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《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

 《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

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  • OtamaFJ
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回答No.42

我々人類は誰しも「甘え合って」いる。地球社会そのものが貿易などで助け合っている状況からして既に、ここに参加されている皆様も甘え合っているわけだ。しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 よって、「《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。」とは、換言すれば、「長期的な甘えを提唱できないだろうか」といえる。聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 皆様も「長期的に」甘えてくださいよ。堂々と。

bragelonne
質問者

お礼

 OtamaFJ さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。  ☆ なるほど。まぁ 《聖なる》は わたしが勝手につけたたとえですけれど 《長期的・全体的な視野》のもんだいであると。  ★ しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。  ☆ つまりわたしは このように実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう?   たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか?  それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。  そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。  自我が育ち確立したからと言って もうそれでよいとはならないはずなのですが そういった方面がどうも気にかかりますし その方面は《甘え》と絡み合っているようにも思えます。思えてなりません。  ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。となるように思いますが どうでしょう?

その他の回答 (100)

noname#135843
noname#135843
回答No.101

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。  土井:信仰と「甘え」からの引用を載せていただきまして、どうもありがとうございます。  木村敏は、精神病理学を専攻し、統合失調症患者の”時間”の概念について、考察を加えた学者だったかと存じます。この著作の出版が1982年、ちょうどポストモダニズムが全盛の頃の著書かと思われます(あの頃は、難解な文章が流行った時代かとも思います。どなたかもご質問されておられましたが、デリダの文章から、浅田章がそれを自著に真似をしました「ある」の”×”表示等でございます)。  はっきり申しまして、氏の文言、例えば「自らの中にときどき自分自身の故郷である死への通路を開こうとする(?)。日常性のきびしい監視の眼をかすめて 生はひそかに解放の祝祭に酔いしれようとする(?)。」という文章は愚生の理解を超えております。    従いまして、何も愚生には論評はできないのですが、言葉の飛躍が気になるように観ぜられます。  それよりも、ご紹介いただいた詩の方が、自然と自分の頭に入ってきます。  それに致しましても、かような厳しい状況下、つまり「 生馬の目を抜く競争社会」におきましては、 「甘え」という言葉は、一見、その方向性が”真逆”とも感じられ言葉と思われます。  ですが、ですが、むしろかような状況下においてこそ、敢えて「甘え」を質問に立てられました、bragelonne様には、敬意を評したいと思います。  新たな、スレッドを立てられたようにお見受け致しました。heratmind様のご質問とある意味共通するところもあろうかと考えております。  それでは、ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ それに致しましても、かような厳しい状況下、つまり「 生馬の目を抜く競争社会」におきましては、 「甘え」という言葉は、一見、その方向性が”真逆”とも感じられ言葉と思われます。  ☆ たぶん甘えの経験を求めての甘えという場合もあるとも言っているようです。  長期の視点および信頼関係という基軸 これらのご回答を得られました。  それにしてもわたしも 他方では あいまいで漠然としたまま問いかけていたかも知れません。何かまだ むしろ大きな問い求めの場が見えないままでいるようにも感じるのですが いまのところは いかんせん 一たん締めたほうがよいようです。じゅうぶん満足です。  わたしの質問にはふたつの種類があるようです。自信をもって定説に挑む場合と ほんとうにもやもやの中を問い求める場合とです。  それでは この質疑応答は締めといたします。みなさんともども 感謝いたします。ありがとうございました。 

  • OtamaFJ
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回答No.100

御礼を頂きましたので、少しだけお邪魔します。 私の基本的回答は前述のように「時間軸」という物差しを加えて再考をお勧めしています。それ(例えば欲望)は短期的?長期的?ていう。 でもね、あなたを馬鹿にする意味はないんですけど、たぶんあなたは時間がたくさんあるから御礼文章が書けます。社会貢献活動=仕事に忙しい人物なら、こんなには書けない、なんて思ってしまいます。 つまり、学生さん、ニート、病床の人物、ではないかな?であるならば、社会経験が不足していることを表明しているようにも見えてしまいます。知識は豊富でも。いえ、質問内容は面白いですよ。御礼も有り難い。でも、正直に感じるのは「実体験の感受が少し平均よりも小さいかな」て思います。 ぜひ、できれば、仕事の激務等も体験してみてください(お勧めの意味)。視野がもっと広がり、あなたは、より面白い人物になることでしょう。御礼文ありがとう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 私の基本的回答は前述のように「時間軸」という物差しを加えて再考をお勧めしています。それ(例えば欲望)は短期的?長期的?ていう。  ☆ このひとつの結論は 確定していますよ。  ☆☆ (No.42お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう?   たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか?  それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで確定です。そのあとの作業としましてはこうです。  ☆☆ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。  ・・・  ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こちらの主題についてもすでに回答を寄せてもらっています。《無意識》なる概念を批判したものです。( Hidocchi さん)。  あと――もうそろそろ締めようかと思っているのですが それでもただ思い残していることとしては―― 《甘え》なり《聖なる甘え》なりをもっと哲学の理論として定義したりそれを展開したりというように明らかにしておけないものかなぁというところです。  ★ ぜひ、できれば、仕事の激務等も体験してみてください(お勧めの意味)。視野がもっと広がり、あなたは、より面白い人物になることでしょう。  ☆ まことに到りませんで この程度と思ってご勘弁くださいますようお願いせざるを得ません。昭和二十一年生まれです。

bragelonne
質問者

補足

 土井健郎のご紹介です。  ▲ (土井:信仰と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~~~   ヱ―バーが東洋社会の構成原理と考えたピエテート(ラテン語でピエタス 義務の感情 親子の相互に対する愛情を意味する)は大体《甘え》に相当するであろうと〔大塚久雄は〕言うのである。  ヱ―バーはまた ギリシャ・ローマの世界は民族移動や戦争によってピエテートがこわされて成立したと述べているそうだが ここでピエテートを《甘え》とおきかえてみよう。するとこのような世界では《甘え》が通用しないことになる。  言い換えれば そこでは連なりはあまり重視されない。したがってなんでも甘えていればことがすむというわけにはいかないのである。  以上のごとく考えると ギリシャ世界またそれを引き継いだ西洋の特徴がはっきりして来る。例えばギリシャ最古の文学であるホメロスを取り上げると これは戦争およびそれに因んだ物語である。そこに書かれた世界において 親子および夫婦の間の情愛 そして特殊な友情を除けば あとはすべて闘争に他ならない。そのような世界ではとても他人の憐憫をあてにして暮らすわけにはいくまい。あらゆることに全力を尽くして戦うだけが人間に可能なすべてである。  日本の社会では《甘え》が通用するので 勘弁してくれ ということでなんとかなり うやむやの中に妥協が成立するが 西洋ではとことん力試しをせねばならず であればこそ西洋で自由と理性が重んじられるようになったということができるのである。  このような世界にキリスト教が伝播していった際 当然ピエテートは問題とならなかったであろう。多少は残っていたピエテートが キリスト教の浸透に好都合になるとしても 邪魔にはならなかったにちがいない。しかし理性は明らかに邪魔になった。なぜなら西洋人は昔も今も理性で勝負しようとするからだ。彼らは出来ることなら理性だけで事をすませようとする。かくして西洋のキリスト教において信仰と理性の関係が非常に早くから問題となったのである。  いったいなぜ理性のほかに信仰がいるのか。信仰を得るために 理性は何の役にも立たないのか。また いったん信仰を得れば 必然的に理性はいらなくなるのか。このような信仰と理性の関係についての問題が 西洋人を何世紀も悩ましたということができるのである。   (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.159-161)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このつづきは No.99お礼欄をお借りして引用してまいります。

回答No.99

  こんばんは、bragelonneさん。 よいですよね、この場をおかりしても(聖なる甘え) 古式に則り、礼には礼をつくすのが礼儀 ●Hidocchi さんから あたたかいお言葉をいただいていますよ。  ◆ (回答No.88) ****************   littlekiss様  文中をもちまして、お母様の御冥福をお祈り申し上げます。  ************************** お心のこもったお悔やみをいただきまして、ありがとうございました。 昨年の9月に高熱を発し緊急入院。時節柄、真っ先に新型インフルエンザを誰しも疑い家に帰されるところ、その日はかかりつけの先生が当直で病院につめておられたこともありすぐさま的確な診断が下り入院。そのときの病名は「敗血症」。入院して3日目に余命幾ばくもないことを告げられ叔母と姉と私つきっきり。24時間点滴。入院して8日目あたりで抗生剤が効いたのか熱が下がり意識が戻って来た。一週間以上ベッドで寝たきりになると一人で立って歩けない。おまけに点滴の加減で足はむくみ像の足。少しづつ口から栄養を摂るように試みるものの吐き出してしまう。全身に菌がまわった後遺症か多臓器障害が起き排便・排尿もコントロールがきかない。早く家に帰りたいとせがむ母。自宅に連れて帰ることを医師に相談。医師の返事は、「家には帰れないでしょう…」意味するところは数日内に亡くなると。そのことを母に告げた。母がどうしたいのかを姉と二人できいた。「家に帰りたい」と。「それやったら、ちょっとづつでも歩かな」「歩いたら足のむくみも少しはひくから」と母に言うと、その次の日から歩くのを怖がっていた母がベッドから降り少しづつつたい歩きをはじめた。そこから、自宅近くの医院をあたり応診、看護訪問のお願い等(電動式ベッドの設置)の手筈を整え担当医へ退院を願い出た。歩行はつい歩きなら10歩は歩ける。家なら誰に気兼ねせずにまだいまなら深夜にトイレにも立てる。仮に漏らすことがあったとしてもすぐ着替えれる。誰に気兼ねすることなく。余命幾ばくもないのなら残された時間を本人の好きなようにさせてあげたい。現実、回復の見込みがなく点滴での栄養補給を続けることがよいことなのかと疑問にさえ思えても来る。――――担当医は渋々ながら退院を許可してくれた。10月に入り母が家に帰って来た。「家がええわ、家がええ、やっぱり家がええわ」と家に帰れた安堵の思いからか何度もこの言葉を口にする。撮りためておいたTV番組をリモコンをかちゃかちゃいじりながら再生、用意しておいたベッドに横になり時間を取り戻すかのように食入るようにドラマをみだす。なんでもない日常の光景がそこにある。――――11月に入ったころあたりからぐっと容態が悪くなった。癌性悪液質が進み嘔吐がひっきりなし、入浴させるたびに体が痩せ衰えているのが痛いほどわかる。しこって隆起した癌がいまにも皮膚を突き破らんとばかりに身体のあちこちに表れている。病魔に侵された母の痛みがどれほどなのかは私にはわからない。亡くなる1週間前まで意識もハッキリし日常の会話を続けていた。その中でも「痛い」とかの泣言もあまり言わず気丈に振舞っていた母。12月に入り、意識が混濁していく中「もうちょっとやからな、辛抱してな」と何度となく姉と私に母がつぶやく。この頃の嘔吐の回数半端なくベットの傍につきっきり。姉と私とで代わる代わる夜中寝ずの番。意識が混濁していても傍に付き添っていることわかっていたのか病に臥している母が私たちを気遣ってくれていた。「もうちょっとやからな、辛抱してな」この言葉を聞いたとき姉も私も涙がこぼれおちた。涙を拭ってすかさず「あほなこと言いな、一緒にこないしておりたいんや、辛抱なんかしてへん」と言葉を返したように思います。12月3日仕事を終え、帰宅。「ただいま」と母にことばをかけるとそのときは意識があり、か細い声ながら「おかえり」と。脱いだ上着を椅子にかけ、手を洗い、タオルを熱いお湯で絞りベッドへ。「オムツ替えとこか?」「うん」「そのまえにちょっと顔拭いとこか?」「うん」「ああ、気持ちええわ」「そうか」「ほな、替えよか」一言二言言葉を交わしたあとオムツをはづし汚れをおしり拭きのウエットテッシュでさっと拭い、熱いタオルできれいに。替えのオムツを腰の下に差し込むけれど上手く入らない。「ちょっとだけ、腰浮かしてくれる?」と言い母の顔を見ると口から緑色の嘔吐液がだらだら流れていた―――――それから程なくして母は息を引き取った。 働いている以上親の死に目に立ち会えないことがままある中 母親の臨終に立ち会うことができただけじゃなく看護にもあたれた 職場の上司のことばがありがたかった 「お母さんをよくみてあげなさい」 ときに人の言葉に甘えます m(_ _)m

noname#135843
noname#135843
回答No.98

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ★「無意識」の概念  これは 潜在意識がどうの無意識がこうのというふうな精神分析的な問題として見ないほうがよいと考えます。意識にのぼって来たなら それについて《わたし》が処理すればよいというわけです。どこから来ようとかまわないわけです。  《わたし》のほかに処理する者はいないのですし 《わたし》がいればよいはずです。  ご教授賜り厚くお礼申し上げます。確かに、「《わたし(もしくは、わたしの意識)》のほかに処理する者はいないし、《わたし》がいればよいはずです。」は、賛同させていただきます。 > ☆どうもこの問題は 【Q:アスペルガーとアマテラス語方言】で取り上げた社会源病のうたがいにつながるように思います。《無意識》を想定しておけば そのひと一人の個人的な疾病であるかたちにおさまるという見方に 意図的にかどうかを別として つながっているようにも思えます。   確かに仰るとおりかと存じます。実を申しまして、愚生もこのことを考えておりました。   > クルマの免許は とっくに更新するのをやめたという経緯で来ています。  もったいないことをしたと思うのですが………. > ナンパはですね。一度だけしました。経験無しでは心理が読めないのではないかと よからぬことを考えたわけです。  考えますと、おモテになったそうですので、わざわざ、ナンパする必要はなかったのですね。因みに、愚生の方は、単に、”小心者”だったからだけでございますが….. > ゴッホは ただの畑の絵でもたのしい気持ちになります。  bragelonne様に、合ってらっしゃるのでしょうか。ですが、たのしい気持ちになれるのは、いいですよね。 > あたらしい問い求めは何にしようかと考え中です。  非常に無責任かと存じますが、とても楽しみにしております。  ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 この場をお借りして 土井健郎の紹介です。  No.100補足欄からのつづきです。  ▲ (土井:信仰と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~~  いったいなぜ理性のほかに信仰がいるのか。信仰を得るために 理性は何の役にも立たないのか。また いったん信仰を得れば 必然的に理性はいらなくなるのか。このような信仰と理性の関係についての問題が 西洋人を何世紀も悩ましたということができるのである。  ところで これに反し日本人の場合は理性より《甘え》の方が信仰との関係において問題になると思われる。  というのは西洋人が理性において自足的であろうとするように 日本人は《甘え》において自足的であるからである。もっとも《甘え》の場合は 理性の場合と対比して 信仰との関係がかなり異なったものとなる。  というのは理性は信仰と対立的な関係になりやすいのに比して 《甘え》は信仰と並行的で重なりあう関係にあるので しばしば信仰と《甘え》と取り違えるということが起きるからである。  その結果 自分では信仰しているつもりでも はたから見れば甘えているということになり しかも当の本人は自分の甘えに気がつかないのであるから まことに始末が悪いのである。  これは特に日本人のクリスチャンの場合心すべきことであるが もちろん日本人の信者だけが信仰しているつもりで知らず知らず甘えるわけではない。西洋の信者でも同じことが起こり得るが しかしたびたび述べているように 日本語に《甘え》という便利な言葉があればこそ 信仰のあり方について《甘え》の観点から分析的に反省することが可能となる。であるから西洋人がその信仰生活について同じような反省を行なうためにも やはり《甘え》の観点を自分のものにすることが必要であろうと考えられるのである。   (『信仰と「甘え」』1990  九 信仰と「甘え」pp.161-162)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この続きを もうひとくだり No.97のお礼欄にて引きます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★★ (回答No.95)  愚生も、記紀神話について、新書ではございますが、基本的なことを勉強してきましたが、まだまだなようでございます。  ☆ ご成果をたのしみにします。  少し振り返ることになりますが 精神分析におけるつぎのような認識と 見解を異にすると言いたいです。  ▲ (木村敏:時間と自己) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  自己が自己自身でありうる可能性の条件を 自己が将来的に自己自身へと到来することとしての自己触発に見たハイデッガーと 自己を過去把持的に痕跡として保持することとしての自己触発に見たデリダとの この興味深い対比について論じることは 本書の範囲を越える作業であろう。  しかしわれわれがここでどうしても問うておかなくてはならないのは 将来からの到来でもなく 過去の痕跡でもないような 時間以前の自己とでもいうべきものは果たして存在しないのか という問題である。・・・しかし 生まれてくるよりも前の自己 禅でいう《父母未生以前》の自己といったものは どうなっているのか。  そのような自己以前の自己を自己と言うことはできないだろう。ことばで言えば すでに自己は自己として限定され 自己への到来としてであれ 自己の痕跡としてであれ 時間を流れはじめさせてしまうだろう。禅は《不立文字》ということを言う。しかし 不立文字とは無意識ということではない。文字を立てない意識 自己とは言わない意識において 自己や時間はどのようなありかたを示すのであろうか。  このような原自己や原時間が見えるようになるためには 日常の自己意識や時間意識が破られて 現在が未来や過去とのつながりを失い 純粋な現在それ自身として出てこなくてはならない。もちろん われわれは有限な生の相にとどまるかぎり この永遠の現在に安住することはできない。それはわれわれにとって死を意味することになるだろう。  しかしそれでも われわれは元来はこの死から生まれ出てきた存在なのである。生への限定は 本来不自由で不如意な拘束にほかならないのであって 生としての日常性は それ自身の制縛からの解放感を味わうために 自らの中にときどき自分自身の故郷である死への通路を開こうとする。日常性のきびしい監視の眼をかすめて 生はひそかに解放の祝祭に酔いしれようとする。  仔細に見れば われわれの日常性は大小のこのような祝祭によっていわば穴だらけになっているのではないのだろうか。仕事のあとの一服の煙草が 音楽に心を奪われているひとときが 見知らぬ土地への旅情が すでに日常性の中にまぎれこんだ祝祭的な非日常の性格をおびている。そこにはすくなくとも暗示的な形で永遠の現在が姿を現わしているのではなかろうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの考えでは 《いま・ここなる〈わたし〉》の動態――永遠の現在なる過程――でよいと思います。《わがこころ すがすがし》と宣言してスサノヲが歌った歌でよいと思います。どうでしょう。    八雲立つ 出雲八重垣    つま籠みに 八重垣つくる    その八重垣を  (古事記歌謡・1)    生と死 過去・現在・未来 ケとハレ あるいは立文字も不立文字も みな 永遠の現在を航行するいま・ここなるわたしにおさまるものと思います。(いま・ここなるわたしの航行する永遠の現在としたほうがよいかも知れません)。

noname#135843
noname#135843
回答No.97

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > 顔の部位をめぐる語源探究のサイトを紹介いただきましたが 研究を深めておられるようなのですが  全体としてどのような視点でまとめて捉えているのかを知りたいように思いました。  単に検索の結果、このサイトにたどり着いたというだけでございます。別段、語源の研究をしている訳ではございません。  因みに現在は、刑法に絡め、犯罪対策論-犯罪者処遇法(刑事法)を勉強中でございます。 > わたしは 日本語に関しては ソシュールの・言語記号の恣意性という仮説が当てはまらないという批判としての仮説を見出しています。音韻の組織 つまりは 母音および子音それぞれの生成とその交替関係ないし親疎関係などの組織体系を明らかにし得るとよいと考えています。  貴重なアドヴァイスを賜り、厚くお礼申し上げます。確かソシュールも晩年には行き詰ってしまったという観がございます….. > 絵画も造詣が深くていらっしゃるのですか。わたしは ただ見てどう感じるかだけだと言っていいくらいですので そのようにお相手していただかないと どうしようもありません。 「たしかに絵画の評論というのは 作者の人柄やその生活情況そして時代背景などなどを述べているけれど あるいはまた作画の技術的なことを明らかにしているけれど 《鑑賞》をどこまでおこなっているかとなると あやしい場合が多いように思います。」 (No.95のお礼欄 からでございます。)  上記ご意見には、基本的に賛成でございます。作者の時代背景(こちらはある程度客観的には把握できるかと)、そして、その絵を描いた心理状態(これは、“見る側の推測・主観”が多分に含まれていると思います。1つの作品を1ヶ月以上も画家が描いていたとしますと、必然的に作家の心情はその期間内にも移り変わると思われますし、またその作家の境遇・心情は“作者のみ”が分かりうると思われるからでございます)  こうしてみますと、愚生は“オールラウンド・プレーヤー”に思われるかもしれませんが、欠如しているものも多数ございます。例:海外には一度も言ったことはありませんし、車はもちろん免許も持っておりません(車・バイク共です)。もちろん、そうなりますと、ナンパ等はしたことがございません。高校生のときもバイク等を欲しがらなかったため(その代わりに、サイクリング車は欲しがりましたが)、ちょっと変わった子供のように見られたと思います。 > わたしのお気に入りは ゴッホです。どれもいい感じです。 愚生の好みは以下の作品です。 「夜のカフェテラス」 http://www.momat.go.jp/Honkan/Gogh/ 「オーヴェールの教会」 http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gogh_eglise.html  どちらも、夜景なのですが、単に“暗い”というだけでなく、絶妙な色彩のコントラストがあり、一 見しただけで、惹きつけられました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一つご質問がございます。つまり、「無意識」の概念でございます。  よく、精神分析等で、この「無意識」を“意識化”するというように用いられたりすると思います。  ここで、疑問なのですが、確かに、かような“意識化”は、本人が気付いていないものにつきましては、“意識化”は可能と思われます。ですが、本人が“意識化”不可能なものまでもが、「無意識」といえるのか?ということでございます。さらに「無意識」という言葉にも疑問を感じております。  例えば、愚生が気付いてみると、OKWaveの回答文章を、知らず知らずのうちに書いていたとします。その際、この一連の動作を“意識化”しろと言われますと、おそらくできると思います。自分の動作を振り返ることで、記憶が呼び起こされ、「確かに、書こうという意志があった」と確認・理解できます。  一方、ウェブで政治欄を読んでいた際に、「Hidocchiがヒットラーのような独裁者になり、日本を独裁政権下におきたいと願っている」といわれたとします(もちろんそんなことは全く考えてはおりませんが)。そのとき、第三者から、「「無意識」でやっていたのだ。その証拠にドイツの政治を以前調べていたではないか。そして、今日も政治欄を読んでいる。明らかHidocchiは「無意識」に、独裁政権を狙っている。」といわれたとします。もちろん、そんなことは考えたことはないですし、“意識化”などできるはずがございません。つまり、「無意識」といいましても、“意識化”できなければ、それは「無意識」といえないと思うのです。よく「無意識」という語が見受けられますが、本当に“意識化”不可能な「無意識」が存在するのか? そしてもし“意識化”可能ならば、深層の「無意識」といった仰々しいものではなく、それは単に、意識として表面化していなかったもの、といえるのではないか? という疑問がございます。  当方が質問するとうのは、本末転倒かもしれませんが、ご意見賜れば幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 No.97お礼欄からの続きで 土井健郎の紹介になります。  ▲ (土井:信仰と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~~~~  次にキリストの言葉を取り上げて いかに信仰の世界が甘えに似ているか それでいて甘えを超越するものであるかを示したいと思う。  ○ 《マルタとマリア》の話  マルタとマリア姉妹の家をキリストが訪問する。マルタはもてなしで忙しい。マリアは手伝わないでキリストのそばに坐りこんで話に耳を傾けている。  腹が立ったマルタがキリストに 私ひとり働いているのをなんとも思わないのか マリアに命じて手伝わせてほしい と告げる。するとキリストがマルタに あなたはいろいろ心を労しているが なくてはならないものはただ一つだけ マリアはそっちを選んだのだから取り上げるわけにはいかない と答えた。  この話はちょっと考えると マルタが奉仕しているのに反し マリアは何もせず キリストの話を聞いて満足しているのであるから マリアの方が甘えているといっていいように見える。しかしよく考えると 自分ひとり働いていることに腹を立て マリアに手伝わせて欲しいとキリストに頼んだマルタに《甘え》があったことは 明瞭である。  それからマリアが実際に《甘え》の感情を自覚していたかどうか明らかではないが もしそれが事実としても キリストが嘉(よみ)したのはマリアが甘えたことではなく 彼女がひたすらキリストの教えに聞き入ったことだったという点を忘れてはならないであろう。  (pp.162-163)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とりあえず引用を終わります。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「無意識」の概念  ☆ 昔は たしかに世間の風潮に流されて 《無意識》の発見は 世紀の発見だと思っていたように思います。どうもフロイトもユングも 基本の問題としてはいただけない。こう考えるようになっています。ラカンだかクリステワ゛だか ドゥルーズとガタリでしたか どうも煮え切らないことばかりを言っているように思います。(難解なので 負け惜しみだと言われても仕方がないのですが)。  さて ご主張の件につきましては わたしも次のように書いております。同感だと思います。  ☆☆ (No.8補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 《自我・超自我・エス》とは何ぞや?  1. 意識していなかったことが 意識に思い浮かぶなら その出所は 潜在意識か無意識かであると思われます。――ですが これはすべて 《わたし》の記憶から現われると考えてよいと思います。  ことさらに無意識を持ち出す言われは必ずしもありません。  ・・・  5. 意識は 記憶・知解そして意志の三つをまとめた《身体=精神》のあり方を知覚し認識すれば そのすべてが意識です。  これは 潜在意識がどうの無意識がこうのというふうな精神分析的な問題として見ないほうがよいと考えます。意識にのぼって来たなら それについて《わたし》が処理すればよいというわけです。どこから来ようとかまわないわけです。  《わたし》のほかに処理する者はいないのですし 《わたし》がいればよいはずです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうもこの問題は 【Q:アスペルガーとアマテラス語方言】で取り上げた社会源病のうたがいにつながるように思います。《無意識》を想定しておけば そのひと一人の個人的な疾病であるかたちにおさまるという見方に 意図的にかどうかを別として つながっているようにも思えます。   それとさらに問題は 例のアーラヤ識をどう扱うかです。(1) 過去におこなった意志行為の余韻なのかその意志の未実現という状態なのかが蓄えられて行くというとき それらはけっきょく記憶野のことでよいのではないか。 (2) もし《仏性》という普遍的な絶対力の想定を このアーラヤ識という場に置くとしても それはどこでもよい。むしろ想定ゆえに どこにも場はないと見るか 場があるとも無いとも分からないと見るかだと思われます。  マルクスの理論がマルクス教になっていたごとく 精神分析もその宗教化のごとき状態になっているかも分かりません。(これは ただ今の思いつきのようでもありますが)。  ★ 「夜のカフェテラス」  ☆ これは アルルでしたかもう忘れていますが NHKの《世界ふれあい街歩き》という番組か何かでこのカフェがまだ今もあるその光景を見せてくれましたよ。  わたしは 大昔に団体旅行で二週間ほどヨーロッパの諸都市を見てまわったのみです。正月でしたが ジュネーヴが寒かったです。  クルマの免許は とっくに更新するのをやめたという経緯で来ています。  ナンパはですね。一度だけしました。経験無しでは心理が読めないのではないかと よからぬことを考えたわけです。めしを食って話をしていたら 相手は知らぬ間に先に自分だけ店を出て行ってしまいました。相手はわたしが ナンパしようとはしていないと思ったのだと思います。  ★ 因みに現在は、刑法に絡め、犯罪対策論-犯罪者処遇法(刑事法)を勉強中でございます。  ☆ わたしは実務にうといですので ほんとうはそろそろ というよりは すでに或る程度はそういう勉強をしていてもいいのですが なかなかそのように回転して行きません。困ったもんです。  ゴッホは ただの畑の絵でもたのしい気持ちになります。  あたらしい問い求めは何にしようかと考え中です。

回答No.96

おはようございます、bragelonneさん。  「ドラ・マールの肖像」(ドラ・マール:ピカソの愛人です)ともなれば、愚生もついていけなくな ります。確かに、色彩は鮮やかなのですが….. どこぞから声が… ( ̄^ ̄)もしもし 絵の鑑賞は人それぞれ で、ドラちゃんがなぜにドラなのか? うん、ちょいと≪心不全≫を思い浮かべながらドラちゃんをみる 【ドラ・マールの肖像】 http://matome.naver.jp/odai/2125792484410590711/2125828883998760671​ 頬には少し赤みはさしているけれど全体的に顔色よくないよ 指先まで黄色みを帯びている < みかんの食べ過ぎか?! ちゃうやろ、黄疸がおきてるとみるべきかな 横断歩道、黄色は注意!飛び出し注意!あぶない あぶない 胸に目をやれば、黒い血が流れ出てる 動脈硬化がおきてんのかな 【弁膜症と心不全】 模式的にみた各種弁膜症の病態とその治療指針 http://www.e-clinician.net/vol34/no359/pdf/sp11_359.pdf 【交感神経:心不全時、役割を転換 心筋休ませる】 http://mainichi.jp/select/science/news/20100105k0000m040103000c.html 注意喚起! 健康であるとついぞそのことに甘え休みをとることも忘れちゃう アイタタタッ…耳イテッ‐☆ おい(-_-;)uuu… えっ?おまえがいうなって?   (-"-)たしかに………(-_-)zzz。  (*^_^*)>゛゛゛ゆうべ爆睡しましたって。。。寝る子は育つ(聖なる甘え?) 裏ドラ一発!神戸事件ー瀧善三郎

bragelonne
質問者

お礼

 リトルキッスさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。  回答No.88にていねいなお悔やみのことばをいただいていますよ。  ★ (*^_^*)>゛゛゛ゆうべ爆睡しましたって。。。  ☆ そりゃよかった。  ★ 寝る子は育つ(聖なる甘え?)  ☆ ほらね。  わたしは徹夜の経験をしない主義でしたので そのくせはついていません。すぐ就寝のくせのほうが強い。少しはならってください。  ★ 絵の鑑賞は人それぞれ  ☆ やっぱしそこに落ち着くのかなぁ。  たしかに絵画の評論というのは 作者の人柄やその生活情況そして時代背景などなどを述べているけれど あるいはまた作画の技術的なことを明らかにしているけれど 《鑑賞》をどこまでおこなっているかとなると あやしい場合が多いように思います。  その点 わたしは真っ正面から作品と向き合って そこから得られた感触やら思いやらを述べるのみです。この意味での・そしてこの方面での《聖なる甘え》は できないものでしょうかねぇ。  感覚どうしがぶつかって 批評やら話し合いにならないでしょうか?  * litt e l kiss さんってだれ?

noname#135843
noname#135843
回答No.95

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ○ サンスクリットに / z / の音韻はありません。/ s / に三つの音があります。ふつうの/ サ・ス・ソ/の子音と 喉の奥で出す/ シャ・シュ・ショ/の子音と 日本語の/シ/の子音の三つです。シャーリフのそれは /シ/の子音のようです。  それにしても 舎利(シャリーラム syariiram )とはまったく違う語のようです。  そして 韓国語説(サル→シャリ)をまだ引っこめないでいたいと思います。  綿密な調査をしていただきまして、誠にありがとうございました。 > ☆ 日本語は 大野晋がいちばんだと思います。(『古語辞典』) ○ いみ【忌み・斎み】 ○ ひめ【秘め】  愚生も、記紀神話について、新書ではございますが、基本的なことを勉強してきましたが、まだまだなようでございます。  こちらの方も、検索いただきましてどうもありがとうございました。厚くお礼申し上げます。 > ☆ 通念によって 死んだら神になる もしくは成仏するというのであれば 神聖であっても避けることもないと思えます。お経を上げることもなく みんなで偲ぶ集まりを持つのがよさそうなのですが。  仰いますように、「避ける」のはおかしな話かと考えられます。本来ならば、“みんなで偲ぶ集まりを持つ”というのが、適切かと存じます。 > ☆ なるほど。これが 《「信頼」(甘えを通して)により》であることが 真骨頂であるように感じました。つまり理知的なはからいによっては たぶん無理なのだろうと思われます。  理知的なはからいをしてしまいますと、かえって陳腐なものになってしまうものと思っている次第でおります。 > Hidocchi さんは 絵のほうはいかがですか?  愚生も、お仲間に参加させていただけるとは、光栄でございます。基本的には“絵画”、“(西洋)音楽”は好きです。絵画、音楽のカテゴリーにも回答を投稿しようと思ったことがございますが、画家、音楽家志望の方が多く、特に入試対策・情報等には愚生は疎いため、回答はできずにおりますが、基本的には趣味の一つでございます。  Pablo Picasso:Family of Saltimbanques, 1905  http://www.nga.gov/fcgi-bin/timage_f?object=46665&image=10505&c=  は、“青の時代”の作品でしょうか。“親友の死” or “青の具材が安価だった(当時のピカソは未だ貧しい1画家に過ぎませんでしたから)”等の諸説がございますが、この頃の絵は、貧しい人たちを描き続けたことで知られていますが、独特の雰囲気の絵が多いように見受けられます。以下の「老いたるギター弾き」もそのときの作品かと思います。 http://art.pro.tok2.com/P/Picasso/Picasso.htm http://www.johngoto.org.uk/essays/Grande%20Parade/grand-parade.html  の一番下の絵の方が、愚生が想像していたものに近いです  ご紹介いただきました、 http://bigmechants.forumactif.com/profile.forum?mode=viewprofile&u=1751  はとても幻想的で、とても印象的な作品かと感じました。  「ドラ・マールの肖像」(ドラ・マール:ピカソの愛人です)ともなれば、愚生もついていけなくな ります。確かに、色彩は鮮やかなのですが…..  皆様、個人的に好きな絵画等ございますでしょうか?  因みに以下のラ・トゥールの「聖ヨセフ」が大好きです。 http://www.ntv.co.jp/louvre/description/pict12.html  駄文ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★☆  ○ いみ【忌み・斎み】 ○ ひめ【秘め】  ☆ まだまだ――大野晋とて 研究の道を究めたとは言えないでしょうし(用言の活用の探究で 已然形=仮定形などと 四段=五段のほかに上・下の二段ないし一段の活用形式がどのように成ったかなどし残しています)―― 保留です。  顔の部位をめぐる語源探究のサイトを紹介いただきましたが 研究を深めておられるようなのですが 全体としてどのような視点でまとめて捉えているのかを知りたいように思いました。  わたしは 日本語に関しては ソシュールの・言語記号の恣意性という仮説が当てはまらないという批判としての仮説を見出しています。音韻の組織 つまりは 母音および子音それぞれの生成とその交替関係ないし親疎関係などの組織体系を明らかにし得るとよいと考えています。  絵画も造詣が深くていらっしゃるのですか。わたしは ただ見てどう感じるかだけだと言っていいくらいですので そのようにお相手していただかないと どうしようもありません。でも感性が何かを言おうとしている場合には わたしも口をはさみたい気持ちです。  ★ 外套を着た男(Mann mit Pelerine - Homme à la Pèlerine)1900  http://www.von-der-heydt-museum.de/untermenus/sammlung/galerien/galerie_kuenstler/galerie_kuenstler/Picasso__Pablo/imagepage0.html  ☆ これは わたしにとって ふつうの絵です。これも青の時代でしょうか。  ★ 捧げもの(贈り物)(Die Gabe - L'offrande), 1908  http://www.von-der-heydt-museum.de/untermenus/sammlung/galerien/galerie_kuenstler/galerie_kuenstler/Picasso__Pablo/imagepage1.html  ★ 道化師の家族(Harlekinfamilie - Famille d'Arlequin), 1908 http://www.von-der-heydt-museum.de/untermenus/sammlung/galerien/galerie_kuenstler/galerie_kuenstler/Picasso__Pablo/imagepage2.html  ☆ これら二つは こうデフォルメされると 勝手にしてちょうだいとなります。分からないという印象です。道化師のほうは 色彩がよさそうですが。女の顔がどうもおかしく感じます。もうもろに感じたままです。  もうこの批評をつづけても しようがないと思われるでしょうから やめますが 出していただいた作品についてひとことです。  ★ 老いたるギター弾き 1903  ☆ なんだか作者つまりピカソは 感情をためないで――内に秘めるというかたちを取らないで――表現しきっているように見えます。  ★ Pablo Picasso: Les Saltimbanques at the Races (1905)  http://www.johngoto.org.uk/essays/Grande%20Parade/grand-parade.html  ☆ あぁ これは《家族》の絵と同じ人物のようで 少し趣きがちがうようにも見えます。色が押さえてあるのと どこか動きがあるように感じます。この色はあせたからではないのでしょうか? あせていないのだとすると 内に秘めた思いがあるかに映ります。女性を描き入れて欲しかったという感じを持ちます。  ★ ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥール:大工ヨセフ 1642頃  http://www.ntv.co.jp/louvre/description/pict12.html  ☆ これは 光の差し具合いで レンブラントを思い起こさせますが その前にも 誰かいましたね。やっと思い出したのは カラワ゛ッヂョです。その作品としては どれがよいのやらよく分かりませんが いちばん素朴なのは マタイの召命でしょうか。きわめて単純です。  ▲ カラワ゛ッヂョ:マタイの召命(Caravaggio :The Calling of St Matthew ) 1599-1600   http://www.shafe.co.uk/art/Caravaggio_The_Calling_of_St_Matthew_1599-1600-_Rome-_Contarelli_Chapel.asp  ☆ いま見ていたら 『夜警』も1642年のようですね。だとすると それらよりは早いとも言えそうです。  わたしのお気に入りは ゴッホです。どれもいい感じです。  ごめんなさい。書きなぐったようになってしまったかと思います。でも表現するとなると こうなります。

  • heartmind
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回答No.94

おはようございます。 あいまいさについてですが、言葉とは本来どこまで分析してもあいまいなものです。「あいまい」という言葉にしてもそうですが、白黒はっきりさせたいものとグレーのものを、白黒はっきりさせるために「あいまい」を定義したにすぎないのです。しかしその定義そのものも、あいまいさは残っています。そんなあいまいなものなのです。ですから、素直に受け入れないと始まらないわけです。辞書を引いてリカーシブルコールに陥ってしまうようなものです。 正義についても同じです。正の義です。やはり相対的なものです。でも言葉は存在する。何もかも同じです。前にも言ったかもしれませんが、言葉ほど適当なものはないのですよ。現象を言葉という入れ物に勝手に入れているにしか過ぎないのです。真実の嘘です。 私が「敬虔なプロテスタント」といったのは、徳のために人生をささげてしまうような人です。ジットの「狭き門」です。 何事も過ぎたるは及ばざるがごとしと言いたかったわけです。極右思想も同じです。人生論として少し距離をおいて沿い立たせるくらいがちょうどいいのであって、政治利用や人間管理にはあまりむかないと個人的には思います。 もっとつっこんでいうと本居宣長さんは「からごころ」の排除は本気で言っているわけではないと思っています。何故なら「からごころ」の排除はほかならぬ「からごころ」(論理的思考)で排除しているわけなのですから、すでにそういう「ふたごころ」なのですから。しかしそこで本居宣長、語るに落ちたり、と思うのは違うのです。学問として取り組まなければならないのですから、お寺の和尚さんみたいに「無」というわけにはいかないのですから。 私は次なる成長は「からごころ」にあると思っています。発展や応用や科学は「からごころ」です。工夫やアイデアは「からごころ」なしにはあり得ません。どんなにヒューマニズムが言われても「偽足」というテクノロジーは否定できないということと同じです。テクノロジーを否定してヒューマニズムを崇拝することは結局は人間を奴隷化していることなのです。介護のテクノロジーが発達することは倫理にそむくことではない。衰えた体をテクノロジーで主体的に補うことは悪いことではない。「からごころ」の合理主義はヒューマニズムにつながるのです。 その証拠にハングルとは違い、こうして漢字交じりのかなという文体なのです。まさにそこにあいまいさの「もののあはれ」があるわけで、「からごごころ」を含有しているとも言えるし、言葉と現象の発生が0か1かを決断することととれば「からごころ」が「もののあはれ」を含有しているとも言えるのです。正にそれは多義であり「もののあはれ」なのです。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まぁ 分かっていて言っておられると思うので 議論を広げませんが 二点 述べます。   ★ その証拠にハングルとは違い、こうして漢字交じりのかなという文体なのです。まさにそこにあいまいさの「もののあはれ」があるわけで、「からごごころ」を含有しているとも言えるし・・・  ☆ 敢えて《甘え》をいま提唱したのもそしてその曖昧さに輪をかけてそこに《聖なる》と添えたのも 曖昧さと論理的な特定との総合的な情況を捉えるためです。  人間を放棄した人間という規定は 白黒をはっきりさせています。  自由意志のその自由が 答責性(説明責任性)をぜんぶ捨ててしまったかたちで発揮されていること これは 自由意志ではなくなっており その意味で人間ではなくなっています。  人間の発言はそれでも 相対的な規定であるのですから 大きくは対話ないし弁証法過程のもとにあるということでしょう。つまり《あいまいさ》は 死ぬまでついて来ることでしょう。と同時に 《究極の悪》という特定も 為し得ると考えます。自由意志という善のまったき欠如が それです。  三つ目です。おまけです。  ★ 私が「敬虔なプロテスタント」といったのは、徳のために人生をささげてしまうような人です。ジットの「狭き門」です。  ☆ 狭き門の筋をもう覚えていませんが 《徳》は観念であり偶像です。いかにうつくしく崇高な理念にかなったものであっても 相対的な概念であるに過ぎません。その実践にしても 同じくです。  ですから もし非思考のなぞに対する敬虔を この徳に当てるというのでしたら それは次元がちがっていると申し上げるほかありません。  分かっていて言っておられるのかも知れませんが これは 対話やあるいは物語においてさえも あいまいにしたままでは立ち行かない哲学の主題であると考えます。どぢゃ?

  • ENERGEAR
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回答No.93

> 何を言っても いともたやすく受け答えできるのですね。  いともたやすく 言い逃れることが出来る人もいれば、いともたやすく的確に「受け答え」できる人の違いは ありますがね... それから、もう一度言っておきますが... No.79お礼欄より~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  向学のためにおおしえいたします。   ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~    ★ 質問者さんは解りますでしょうか?    ☆ どちらでも質疑応答に関係ありません。    ★ 断っておきますが、これは甘えではありません。    ☆ いいえ 甘えです。甘え過ぎです。    ★ むしろ甘えすぎなのは質問者さんかも知れません。     ☆ いいえ そうではありません。どちらかと言えば 回答者さんでしょう。    ★ 先入見(先入観) はもともとありません。    ☆ いいえ そうは見えません。あるでしょう。    ★ 補足やお礼欄に書く私についての意見、主張はすべて質問者さんのことと考えてください。    ☆ 考えません。    以下 おなじ類型での答えです。    こういう話し合いをあなたはしているのです。    分かりましたか? いかにむなしいかが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ このようなやり取りの仕方になっていますよという例示で出したのですよ。分かるかどうかよりも おしえておかねば日本人の心意気がすたるというものですから。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 水かけ論ということじたいが憚られるほどの水準ということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇「水かけ論」(もしくはそれ以下)の水準まで下げたのは 穢れジジイ(質問者)だよな?  違うなら反論してみなさい。

noname#135843
noname#135843
回答No.92

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ★ “舎利”の語源  ☆ これは 仏舎利という系統についてははっきりしていると思います。  ○ sariira ( syariiram ) : the body( of animate or inanimate objects )   2. the constituent element   3. bodily strength   4. dead body    ( Vaman Shivram Apte: the student's Sanskrit-English dictionary 1987 )  ☆ 《遺骨》という意味は見いだせませんが (2)と(4)とから派生しうると考えられます。  お調べいただきまして、どうもありがとうございました。仰られますように、(2)構成要素; (4)死体、から考えますと、《遺骨》になろうかと推察できます。 > しかも 《寿司のご飯》の米はわたしは つぎから来ていると思っていました。  当方でも調べてみたのですが、残念ながら、以下の記載しか見つけられませんでした。 「シャリ:酢飯のこと。仏教語の舎利(飯)、すなわちサンスクリットの米を意味する単語シャーリ (zaali) を語源とする[18]」 [18] 伊藤武(1996)『語るインド』(KKベストセラーズ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E5%8F%B8 日本百科事典 http://encyclopaedicnet.com/japan/a_/a_a__149.html > わたしは すでにふつうの人間存在をまっとうした魂に対して 《忌》という語をつけるのが いやです。そうでなくても ブディズム風の悼む儀式を止めています。あしからず ご了承いただけるとさいわいです。  承りました。それにしましても、今まで気付きませんでした。《忌》という語を自然と使っているのですよね。 「忌む」 (goo辞書からでございます) http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn/12413/m0u/%E5%BF%8C%E3%82%80/  (1)畏敬すべき崇高なものや不浄なものなどを、神秘的なものとして恐れ避ける。 「西洋では一三という数を—・む」 「月の顔見るは—・むこと/竹取」 (2)不快に思って遠ざける。近づくことを嫌う。《忌》 「不正を—・む」 「鏡は湿気を—・む」 (3)けがれを避けて慎む。 「所を去て—・めとも云て/今昔 26」 (4)受戒する。 「—・むことのしるしによみがへりてなむ/源氏(夕顔)」 (1)を見ますと、「忌む」=「秘む」との関連性が疑われるのですが、いかがでしょうか。愚生でも調べてみたのですが、決定的なものはございませんでした。つまり、「秘む」:アマテラス語; 「忌む」:スナノヲ語と思ったのですが….. 「秘密という意味の「ひむ(秘む)」や、恐れを意味する「いむ(忌む)」は、「耳をふさいで嫌がる」というような意味だったかも知れぬ。」 ソース:http://www115.sakura.ne.jp/~byunbyun/wonder1/wonder16.html > つまり《自我》の取り扱いのもんだいです。 「《わたし》をしっかりと捉え(つまり 自己に到来し自己に還帰し) そのわたしどうしとして共生することが肝要なのではないでしょうか?」  原則、上記考えに賛成でございます。「自己をしっかりと見つめ、そして他者(もちろんこの他者なる存在も自己を熟視しているという前提とします)との関係性において、お互い生きていく」ということでございます。  因みに、「1+1=2 である」は、「1x1(自己)」+「1^n(他者の自己)」とも変換され、それらが、「信頼」(甘えを通して)により、「1x1」+「1^n」≧2となるようなことでござ います。個としての日本人は決して強くはございませんが、(各個が集結した)組織としての強さは、世界でも屈指の強さかと考えております。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ サンスクリットの米を意味する単語シャーリ (zaali) を語源とする  ☆ やっと見つけました。  ▲ syaalih (シャーリフ):米( rice ) 2.the  civet-cat(ジャコウネコ)  ☆ 失礼いたしました。ちなみに  ○ サンスクリットに / z / の音韻はありません。/ s / に三つの音があります。ふつうの/ サ・ス・ソ/の子音と 喉の奥で出す/ シャ・シュ・ショ/の子音と 日本語の/シ/の子音の三つです。シャーリフのそれは /シ/の子音のようです。  それにしても 舎利(シャリーラム syariiram )とはまったく違う語のようです。  そして 韓国語説(サル→シャリ)をまだ引っこめないでいたいと思います。  いまの段階でこのように考えます。シャーリフ(米)のこと ありがとうございました。    ☆ 日本語は 大野晋がいちばんだと思います。(『古語辞典』)  ○ いみ【忌み・斎み】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《原義の解説:イはユユシのユの母音交替形。タブーの意。  つまり 神聖なもの・死・穢れたものなど 古代人にとって はげしい威力をもつ 触れてはならないものの意》  [動詞]  1.(口に出すことがタブーだから)決して言葉にしない。   ・隠沼(こもりぬ)の下ゆ恋ふればすべを無み妹が名告りつ―むべきも   のを(万葉集2441)  2.(触れてはならぬと)避ける。   ・心ざしありて〔食ベロト〕言はんを、―みたらんやうに、口をふたぎ   (枕草子196)  3.(ある定まった行為を)してはならぬものとする。    ・今の世の人、夜、一片の火を―む。また、夜、擲櫛(なげぐし)を   ―む(日本書紀 神代・上)  4.相容れないもの 受け容れがたいものとして嫌う。   ・コノクスリカネヲイム(日葡辞書)  [名詞]  1.神聖で触れてはならないものの意。  2.穢れ。不浄。  3.さしさわり。はばかり。特に 日取りや方角などについていう。   * 《受戒する》がないようです。現代語はもともと載っていません。  ○ ゆゆし~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《ユはユニハ(斎庭)・ユダネ(斎種)などのユ。神聖あるいは不浄なものを触れてはならないものとして強く畏怖する気持ち。  転じて 良し悪しにつけて甚だしい意》  ○ ひめ【秘め】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《原義解説無し》  大事にしまい 人に示さない。奥深くしまう。  ○ ひそか【密か】 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《ヒソ・ヒソメ(潜)と同根。漢文訓読体で使う。平安女流文学系では主にミソカを使う》  目立たぬように静かなさま。表立たず 内密のさま。  ○ ひそみ【潜み】 ~~~~~~~~~~~~~~  人目をはばかって ひっそりと隠れるようにする。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 通念によって 死んだら神になる もしくは成仏するというのであれば 神聖であっても避けることもないと思えます。お経を上げることもなく みんなで偲ぶ集まりを持つのがよさそうなのですが。  ★  因みに、「1+1=2 である」は、「1x1(自己)」+「1^n(他者の自己)」とも変換され、それらが、「信頼」(甘えを通して)により、「1x1」+「1^n」≧2となるようなことでござ います。  ☆ なるほど。「1x1(自己)」も「1^n(他者の自己)」も 《わたし》が数としては一であることによって 最小公倍数のごとく共有するところがあると見てもよいでしょうか。  共同主観の成る基礎についてあらためて気づきました。  ★ 個としての日本人は決して強くはございませんが、(各個が集結した)組織としての強さは、世界でも屈指の強さかと考えております。  ☆ なるほど。これが 《「信頼」(甘えを通して)により》であることが 真骨頂であるように感じました。つまり理知的なはからいによっては たぶん無理なのだろうと思われます。限度が低いところで決まってしまうかのように思われます。  Hidocchi さんは 絵のほうはいかがですか? 例のサルタンバンクの絵です。  たぶん決定的なことは言えないでしょうけれど そして漠然としているのでしょうが その感触は 甘えと関係するかも分かりません。