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親鸞再考

 《信仰》という一点に絞ります。次の《信心》は信仰一般であると言えるでしょうか。  ▲ (《歎異抄》 第一章) ~~~~~~~~~~~~~~~~  弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には老少善悪の人をえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。  そのゆゑは、罪悪深重(じんじゅう)・煩悩熾盛(しじょう)の衆生をたすけんがための願にてまします。  しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆゑにと 云々。 http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/ (検索で最初に出ているので) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 一番の知りたいところは   (A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  ☆ です。言いかえれば   (B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  ☆ です。《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。   (C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  ☆ と疑われます。なお   (D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  ☆ と単純に受け取ります。

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  • ctaka88
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回答No.14

これは回答ではありませんが、 >(A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》-と切ってしまっているので  以下、「そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。」という疑問になってしまうのではないでしょうか。 ここは「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつたこころのおこるとき、」までがひとまとまりでこれについては 第十一条に「念仏申さるるも如来の御はからいなり・・」とあるように、「念仏まうさんとおもひたつたこころのおこる」のも「弥陀の誓願不思議」のうちに含まれているのですから、衆生(人間)からのはからいはあり得ないと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ctaka88さん ご回答そしてよきアドバイスを寄せていただきありがとうございます。  まったく おっしゃるとおりだと読み改めました。その説明は 直前の補足欄に述べましたので よろしかったら ぜひ目をとおしていただきたく思います。  そして そこには なお課題があるかにも思いましたので つづってみました。いま ふたたびみたび考えなおしてみますと こういうことになるでしょうか? すなわち  ▲ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき  ☆ この場合に 次のように解釈することになるでしょうか。  〔なお 訂正があります。誤 おもひたつたこころ → 正 おもひたつこころ です。すみません〕。  ○ 弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて往生をばとぐるなりと≫ その《不思議》に着目しつつ ≪ 信じて ≫ どこからか なぞの力を与えられてのように 非思考なる心の伸びを感じ これを促され その受け取り=受け容れ=自覚のあとに ≪ 念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき  ☆ と読むべきでしょうか。  わたしの感覚では 神と変わりないように思えるのですが どうなのでしょうか。そして 他の宗派の信仰形態や如何に? という課題も 見え隠れします。  ありがとうございました。たいへん おそわりました。よろしければ 今後とも おしえてください。

その他の回答 (31)

  • ctaka88
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回答No.32

baka-hageさん、brageloneさんありがとうございます。 真宗に真剣に向かおうとすると、やはり『教行信証』を読むことが必要かなと思いました。 鈴木大拙氏は「浄土真宗の妙好人たちは、禅の高僧と同じ境地に立っておられる」と、baka-hageさんのANo29にありますが、深い信仰を持つ人の生活態度としてこの「妙好人」とキルケゴールのいう「信仰の騎士」がイコールだという印象をずーっと持っています。 また、正法眼蔵に行仏威儀や行持という章がありますが、ここに書かれているのは、修行を続ける中に仏が現成するということであろうと捉えています。したがって、完成した悟りというものがあるのではなく、修行の中にしか悟り=仏は現れないということでしょう。 このあたりに仏教的な信仰の形態があるのかもしれません。 brageloneさんの考える信仰との違いかもしれません。 完成した信仰や悟りを主張するのは仏教ではないと思います。 baka-hageさんは、自ら「baka-hage」と称するだけに、本当に親鸞聖人のことを教えていただきました。ありがとうございます。 単なる印象だけの書き込みでしたが、久しぶりに信仰と宗教について考える機会をもてました。brageloneさんにお礼申し上げます。

noname#80116
質問者

補足

 いえいえ 歎異抄の読みをはじめ いろいろとおしえていただきました。こちらの迷走ぶりも 分かっていただき 問題の核心あるいは信仰の原点というところに おかげで 少しは深く目がとどくようになったかと考えます。  あらためて ctaka88さん 今回のご回答ともども ありがとうございました。  わたしのほうは 今回は 信仰の《形態》 これを 類型的に捉えようという意図のもとに 質問を設定したということもあります。そして おそらく 形態を問うがゆえに 内実が やはり 問われるということなのかなと 途中にても 思いました。  ★ 『教行信証』 / 浄土真宗の妙好人たち / 鈴木大拙 / 禅の高僧 / キルケゴールのいう「信仰の騎士」 / 正法眼蔵  ☆ 『教行信証』のほかは 暗いです。わたしは ブッディスムは 途中で ほっぽり出した恰好になっているからです。  一点 補います。  ★ 完成した信仰や悟りを主張するのは仏教ではないと思います。  ☆ ゴータマ・ブッダすら《〈悟り〉の過程にあった》というご見解であれば それは あたらしい解釈なのではないかと思います。  ★ 完成した信仰  ☆ これにつきましては 細かくは こうです。《信仰の成立の時点=廻心》において 向こうからやって来てわれわれを摂受する弥陀如来のはからいは 《部分的・不完全なのではなく 全体的にして完全である》という意味です。つまり それを受け容れたときの――この原点における――信仰の成り立ち方は 想定として 《完成した》ものである こういう意味です。  それゆえ そのあと 凡夫の至らなさのために 悲しいかな この《完成したもの》が揺らぎ 断続的な持続になるというのが 実態だけれども この信仰は 深められていく。と捉えていました。  〔いま 如来のはからい あるいは 摂受の誓願 これ自体の真っただ中にいると仮定してみてください。そうすれば もはや 非思考としての信は 要らなくなります。あたかもその知恵と能力を見ていますから それに基づいて 思考をさえおこなうかも知れません。つまりは そのときには 誓願に呼応したわれわれ人間のおこなう還相廻向が実践できるようになるのでしょう。そういう意味で 《完全・完成》の想定は 有効だと思います〕。  こうして 信の始まり=原点が 曲がりなりにも 捉えられたとすれば たしかに おっしゃるように その持続・その持続の過程・その持続の過程における 実は 現実に対処する具体的な思想の形態 こういった事柄が 課題として あらたに(と言いますか もともとから) あるのも 実際なのでしょうね。  これについて いい焦点の当て方があれば 質問してみたいとも思います。  もうしばらく時間をおいて 締めることとします。  * 本来のお礼欄には おさまり切りませんでした。

回答No.31

 遅くなりました。またお邪魔させていただきます。 >>わたしの焦点は 信仰の始まる起点 ただ そこにおける心の構造――阿弥陀とわたしとの関係構造の中身―― これにあります。また そのことの説明の仕方にも からんでいます。  「信仰の始まる起点」というのを我々は「廻心(えしん)」と呼びます。これについて、浄土教において廻心は善導大師の『法事讃』の「謗法闡提も廻心すれば皆往く」や、法照の「ただ、廻心して多く念仏せしむれば、能く瓦礫(凡夫)を変じて金(仏)と成らしむ」(括弧の中は注釈です。)という言葉を基礎に、「心を廻して念仏の教えに帰依する」という意味で使われます。  この「廻心」について親鸞聖人は『歎異抄』第十六条のなかで「阿弥陀さまの本願を信じてお念仏しているひとが、つい腹を立ててしまったり、つい悪い事をしてしまったり、つい仲間や友達と言い争いをしてしまったりしたときは、必ず悪の心を悔い改めなければいけないのだという話があります。これは、悪のおこないを断ち、善い行いをしなければならないという、自力の考えではないのでしょうか?」という問いに対して、 「一向専修のひとにおいては、廻心といふこと、ただひとたびあるべし。その廻心は、日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の知恵をたまはりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもひて、もとのこころをひきかへて、本願をたのみまゐらするをこそ、廻心とは申し候へ。」 とお答えになられています。ここで言う「廻心」とは「阿弥陀様の御本願を知らぬ人が、自力の心を捨て阿弥陀仏の御本願に帰入すること」で、入信体験を意味するものを言います。ただ、親鸞聖人が「廻心」という言葉の意義は多様で、 (1)自力の修行としての回向心 (2)廻心懺悔(さんげ)という自己反省 (3)入信体験。 大体この三つが挙げられます。まず、ここで語らえている内容は(1)ではない。しかし、問いとしては(2)のような気もする。けれども、答えとしては(3)のようでもある。では、同書後半の答えを見ますと、 「一切の事に、あしたゆふべに廻心して、往生をとげ候ふべくは、ひとのいのちは、出づる息、入るほどをまたずしてをはることなれば、廻心もせず、柔和・忍辱のおもひにも住せざらんさきにいのちつきば、摂取不捨の誓願はむなしくならせおはしますべきにや。口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もつともなげきおもひたまふべきことなり。信心定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、わがはからひなるべからず。」 と説いて、親鸞聖人が否定する(2)の意味での「廻心」とは「口には、願力をたのみたてまつるといひて、こころにはさこそ悪人をたすけんといふ願、不思議にましますといふとも、さすがよからんものをこそたすけたまはんずれとおもふほどに、願力を疑ひ、他力をたのみまゐらするこころかけて」しまうこと。つまり、阿弥陀仏の本願を信じているといいながらも、善人のほうがいい世界にいけるのではないかという自力の廻心懺悔です。では、本願に任せたものの廻心懺悔はどのようなものであるか、同書に続けて親鸞聖人は 「わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ自然なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力にてまします。しかるを、自然といふことの別にあるやうに、われ物しりがほにいふひとの候ふよし、うけたまはる、あさましく候ふ。」 と説いて「わろからんにつけても、いよいよ願力を仰ぎまゐらせば」といい、悪を犯しても「懺悔しなければならない」のではなく、このような「悪を犯してしまう自分でも阿弥陀様はお救い下さると心ずよくおもう」という自然の廻心懺悔を説かれるのです。これが、前の回答から私がしつこく申しております「深心」の深まりとなるのでしょう。  では、ここからが本題になるかと思いますが親鸞聖人が「ただひとたびあるべし。」とおっしゃっている「信仰の始まる起点」としての「廻心」、つまり(3)の意味での「廻心」するときについて、法然上人は『往生大要鈔』のなかで、 「前後のこと葉相違して心得がたきに似たれども心をととめて是を案ずるに、はじめにわが身のほどを信じ、のちに仏の願を信ず也。ただし、のちの信心を決定せんがために、はじめの信をばあぐる也」 と説いて、「信仰の始まる起点」は、まず身の程を信じ、阿弥陀仏の本願にまかせるということが説かれています。けれども、この「信仰の始まる起点」となる信心の確立についても、回答NO24でご説明したとおり、 「仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て、是の語を持てとは、即ち是無量寿仏の名を持てとなりと。云々。上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。」 と説かれるように、聞→信→念仏という段階で説明されます。この「聞」とは『観無量寿経』のなかでは「仏告阿難。汝好持是語。持是語者即是持無量寿仏名」の言葉とされますが、その根拠としては『無量寿経』における四十八願にも阿弥陀仏はの名を聞く「聞名」による功徳が記されています。また、同経には、 「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。」 「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に至る」 と記されて弥陀の名号を聞くことの功徳が記されています。また、同経には「聞其名号信心歓喜」とあり、やはり信心の基礎には法蔵菩薩が本願を成就し阿弥陀仏と成られたことがあることが説かれています。  このような要因から、親鸞聖人は信心は弥陀より賜る信心とします。『観無量寿経』に説かれる「至誠心・深心・回向発願心」の三心は、『無量寿経』の十八願に誓われた「至心・信楽・欲生」に相応して説かれます。親鸞聖人は『教行信証』信の巻きのなかで「至心信楽欲生」の細かい注釈に先立って「如来の本願にすでに至心信楽欲生のちかいをおこしたまえり」と説いて如来の起こしたもうた信心として、この阿弥陀仏が本願において成就した三心が廻施されて初めて凡夫の信心になります。この凡夫に回向された信心とは、阿弥陀如来の名号の威徳を疑いなく信じる心が「信楽(=深心)」であり、信楽が真実であることをわきまえるのが「至心(=至誠心)」であり、かの浄土へ往生するのが間違いないと決意するのが「欲生(=回向発願心)」となり、すべては「信楽(=深心)」におさまるとされます。また、この阿弥陀仏より賜る三心はあくまで一つの心を三つに分けて説明したに過ぎないもので、「文類聚鈔」には「三心はみな大悲回向心なるがゆえに清浄真実にして疑蓋混じることなし。ゆえに一心なり」と説かれています。  このように、「信仰の始まる起点」ということについて、書いてまいりましたが、凡夫の信心の起点は「深心」であり、また阿弥陀仏の本願成就の時点ということが、両方言えると思います。  本当に申し訳ないですが、質問はまだつついておりますが、仕事の関係で最後までお付き合いできません。今日のところははbrageloneさんが主題とおっしゃっていた「信仰の始まる起点における阿弥陀仏と凡夫との関係」について、浄土教の視点からお話させていただくことでお許し願いたく思います。急ごしらえの文章ですので誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 baka-hage 師匠 まことにありがとうございました。  革命をご期待申しあげております。  はなはだ手抜きのようなお礼のことばですが わが感謝に代えさせていただきとう存じます。  また お会いしましょう。  * 革命は もちろん ブッディスム全体にわたっても でございます。

回答No.30

 こんにちは。引き続きよろしくお願いします。 >>☆ を視聴しましたが これは 一辺や二度では 分かりにくいですね。現代人は 説教ものは 嫌うかも知れません。    それが案外そうでもないんですよ。講義形式の現代の布教が理が勝ちすぎて法義安心を充分に伝えられていないとされる中、聴聞者の感性に訴える節談説教の評価が高まってきています。  節談全盛期の方に言わせると、毎回同じ話を皆さん涙を流して聞いていらっしゃったようです。また、話の内容を全て暗記している方など、つわものもずいぶんいたそうです。 >>節談説教じたいを知りませんでした。どう発展させるかでしょうね。  起源はお釈迦様のお説教であり、『十二分経』の中には「歌」という意味を持つ「gaathaa」という言葉があるように、お釈迦様のお説教にも節がついていたことが伺えます。また、『十二分教』には因縁(尼陀那(にだな)・nidana)聴衆の請問に応じて種々の因縁物語をし、また譬喩(阿波陀那(あばだな)・avadana)例え話がされていたことに由来します。こういったことを基礎に中国にお説教は伝わり、日本において初めて説教を行なった聖徳太子以後、多くの名説教者によって受け継がれていき、鎌倉期に入ると法然上人の門下聖覚によって「安居院流」の説教が樹立されます。有名な『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり・・・」という冒頭の一文は、安居院流説教の名調子からきていると言わています。それが、浄土真宗にも伝わり、江戸期に「節談」という名で呼ばれるようになります。  詳しくは、仏教大学の関山和夫氏の著作に節談の構造・歴史等々記されています。    >>浄土なる絶対の領域のことが 娑婆なる相対の世界に 想定として 遍在するとしても いいわけですが この鐘の音が 弥陀のはからいによって 《お母さん》と聞こえると見なすとすれば それは 飽くまで《主観》の内にとどまることです。どれだけの数の人に共通であったとしても それぞれの主観内の問題であります。 >>○ これを 主観を通り越して すべてに渡って 人びとの共同の観念として そしてその幻想化において等しく 《自他・男女・仏凡・迷悟・老若》の一如という説に持っていくのが 本覚思想であると思います。鐘の音が 《お母さあーん》と言っていると聞け というわけです。つまり これは 《絶対》ではありません。はき違えています。  ちょっと、誤解があるので申しますが、鐘は弥陀のはからいによって「お母さん」聞こえるのではありません。  かわいい小娘の最後の一言を聞いた加典兄妹だからこそ、ただの鐘の音が「母さん」としか聞こえてこないということです。  そして「南無阿弥陀仏」聞くということとの共通点として、「南無阿弥陀仏」の六字であっても同じであり、阿弥陀仏の御本願を知らぬ人が聞けば「ナムアミダブツ」と聞くかもしれないけれども、阿弥陀仏の御本願聞いて下さったからには自分で称えているお念仏でも阿弥陀様の「衆生がかわいくて仕方がない」という阿弥陀様の声にしか聞こえないのです。と述べたいわけです。  あと「加典兄妹」は小沢昭一氏の「また又日本の放浪芸節談説教」に収録されている廣陵(ひろおか)先生のものを聞いてみてください。   >> 如来の側から こちらにやって来るものだからです。部分的に あるいは 不完全なかたちで やって来るとは 考えられません。あとで 疑いは生じるでしょうが 信仰成立の時点に限っては 身も心も――救われると言うよりは―― いわば たも(たも網)で 掬われたといった体験を持つはづなのです。魚になった気分なのです。 >>さもなければ 阿弥陀仏の誓願は 不完全であったと言わなければならなくなります。あるいは ひとによって 絶対であったり不完全であったりすることになります。信の成立は――たとえ 空想としてでも―― 絶対・完全なのです。つまり それは ただ 受け容れるだけなのです。わたしたちが その完全性をつくるわけではなく 絶対を見たわけでもないからです。その声が聞こえた気がした だけです。    確かに信心についてはその通りです。阿弥陀仏よりいただいた信心に違いなどはないと『歎異抄』の中でも語られるとおりです。  しかし、「その声が聞こえた気がした だけです」というのは違います。「加典兄妹」における結論である「南無阿弥陀仏」は「衆生かわいやな」の呼び声であり「我を頼め必ず救うぞ」と聞くのが弥陀を頼む心であるという根拠は、親鸞聖人が『教行信証』において「是以帰命者本願召喚之勅命也」と説いておられることからです。本願召喚の勅命ですから「浄土へ来いよ」の御呼ばれ声が「南無阿弥陀仏」なんですよ。 >> もし いやしくも信仰が成ったなら そのいま現在のすがたで 社会にあって 信心の完成をも想定していないとすれば それは 継起無限に やはり なるのではないでしょうか。限りなく近づくというのは 信仰ではなく 人間のはからいによる努力です。不完全でよいと ふてくされた恰好ではないでしょうか。  それは違います。阿弥陀様は機法一体全てを成就して、私達にご信心を御回向して下さってます。しかし、深心に関しては深まり続ける構造をもつからこそ完成しているのです。  もしも完全という形で終わってしまうものであれば、「本覚思想」とどこに違いがあるのでしょうか?本覚思想は先述の通り、この本覚思想は、衆生の誰もが本来、如来我・真我・仏性つまり本来完全な仏であるということが根底にあります。人間は誰もが完成された仏であるのだから、修行する必要もなければ戒律も守る必要がない、全ては内なる仏の顕現であり凡夫は凡夫のままで仏の姿なのであると解釈されます。そのことによって、愛欲・退廃の全てが肯定され、現に僧侶たちは堕落していき、愛欲・財欲の成就を祈る「玄旨帰命壇」のようなものまで出来て、江戸時代中期には完全に終焉を迎えることになります。  「本覚思想」を見ても完成したとき人は堕落の道をたどります。「阿弥陀仏が本願を完成してくださっているから、何をしてもいい!」という考えが横行したのも同じ理由です。けれども、阿弥陀様はそこまでお見通しだったはずです。信機と信法は「限りなく近づくというのは 信仰ではなく 人間のはからいによる努力です。不完全でよいと ふてくされた恰好」ではなく、完成された阿弥陀仏の救いの心の表れであるといえます。   >>▲ 「往還回向由他力」 >>☆ なのでしょう? >>いま現在 その《往還回向》を実現させようという 弥陀のはからいが ないとは限らないじゃないですか。ないかも知れないが あるかも知れません。 >>それとも 現世では 人を度すことは慎めということでしょうか?   今現在も還相回向はいただいています。私などはお念仏など知らずに死んでいたでしょうが、多くの方々の還相回向をもってお念仏いただかせていただいています。  しかし、私は今現在の私が人を度すことができるほどの人間ではないと思っています。けれどもいつか、仏となり阿弥陀様のお手伝いができたら素敵だなぁとは思います。  前にも申しましたが、「自信教人信」です。私はただただお念仏をするだけしかできませんが、私はその姿で人を度そうとは思っていませんが共感し一緒にお念仏してくれる方がいらっしゃったら嬉しいですね。 >>すべて まかせているわけですから 疑いとか 自己の至らなさとか この種の弱点を拾い挙げても しようがないように思うのですが。  いやいや、そうではありません。法然上人も親鸞聖人も「深心」を重視されるのは、単に救いをいただくということではなく浄土教の実践形態にまで深く関わりをもつからです。この「深心」の信機と信法の二種に分けて説かれていますが、二種一具であると説かれます。つまり、凡夫であることを自覚することは、すなわち凡夫のお念仏させていただくことに直結しています。また、お念仏称えさせていただき阿弥陀様のお救いをいただくことは、自分の至らなさを愚かさをお知らせいただくことでもあるのです。これは、別々に生まれる心ではなく同時に存在する心です。浄土教においてただただお念仏称えさせていただくことが阿弥陀仏への全託であり、それがあらわされるのが深心なのです。法然上人もこの点については『十七條の語法語』のなかで、 導和尚深心釈せんがために、余の二心を釈したもうなり。経の文の三心を見るに一切、行なし、深心釈にいたりて、はじめて念仏の行をあかすところなり。 と説いて、善導は「深心」を説くために他の二つの信心を説いたとしています。その理由として、善導は『観経疏』において三心を「至誠心」「深心」「回向発願心」の順番で解釈するとき深心釈の中にのみ正行・雑行を明かして、阿弥陀仏の本願にある念仏を称えることを勧めていると指摘しています。ですから、「深心」というのは浄土教の骨子というべき信心なのです。  またしても、長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章で本当に申し訳ないです。またしても的はずれなことを書いたかもしれませんが、どうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 でも 絶対の無限のほうを 基本にすえているということは   ☆☆ すべて まかせているわけですから 疑いとか 自己の至らなさとか この種の弱点を拾い挙げても しようがないように思うのですが。  ☆ に通じると思うのです。なぜならば 一 二 三・・・と段階を踏んで進むときのその段差としての《至らなさ》を思うゆえに 念仏を申すのではなく ましてや 信心が起こったのでもないからです。いえ もっと精確に言うべきです。信心が与えられ 始まったゆえに 段階ごとの至らなさを思うようになるのだからです。だって 信心の始まる時でさえ わが愚かさを知るのは――つまり 信機は―― 如来のはからいによるのだからです。  ・・・  長引きそうですね。違いも 徐々に 顔を現わして来ましたね。絶対他力では 一致しているのですがねぇ。やや途中ですが ぜひ この核心について 解き明かしていただければと思います。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん ご回答をありがとうございます。  関心のありかが少し違いましたが 親鸞の信仰一般の内実について 述べていただきましたので この質問の回答集として よかったと思います。  まづ 微妙な焦点ないし力点の置き方の違いについて 述べます。そして その前に 《信心》と《信仰》との微妙な違いについて やっと分かりかけて来たようにも思っていることを まづ お伝えしておきます。  ★ しかし、「その声が聞こえた気がした だけです」というのは違います。・・・本願召喚の勅命ですから「浄土へ来いよ」の御呼ばれ声が「南無阿弥陀仏」なんですよ。  ☆ これは わたしの舌足らずと言いますか 確かに 焦点の置きどころが 別々になってしまいました。おっしゃる内容は 信心の帰着するところであり 信心の始まってからの日常の過程におけるお話であり そのとおりだと思います。(往ってから ふたたび 還ってくることも つけくわえて欲しいと思いますが それは 措いておいてです)。  わたしの焦点は 信仰の始まる起点 ただ そこにおける心の構造――阿弥陀とわたしとの関係構造の中身―― これにあります。また そのことの説明の仕方にも からんでいます。  《弥陀と――想定において――直面した。これは 向こうから来たのであるからには 絶対他力である。というのが わが主観である。と同時に ひとに説明するには 想定というからには 〈声を聞いた気がした だけ〉である。つまり すべては 主観におさまる出来事である。変な言い方をすれば 弥陀とわたしとの二者の世界である》と。  ですから 本覚思想の問題にしても 同じようなのです。  ★ 阿弥陀様は機法一体全てを成就して、私達にご信心を御回向して下さってます。しかし、深心に関しては深まり続ける構造をもつからこそ完成しているのです。  ☆ これも 信心の始まってからの過程を捉えての説明であり そのとおりなのだと思います。ただ 信心の始点においては 《浅い・深い・深まる》という気づかいは ないのだと思います。《弥陀の声がしたということが 部分的だったとか 不完全なかたちだったとか そういうことは あり得ません。身も心も 人格の全体で 掬われた格好なのだ》と考えます。  つまり それだからこそ その後 揺らぎがあって 《深心に関しては深まり続ける構造をもつ》とも言えるのではないでしょうか。原点があると考えるものです。  つまり それだからこそ 本覚思想が 信仰の完成を掲げることとは 真っ向から 対立しています。わたしのは 主観内面での・また想定であるゆえ主観におさまる完全性における出発です。本覚のほうでは あたかも客体についても あるいは 客観的にも 完成が見てとれると言い張るのだと思いますから。  ☆☆ もし いやしくも信仰が成ったなら そのいま現在のすがたで 社会にあって 信心の完成をも想定〔する〕  ☆ というのは――すべて 想定ですが―― 原点とその持続(断続的な持続)として 全人格において帰依したという姿 その意味での完成を言います。摂受が 完全なかたちで成されたゆえ 信心は 完成したかたちで始まった こういう意味です。その後 凡夫にあっては 揺らぎます。したがって 原点回帰の継続ということになります。言いかえると 信心が発進したのは 完成した姿においてであったからこそ その 想定という恰好にある信心が 現実に 深められていくのだと考えます。  繰り返しますが 完成から始めたのであって 一から始めて 二 三・・・と段階を追ってのごとく 高められ深められるのではないと言いたいのですが いかがでしょう。深められるという様相じたいは 共通であるはづです。ですが 後者だと 継起無限になって いつまでも 信心の弱さについて弁解が効くということになります。それは 地道で着実な歩みであるごとくに見えますが その行く先は けっきょく 見えていないと言いますか  あるいは 逆に 弥陀は つねに あたかも馬の鼻先にある目標物であるかに わたしには 映ります。  このとき 次のような考え方が あるいは 出来るのかも知れません。それは 弥陀は とうぜん この世界に遍在している。だが それとは あたかも別に あたかも分身のごとく わたしたちの ほんの一歩前に いつも そのすがたを見せるかたちで 信心を深めさせようと はたらいている。という解釈です。絶対の無限と 継起無限と ふたつの姿を持つという解釈です。  あたっているかどうか たぶん 間違いだと言われると思いますが わたしとしましては 絶対の無限を しっかりと 基本にすえることが 肝心であり それが あれば あとは 表現のあやだとは思います。

回答No.29

 どうも。またしばらくお世話になるかなと思っています。brageloneさんとお話していると、自分の勉強不足を感じさせられます。自分の力量ですと、どこまでお付き合いできるか分かりませんが、私にもうしばらくお付き合いさせてください。 >>如来のはからいが すべてであるということ(絶対他力)を 納得いたしました。  私もそのように思います。法然上人も善導大姉の『観無量寿経疏』の「一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故。」という一文をいただき、浄土教を一宗として改宗しますが、この「順彼佛願故(弥陀の本願に順ずるからである。)」という言葉が日本浄土教の理論の大きな根拠となります。 >>念仏は 経験行為であるゆえ 微妙に細かく分析するなら その称名行為の寸前に すでに聞いていたであろう阿弥陀仏の誓願のことを思い出し しかも なぞにおいて その誓願のちからを受け容れようとする心の伸び(もしくは 開け)が起こり これを《わたし》は みづからの意志行為として=その限りで 我がはからいとして 受けとめ受け容れた。 >>つまりは 念仏を申す寸前に起こったこの一連の出来事――飽くまでも 無根拠において=はからいなく 心が開いた / いづれ耳にして記憶に残っていた弥陀の称号を その心で受け容れた(これは はからい) これら大きくは 二つの要素から成る出来事―― これが 《信じる》という人間のおこないであるのではないか。このことの当否を明確に知りたいと尋ねました。(たとえば No.17補足欄)  ctaka88 さんのお答え(No.23)では 一般に 阿弥陀仏が絶対かどうかの問題を含めて 信仰の成立→念仏行為という時間的な経緯分析については そこまで細かくは 意識しないということだそうです。  それについては、念仏行者が必ず持たなくてはならない心とされている「三心」という信心を得る機縁について、法然上人は先に挙げました『常に仰せられける御詞』には、 仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て、是の語を持てとは、即ち是無量寿仏の名を持てとなりと。云々。上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。 といわれ、「南無阿弥陀仏」という言葉を聞いて阿弥陀仏の本願念仏の教えにふれたならば、阿弥陀仏を信じなさい。信じなければ、教えを聞かなかったのも同じです。たとえ、信じたとしても、念仏を称えなくては信じていないも同じであり、阿弥陀仏の本願も意味のないものになってしまいます。ここでは、信心というのは念仏を称える事そのものであることを示していますが、また文中の「只常に念仏すべし」とあり、念仏を常に称える前提には、「聞(聞法)」と「信(信心)」があるとされています。この信心の前提には「聞法」があって、教えを聞くということが信心の基礎にあるといえます。 >>絶対ではないけれどもその弥陀のはたらきを 心に受け容れたとすれば――つまり 《信じた》とすれば―― それは 絶対ではない部分において 疑いが入っていると言わなければなりません。つまり ほんとうには 信じてはいないわけです。    親鸞聖人は『教行信証』信の巻において善導大姉の『観無量寿経疏』深心釈を読みかえて、このようにお示しになられます。 「二者深心。深心と言ふは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生の摂受して、疑いなく慮りなくかの願力に乗じて、さだんで往生を得と信ず。」 親鸞聖人は法然上人同様に深心を二つにわけています。一つは自力では出離の縁なき罪悪生死の凡夫である事を自覚する「信機」、深心の中だけで見た場合「信機」については法然と差異はみられません。二つは阿弥陀仏の救済が「無疑無慮」に凡夫を救ってくださるということを、凡夫がうけたまわり信ずることを「信法」というのです。この二つ目の「信法」について、法然上人は凡夫が疑うことなく自らの考えを加えることなく阿弥陀仏の本願力を信じるとして、凡夫側の「無疑無慮」としています。それに対して、親鸞聖人は凡夫には「無疑無慮」などと言う完璧な信心を持つことはできるはずもなく、阿弥陀仏の救いこそが疑う余地などなく自らの考えを加える余地のないもので、仏側の「無疑無慮」としています。  つまり、親鸞聖人は凡夫は疑うようにできているという立場を強調するわけです。また、法然上人もこんなお話が残っています。『乗願上人伝説の詞』の中に、 あるとき法然上人は「今回の生において往生したいなぁ」と、おっしゃいました。それを聞いた乗願房は「上人ともあろうお人が、そのような不安げなことをおっしゃられては、他のものはどうしたらよいのでしょうか。」と問いかけると、声をあげて笑いながら、「命尽きて極楽浄土の蓮の台にのるまでは、このような思いがどうして切れましょうか。」とおっしゃいました。 と伝えられています。この言葉からは、法然聖人がどこまでも真実であり、自身の心を偽る事無く深い自己分析をし、また同じ念仏の道を志すものに、本音を隠す事無くともに往生を求めようとする真摯な態度が伺える尊い法語です。法然聖人の「今回の生において往生したいなぁ」という言葉からは、阿弥陀仏を信じていながらも心の中をよぎってしまう「不安」な気持ちが読み取れます。そして法然はその様な気持ちは、「蓮台にのらんまでは、いかでかこのおもいはたえ候べきと。」と言い、自分が実際往生かなうまで、その気持ちは消えないとしています。乗願房の「上人だにもかように不定げなるおおせの候わんには、ましてその余の人はいかが候べき」という言葉からは、一般の社会がもつ、宗教家に対するイメージで「まじめな」「間違えのない」「聖者」などといった完璧な人間像を求める意向にあるということが伺えます。それはまた、宗教ほど外面を取り繕えば、証が立てやすいものはないということが言えましょう。法然が外面を取り繕っていれば、乗願もこのような質問をすることはなかったでしょうが、しかし法然上人は自らを偽る事無く、正直な自分の気持ちをつぶやきの中にあらわしています。鎌倉時代初頭に宗教家でありながら、これほど正直な言葉は法然上人にしてなしえたものでしょう。  このように法然上人自身三心具足し阿弥陀仏を信じていながらも、凡夫であるが故に起きてしまう疑いを抱え、念仏し続けたのです。というより、凡夫であるが故に消す事のできない疑いや不安な心を持ち続けているからこそ、自らは凡夫であり阿弥陀仏にすがる他に救いの道はありえないと、よりいっそう阿弥陀仏への信心を深め念仏をし続けることができるといえます。これが三心でいえば「完璧になれない凡夫」という信機と「そんな凡夫だからこそ阿弥陀仏は救おうとしてくださっている」という信法によって深まる「深心」といえます。  この法然上人のお言葉は親鸞聖人で言えば『歎異抄』第九条の、 「よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり。よろこぶべきこころををさえて、よろこばせざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめて、煩悩具足の凡夫とおほせられたることなれば、他力の悲願は、かくのごときわれらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。」 にあたるといえるでしょう。喜び躍り上がるような心がおこらないという疑いは凡夫ゆえに消すことのできない煩悩のせいであり、愚かな身であることを感じれば感じるほど親鸞聖人は仏の他力を求めてやまなかったのです。阿弥陀仏は煩悩をもって消すことができないでいる凡夫だからこそ、救おうとしてくださっているのですから、よりいっそう往生は確実なものであるといっています。親鸞聖人の確信はそこにあって、疑っていながらもそのような凡夫だからこそ阿弥陀仏は救ってくださるのだとしているのです。親鸞聖人もまた自らの愚かさを衝き抜けるような阿弥陀仏の他力を、力強く、頼もしく、思ったことでありましょう。 >>時が経てば また 別の心が生じるというような気休めの行為だというものでしょう。仮りに このような部分的なその場しのぎが 繰り返されて――《信機→信法→信機→・・・》という過程が展開して――《心の深まり》が仮りにあるとすれば それは わざわざ言わずともよいけれども 基本的には 絶対であるという〔あくまでも〕想定〔ですが〕のもとに 捉えられる。そして これに 心で同意したときなのではないでしょうか。  先に述べたことを踏まえますと、別の心が生じてしまうのは凡夫であるが故の特性であり、その特性を見越した上で阿弥陀仏は御本願を立てておられるのですから、「信機→信法・・・」という経過も弥陀の計らいにおいてなされるのです。ですから、阿弥陀仏が疑う余地がないということであって、凡夫に疑いがないということではありません。そういう意味では阿弥陀仏の「絶対他力」のなかに、凡夫は包括されていることになります。 >>それというのも しかも 親鸞は――あるいは 親鸞も―― 他者もしくは社会に向けての心の伸びにも 触れているからです。いわゆる衆生済度です。つまり ▲ (歎異抄・第五条) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・たゞ 自力をすてて いそぎ浄土のさとりをひらきなば 六道・四生のあひだ いづれの業苦にしづめりとも 神通方便をもて まづ有縁を度すべきなりと 云々。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >>☆ というように 社会的な――必ずしも布教でなくとも――人と人の関係行為に及ぶというときに 絶対なる他力であるという想定でなければ 成し得ないと思われます。そりゃ 表現行為の自由はありますが もし 心に――深心ではなくて――部分的に疑いを容れているようであれば 人に対して 失礼になるでしょう。  『歎異抄』のこの部分は「往相回向」「還相回向」についてですね。親鸞聖人は『教行信証』にお示しくださった、「正真偈」のなかで「往還回向由他力」とお示しになり、「往相・還相二つの回向は阿弥陀仏の他力によって成される。」としています。この往相は還相は以前にもお話したことがあると思いますが、往相は「浄土へ往生する」こと。還相は「浄土から還える」ことです。しかし、これはあくまで往生して後の話です。確かに親鸞聖人は自身の師法然上人を含めた七高僧を、還相の人とあおいでおられました。しかし、法然上人ご自身は自分のことを「還相の人」であると述べられたことはなく、逆に『登山状』において、 「それ流浪三界のうち、いずれの界におもむきてか釈尊の出世にあわざりし。輪廻四生のあいだ、いずれの生をうけてか如来の説法をきかざりし。華厳開講のむしろにもまじわらず、般若演説の座にもつらならず、鷲峯説法のにわにものぞまず、鶴林涅槃のみぎりにもいたらず、われ舎衛の三億の家にややどりけん、しらず地獄八熱のそこにややすみけん、はずべしはずべし、かなしむべしかなしむべし。」 と説いて、自身が迷いの世界である欲界・色界・無色界の三界に流浪する間において、『華厳経』が説かれたときも、『般若経』が説かれたときも、霊鷲山においてお説教があったときも、涅槃される前の最後のお説教にも立ち会えなかったことに対する悲嘆の情が述べられています。この心境は、自己が曠劫の昔より生死を流転し釈尊が仏教をお説きになっているのも知らず、地獄でもがき苦しんでいたかもしれないことを主体的にとらえた境地を端的に示したものといえます。つまり、法然上人自身は「還相の人」であることはまったく考えておられません。  これは、親鸞聖人にとっても同じです。あくまで、凡夫の自覚の上において「還相」は往生後であり、今現在の説法や人間関係におけるものではありません。ですから、これもまた阿弥陀仏の救いは疑いがないからこその言葉であり、自分自身に疑いがないということではないといえるでしょう。 >>▲ 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」 >>☆ であれば 《信じる》の成立 →そして《称名》の行為 という先後があると考えるのですが いかがでしょう。 >>このことが 単に 分析においてだけでよいですから 成立するとなれば やはり わざわざ言わなくてもよいことながら 阿弥陀仏は・その力のはたらきは 絶対であるという確認が出来るはづです。    これは先の法然上人の言葉の中でも聞法→信→念仏という段階でとかれていますね。このシステム自体が阿弥陀仏の選択によるものといえるでしょう。 >>むろん 絶対という概念は 人間にとって 手に取るように分かるものではなく あくまで 想定に属します。虚構です。虚構として 現実です。つまり 阿弥陀仏が もし絶対の領域のことではないとすれば それは 単なる人間の精神の産物であるとなります。いわば想像物として おもちゃです。そうではないと言うためには 絶対そして 絶対他力であると 仮定します。神も もちろん 同様です。  私はbrageloneさんのいう「絶対」というのがよく分からないんです。私は「絶対」と聞くと、本覚思想を思い出してしまいます。  浄土教以前に流行した「本覚思想」おいては、自他・男女・仏凡・迷悟・老若等の二元相対を超えた不二絶対の真理が主張され、二元相対の諸相を不二絶対の本覚(本来我々が備えている悟り)の表れとして肯定していきます。たしかに、私達は細かいことでいろいろ差を付け判断し差別し生きている。本覚思想はそんな私達の狭い了見を解き放つ思想のような気にさせる。けれども、本覚思想はこの相対を超えた絶対の境地の中で、全ては絶対仏もしくは法の表れとして全ては肯定され、もともと凡夫であることも仏の表れなのだから、修行する必要はないというところまで主張されるようになります。  このような中に、二元相対論を主張したのが法然上人です。阿弥陀仏と凡夫とは違うものであるという相対論の中で、阿弥陀仏と凡夫との緊張関係を生み出すことで、阿弥陀仏の救いの絶対性を主張しされます。  ですから、「阿弥陀仏は絶対です。」といわれると、ちょっと違う気がするんですよね。ちょっとうまく説明できませんが、すみません。 >>このように哲学しておかないと 世界の舞台では 通用しないと思いますよ。いかがでしょう。いっさい説明はせずに スマイルばかりの日本人ということになりかねません。あいまいの美学は 内向きでは 通用するんですかねぇ。どうですかねぇ。あの麻生太郎も その美学の波の押し寄せるのに 手こずっているというべきでしょうか。(うつくしく言いすぎですね)。  麻生氏に関してはコメントは控えますが、浄土教はある意味理屈ではない部分が大きいこともいえます。鈴木大拙氏は「浄土真宗の妙好人たちは、禅の高僧と同じ境地に立っておられる」と驚嘆したというのは有名な話ですが、この妙好人と呼ばれる人たちは別に高学歴でもなく逆に一文不知の方々が多く存在しています。そのような方々が、なぜ鈴木大拙氏を驚嘆させるほどの境地に導いたのが、「節談」というお説教で、落語講談浪花節といった日本の話芸の源流と伝えられています。つまり、「節談」の特徴としては理屈を述べる説教ではなく、笑いあり涙ありの物語を中心に法悦(教えを喜び楽しむこと)に浸るお説教です。哲学的な理論を構築してどうやったら世界に通じるかということよりも、笑いと涙で人の共感を呼び共に教えを喜び合うというのが浄土教ではないかなと思います。(今「節談説教」と引くと色々でてきますから、どうぞご覧になってみてください。ちょっと違う浄土真宗が見れると思いますよ。)  まぁ、長々駄文を連ねましたが、まったくまとまってないですね。ごめんなさい。私もまだまだ勉強が足りませんね。申し訳ないです。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 * ☆☆ そりゃ 表現行為の自由はありますが もし 心に――深心ではなくて――部分的に疑いを容れているようであれば 人に対して 失礼になるでしょう。  ☆ これについて 《普遍的な〈初めて〉》としての信仰の成立にもとづけば 疑いを容れる気づかいはないという意味に取ってください。これが 揺らぎますから つねにそのつど 原点のわたしにわたしを掛けて わたしを自乗しつつ すすむのだと思います。如来のはからいを飲んだ原点体験を 何度も 再現するということではないでしょうか。  いえいえ というよりも すべて まかせているわけですから 疑いとか 自己の至らなさとか この種の弱点を拾い挙げても しようがないように思うのですが。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん ご回答をありがとうございます。  ★ 節談説教『加典兄妹』    ☆ を視聴しましたが これは 一辺や二度では 分かりにくいですね。現代人は 説教ものは 嫌うかも知れません。  ★ 落語講談浪花節といった日本の話芸の源流と伝えられています。  ☆ とは知らなかった と言いますか 節談説教じたいを知りませんでした。どう発展させるかでしょうね。  たとえば その鐘が 《お母さん(エミレー)》と聞こえるとかいうのは もう旧いのではないでしょうか。つまりは こうです。  つまりは 《絶対》観にかかわってきます。  ○ 浄土なる絶対の領域のことが 娑婆なる相対の世界に 想定として 遍在するとしても いいわけですが この鐘の音が 弥陀のはからいによって 《お母さん》と聞こえると見なすとすれば それは 飽くまで《主観》の内にとどまることです。どれだけの数の人に共通であったとしても それぞれの主観内の問題であります。   ○ これを 主観を通り越して すべてに渡って 人びとの共同の観念として そしてその幻想化において等しく 《自他・男女・仏凡・迷悟・老若》の一如という説に持っていくのが 本覚思想であると思います。鐘の音が 《お母さあーん》と言っていると聞け というわけです。つまり これは 《絶対》ではありません。はき違えています。  ☆ ただし 別の問題もあります。  ○ 無限には 1,2,3・・・∞とつづくような《継起無限》がありますが これは ほんとうには 無限ではなく 絶対ではありません。ほんとうの無限=絶対は かたちある単位体や部分を持たないからです。仮りに――想像上―― 無限=絶対を分割したとしても その各部分は やはり 絶対であり無限なわけです。  ☆ つまり とりもなおさず 苦言を呈しますが 《信機→信法→信機→・・・》という過程は 実際のことなのですが その過程の一時点において 最初の信仰成立があるはづなのです。それは 如来の側にせよ人の側にせよ 《無疑無慮》であって 完全な《飛躍》なのです。《普遍的な〈初めて〉》として 信仰は成ると捉えます。  なぜなら それは 向こうから つまり 如来の側から こちらにやって来るものだからです。部分的に あるいは 不完全なかたちで やって来るとは 考えられません。あとで 疑いは生じるでしょうが 信仰成立の時点に限っては 身も心も――救われると言うよりは―― いわば たも(たも網)で 掬われたといった体験を持つはづなのです。魚になった気分なのです。  さもなければ 阿弥陀仏の誓願は 不完全であったと言わなければならなくなります。あるいは ひとによって 絶対であったり不完全であったりすることになります。信の成立は――たとえ 空想としてでも―― 絶対・完全なのです。つまり それは ただ 受け容れるだけなのです。わたしたちが その完全性をつくるわけではなく 絶対を見たわけでもないからです。その声が聞こえた気がした だけです。  そうでなければ   ★ 聞法→信→念仏という段階  ☆ における《信》は 精神による想像物として 祀り上げられているだけであり おもちゃのようなものです。  おもちゃでなければ   ○ いま現在 《まづ有縁を度すべきなり》と考えられます。  ☆ そうでなければ ままごとです。《往相還相》は 説かれたものがあるのでしょうが その内容じたいとしては 人間の思考で受け取るほかありません。また この人は すでに今 《還相》にあるかと問うても おそらく 人が判断するようなことでもないのではないでしょうか。おまえは 地獄行きだとか言って 裁くのと そう違わない人間のはからいに属することになります。信心の深さを 判定するというのですから。なぜ 如来に任せないのでしょう。  それに もし いやしくも信仰が成ったなら そのいま現在のすがたで 社会にあって 信心の完成をも想定していないとすれば それは 継起無限に やはり なるのではないでしょうか。限りなく近づくというのは 信仰ではなく 人間のはからいによる努力です。不完全でよいと ふてくされた恰好ではないでしょうか。  ▲ 「往還回向由他力」  ☆ なのでしょう? そして その《他力》に帰依しているのでしょう? ならば いま現在 その《往還回向》を実現させようという 弥陀のはからいが ないとは限らないじゃないですか。ないかも知れないが あるかも知れません。それとも 現世では 人を度すことは慎めということでしょうか?   と言っても 世界を舞台にして 《度す》ことは もはや 《弥陀の誓願》という言葉すら出さないで 信仰をも世界観をも 説明しつつ あとは ふつうの日常生活の問題として 生きるに尽きるとは 思うのですが。

回答No.28

 brageloneさん、私の誤読でしたら、どうかお許しくださいね。  なお、期待しております。お願いしますというコメントは、何か挑発や挑戦ではもちろんなく、いろいろなご検討は、とてもありがたいのです。何らの一物などもありません。  今回のお礼欄での、brageloneさんの仰せのことも実をいうとよく理解できないのです。  どうに扱われ、何を言われてもいいです。  あぁあのユダのことは何も書けませんが、いつも楽しみに訪問させていただいております。ありがとう御座います。

回答No.27

 brageloneさん。  【成るように成るという思想は おのれの美学に あたかも酔いしれるまでに没入できると思うところには 事あれかし主義になります。  ただし それも 感情の移入のみであって 実のところ 思想が形作られるという気配はありません。むしろ 理論をつくるなどということは 最初から いっさい おこないません。要するに 発信が ありません。途絶えさせているのです。受信も ただ 感情をとおしてのみ おこないます。おこなった気になります。対話は 断絶という言葉と イコールです。】  これは私の投稿文章のご理解ですか?私が【成るように成るという思想】だということでしょうか?  それはご理解が違うと存じますが、それとは別に、【自分のことばで 考えようとしない。また 語ろうとしない。こういう主義主張についてです。】についての質問とは、どういう取り上げ方が有意義なのでしょうね。  もちろん今次の私の投稿のことが契機になるのでしたら、俎板に載せていただいて結構ですよ。希望し、期待しております。お願いします。

noname#80116
質問者

お礼

 わたしの現在の度量を超えています。  というのが わたしの現在の愛のかたちです。

noname#96295
noname#96295
回答No.26

>《最初〔のわたし〕》を そのつど 自乗して わたしの冪を作っていくのが 信仰の動態であり それとしての生の過程です。< とおっしゃるのですが、 「わたし」がわたしを自乗しているのでもなければ、 「わたし」がわたしの冪を作っていくのでもないということ、 これはキリスト教徒にも求められている姿勢かと思っておりましたが違いましたか。 表象とおっしゃるのは、representationのことでよろしいのでしょうか、むしろimageの想起についての疑問かな。 現前というものがすでに代替でしかないものなのですが、 イメージとはおしなべて代替表象で、内実は「無」、人知で問い得ず、です。表層的なあらわれです。 近代西欧がイメージ論をイコン論ではない体系として築けたのは、仏教の影響です。 仏教の影響が始点ですから、近代のイメージ論は仏教の思想に回収される性質のものです。 わたしが念仏を代替と言ったのは、まさに表象となったものを心に入れるだけでよい、想起するだけでよい、 絵や言葉を心に浮かべて書いたり言ったりすればよいからです。 他者の喜びを自らの喜びとし、他者の痛みを自らの痛みとします、などと凡夫が誓って人間離れのした実践をしなくてよいからです。 阿弥陀の誓願の、考えもなく評議もない不思議の境地に遠くおよばない人間が、 真理なる大切なことを考え、評議するべくもないと。 そうですね、、、播種であり、召喚である、と考えることができます。 表象たる文字、音、姿、はイコンではなくイメージであってそれらのうちに種があり、 誰の心にも入ることができる。そして、 人は露骨に種を口に入れてやれ、刈り取らせてやれと意思するわけではなく、 ナムアミダブツでよろしいわけですから、 たいした意思の働きでもなく、イメージの網にひっかかって乗っかっている。 阿弥陀は種を播いて刈り取れるでしょう。 キリスト教はイコンの宗教ですね。もちろんイコンの上でもイメージのはたらきはありますが、 イコノロジーはちょっと面倒ですね。 対象化が困難であること、全体を対象化できないということについては、 ひらたくいえば、地と図の揺らしにおいてしか対象はないという意味です。 表象は、抽象し捨象されるその揺らしの運動のなかで浮かび上がった図です。 だから自我の認識の一部であると言いましたが、 信仰によって偏執的にないし編集的に、成されるという面もありますね。 イメージの編纂となるわけですが、イメージの編纂はたしかに信仰があってのちに可能でしょう。 即座に否定するためにさえも、信仰は一旦「受け入れられて」います。 アーメンを無用とするためにも一旦はアーメンの成型される契機があります。 表象が編集的となるか偏執的となるか、たしかに信仰の意思に依るところでしょうね。 だがそれがどうしたのでしょう。 人がこのイメージにどんなに固執して頑なな意思を持ったとしても、 種を刈り取る阿弥陀の妨げにはならないでしょう。

noname#80116
質問者

お礼

引用無しですが やはり《信じる》という出来事を加えて欲しいです。   ☆ 《〈信じる〉が成った時点における〈わたし〉》の自乗の問題――これは 破格であり文法違反であるでしょうか。《わたしにとって、生きるとはキリストを生きることである》(ピリピ1:21)という想定での《わたし》とその自乗(1の n 乗 =1)です。    表象論については    ★ 近代西欧がイメージ論をイコン論ではない体系として築けたのは、仏教の影響です。  ☆ を知りませんでした。  ★ ・・・人間が、 / 真理なる大切なことを〔手の内にあると思うまでに〕考え、評議するべくもないと。  ☆ おっしゃるとおりであると同時に こと 信仰にかんしましては    ★ わたしが念仏を代替と言ったのは、まさに表象となったものを心に入れるだけでよい、想起するだけでよい、   ☆ の箇所の《表象》の内容に 《阿弥陀仏が 向こうから やって来たという場面》を 入れて欲しいのです。     《対象化・その困難》については 引用の余裕がないですが おそらく そのとおりだと考えます。  ★ 信仰によって偏執的にないし編集的に、成されるという面もありますね。  ☆ に関して 二つの選択肢について これまた そのとおりですが 微妙な点があります。  すべて偶像として つまり 代替ないし代理表現として 受け取った表象(個々の概念など)を 物語にしてまとめる(その意味での総括的な表象)は どうなんでしょうね。  ★ 表象が編集的となるか偏執的となるか〔は〕・・・種を刈り取る阿弥陀の妨げにはならないでしょう。  ☆ という名文の締めに続くのですが 物語の編纂つまりそれとしての虚構の問題は どうでしょう。次のように捉え得ますでしょうか。   ○ この信仰が編む《虚構》は 《自我の認識の一部》であるしかないかも知れないが 誰にとっても その《自我が癒やされ おのおのの主観において共同のものとし得る内容を持つ》と 無神論者さえもが 同意し得ることが のぞましい。    こうして おおきく《愛》を ひとは表象しようと 喘ぎ求めます。たぶん わたしたちは このようにして この世に 生きています。    * 字数制限があります。取り残した主題について 今後に託します。

noname#80116
質問者

補足

 amaguappaさん amaguappaさんをはじめ みなさんのご投稿によって おもしろく楽しい主題になって わたしとしましては うれしい限りです。ご回答をありがとうございます。    まづ はからい / 思考 / 表象論について 大見えを切ったことを反省しております。もちろん ご議論の行方を受けて ついてまいる覚悟ですが わたしの見方は きわめて 単純なものです。  ○ 《かたち》が あるか・ないか。  ☆ で すべてを決めます。  ○ 脳裡に思い浮かぶものならすべて たとえば 《概念》も とうぜん かたちです。これがある場合を 《象(かたち)に表わす》という意味で《表象》とします。  ☆ そして この今の議論では   ○ この表象があれば 経験行為としての《思考》が伴なうことになり その限りで《はからい》がある。  ☆ このように 尋常ではなく 単純です。失望させて 申し訳ありません。  ○ 愛  ☆ これには 《かたちの無い》場合が 考えられます。存在 つまり 生まれて来て生きていること――わたしたちが これを享受していること―― このことも 因果関係の問題を超えるなら なぞであり 不思議であり かたちをどこにも見出し難い出来事 もしくは 《何ものかとの関係》です。  ○ 《関係》が 《愛》です。人間の存在にかんがみて その《関係》には 《意志》をも 捉えようとすることにもなります。《意志行為のおこなわれる関係過程》 これが 愛です。――したがって この経験世界においても 《かたちの有る〈愛〉》もあるわけです。(単に逆推しているのかも分かりませんが。また ちなみに 経験的な愛は 愛情と憎悪 つまり正と負とがあるヱ゛クトルです。そのつてでは 神の愛は 正負・善悪を超えています)。  ☆ さらに amaguappaさんのイコン論等々を呆れかえらせるお話をしますと   ○ この経験世界におけるものごとは すべて 偶像です。つまり《かたち》のあるものです。偶像は偶像であると知っていれば 偶像をいくら集めようが 問題ではありません。  ☆ 問題は 《自我を滅却した境地》というような表象を つまり偶像を 後生大事に 頭の中で 固めて 抱き続けることです。そういう偶像崇拝は いただけません。そういう《観念》が現われ この観念は 幻想となって どういうわけか その人にも 世の中にも はびこります。《無私・無心》の境地という観念が 大手を振って このQ&Aのコーナーにも 歩きまわっています。  ○ 信仰・特にその成立の問題・しかもその成立の時点は如何にという主題  ☆ これに関してましては パスカルではありませんが ひとことで  ○ 賭け  ☆ という鍵語があるかと思います。  ○ 賭けとして《何ものかを受け容れる(つまり 信じる)》という意志行為であり その直前には 意志のかかわらない出来事があったはづです。  ○ つまり《何ものか(というのは 無根拠のこと)》が あたかも わたしたちに 声をかけて来た。このような直前(もしくは ずいぶん前からでもいいのですが)のまぼろしの声は いっさい《かたち》はありません。わづかに その受け取りにおいて かたちを見せます。やってくるのは 向こうからです。とうぜん わたしたち人間の側のはからいなく です。  ○ しかも 受け取ったものを 心で受け容れるなら 信仰が成ったということです。  この《受け容れ》には――おっしゃるように つまり  ★ アーメンを無用とするためにも一旦はアーメンの成型される契機があります。  ☆ とおっしゃるように―― いわゆる無神論として 無神という絶対のもとに 受け容れる場合もあるわけです。これは 有神論と同等の――良心の自由という人類の公理においての――選択です。受け取ったあと 領収証を発行するか それとも つき返すか これは どちらも自由であり 互いに対等です。  受け取ったなら 《かたちの無い〈愛〉》のことを その無神論者も 知っているということです。  早い話が 《神のこと(その想定)は分かった。だが いちいち その神のことをこの経験世界において 出すな。キリストのキの字をも言わずに わたしを説得するように 表象=記号=しるし(おもに言葉)だけで 言ってみろ》という正当にも自由な一つの立ち場です。    つまりは 親鸞に戻って いまの場合 《人間の側のはからいの無》 このことを――それは 無神論を つまり 《無い》ということを 嫌ってでしょうか―― 《如来のはからい》(絶対他力)と 言い換えているだけなのだと考えられます。  ★ そうですね、、、播種であり、召喚である、と考えることができます。  ☆ 今は 上に 《召喚》の場合をつづってみましたが 《播種》の例としては どうでしょうね。

回答No.25

 回答番号:No.24 baka-hageさんのご投稿を胸を躍らせて、頭を混乱させながら拝読しました。要するに http://kyoto.cool.ne.jp/otera/tanni/​ に力強く、完璧にやさしく書いてあることですね。何かこれに付加したりはかりごとをすると、とてもわからなく為ります。難しい、ぐんと胸に来ない。どうしてもそうなります。親鸞自身は何か著述があるのかどうかわからないが、この歎異抄に何も付け加えることが無いのだと、つくづく思ってきました。  baka-hageさんには申し訳ないが、歎異抄っていうか親鸞には何も解説っていらないのですね。ありがとう御座いました。

noname#80116
質問者

お礼

 成るように成るという思想は おのれの美学に あたかも酔いしれるまでに没入できると思うところには 事あれかし主義になります。  ただし それも 感情の移入のみであって 実のところ 思想が形作られるという気配はありません。むしろ 理論をつくるなどということは 最初から いっさい おこないません。  要するに 発信が ありません。途絶えさせているのです。受信も ただ 感情をとおしてのみ おこないます。おこなった気になります。  対話は 断絶という言葉と イコールです。  補足要求として みなさんに このような思想――無思想などと言われています――に対して どういう分析と 出来ましたら 処方箋とが考えられるか 質問として 提出してみたいと思います。  自分のことばで 考えようとしない。また 語ろうとしない。こういう主義主張についてです。  親鸞なら・・・どう考えたでしょうねぇ。

回答No.24

 こんにちは。真宗の人間としては忙しい時期で来ていなかった間に、おもしろい質問が出ているとは思いませんでした。少しお話させていただきます。 >>(A) 《弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて》というとき そこには 《人間の経験的な思考(はからい)》が伴なわれているのではないか。  これにつきましては、法然浄土教を中心とする日本の浄土教で往生に必須の信心を三つに分けて「三心」が説かれます。その中でも「深心(じんしん)」という心は浄土教にとってはその骨子となる心といえます。  この「深心」については「深く信じる心」として、二種類あると説かれています。法然上人は善導大師の『観無量寿経疏』の深心釈を前面引用して、 「二者深心。深心と言うは、すなわちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには決定して、深く信ず。自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来、常に没し常に流転して、出離の縁有ること無しと。二つには決定して深く信ず。かの阿弥陀仏、四十八願をもって、衆生を摂受したまう。疑い無く慮無く、かの願力に乗じて、定んで往生を得と。」  と説き、深心とは「深く信じる心(深信)」であるとし、また深信には二種類あると示しています。 ●信機  一つは、自分自身が罪悪生死の凡夫であることに気付き、このままでは永遠に悟りを得ることは難しい存在であると深く信じる事です。この、自らの機(機根)を罪悪の凡夫であると信じることを、「信機」といいます。 ●信法  そして二つは、この自分自身の悟りがたいという機根を信じる「信機」に対し、そんな悟りがたい者が救われる、阿弥陀仏による救済の法を信じる「信法」が説かれています。阿弥陀仏が四十八願をもって定めてくださった称名念仏をする事によって、罪悪生死の凡夫であったとしても救って下さるのだと、疑うことなく、自らの考えでいれずに、必ず往生が得られるのであると言う確信を、法を信じるものを「信法」といいます。言い換えれば、阿弥陀仏の救済を確信することいえます。  この二種の深心について法然上人は「浄土教に帰入してみれば、どちらが先であるかは分からなくなってしまうが、浄土教帰入以前であれば信機、信法のという『観無量寿経疏』に説かれている順番で信じなさい。」と説かれています。つまり、浄土教帰入以前の段階においては、自分自身の愚かさを知り、阿弥陀仏の救済を知る、という段階をたどるということです。確かにここでは「自分自身の愚かさを知る」という自身のはからい(人間の経験的な思考)があるといえます。  しかし、この信機は信法は一度で終わることはなくより深まっていく心でもあるといわれます。つまり信機→信法→信機→信法→信機→・・・という具合です。このとき、この自己内観は最初の信機にも目が向きます。お釈迦様は『法句経』のなかで 「もし愚者にして愚なりと知らば、すなわち賢者なり。愚者にして賢者と思える者こそ、 愚者というべし。」 と説いておられますが、「自分はそのお釈迦様が説くような賢者であったろうか?そんなはずはない。自分はそんなことに気づくことのない愚か者であったはず。では誰が気づかせてくれたのか?」という問いとなり。最初の信機の前に「自分の愚かさに気づかせてくださった阿弥陀仏という「信法」が生まれます。こうなると、「信機」「信法」どちらが先か分からなくなり、阿弥陀仏のはからいだけが残るというわけです。   >>(B) 阿弥陀仏は 《絶対》か。  まず、これは違います。確かに阿弥陀仏の救いの力は絶対であるかもしれませんが、阿弥陀仏が絶対なのではありません。阿弥陀様は「神」に様に森羅万象全てを司っているわけではありません。 >>《絶対》であるなら 《はからい》はありえない。あっては おかしいと考えます。  阿弥陀様はいつでも我々を救おうとあの手この手でアプローチしてくださっていると思いますよ。これが、阿弥陀仏はからいですかね。 >>(C) 《不思議》は 《〈絶対〉との対面として 非思考》ゆえ 信仰であると採りますが 《誓願》は 概念を含んでおり それを人が受け取るなら 《思考=はからい》を伴なう。  先ほど「深心」で説明したように、初期の段階ではそうでしょうが、そうじゃなくなっていくんですよ。 >>(D) 《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。  そういう言い方もできますかね。法然上人は『常に仰せられける御詞』のなかで、 「仏阿難に告げたまわく、汝好くこの語を持て、是の語を持てとは、即ち是無量寿仏の名を持てとなりと。云々。上人かたり給える詞には、名号を聞くというとも、信ぜずば聞かざるが如し。たとえ信じずと云うとも、唱えずば信ぜざるが如し。只常に念仏すべしと。」 と説かれています。また、親鸞聖人は信心を重視しますがその理由としては『教行信証』信の巻に、 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」 と説いておられます。ですから、「《念仏》は 《信仰》の現われた一つのかたち。」というよりも「信心=念仏」ということでしょうね。  長々書き連ねましたが、急ごしらえのため誤字脱字乱文はどうぞご容赦ください。  合掌 南無阿弥陀佛

noname#80116
質問者

お礼

 むろん 絶対という概念は 人間にとって 手に取るように分かるものではなく あくまで 想定に属します。虚構です。虚構として 現実です。つまり 阿弥陀仏が もし絶対の領域のことではないとすれば それは 単なる人間の精神の産物であるとなります。いわば想像物として おもちゃです。そうではないと言うためには 絶対そして 絶対他力であると 仮定します。神も もちろん 同様です。    このように哲学しておかないと 世界の舞台では 通用しないと思いますよ。いかがでしょう。いっさい説明はせずに スマイルばかりの日本人ということになりかねません。あいまいの美学は 内向きでは 通用するんですかねぇ。どうですかねぇ。あの麻生太郎も その美学の波の押し寄せるのに 手こずっているというべきでしょうか。(うつくしく言いすぎですね)。  * baka-hageさん このあと 他の宗派と言いますか ブッディスム全体として その《信仰》のあり方はどうなのか これを問いたいという魂胆があります。すでに問うています。→《Q4531636:慈悲は 経験現実か=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4531636.html》です。

noname#80116
質問者

補足

 baka-hageさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづこれまでの経過をたどってみます。  (A)の読みは ctaka88さんに 次のように読むべしとおしえていただきました。ANo.14です。つまりは そのあとの《念仏まうさんとおもひたつこころのおこる》という箇所までを ひとまとまりとして 捉えるべきであり また歎異抄・第十一条の  ▲ 念仏申さるるも如来の御はからいなり  ☆ を基本に据えて 合わせて読むなら 如来のはからいが すべてであるということ(絶対他力)を 納得いたしました。  その後 わたしが次のような細部のことを知りたいと言い出しました。念仏は 経験行為であるゆえ 微妙に細かく分析するなら その称名行為の寸前に すでに聞いていたであろう阿弥陀仏の誓願のことを思い出し しかも なぞにおいて その誓願のちからを受け容れようとする心の伸び(もしくは 開け)が起こり これを《わたし》は みづからの意志行為として=その限りで 我がはからいとして 受けとめ受け容れた。  つまりは 念仏を申す寸前に起こったこの一連の出来事――飽くまでも 無根拠において=はからいなく 心が開いた / いづれ耳にして記憶に残っていた弥陀の称号を その心で受け容れた(これは はからい) これら大きくは 二つの要素から成る出来事―― これが 《信じる》という人間のおこないであるのではないか。このことの当否を明確に知りたいと尋ねました。(たとえば No.17補足欄)  ctaka88 さんのお答え(No.23)では 一般に 阿弥陀仏が絶対かどうかの問題を含めて 信仰の成立→念仏行為という時間的な経緯分析については そこまで細かくは 意識しないということだそうです。  これらを踏まえて baka-hageさんのご教授につきましては 次のご指摘を 表現しなおした命題が 基本になるということではないでしょうか。  ★ 確かに阿弥陀仏の救いの力は絶対であるかもしれませんが、阿弥陀仏が絶対なのではありません。  ○ →《阿弥陀様は「神」の様に森羅万象全てを司っているわけではありません》が そのはからい・誓願つまり《救いの力は絶対であるかもしれません》。  ☆ とうぜん そうでなければ 《信じる》という行為は起きないですよね。そうでない場合に 心の開きが仮りに生じて 絶対ではないけれどもその弥陀のはたらきを 心に受け容れたとすれば――つまり 《信じた》とすれば―― それは 絶対ではない部分において 疑いが入っていると言わなければなりません。つまり ほんとうには 信じてはいないわけです。  部分的にでもいいからというのは ただ その場しのぎで 藁にもすがりたいというだけの心理的な それゆえ時が経てば また 別の心が生じるというような気休めの行為だというものでしょう。仮りに このような部分的なその場しのぎが 繰り返されて――《信機→信法→信機→・・・》という過程が展開して――《心の深まり》が仮りにあるとすれば それは わざわざ言わずともよいけれども 基本的には 絶対であるという〔あくまでも〕想定〔ですが〕のもとに 捉えられる。そして これに 心で同意したときなのではないでしょうか。  それというのも しかも 親鸞は――あるいは 親鸞も―― 他者もしくは社会に向けての心の伸びにも 触れているからです。いわゆる衆生済度です。つまり  ▲ (歎異抄・第五条) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・たゞ 自力をすてて いそぎ浄土のさとりをひらきなば 六道・四生のあひだ いづれの業苦にしづめりとも 神通方便をもて まづ有縁を度すべきなりと 云々。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というように 社会的な――必ずしも布教でなくとも――人と人の関係行為に及ぶというときに 絶対なる他力であるという想定でなければ 成し得ないと思われます。そりゃ 表現行為の自由はありますが もし 心に――深心ではなくて――部分的に疑いを容れているようであれば 人に対して 失礼になるでしょう。  ▲ 「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。」  ☆ であれば 《信じる》の成立 →そして《称名》の行為 という先後があると考えるのですが いかがでしょう。このことが 単に 分析においてだけでよいですから 成立するとなれば やはり わざわざ言わなくてもよいことながら 阿弥陀仏は・その力のはたらきは 絶対であるという確認が出来るはづです。

  • ctaka88
  • ベストアンサー率69% (308/442)
回答No.23

brageloneさんは、キリスト者ということですからどうしても絶対者=神と霊にいくのでしょうが、仏教としては阿弥陀仏は絶対者ではないということは書き込んでおこうかと思います。 阿弥陀仏は「衆生済度」の一点では《絶対》であるかのように思えますが、amaguappaさんの言うように「阿弥陀が祈りの対象ではない、阿弥陀のはからいを信じて(阿弥陀仏への感謝として)阿弥陀仏を唱える」のであって、絶対者としての阿弥陀仏への祈りではないのです。 また、仏性=霊とも捉えているように見受けられますが、仏性は霊ではありません。我の中に仏性があるわけでもなく、仏性の表れが我であるわけでもありません。「正法眼蔵・第三仏性」にこれでもかと言うぐらいに説かれているのは、個々の具体の中に仏性があると言えばあるのであって、それぞれの事実・具体に先行して設定される本質(イデア?)=仏性というものは無いと言うことです。この辺の理解は、森本和夫先生の「正法眼蔵読解」を参考にしています。 一番重要なことかもしれませんが、私はbrageloneさんの理解しているような意味での信仰を持っていません。私の宗教体験は高校(カソリック系)での宗教の授業とミサへの出席、ほんの何回かの参禅(曹洞)の経験だけです。少なくとも宗教的回心経験はありませんし、禅による三昧経験もありません。 が、宗教のいうそのような経験があるのだろうと言うことは理解しているつもりです。

noname#80116
質問者

お礼

 ctaka88さん ありがとうございます。ていねいに説明していただきました。    煮詰めた議論としましては 勝手に推し測らせていただきますが  ○ 人と人とのあいだで 話が通じないという体験を 持っていらっしゃらないか 持っておられても それを 一生にかかわる重大な事件としては 自由に正当にも 捉えておられないか どちらかではないかと思います。  ☆ わたしの場合は 一生を左右する事件であったものですから そのやはり自由な解釈としての主観においては 《絶対》の問題が 顔を出しました。  もうこのような 互いに同等な差異を確認すれば 一件落着だと思います。そして もしわたしが 勇み足をしようと思えば こうなります。  ○ 回心の経験を持たずとも済むかたちの 回心が成った状態にある場合が 考えられるのではないか。  ○ そして それは 何も 絶対者との非思考の関係にある信仰を持っていることに等しいと言うのではなく そう言うためではなく それも 言わば 意識しないで済むかたちの いわゆる無神論にもとづいている。  ○ つまり 無神論は 有神論を批判・否定するためのものではなく そうではなく 意識しない非思考において 神(有神)のところに 無ないし無神を持ってくるという違いだけであって やはり 互いに 対等であるというものです。  ☆ そのこと自体も 意識しないということなわけですけれど。あとは  ★☆ 阿弥陀仏や仏性を 絶対とのかかわりでは あいまいにしておく。  ☆ という状態とお考えについて いま少し わたしも 考えてみたいと思います。  ○ もし 絶対ではないとしますと 阿弥陀仏や仏性は 単なる雰囲気だということになります。  ☆ それでも 普遍的だと説いているように 受け取るのですが どうなんですかねぇ。いま一度 考えてみます。  ご回答をありがとうございました。一段落を設けるべきかも知れません。  あとしばらく この質問は締めきらずに おきます。  (取り急ぎ書きましたので 書き落としがありましたら あとで お伝えさせていただきます)。

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