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《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》
《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。 ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。 しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。 そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。 現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。 趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。
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我々人類は誰しも「甘え合って」いる。地球社会そのものが貿易などで助け合っている状況からして既に、ここに参加されている皆様も甘え合っているわけだ。しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 よって、「《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。」とは、換言すれば、「長期的な甘えを提唱できないだろうか」といえる。聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 皆様も「長期的に」甘えてくださいよ。堂々と。
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- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ●さまざまな観点からご見解をおおしえください。 身近なところから… へルパンギ―ナ http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k03/k03_08.html こどもがなる病気と思いきや、それがそうでもないからあぶないあぶない 喉の痛み、39度を超える高熱、時期が時期 インフルエンザ?と、疑いたくもなる ウィルス検査をしてみても反応なし(-) ほどなく口の内と外に口内炎花盛り 痛くてモノが食べれない 水分補給もままならない 熱が下がりだした後は 日にち薬で口内炎が治まるのをまつしかない がまんがまんがまん そでも、口内炎の痛さは半端なく痛い がまんはよいこと?わるいこと? 気休めに局所を硝酸銀で焼灼をとおねがいする (-_-;)uuu… しみる
お礼
へえーっ たいへんそうですねぇ。 冬に入るころだったか 熱があるような無いような 咳が出るようなすぐ出ないふつうの状態に戻るかのような があったけれど(一週間以上つづいたのだけれど) その後はおかげさまで何とかやっています。 口内炎ですか。ふううん。たいへんそうですねぇ。 鬼の霍乱の 聞いた範囲では 二度目のようですね。 そんで甘えようというのでもないでしょうに。 甘え甲斐があるかなぁ。あんまし。・・・
- OtamaFJ
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「社会」とは「助け合うために集まったもの」である。それは「甘え」とも表現できる。しかし、そこに時間軸を置いて考えれば頭の中は整理される。 「短期的、短絡的な甘え」~「長期的な意志による甘え」が連続して存在する。あなたの表現する「快楽主義的甘え」→「短絡的な甘え」。「聖なる甘え」→「長期的な意志による甘え」。 生命の欲望としてより強いのは「聖なる甘え」→「長期的な意志による甘え」の方です。長期的な社会の運営を考えての「甘え」なのですから。それは換言すれば「愛」であり、他我意識というべきものです。 「甘え」という表現が、短期的な事象にほとんど使われがちなため、あなたが感じた《聖なる甘え》は、なかなか一般の人々には見えないでしょう。
補足
OtamaFJ さん ご回答をありがとうございます。 ★ 「甘え」という表現が、短期的な事象にほとんど使われがちなため、あなたが感じた《聖なる甘え》は、なかなか一般の人々には見えないでしょう。 ☆ あぁ なるほど。そういうことですか。 ★ そこに時間軸を置いて考えれば頭の中は整理される。 ☆ といった事情がからんでいましたか。 ま 《聖なる甘え》というのは わざと意味内容やその定義をぼかして言ったものなのですが まづは 長期的視点の問題だという捉え方ですね。なぜなら ★ 「快楽主義的甘え」→「短絡的な甘え」。 ☆ であるという見方になります。 しかも ★ 長期的な社会の運営を考えての「甘え」なのですから。それは換言すれば「愛」であり、他我意識というべきものです。 ☆ という解説ももらいました。 その上で――その上でですが―― わたしにはどうも《自我》や《超自我》といった分析手法が 苦手であり正直に言えば 嫌いです。 ★ 他我意識 ☆ と聞くだけでも なぜか落ち着きません。それは要するに 人間の考えによって何とでもなるというような片向きを覚えさせるからだと思っているのですが――つまり 世間に言うデカルト主義であり その延長線上に顔を出した精神分析(無意識の発見というそれです)であるように感じているのですが―― どうなんでしょうかねぇ その理知的な構えと言いましょうか それを何とか自然の感じにして欲しいなぁとまづは思っております。 いささか物言いを添えます。 ★ 「快楽主義的甘え」→「短絡的な甘え」。 ☆ ということですが これはどうも順序がぎゃくであるのではないか? こうも感じられたのですが どうでしょう? 《甘え》といったあいまいな人間関係によるのではなく ましてや《幼児性》を端から唾棄してのごとく貶め その代わりに理知的で論理的な分かりやすい自我意識に互いに目覚めた人と人との社会関係を説く側のほうから どうもまづ先に事物に即した結果を求めるという傾向が生まれた。これが 《短絡的な甘え》につながった。のではないか? さらにその結果 《快楽主義的な甘え》がついて来た。 《わたし》を《自我》という一部分に代表させた結果 即物的な結果(成果)を求める考え方が固まって行き その片側では《快楽主義》の様相を帯びるようになった。《エス ないし イド ないし 〈あれ〉》という人間の一部分の要素もやはりそれとして単独分立するようになってしまった。これが 快楽主義の様相をもたらす。その片側では 経済の成長やらその富やらが言い触らされ言い広められました。 《短絡的思考》とは どうも人間の《わたし》という全人格をいくつかに分断し分析しその部分部分を単独に分立させるような考え方なのではないか? それが先に現われ そのあと富と快楽とが両面作戦のごとくして列車のようにつらなって現われて来た。 おっしゃるように甘えが愛であるなら とうぜんのごとく 甘えの復権が主題になるでしょうね。 ありがとうございました。
- ENERGEAR
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質問者の過去のこのサイトでの質問において「私は寂しいです」と言ったことがあったが、それと甘え・依存についてよく考えてみよう。 1.質問者が寂しいのはなぜなのか。 2.質問者が忌み嫌われているのは 甘え が原因ではないのか。 3.質問者がいつまで絶っても 道理を理解できないのはなぜなのか。 余計な返答しなくて良いから自分のアタマで考えてみよう。 以上です。
補足
◆ 趣旨説明・その七 ○ 《自我・超自我・エス》とは何ぞや? 1. 意識していなかったことが 意識に思い浮かぶなら その出所は 潜在意識か無意識かであると思われます。――ですが これはすべて 《わたし》の記憶から現われると考えてよいと思います。 ことさらに無意識を持ち出す言われは必ずしもありません。 2. その意識に思い浮かんだ内容は すでに判断材料のような個々の素材ではない場合を取り上げます。言いかえると すでに思惟し終えたものでありそこから選択した事柄であるとします。 もしそうであるなら それらはすでに実際の意志行為をかたちづくる事柄です。このとき部分的にその要素を分析したかのごとく 自我だの超自我だのあるいはリビドだのと言いますが これらはすべて《わたし》です。 3. ふつうにいまここにわたしがあるというそのわたしを意識する自我というものや そこからものごとを欲するという欲望一般やにしろ あるいは この欲望をあたかも精査するかのごとく いと高きところを望みこれに従おうとしてよき判断をくだすという良心的な意志にしろ これらはすべて《わたし》です。わたしの記憶と知解と意志のはたらきです。 4. ではなぜ その《わたし》に二つも三つもの我れがあるのか? それはひとえに その昔ものごころがついたときから わが心に逆らってうそをつくという意志行為をおこなったところから出て来ているのではないか。つまり へそ曲がりの結果です。《我れに還る》という我れもあれば それに逆らうへそ曲がりの我れもあります。 5. 意識は 記憶・知解そして意志の三つをまとめた《身体=精神》のあり方を知覚し認識すれば そのすべてが意識です。 これは 潜在意識がどうの無意識がこうのというふうな精神分析的な問題として見ないほうがよいと考えます。意識にのぼって来たなら それについて《わたし》が処理すればよいというわけです。どこから来ようとかまわないわけです。 《わたし》のほかに処理する者はいないのですし 《わたし》がいればよいはずです。 6. 昼と夜。たしかに日とは 《朝が明け 朝から昼を経て夕になり そして夕から夜がおとづれるのであるけれども 夕は夜にはつれて行かれずに つぎの朝を迎える》という思想。 7. 自我だの超自我だの欲望だのといちいち意識の出どころを分けて それによってあたかも《わたし》をも分割しややもすると分裂させてしまっているその種の学問ないし思想は ほとんど有効ではないと考えます。必要ないと思います。 8. なぜなら その人格の――ないし精神の むろんたしかに分析は それとして有用なのでしょうが その――分割思考は それが昼に対してわざわざ《夜》をあたかも同等の世界としてのように 据えているからです。 昼と夜とは ほんとうには同等に対立するものではないと言わなければならないのではないでしょうか? いわゆる善と悪のそれを含めて――つまり悪は 独立しては存在しておらず 善に従属しているに過ぎず―― それら二者が互いに同等に対立すると捉えるときすでにその解決は放棄していると言うべきではないでしょうか? 《暗黒の領域》は ただ文学の世界にのみ任せておけばよいのではないでしょうか。 こう考えないと 《甘え》は思いに現われて来ないと思いました。
大人になると忘れがちですが、甘えるためにはなついている必要があります。 この「なつき」は子供に限りません。 愛をはぐくむ要素であり、老けた大人のキモイなつきであっても純心を回復する効果はあります。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ なつき ☆ これは この動詞から形容詞の《なつかしい(懐かしい)》を派生しているように 何らかのかたちで 幼児や少年のころの風景や親しい人びととかかわっているということでしょうね。 だったら この《なつき / なつかしい》という要素や感覚で ふつうの《甘え》を取り上げてもよいかとわたしも思います。 ★ 愛をはぐくむ要素であり、老けた大人のキモイなつきであっても純心を回復する効果はあります。 ☆ という展開になることも予想されます。たぶんそういう健全な甘えが けっこう重要な位置を占めているのかと推し測られます。たぶんね。
補足
◆ 趣旨説明・その六 さらに土居健郎は述べている。 ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~ 以上のべたこと〔* これは 質問欄での趣旨説明のことです〕と関連していま一つのべておきたいことがある。それは現代の母子関係は伝統的なそれと比較して多分に変わってきているのではないかと思われる節があることである。 育児に専念する母親の数は近年著しく減った。女性は男女同権の旗印の下に社会に進出することを求め 極端な少子傾向が蔓延している。更に数少ない子供の育児もいきおい母親ペースで行なわれる。このことが人工栄養の普及によって可能となったことは疑いを容れない。たしかに人工栄養の進歩は不可避的な理由で母乳が得られない場合 大きな恩恵をもたらすが しかし人工栄養が授乳の様式を子供本位から母親本位に変化させることに大きく寄与したことが問題である。 かくして母親は子供の甘えを受けとめる者ではなく むしろ子供の甘えを規制する者となった。 巷間用いられることの多い教育ママの呼称が何か侵入的な印象を伴ない すべてを包み込む従来の母親像から大きくずれていることはそのことを暗示する。 甘えがよからぬものであるかのごとく見なされる傾向はこれとともに生まれたのである。 もちろんそれでも《甘え》がなくなることはあり得ない。しかしそれはもはやうぶで素直な甘えではない。それはえてして甘ったれた 媚びるような あるいはつけこむ甘えとなる。 これは すぐれて現代的な現象と言わねばならぬのである。 なおこの種の甘えを精神分析の考え方を借りて甘えの性愛化と呼ぶことができるであろう。(p.21) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《聖なる〈甘え〉》あるいは《超然たる〈甘え〉》 こういった情感の方面での対応が 考えられるよ思った。 みづからも甘えるのであるが 宇宙大の甘やかしを敢行しうる度量を持ちたいものである。ただちに卒業となる甘えのことである。 聖なる甘えとは どうすれば敢行しうるか。 自分を愛することである。他人(ひと)を愛することは むづかしいゆえ 自分を愛しなさい。 しからば その愛をあなたは 心の眼ではっきりと見るであろう。 しっかりと見とめたその愛を さらに愛しなさい。 さすれば その愛がいづこより来たれるか これをあなたは 見るであろう。 そのものに あなたは飽きるまで 甘えることができる。 しかるのちは・・・。 * と書いたものの。・・・
- ENERGEAR
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No.2の補足のコメントが後から書かれていたのに気付きましたので説明しましょう。 >回答No.1へのわたしの応答を受けて 考えを述べるようにしてください。 さもなければ 回答を寄せる意図はないと見なします。 その前に他者に依存することを止めなさい。また、他者に「不快だ」と言われたことを するのは止めなさい。 でなければ No.1のお礼欄にての意思表明、意見に対して答える気にはなりません。 おまえが甘える態度、他者を侮りつつも依存する態度を止めれば答えよう。 > さようなら。 この「さようなら」が今後 何回あるんでしょうかね。
補足
◆ 趣旨説明・その五 ○ 《甘え》概念の普遍性 ▲ (土居健郎:続「甘え」の構造) ~~~~~~~~~~~~~ 日本人はもともと全知全能の神の信じたわけではなく またそれと反対に過去に人間の自律を謳歌したこともないが 明治以後西洋に倣い 殊に先の大戦に敗北して以来は 西洋の理想を我が理想とすることを誰もあやしまなくなった。 そしてそれと同時に もともとは大人でも子供でも甘えると思われていたのに 甘えは幼児的であるとしてさげすむ風潮が一般に生じ それとともに西洋におけると同じく精神を病む者の数が増えて今日に至っているのである。 《甘え》理論は私が米国体験のカルチャ・ショックによって日本人の心に刻まれた《甘え》の感性に注目したことに始まったことは前著『〈甘え〉の構造』の冒頭にのべたごとくである。しかし《甘え》概念は幼児性の重要性を再認識させる。 その意味で《甘え》概念は日本人の精神分析に役立つばかりでなく 西洋人の精神分析にも役立つ。かくして近代西洋人の自我意識 殊に敢えて幼児性を否定して自立を主張する場合にそこに屈折した甘えを認めることが可能となるのである。(p.218-219) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- ENERGEAR
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No.2のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いいえ 甘えです。甘え過ぎです。 ☆ いいえ そうは見えません。あるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ↑これらです。 ということです。これについての回答をどうぞ。
補足
◆ 趣旨説明・その四 《甘え》とは――つまり すこやかな甘えや甘やかしとは―― ○ わたしは 池のなかに落ちて 水に濡れずに上がって来た。 ☆ ということを示していないだろうか?
- ENERGEAR
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>☆ わたしがいつ あなたに向かって 《お前はこうだ》と言いましたか?わたしのほうが すべて受け身で応えているに過ぎません。 No.2のお礼欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いいえ 甘えです。甘え過ぎです。 ☆ いいえ そうは見えません。あるでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ↑これらです。 返答をしないで、「いや、お前はこうだ」という虚しいやり取りが続くならこれまでとします。
お礼
★ これまでとします。 ☆ でいいです。 向学のためにおおしえいたします。 ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 質問者さんは解りますでしょうか? ☆ どちらでも質疑応答に関係ありません。 ★ 断っておきますが、これは甘えではありません。 ☆ いいえ 甘えです。甘え過ぎです。 ★ むしろ甘えすぎなのは質問者さんかも知れません。 ☆ いいえ そうではありません。どちらかと言えば 回答者さんでしょう。 ★ 先入見(先入観) はもともとありません。 ☆ いいえ そうは見えません。あるでしょう。 ★ 補足やお礼欄に書く私についての意見、主張はすべて質問者さんのことと考えてください。 ☆ 考えません。 以下 おなじ類型での答えです。 こういう話し合いをあなたはしているのです。 分かりましたか? いかにむなしいかが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようなやり取りの仕方になっていますよという例示で出したのですよ。分かるかどうかよりも おしえておかねば日本人の心意気がすたるというものですから。 さようなら。
補足
◆ 趣旨説明・その三 * すべて覚え書きとしてつづっています。 〇 甘やかす~左のほほをも 《甘え》には 病的な・負のそれだけではなく 健全な甘えがあるという。そのとき《甘やかす》にも すでに相手からの負の甘えを先取りして これを予防するため自らが相手に同一化する(つまり甘える)ことがあるという。 よく あるいは いくらか似ていることに パウロの《自由な者だが すべての人に対して奴隷となった。すべての人を得るためだ》という行動方針があった(趣旨説明・その二)。 さらに 考えるに 《もし だれかが 右の頬を殴るなら 左の頬をも向けてやりなさい》(マタイによる福音書5:38-42)もある。と考えられるのだろうか。 これは むしろ抵抗しているのだ。《だれかが 千歩行くように強要するなら いっしょに二千歩行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に 背を向けてはならない》と説明がつづくように ある種の仕方で 負の甘えの先取りとして こちらから 甘えている。もしくは 相手を甘やかしているのだと考えられる。 甘えは 健全なものならば 人に 自己(つまり 自己の同一性)の回復を得させる。自己への到来を可能にする。自己に還帰した人は もはや 負の甘えを求めることもない。 負の甘えを求めるというのは 甘えられないので 甘えてくることを言う。健全な甘えによって満たされていないので これを 欲する行為である。
- ENERGEAR
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>以下 おなじ類型での答えです。 いえ、同じではありません。「お前はこうだ」と言ってくる事に対して、「そうではない」と自分のことに対して答えているだけです。 質問者は逆に、「おまえはこうである」と何の根拠もなく決め付けているだけです。私は「私はこう感じる」と、No.1でも言及しているに過ぎません。あるいは「質問者さんはこうなのではないですか?」と言っているだけです。決め付けていません。 質問者が「ENERGEARの気持ち、考えがわかる。また、私は私の気持ちが解る。しかしお前は自分の気持ちは解らない。」 と言うなら、「何の根拠もなく決め付けている」とは言えませんが。 >こういう話し合いをあなたはしているのです。 分かりましたか? いかにむなしいかが。 これが答えのようです。
お礼
★ いえ、同じではありません。「お前はこうだ」と言ってくる事に対して、「そうではない」と自分のことに対して答えているだけです。 ☆ わたしがいつ あなたに向かって 《お前はこうだ》と言いましたか? わたしのほうが すべて受け身で応えているに過ぎません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >こういう話し合いをあなたはしているのです。 分かりましたか? いかにむなしいかが。 これが答えのようです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ほんとうにこのように思うのですか? そこまで言うのなら もう何を言っても通用しないでしょうね。そう思うのなら それでもいいですよ。 ★★ (回答No.2) とにかく、今後も☆や★などの記号を使って並列に並べて回答するなら、返答するつもりはありません。 ☆ に従ってください。残念ながらと言いましょうか ああよかったと言いましょうか ぜひそうしてください。必ずそうしてください。
補足
◆ 趣旨説明・その二 次のパウロの姿勢(行動方針)と 負の甘えを予防するために甘えを先取りする《甘やかし》とは よく似ていると思った。 ▲ (パウロ:コリント人への第一の手紙 9:19-23) ~~~~ わたしは だれにも隷属しない自由な者ですが すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。 ユダヤ人に対しては ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。 律法に支配されている人に対しては わたし自身はそうではないのですが 律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。 すべての人に対してすべてのものになりました。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 甘えにも甘やかしにも 同一化つまりその人と同じようになることという要素があるのだろうか。
- ENERGEAR
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> このように引用すると 不快感は覚えないのでしょうか? ★ ☆ このように並べるよりはマシだと感じますが、しかし>を使うと「とんがっていて刺々しい」「あげつらっている」という印象も受けます。その配慮から>を使わない人もいるでしょう。その人たちの気持ちは、私は解ります。質問者さんは解りますでしょうか? まあ、> の代わりに ○や、あるいは下記のように相手の頭文字を使うのが良いとも思えますが。 新しい文体を考えてみてはどうでしょうか。断っておきますが、これは甘えではありません。 b:甘え過ぎだと思いますよ。 いえ、甘え過ぎとは関係ありません。むしろ甘えすぎなのは質問者さんかも知れません。 b:もしくは先入見があるからぢゃないですか? 先入見(先入観) はもともとありません。 とにかく、今後も☆や★などの記号を使って並列に並べて回答するなら、返答するつもりはありません。甘えを増長させないという意味においてもそうしたほうが良いでしょう。補足やお礼欄に書く私についての意見、主張はすべて質問者さんのことと考えてください。 しかし、「おまえのかーちゃん でーべーそ」などと言われたら 「なにお!このくそぢぢい!」とか「そこへ直れ!成敗してくれる」とか「死刑!」などと言う可能性も無きにしも非ずだったりするかもしれません。
お礼
★ 質問者さんは解りますでしょうか? ☆ どちらでも質疑応答に関係ありません。 ★ 断っておきますが、これは甘えではありません。 ☆ いいえ 甘えです。甘え過ぎです。 ★ むしろ甘えすぎなのは質問者さんかも知れません。 ☆ いいえ そうではありません。どちらかと言えば 回答者さんでしょう。 ★ 先入見(先入観) はもともとありません。 ☆ いいえ そうは見えません。あるでしょう。 ★ 補足やお礼欄に書く私についての意見、主張はすべて質問者さんのことと考えてください。 ☆ 考えません。 以下 おなじ類型での答えです。 こういう話し合いをあなたはしているのです。 分かりましたか? いかにむなしいかが。
補足
回答No.1へのわたしの応答を受けて 考えを述べるようにしてください。 さもなければ 回答を寄せる意図はないと見なします。
- ENERGEAR
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☆~~~ ★~~~ こうやって他者と自分の文章を並べて論じるられると、不快感を覚えます。 感覚としては、「ぴたっ と引っ付いて来た」というような 印象です。 甘えというより、「依存されている」という、気持ち悪い印象を受けるのです。 他者に不快感を感じさせるのは 聖なる甘えもしくは超然的なる甘え ではないように思うのですが? しかし、 >殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。 は、わかるような気がします。しかし、いつまでも自分に甘えていろ と言う(もしくはそのような雰囲気で振る舞う)と、逆にあまりにも自己中心的とは逆の、他者(社会)中心的とも言うべき人になるのではと思います。 甘え に該当する言葉はないようですが、依存 に該当する単語はあるようです。従って、日本語の「甘える」が、もともと多分に情緒的で、精密でない言葉であり、将来なくなる可能性もありますね。 「バランス」とは言いたくないですが、どちらにも偏らず、拘りなく無為自然が良いという事になりますね。
お礼
> ☆~~~ ★~~~ こうやって他者と自分の文章を並べて論じるられると、不快感を覚えます。 < このように引用すると 不快感は覚えないのでしょうか? 甘え過ぎだと思いますよ。もしくは先入見があるからぢゃないですか? ★ ・・・しかし、いつまでも自分に甘えていろ と言う(もしくはそのような雰囲気で振る舞う)と、逆にあまりにも自己中心的とは逆の、他者(社会)中心的とも言うべき人になるのではと思います。 ☆ この《しかし》のつながりが 飲み込めません。もし《しかし》の前の命題をうべなうのであれば それを踏まえた上でとなりますから 《いつまでも甘えていろ》という政策は出てこないでしょう。 そのあとの《逆にあまりにも自己中心的とは逆の、他者(社会)中心的とも言うべき人になるのでは》という見方は どう受け取るのがよいでしょう? たとえばその《他者(社会)》が 《自己中心的(勝手気ままに力に任せてやりたい放題)》だったとすれば どうなりましょうか? 要するに《〈わがまま〉中心的と言うべき人になる》とは どういう事態でしょうね? たぶんそういう事態になってしまうのは ★ 無為自然が良い ☆ と言っている場合ではないでしょうか? どうでしょう? つまり社会とはそういうふうに力学がはたらくことになると見られるからです。《無為自然》じたいには罪はないでしょうが それを信念とする場合にいちばん影響が大きいのではないでしょうか? 政治とはそういうものだと見られますよ。 わたしの考えにしたがって 批判をお伝えしました。
補足
◆ 趣旨説明のようなもの――《甘え》についての覚え書き―― 健全な甘えと病的な甘えとがあると見ることを知った。 通過すべき・経験すべき甘えを経験し得ていずに これを求め続ける甘え。したがって 負の甘えがあるということ。 また 甘やかすというのは その相手に同一化することを伴なうのだと。 同一化とは けっきょく甘えのことであって 甘やかすとき 人は その相手がおこなってくるであろう同一化を先取り(preempt)しているのだという。 甘えをこちらからおこなうと 相手は 一たん確かにに甘えてくるのだが そのとき その病的な側面については きちんとわかるようになるのだという。 先取りした甘えは この負の甘えを広く大きく予防することになる。
お礼
OtamaFJ さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 ☆ なるほど。まぁ 《聖なる》は わたしが勝手につけたたとえですけれど 《長期的・全体的な視野》のもんだいであると。 ★ しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 ☆ つまりわたしは このように実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう? たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか? それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。 そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。 自我が育ち確立したからと言って もうそれでよいとはならないはずなのですが そういった方面がどうも気にかかりますし その方面は《甘え》と絡み合っているようにも思えます。思えてなりません。 ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。となるように思いますが どうでしょう?