識の蓄積がないのです。といったことにも触れつつ。

その他の回答 (41)

  • sheep67
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回答No.11

こんばんはー。 >宇宙と自分とは 取り立てて互いに《矛盾》していると見る必要もないと思うのですが? これは、ブラジェロンさんが、こういう視点に興味がないことを示してますね。ただそれだけじゃないかと。 僕は興味があるし、取り立ててみなくても良いけど、現に違うとも見えるし受け取れる以上、そう見ても構わないですよね? 性格の違いです。 >なぜそのことを特別に取り立てなくてはならないのか。 これも性格、興味対象の違いです。ブラジェロンさんは、社会や国やそういうのに関心を持ってるように見えますが、それ以外のことに関心のある人もいる、ということです。 またそのことを特別に取り立てないなら、科学が発達できないです。 >そもそも《社会をつくり 社会において 社会(共同自治)としてともに生きる》と取り決めたのだから あとでわざわざ《補完》だと言われても 話の筋が違うように思われる。 これも性格の違いです。 例えば、取り決める、もうちょっと抽象的に意志決定することは、個人がするのでしょうか? それはそうとも言えますが、そうではないとも言えます。 つまり状況が、そういう意志決定をするべき環境条件が整ってたから、主体的に意志決定したように見えて、実は環境によって受動的に意志決定させられた。つまり意志とは環境の産物である、という視点も論理的に正しいです。 こういうと、そんな見方になんの意味があるのか?と言われそうですが、そういう見方に関心のある人間が世の中には居て、そういう人たちが、ブラジェロンさんが多分あまり興味のない文化なり科学なりを作っています。 関心がないのなら、ほおっておけばどうでしょうか? それができないのであれば、未知のものに対する不安、というまた別の問題になりますし。 >わざわざ《相補性》と言わなければ 宇宙とわたしは 関係しないのですか? 言わなくてももちろん関係してます。 ただ、そこを明示化し、意識化し、論理的に構造をはっきりさせることは意義のあることだと思います。 もっともそういう科学や数学のたぐいの文化は、いつどんなことに役に立つのかわからないし、できた途端すぐに役に立つお手軽レシピじゃないけど、即効性のある物じゃないですが。でもその有効性は、論理学数学はじめ、もう証明済みだと思います。 ブラジェロンさんは、やはりそういう視点なり、他人の性格に興味がないように思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。辞書を調べてみました。  ▼ (そうほ-せい 【相補性】)~~~~~~~~~~~ (三省堂「大辞林 第二版」より)  http://jisyo.search.biglobe.ne.jp/cgi-bin/search_tab?ct=3&q=%C1%EA%CA%E4%C0%AD  (1)ボーアが量子力学の解釈のために導入した概念。例えば量子力学では、粒子の位置と運動量は、不確定性原理から同時に精密に測定することができず、また物質は粒子性と波動性の二重性をもつなど、古典物理学では解釈できない互いに排他的な概念をもつ。しかし、位置と運動量や粒子と波の概念は互いに補完的で、両者があいまって完全な記述になる。このような性質を相補性という。  (2)一つの細胞内に突然変異を起こした染色体が二対含まれるとき、各突然変異体の個々の作用以上の機能の促進や形質の発現がみられる現象。  (3)核酸塩基のアデニンとチミン(またはウラシル)、グアニンとシトシンの間にみられる特異的対合の関係。遺伝子の複製・転写・翻訳・組み換えなどはすべてこれに基づいて行われる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり こういう内容が どうして《宇宙と自分(つまり人間存在)》とのあいだで見られるというのか それが分からないのです。  人間は 量子そのものではないでしょう。  相補性と言わないほうが 自然本性においてひとは 世界や宇宙と親和性を持つと感じられるのではないですか?

回答No.10

bragelonne は人間じゃないだろ。 人の意見をおしつける人は人間とは呼べないといったのは、bragelonne 。 よくも、人の意見を余分だと切って捨てるもbragelonne 。

bragelonne
質問者

お礼

 ははっ。怒ってらあ。    赤い血が流れていると見える。

回答No.9

 #3のお礼のことばは、#3の回答投稿とはどのように関係があるのか、ご説明ください。

bragelonne
質問者

お礼

 No.4お礼欄をどうぞ。

回答No.8

 #3【お礼欄】  ★ 補完  ☆ はウソでしょう。ふさわしい言葉だとは思えません。  上記の意味が分りません。  ウソでしょう。ふさわしい言葉だとは思えません。ってどういう意味なんでしょうか?  何が何故何にふさわしくないのでしょうか?  私は#3で書いたように思っていますが。そのように実感もしていますが。  

bragelonne
質問者

お礼

 No.4お礼欄にて ちょうど触れていますので 参照願えればさいわい。

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.7

ごめんなさい2回投稿になって。 それで、宇宙があるというのは、あるいは物理が成立するのは、人がいる、自分が存在する、という天動説的な視点があらかじめあるから、観測対象としての宇宙が成り立ちます。 つまり物理学そのものが、ある意味天動説です。 人は、無意識無条件に、自分が宇宙を世界を観察してるんだ、という理由のない因果律における始点を、自分自身に設定して世界を見ています。 でもその視点&始点である人の存在、人が生きている観察している、と言うことなどの、無意識で無条件な前提が検証批判されると、 物理学や、宇宙があると言うことは、いくつかある事実の内の一側面ではないか? という疑いが生じることになり、 そのあたりから、相補性の概念も発生してます。僕の場合ですが。

bragelonne
質問者

お礼

 分かりません。    わざわざ《相補性》と言わなければ 宇宙とわたしは 関係しないのですか?

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.6

追加 心理学での投影現象や、ミラーニューロンの機能も関係ありそう。 天動説と地動説のどちらが正しいか? という話も似てます。 相補性については、http://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽  この図が示すような構図と感覚です。 一般的に、科学の論理構造などの2つの事柄をつなぐ因果律は、その解釈として2つの方向性を取ることができます。 ある因果律が、AとBを結ぶとき、その因果律の原因と結果は、A→Bなのか、B→Aなのか、どちらでも正しい、と言う意味だと思います。(つまりどっちも間違いでもある) http://ja.wikipedia.org/wiki/虚偽の原因の誤謬 http://ja.wikipedia.org/wiki/前後即因果の誤謬 たとえば、ある出来事Aが起きて、つづいてBが起きるからと言って、Aが原因で、Bが結果だ、という因果の順番は確定できない・・・そうです。(いまいち自信がないけど・・) 冷静に考えてそう思います。 宇宙の中に自分がいるのか、自分がいるから宇宙があるのか、それはわからないし、共に正しく間違いじゃないでしょうか? 宇宙=人が認識する時空と物質とすれば、物理学のことにもなりますが。 その意味では、物理学や人の認知が、壮大な勘違いである可能性は決して消えないですし。 もう少しざくっというと、物理は、人間の感覚器官の性質を信頼した上で成り立ってるので、感覚の因果関係が疑われるとき、物理も成り立ちません。 科学の間違いについては、 科学では、仮説を設定して証明する=アブダクション、という論理的方法が採られています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/アブダクション の中ほどの説明 アブダクティヴな推論はそこで提起される原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬 (Post hoc ergo propter hoc)」という時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。 が、上の前後即因果の誤謬 と相まって、最終的に、人間原理の主張にまで繋がってるように推測されます。 まあ、科学が壮大な仮説であることは前から言われてるところです。 つまり、論理の底が抜けているんです(と思います)。そしてだれも埋められません。(と思います) だからこそ、このお題のような主張が正当性を持ちます。 (若干疑わしいですが) 常識的に見たら、どちらが主体で、どちらが2次的か? という話でしょか・・ 単純に言って、主客顛倒の話? と言えるように思います。同一化とも関係在りそう・・ きり無いので止めます。 参照が全部wikiです・・

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽 
  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.5

追加 心理学での投影現象や、ミラーニューロンの機能も関係ありそう。 天動説と地動説の話も似てます。 相補性については、http://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽  この図が示すような構図と感覚です。 一般的に、科学の論理構造などの2つの事柄をつなぐ因果律は、その解釈として2つの方向性を取ることができます。 ある因果律が、AとBを結ぶとき、その因果律の原因と結果は、A→Bなのか、B→Aなのか、どちらでも正しい、と言う意味だと思います。(つまりどっちも間違いでもある) http://ja.wikipedia.org/wiki/虚偽の原因の誤謬 http://ja.wikipedia.org/wiki/前後即因果の誤謬 たとえば、ある出来事Aが起きて、つづいてBが起きるからと言って、Aが原因で、Bが結果だ、という因果の順番は確定できない・・・そうです。(いまいち自信がないけど・・) 冷静に考えてそう思います。 宇宙の中に自分がいるのか、自分がいるから宇宙があるのか、それはわからないし、共に正しく間違いじゃないでしょうか? その意味では、物理学や人の認知が、壮大な勘違いである可能性は決して消えないですし。 科学の間違いについては、 科学では、仮説を設定して証明する=アブダクション、という論理的方法が採られています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/アブダクション の中ほどの説明 アブダクティヴな推論はそこで提起される原因が疑わしいので、「前後即因果の誤謬 (Post hoc ergo propter hoc)」という時間の前後関係を因果関係と混同した虚偽の論法に似ている。 が、上の前後即因果の誤謬 と相まって、最終的に、人間原理の主張にまで繋がってるように推測されます。 まあ、科学が壮大な仮説であることは前から言われてるところです。 つまり、論理の底が抜けているんです(と思います)。そしてだれも埋められません。(と思います) だからこそ、このお題のような主張が正当性を持ちます。 (若干疑わしいですが) 常識的に見たら、どちらが主体で、どちらが2次的か? という話でしょか・・ 単純に言って、主客顛倒の話? と言えるように思います。同一化とも関係在りそう・・ きり無いので止めます。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/陰陽 
bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  因果関係について 意外と認識の誤謬が起きる。言いかえると それほど相関関係があるのだけれど 一筋縄で因果関係を特定することはむつかしい。  つまりさように《宇宙と自分は補完である》という意味ですか?  自然環界は措いておいても 社会的な行為関係および交通関係が 互いに影響しあい連関してかつ構造的にも錯綜している。  と言えば済むことではないですか?  補完というのは その存在までもが 相互に依存しているといった意味がありませんか?  あるとしたら なぜそこまで言わなければならないのでしょう?

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.4

こんにちはー。 細かい説明は飛ばして、 1.即非の論理や、絶対矛盾自己同一などで言われる概念。 2.物理学と人間原理が、ペアを組んで相補的であることの言い換え。 等が思い浮かびます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ★ 1.即非の論理や、絶対矛盾自己同一などで言われる概念。  ○ 《宇宙は自分の補完です》  ☆ 宇宙と自分とは 取り立てて互いに《矛盾》していると見る必要もないと思うのですが?  ですから その違い(隔たり)が 周り回って《同一》であると取り立てて言う必要もないのではないか?  そう言う必要があるとすれば それは どういう場合か?  ★ 2.物理学と人間原理が、ペアを組んで相補的であることの言い換え。  ☆ 《いくつ・いくら》という目で世界を捉える自然科学 したがって経験法則として理論化されるその認識。この中身について 《人間原理》は 《なぜ》そうなるのか。だからどうなって 《どうする》のか。を考えます。  このふたつの事柄が《ペアを組んで相補的である》というのが 《宇宙と自分とは補完である》という意味ですか?  わたしの感覚では そのために《ペアを組む》ことをしなくても もともと人間は自然環界の中に生きていると思われます。なぜそのことを特別に取り立てなくてはならないのか。  あるいは ではそのときには 社会という側面――人間どうしの行為関係あるいは交通関係という側面――については どうか? 《宇宙》という言葉に含まれているのだろうか? そんな言い方でいいのだろうか?   社会が宇宙に含まれているとして その社会と自分とが補完であるとは どういうことを言うのか?  たとえば分業が――およそ人類の社会にあっては一様に――始まってこのかた 分業ということはそれぞれの部分が互いに社会として協業しているということである。当たり前のことである。  だから どうだと言うのだろう? 《補完》と言ったって そもそも《社会をつくり 社会において 社会(共同自治)としてともに生きる》と取り決めたのだから あとでわざわざ《補完》だと言われても 話の筋が違うように思われる。  というのが わたしの感想です。

回答No.3

 意識もなにもかも宇宙の中にあり、相互に補完関係だということなのではないですか?  無論、その背後の不可視や絶対存在も。  bragelonneのご見解が、ご質問のことばとおりではないですか?  

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 補完  ☆ はウソでしょう。ふさわしい言葉だとは思えません。

回答No.2

誰に何を聞いてるの。本人にしか判らんだろ。こんな短い文の真意は。 哲学談義の撒き餌か。 あなたにとって意味なんかないよ。どうせ、理解しようとしない。 果たして意味があるかって? 自分の心情を押しつけるような質問はやめなよ。 人間と呼ばれたくないみたいね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 本人にしか判らんだろ。こんな短い文の真意は。  ☆ そうかも知れぬ。  なら 本人が回答を寄せるのを俟つ手がある。  あとは余分ぢゃよ。

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