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無限と有限の定義を教えて下さい。独自の見解でお願いします。
無限と有限の定義を教えて下さい。独自の見解でお願いします。
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無限と有限の定義を教えて下さい。独自の見解でお願いします。 無限と有限を説明・定義するには簡単な例があるのですね。 周囲1kmほどの孤島にたどり着いたウミガメの話ですね。亀は島の果てを見てやろうと思って島の周りをのそのそと歩き始めるのですが行けども行けども果てがないのですね。この島には果てがないと思いながら乾いて死んでしまうのです。漁師が通りかかって孤島に上陸すると一匹の亀が死んでいるではないですか。何故こんなところであのウミガメが死んだのか非常に不思議に思います。ウミガメが体を引きずって島の周りを何度か回った後を見つけるのですが、何故島の周りをぐるぐる回ったのかはわかりませんでした。 まあ、そういう話ですが、これが有限と無限の話ですね。 つまるところ認識力の差でしかないと言いたいのですね。漁師は小さな島でしかない、つまり有限な島と認識したが、亀は無限だと認識した。 わからないことは無限、わかることは有限なんですね。でも無限など存在しないのですね。 蟻が東京タワーを見ると無限に見えるし、巨人が同じものを見ると小さな棒切れにしか見えない。 それが、有限と無限の定義でしょうね。数学や物理学は蟻や亀の立場の見方ですから無限に見えるだけですね。ある意味ちまいのですね。人間の意識を蟻にしてもしようがないからたまには哲学カテで巨人になることも大切なことだね。
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- kigurumi
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>人間性の批判にシフトしないで、哲学=論理の遊技をしましょう。 こういうことってありません。 電車が動くまで読書していて、電車が動き出してどんどん加速して、突然速度が0になった。ってこと。 実際はとなりに止まっていた電車が動き出しただけで、自分の乗っている電車は止まっており、隣の電車を視覚の片隅で認識していたが、それから外れたので動いているものと比較できなくなり、突然停止したかのような感覚を持ったわけです。 要するに相対的で、あなたと私は見ている基点が違うので、認識する世界が違っているわけです。 あなたは私が人間性を批判しているという認識。 私はそれを読んで???と思ったが、「ああ 立っている基点が違うからね」とすぐに違う認識に納得した。 科学と哲学では無の定義が違う。 哲学では「無い」と言えるのもでも、科学だと「ある」になったりする。 無すら存在することになってしまう。 それは宗教と哲学が混同していた時代のできごとで、今は現象が起こらないものは哲学では現実無いものは命題としてあげない。 。 nobodyという名前の人がAさんをこてんぱんにのしてしまったとする。 村に帰って誰にやられたと聞かれたAさんは「nobody did」と答えた場合、村の人は「誰にもやられてない」とAさんが答えたという認識になる。 言葉のあやみたいなものです。 これをAさんでも村の人でもなく第三者の地点から全体を見ると、全容がつかめます。
- Mokuzo100nenn
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有限:限界が証明されていること 無限:限界が無いことが証明されていること 不定:有限とも無限とも証明されていないこと 自然界の事象は有限か不定です。 数学という概念の世界でのみ無限(が証明されている事象)があります。
- tumaritou1
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人間の脳の片方の限界を有限と言います。その脳は左脳に存在する意識です。自我意識の事です。この脳の機能には有限と言うソフトしか入っていないからです。何故ならば割り切れる事しか出来ないからです。この典型が言葉を持つと言う機能です。 言葉にした時から、物事が限定されてしまうと言う事になるからです。 人間は疑問や悩みを持つ時があります。この悩みや疑問とも関わっています。その悩みとか苦しみとかも 自我意識の機能に関係しています。何故ならば人生には「明日の事は分らないからです」 計算や、計らいや、分別で出来ている脳に。分らない事が割り込んで来る事が人間を悩ましくさせています、何故ならば「分らない事が入った事には」分別や計算の下地が揃っていないからです。従って解読不可能と言う事になって脳のコンピュータは「空回り」と言う果てしの無い妄想の虜になってしまうからです。 或いはこういう事も云えます。矛盾した問題に関しても、自我意識には解読不可能と言う結論を出します。その結論から「心は同じところを堂々巡りをしています」それも出来ないと言う判断から総てを否定してしまう「スパイラルに入ってしまいます。」 今言った事が精神疾患の起きる訳と言う事になります。何年たっても良くならない可能性を秘めていると言う事です。同じところを「何時も意識して」又年を重ねてしまう事になります。 その考え方を変える事が大事という事になります。人間の苦しみとは、「心の矛盾」と言う事に気が付く事が良いという事になります。永遠と有限の対立を苦しみとして感じている事実に気が付く事が大事と言う意味になります。 人間は永遠を理解できますが、自我意識には出来ない、何故ならば分別脳の機能では理解する機能が入っていないからです。従って永遠の原理や矛盾した問題の解決を自我意識に期待する方が間違っていると言う事です。 人間の苦悩や、障害とは「問題を間違った脳に振り分けた事が」問題であった事が分ります。その問題解決方法を人間を「宗教文化の発展」として後押しをしてきた事になります。 世界に誇る右脳の意識を掴む方法が今の日本には存在しています。それが禅と言う事にうなります。禅の前提問題とは「永遠と有限が心の中で戦っている、そのどちらが自分自身なのか?」「人間は如何して有限の壁を越えることが出来ないのか?」 或いは「自分の心を不安や恐怖におとしめている者が自分自身の中に存在しているのだが、如何したら出会うことが出来るのか?」と言う事が「禅」の生まれた背景にあります。 右脳の意識は無意識の中に封印されています。その封印された意識を如何すれば引き出す事が出来るのかと言う事が、禅の歴史と言う訳です。その右脳の意識「命そのものを働かせている意識」仏性と如何したら出会えるのかと言うテキストが「禅問答」という事になります。 その者は「永遠で出来ていますので」苦しんでいた自我意識は有限の命はそのままで救われていた事が分ります。此処で心の矛盾は解消されます。「生死の問題が解決した」という事になります。 右脳が担当する問題を間違って左脳に振り向けたと言う事が人間の障害の元になっています。自律神経は「命の働き」に任せないと解決しないと言う意味になります。自我意識がまともになって自律神経を治そうと意識した場合を間違った方の脳に問題を振り向けたと言います。 精神疾患や悩みにも云えます。自我意識には解けない問題を、自分で分る事が悟りです。自我意識には出来ないと言う事が判った時に、自我意識は右脳の意識に降参します。その事が「神と和解した」という事になります。 それ以後自我意識は上に立とうとしなくなります、自分を働かせている「命その者の意思」に従うようになります。その事を「神の思し召しのままに」という事になります。 禅で言うならば、分別しない生き方になる(計らいを捨てた生き方になる)という事になります。 人間は元々永遠と言う事は分かっています。ただ分別が見えなくしているだけです。自分自身に正直にならないだけといえるからです。右脳は永遠や神や仏や宗教で出来ています。その違いは気が付くか付かないかの違いだけです。何故ならば右脳が無い人は皆無と言えるからです。
- kigurumi
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>はじめから「無限」のイメージができあがっていませんか?無限とは、無とは?限とは?・・・ここから解説して欲しいのですが、無・理でしょうか?理とは?????無限に疑問が湧いてきます・・・・・ つまり、 「無理と自分は書いたが、果たして自分は無理という言葉を本当に知ってて書いたのだろうか、それとも間違えた語彙を使ったのだろうか、果たして無理の無とは一体なんだろうか、こうやって書いていることも、本当はめちゃくちゃで相手にとっては?*‘V~~=)と見えるのではないのだろうか。私は一体何を使って意志の伝達をやっているのだろうか。書いた記号を相手は自分とは違う記号と受け止めているかもしれない。つまりやること自体まったく意味が無いのではないだろうか」 と思ったけど、結局あなたはこのサイトに参加している人は、(日本語サイトの方)は自分が赤といえば象をイメージしない、バナナと書けば手袋だとかそういうもののことだと思わないと知っているわけですよね。 じゃなければこのサイトに書くはず無いですから。 つまり、りんごはどれも違うが、りんごといえばみんな同じものを指差す、つまり雛形があり、多少違ってもりんごといえば雛形のリンゴと同じものを指すって、あなたは知っているわけですよね。 だから無理って言葉も使ってしまったわけですよね。 人をバカにしたいとか屁理屈をこねて楽しみたいからとかじゃなくて、自分の感覚に自信がなく、目に見えているバナナが本当にバナナなのかどうかずっとじーーっと見ていて、「見えるが実は幻影かもしれず、実際には無いのかもしれない」という疑いが少しあるわけですよね? 精神病は大きくわけて神経症と統合失調症に分かれる。 前者は病識がある、後者は無い。 従って前者は目の前にあるものがあの食べるとおいしいバナナだとわかっていいるが、もしかして毒が入っているかもしれないとか思って食べれずにいたりするわけです。 後者は目の前にバナナがあると思って食べようとしたら消えてしまい、誰か盗ったと確信するわけです。 妄想の中のバナナで実在しないとは思いもしないから。 で、あなたの場合は前者の傾向があると思う。 ある哲学の教授は生徒たちが教室であーだこーだ しかしどーだ と議論しているのを見て、「外に出て現実を体験しろ。そうすれば答えがすぐにわかる」と言った。 体験をせずこもって言葉だけでやるのは宗教。 哲学は現実のものを対象にし、現実無いことは命題にしないという特徴がある。 あなたのは宗教であって哲学では無い。 newtonの別冊に「時間」と「虚数」ってのがある。 一度読んでみるといいと思う。 私の前回の答えはそれらの本の影響を受けているんです。
お礼
人間性の批判にシフトしないで、哲学=論理の遊技をしましょう。知を愛すです。それが神経症でもいいのです。で、無とはなにか?自分は単純に「ないこと」とまず定義しています。つぎに、現実に物理的に「ないことを無い」とはいえないので、全くの妄想と考えますがいかがでしょうか?現実的な思考には無意味ということデス。つまり、限りが無いということはいえないのです。そもそも限りという定義もあいまいなものです。量子論で喝破されています。曖昧な定義で、無意味な言葉で哲学するナンセンスを感じながらなお哲学する性癖はなんというのでしょう?蛇足:宗教は机上の空論では無いと思います。個人的な実際の体験などがからんでいます。哲学は論理と体験との合作でしょうが、論理的という点がイノチです。ちなみに科学は再現性の実証がイノチですから、宇宙を証明できません。持論を書き連ねましたが、おかしな点を教えて下さい。よろしく。
- 雪中庵(@psytex)
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#6の者です。 >無限に詰め込むと、という結論が出るのでは「有限」ではないでしょうか? 「無限に詰め込んだ波」において、ある波長を考えると、 『無限』の集まりである以上、その「波長」を相殺する 半波長ずれた波の存在も約束され、必ず打ち消されます。 その「無=無限」において、「無に1つの波を加える」 ことと、「無限から1つの波を引く」ことによって、 その波によって打ち消されていた波が顕在化する= 足すことと引くことが等価となるのです。 (日常的な限定的経験を延長するところに無理がある)
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
変化が認められないものが無限で、変化が認められるものが有限と単純に考えますが、限定であれば減ったことで有限になりますが、減った分どっかがプラスになっているので、それら二つを総合的に考えればプラマイ0。 変化していないことになる。 部分的に見れば有限で、総合的に見れば無限。 宇宙もそうで、宇宙全体のエネルギーは変わらなく、空間が広がったり小さくなったりしているだけじゃないかと。
お礼
お手数ありがとう。で、小さくなったときの周りはどんなん?そもそも哲学的思考と通常思考の違いを感じます。哲学の第一歩は「思考道具のはじめの言葉の定義をどうするか」だと思うんです。無限とはなにかを問われたとき、はじめから「無限」のイメージができあがっていませんか?無限とは、無とは?限とは?・・・ここから解説して欲しいのですが、無・理でしょうか?理とは?????無限に疑問が湧いてきます・・・・・
- webuser
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>「限り」とは何でしょうか?寺田寅彦は「究極の物理テーマは、境界」と言っていましたが、限りと境界と無限・有限との絡みはどう理解したらよいでしょうか。 その著書は読んでいませんで、何とも言えないところもありますが、 「限り」とは「終わり」、「終端」、「端っこ」の事だと理解しています。 「端っこ」の無いものが無限ですが、大きすぎて「端っこ」の見えない物は無限ではありません。 「端っこ」と「端っこ」が繋がっていて、辿るとグルグル回ってしまうものも無限には含みません。 「終わり」があるものには「始まり」と「途中」があります。 「途中」があるものには「始まり」と「終わり」があります。 「途中」は認識できるが、「始まり」や「終わり」が認識できないものは対象が大きすぎるか、環状になっているかですが、しばしばこれを本当の無限と混同します。 「終わり」が無いものには「途中」も「始まり」も無い、つまりは何も無いという事になります。 こんなのでどうでしょうか?
お礼
回答ありがとうございます。蒸し返すようですが、「無」と「限」の哲学的解説を別々にお願いできませんでしょうか?その後、その二つをくっつけて「無限」ですが、二つの意味を単純に合わせくっつけた意味でよいのでしょうか?
- booter
- ベストアンサー率34% (269/769)
有限・・・人間が認識できる固有の「数値」 無限・・・人間が概念としてしか認識できない「数の領域」 だと思っています。
傲慢不遜な人間の習性として、何事も自分の身のうちに置きたがり、置けないほどかさばるものも自分の想像の中で矮小化して自分の範囲内に持ちたいし、持っているという気分になりたいものです(所有欲、知識欲)。彼らは努力もあって、相当な世界をわがものにしました。つまり彼らにとってのそういった可能な範囲を「有限」というのでしょう。しかし、悲しいことに、そんな貪欲な人間たちにも、どうしても自分の意識の範囲に置けない、よほど、というよりとてつもないほど巨大つーか膨大なものが世には存在するらしいということがわかってきたのですね。彼らはその存在を認めるのがよほど悔しかったので、仮に「無限」ということばで思考停止した、それをいわば姑息なしざまでやっつけてしまったわけです。もちろん、それでことが済んだわけではないと思いますが。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 《無限》は 想定上の概念です。 無限の半分は 無限です。∞ ÷ 2 = ∞ 。 むろん三分の一も 同じです。 ∞ ÷ 3 = ∞ 。 有限は かたちがあり 数量が特定できるものを言いますが その同じ有限で相対的な経験世界のコトとして 可能無限というものがあります。 これは 1、2、3、・・・ n というように限りなく数えて行く場合のその《限りなさ》を言ったものです。 これが しかしながら 初めに述べた《無限(真無限)》とは違うというそのわけは 可能無限の一応の最後の数である n に対しては さらに + 1 として一を加えれば やはり特定しうる数( n + 1 )になるからです。ですからその半分は n ÷ 2 = n / 2 という一定の数になります。 経験世界(=有限)とそしてそれを超える超経験の領域(=無限)というふうに分けられると思います。
お礼
回答ありがとうございます。さて、いろいろな回答に共通なのですが、「無限」そのもののことばの定義、概念ではなく「物理的、生活感覚的、数学的、思いつき的、常識的受け売り」の様に観じます。できれば、「無限」のことばそのものの意味を教えて頂きたいのです。
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お礼
なるほど、堂々巡りが無限の概念であるようですが、同感です。そもそも「言葉」の意味、定義は、試行錯誤の結果、足して2で割る幹事でしょうか。なんでもそうですが、問題を解くときに使う言葉は、すでに先入観として「染まって毒されている」のでそのことをしっかり踏まえて、取り掛からないといけないのでしょう。で、「無」とはなにか。「限」とはなにかを最初に、仮説でも立てて取り掛かる必要を痛切に感じます。因みに「空 からっぽ ゼロ」の意味の区分けも大事に思います。