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《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》
《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。 ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。 しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。 そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。 現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。 趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。
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我々人類は誰しも「甘え合って」いる。地球社会そのものが貿易などで助け合っている状況からして既に、ここに参加されている皆様も甘え合っているわけだ。しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 よって、「《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。」とは、換言すれば、「長期的な甘えを提唱できないだろうか」といえる。聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 皆様も「長期的に」甘えてくださいよ。堂々と。
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- heartmind
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おはようございます。現実問題、本当の意味での戦争体験者は日本でも数少ないと思います。 お国の為に、なりふりかまわず命をささげた魂は純粋で尊いのです。 なので戦争に対してどこか玉虫色になるのです。 しかし、そこは聖域です。浅い考えで立ち入ったり、懐古したりしてはいけないのです。 自己犠牲と言う正義は人間が陥りやすいもっとも美しい生き方と思えてしまうとても危険な思想なのです。 同時多発テロ 神風特攻隊 つきつめれば秋葉原事件も同じです。 敬虔なプロテスタントもややもすると同じになります。 その思想は労働層の奴隷化を導きます。そしてここまで人間を疲弊させてしまいました。そういう発想では今の時代は成長できないのです。
お礼
▲ (近藤道生:私の履歴書22 日経09・04・23)~~~~~~~ 相浦さんは土田さんにこう言ったという。 ――来年の今ごろ 東京には米兵が充満しているだろう。この艦はいづれ おとり艦として撃沈される。志願してこの艦に乗り込んできた私は艦と運命をともにするが 君は内地に帰って我が国の行く末を見守ってくれたまえ。 そして十六日深夜 台湾沖で雲鷹(=艦の名)は敵潜水艦の魚雷を受ける。艦橋で相浦さんは土田さんに ――これを持っておれ。俺は泳げるから。 と言って自分用の救命胴衣を差し出した。土田さんは ――私も泳げます。 と固辞し 救命胴衣を壁に立てかけて 艦橋を出る。 翌十七日朝 ついに艦は沈み土田さんは六時間も荒波にもまれた末 味方の海防艦に救助された。 私が聞いたのはここまでだったが・・・相浦さんの最期を目撃した生存者〔の証言〕。 《艦長は 羅針盤を背にして 洋刀を持って直立され 主計長は 海図台の前に 戦闘服装に軍刀をついて 前方をじっと眺めて直立されていた。(中略) 艦橋における木村艦長と 相浦主計長の最期の姿は 神そのもののごとくでありました》。 沈没の少し前 相浦さんは泳げない水兵に救命胴衣を渡し その命を救っていた。相浦さん二十四歳。凛とした覚悟に 思わず涙をぬぐった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これだって 《なりふりかまわず》に命を長らえていてもよかったと考えます。《なりふりかまいながら》 与えられた使命をまっとうしたとこそ言うべきです。日本のことを後世に託しています。 そもそも戦争ということ自体が くだらないことです。 こういう指揮官はめづらしいでしょうし この指揮官のさらに上には どうもくだらない者がいたのではないかというほうが 問題でしょう。
補足
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 どうもハートマインドさんの文章には 故意にあいまいさを残すという片向きがあるのではないか。あいまいさとは 両義性ですから どちらかひとつ(もしくは多義性としても いづれかひとつ)として解釈する手はあるのですが どうもそのようにもうまく行かない。 或る種の見方として超然的な風情を醸し出してはいるように感じるのですが ただし意味内容が特定しにくい。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (α) 現実問題、本当の意味での戦争体験者は日本でも数少ないと思います。 (β) お国の為に、なりふりかまわず命をささげた魂は純粋で尊いのです。 (γ) なので戦争に対してどこか玉虫色になるのです。 (δ) しかし、そこは聖域です。浅い考えで立ち入ったり、懐古したりしてはいけないのです。 (ε) 自己犠牲と言う正義は人間が陥りやすいもっとも美しい生き方と思えてしまうとても危険な思想なのです。 / 同時多発テロ / 神風特攻隊 / つきつめれば秋葉原事件も同じです。 / 敬虔なプロテスタントもややもすると同じになります。 (ζ) その思想は労働層の奴隷化を導きます。そしてここまで人間を疲弊させてしまいました。そういう発想では今の時代は成長できないのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (α)は 事実認識そのものだとすれば 問題ありません。ただし《本当の意味》が 戦争を実際に経験していなくてもその意味が分かると言っているとすれば 難儀ですね。 (β)は 二点で但し書きが必要でしょう。《なりふりかまわず》ばかりだったとは思えません。《いやいやながら〔も 尻ごみしなかった〕》あるいは《なりふりをかまいながら〔も 人一倍たたかった〕》があり得ます。 もう一点は 《命をささげる》ことは《尊い》ことですが 何をもって《純粋》と言うかは それほど明確ではないでしょう。戦争の途中で戦況を判断して《降伏》するという選択が《純粋》ではないとは言えないはずです。むしろ純粋でなかったから 沖縄からどこから無駄なあがきをしたに過ぎなかった。 ゆえに――つまりいま挙げただけでも これらのゆえに―― (γ)と言えるのではないでしょうか? ただしそのときには《玉虫色》とはあまり言いませんが。 (δ)。《聖域》であろうがなかろうが 哲学はどこにでも首を突っ込みますよ。井戸端会議でいいのです。ただしひとの足を引っ張るだけの発言は 見苦しいだけですが。それらは 人間の表現の自由だとは思えない領域に到っています。人間放棄の状態にあります。 (ε)。《自己犠牲》は《正義》だとは決まっていません。そもそも《正義》という言葉ほどあいまいなものはありません。廃止すべきです。妥当性の問題だと知るべきです。だから犠牲を美化するような特別攻撃隊の思想には反対であるほうが 純粋でありもし言うとすれば《正義》なのです。 生命尊重は 絶対的なただしさを持ちます。人間の自由と同等です。 そこを突くのでしたら 賛同ですが どうも別の見方から この(ε)は結論として同じ内容に辿り着いているように思います。 三つの事例は どれも互いに性格内容が違うと思うのですが どうでしょう? 《敬虔なプロテスタント》 これは全く観念の像です。固定観念です。《敬虔》の中身を説明すべきです。 (ζ)の《その思想》が どうも特定しにくいようです。《自己犠牲の精神を美化する思想》かと言うと 部分的にはそうであっても どうもしっくりと来ない。 かつてサラリーマンが《社畜》と呼ばれたこともありました。《労働層の奴隷化》のことになりますが だからと言って思想や思いを持たなかったわけではない。《いやいやながらも》という場合だって いくらもあった。むしろいわゆる批判をつつしむことが和をとうとぶ精神だというふうにして触れてはいけない《聖域》をつくることこそ 言うとすれば《人間の奴隷化》をうながしたのではないか。 《疲弊》というよりは《思考停止を美化しながら奴隷の自由を謳歌する軟体動物化》ではないだろうか。そうでなければ 長寿化もなかったのではないか。 ま 言いたい放題になりましたが 正面からぶつけました。
- littlekiss
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おはようござます、bragelonneさん。 ●▲ ピカソ :本を持つ女性 http://matome.naver.jp/odai/2125792484410590711/2125792498320451198 ↑ 何を言い出すかとおもえば… 鼻の大きなサルタンバンコいるじゃん!その絵のなかに!!! ( ̄^ ̄)もしもし ●★ 【ドラ・マールの肖像】 ☆ これも趣味が合いませんね。ピカソは大嫌いです。うつくしいとは感じませんから。 ピカソは大嫌いです。 ↑ そですか、お気に召さない?
お礼
リトルキッスさん おはようございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 〔ピカソ :本を持つ女性〕――鼻の大きなサルタンバンコいるじゃん!その絵のなかに!!! ☆ どこに? 鼻が大きいというだけぢゃん! (鼻が大きいのは好きくないけれど)。 ピカソには《サルタンバンクの家族》もありますね そう言えば。 ▲ Pablo Picasso:Family of Saltimbanques, 1905 http://www.nga.gov/fcgi-bin/timage_f?object=46665&image=10505&c= ☆ デフォルメされていないぶん ましだけれど おもしろくない感じでしょう? たのしくないでしょう? つぎのギュスターヴ・ドレののほうが 哀しいけれどあたたかみがあるでしょう? ◆ Gustave Dore:Les Saltimbanques, 1874 http://www.kunst-fuer-alle.de/deutsch/kunst/kuenstler/kunstdruck/gustave-dore/7662/9/73799/les-saltimbanques,-1874/index.htm ☆ これはやはり――感性に個人差はあるでしょうが―― 聖なる甘えのもとにいるかどうかぢゃないですか? つまりたとえいなくても 何を問い求め何を表わそうとするかで違って来ませんか? つぎはどうですか? (いままでに知っていたものだということではないのですが。つまり いま探してみただけですが)。 ■ Honore Daumier :Saltimbanques Resting, 1870 http://www.nortonsimon.org/collections/browse_artist.php?name=Daumier%2C+Honor%E9&resultnum=2 ☆ わるくないでしょう? ピカソはだめ!!・・・・・・・( ̄^ ̄)もしもし。 ついでですから。 ● Kees van Dongen :La gitane ou la curieuse, musee de l’Annonciade St-Tropez http://femmefemmefemme.files.wordpress.com/2009/12/la-gitane-ou-la-curieuse-musee-de-lannonciade-st-tropez.jpg ▼ Amanda Rose:Saltimbanque http://bigmechants.forumactif.com/profile.forum?mode=viewprofile&u=1751 ☆ こちらは 角が生えています。つぎのピカソのは わたしにとって中立です。 □ 『道化役者と子供』 http://blog.goo.ne.jp/tetsu-t0821/m/200703/1 * まぁ 感覚の話なので何とも言えないでしょうが。 ★ T タイムとります! ☆ 分かりました。
>?約束を守ることだ。違えるならば 訳を説明 ご両親との約束は守りましたか? 貴方の人生は言い訳ばかりです。 反省しなさい。
お礼
それがどうした? と言い返したいところだが 《それ》が事実ですらない。 きみの文章には もうあきあきした。
ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 この詩は、bragelonne様の自作なのでしょうか。いたって素朴なのですが、じんわりと胸を打つ詩かと感銘を受けました。 タイトルは、あえて邦訳しますと、「異邦人」ぐらいでしょうか。まだ貧しかりし頃のイタリア人の 出稼ぎ労働者(道化・巡業劇団)のお話かとお見受け致しました。 馬車に揺られながら、各地(中欧アジア諸国)をまわり続けます。 そして、気がつくと海です。「海の向こうに 年が明ければ いるよ」とロードスの地を指しながら… .. そして、言います。 「ベルガモの城は 懐かしいだろ」と。 「There's no place like home!(我が家に勝るところはない)」:映画「ビルマの竪琴」の音楽“埴生の宿(Home, Sweet Home)”からの一節を思い出しました。 しかし、まわり続けなければなりません。「明日の心はもう出たかい?」と、巡業団-道化師としての任を果たしながらです。“思い出・懐かしさ”にふけっていることもままならずに、です。 littlekiss様 文中をもちまして、お母様の御冥福をお祈り申し上げます。 因みに“舎利”の語源は以下のサイトをご参照くださいませ。 http://gogen-allguide.com/si/syari.html そういえば、愚生も、1週間後には、母の三回忌です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 分析することはまったくふつうの広義の哲学作業だと思いますが その分析で得た自我なり無意識なりが 単独で分立するようなかたちになってしまっていないでしょうか? > つまり《自我》の取り扱いのもんだいです。Hidocchi さんからまだ ご見解をいただいていなかったと思うのですが いかがでしょう? これもよく人にいわれるのですが、「自分のことなのに、他人事のように喋るね。」とです。 この件につきましては、明日のでも、ご報告したいと思っております。 それでは、遅ればせながら、お礼申し上げます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それから先日、皆様に「自分の発言には責任を持って」等、誠に差し出がましい発言をしてしまい、誠に申し訳ございませんでした。深く反省している次第でございます。 末尾ながら、深くお詫び申し上げます(どうもごめんなさい)。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 リトルキッスさんとはやり取りが長いので ついぞんざいな応答になります。それ以上にわたしには 受け答えに困ってしまう主題でした。 《異邦人》の詩 気に入っていただけてよかったです。ほかにつられて出したのは翻訳したものです。 ★ “舎利”の語源 ☆ これは 仏舎利という系統についてははっきりしていると思います。 ○ sariira ( syariiram ) : the body( of animate or inanimate objects ) 2. the constituent element 3. bodily strength 4. dead body ( Vaman Shivram Apte: the student's Sanskrit-English dictionary 1987 ) ☆ 《遺骨》という意味は見いだせませんが (2)と(4)とから派生しうると考えられます。 ただ 《米》の系統では はっきりしているとは思えないんですけれど どうなんでしょう? ▲ (サンスクリット vrihi =米 の語源) http://www.boloji.com/history/024.htm ☆ によりますと――全部を読んではいませんが―― ○ インドに米が栽培され始めたその言葉は ドラヰ゛ダ語系: arici サンスクリット系: vrihi ☆ だと言います。後者が 中東やヨーロッパに入って行ったようです。 ◆ ( Online Etymology dict.: rice )~~~~~~~~~~~ http://www.etymonline.com/ 英 rice は 1234年 初出。 ←古仏 ris ←伊 riso,ラテン oriza ギリシャ oryza 。←インドイラン語派のパシュトン vrize, 古ペルシャ brizi そして←サンスクリット vrihi-s 。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひち∽しち【質】のごとく 子音の h∽s は交替し得ます。 ドラヰ゛ダ語系: arici は 《うるち〔米〕》という言葉に現われているらしい。《いね(稲)・こめ(米)》の語は また別にタミル語などにあるらしい。 しかも 《寿司のご飯》の米はわたしは つぎから来ていると思っていました。 ○ 韓国語 ssal :米 ○ サル→サリ / シャリという変化は ・サケ∽シャケ(鮭) ・ばつ∽ばち(罰); せん∽ぜに(銭); ☆ どうなんでしょう? 出していただいた参照サイトには 朝鮮語のことは触れていませんね。 * わたしは すでにふつうの人間存在をまっとうした魂に対して 《忌》という語をつけるのが いやです。そうでなくても ブディズム風の悼む儀式を止めています。あしからず ご了承いただけるとさいわいです。故人との関係で 自分は――くやみが残るのですけれど――精一杯交通し切って送ったと思っております。人びとそれぞれがそういうふうに胸に抱いておられるよう願いつつ祈っております。
- littlekiss
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おはようござます、bragelonneさん。 ●われもう少し若かりせば はぐあんどきっすなんだけれどねぇ。 ↑ 何を言い出すかとおもえば… お気遣いどうも(*^^*)三勿三行(さんこつさんぎょう) 【ドラ・マールの肖像】 http://matome.naver.jp/odai/2125792484410590711/2125828883998760671 【QNo.4148911 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4148911.html (*ただし、インターホン押して注文した品なら とらねばならぬ)ってか? 【がってんばつ丸の寿司職人ゲーム】 http://www.sanrio.co.jp/tv/game/sushi_syokunin.html http://www.sanrio.co.jp/tv/game/sushi_syokunin.html じゅうぶんおわかいです:p 以遠権(いえんけん) http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Suzuran/2319/Airline2.html 不平等条約解消を目指す鹿鳴館 http://news.livedoor.com/article/detail/3503714/
お礼
お早うございます。 ★ 三勿三行 ☆ 解説によって少し違っているようですね。 ▲ 憂れうる勿れ、悲しむ勿れ、怒る勿れ、の三勿と明るく、元気よく、親切にの三行の実践. ◆ 三勿とは三つのしてはいけないこと 怒ること、怖れること、悲しむことである。 三行とは三つの実行すべきことで、正直、親切、愉快にである。 ☆ 《憂うる》と《怖れる》 そして《明るく》と《正直に》の二組がちがう。後者はよいとして 前者はかなり別である。 とは言うものの わたしは見方がちがっています。すべて感性を抑えることはないだろうと考えています。 また感性の具体的な表情――つまり 怒り・憂え・悲しみなどなど――よりも その感性がどのように自分の心から出てくるか その出てくるときのあり方のほうが問題だと思います。何に関してどういう方向(志向性)で出てくるのか。早い話が こころにさからって出てくるのか それとも素直にかです。 すなおにならそれなりの意味があると思いますし そうでない場合には(つまり 心に逆らってその気持ちが出てくるにまかせる場合には) 何を感じてもおもしろくないでしょうし 抑えたり してはいけないと考えたりしてもやはりたのしくないように思います。 ごめんなさい。わたしは【道徳規範は愚の骨頂】だと考える人間です。 ★ 【ドラ・マールの肖像】 ☆ これも趣味が合いませんね。ピカソは大嫌いです。うつくしいとは感じませんから。 ▲ ピカソ :本を持つ女性 http://matome.naver.jp/odai/2125792484410590711/2125792498320451198 ☆ この程度のキュビスムならまだだいじょうぶですが。デフォルメ〔のうつくしくないところ〕がいやなのです。 ★ 【QNo.4148911 無意識ないしアーラヤ識をめぐって おうかがいします。】 ☆ あぁ そう言えばこの《無意識》でさらになお問うてみたいですね。 ★ 【がってんばつ丸の寿司職人ゲーム】 ☆ やってみたけれど 0巻だった。何がいけないんだろう。出来あがったのを《ポーズ》で出してはいけないんだろうか。 ★ じゅうぶんおわかいです:p ☆ ども。m(_ _)m ★ (*ただし、インターホン押して注文した品なら とらねばならぬ)ってか? ☆ これ分かんない。
オコリザルです。 要らぬマメ知識ですが現代っ子の説明です。 ゼロ戦に代表される英霊の魂は、「ケロロ軍曹」と言うかわいらしいギャグ漫画に引き継がれています。 英霊の魂がまとっていた業因は洗い清められ、現代はケロロ軍曹が活躍する時代です。 カエルがモチーフです。 実験動物としてのカエルです。 それをもって人類の生存をかけた実験が戦争とも言いうるでしょう。 漫画とはこのように読み方によっては大人でも面白いんです。
お礼
そうですね。《特別攻撃隊》について次のような事実も 参考になるのではないかと思います。 ▲ (ヰキぺ:特別攻撃隊) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A ○ 特攻に反対した指揮官 部隊に打診のあった特攻作戦を撥ね付けて、これが黙認された第343海軍航空隊(343空)の志賀淑雄飛行長の例もある。 戦争末期でのこのような事例は珍しい。 また、熟練者による夜間通常襲撃の有効性を主張し、特攻を指示する上層部を論破して終戦まで沖縄に夜間襲撃を続けた芙蓉部隊隊長の美濃部正少佐も部下に特攻をさせなかった人間として後世の評価は高い。 第203航空隊戦闘303飛行隊長であった岡嶋清熊少佐も、特攻には断固反対であり、国賊と言われても自らの部隊からは特攻隊を出さなかった。 玉音放送後も徹底抗戦を唱えて反乱状態となった厚木航空隊第302航空隊の小園安名司令も、特攻には反対していたという。 また、『桜花』(神雷特別攻撃隊)空輸の一式陸攻部隊の部隊長だった野中五郎少佐は、特攻には批判的だったが、自身は特攻作戦で戦死する。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 英霊の魂 ☆ とは言ってもひとくちにまとめられるものとも思えないんです。(漫画を知らずに言っていますが)。
オコリザルです。 世代間の伝承について証言です。 私はおもちゃ屋さんですが最近の子供たちはゼロ戦をかっこいいとは思わないんですよ。 ライトフライヤーなんかと同じ昔の飛行機としか見なしていない。 戦争体験を語る人生の先輩がいるうちはゼロ戦は実に勇敢にたたかった英霊の魂がこもっていたが、もはや伝承していません。 これは業因は伝播しないで、くたばっちまえばお終いであることの表れです。
お礼
オコリザルさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ 世代間の伝承について ☆ その焦点の当たり具合いが 微妙にちがうようにも思うのですが どうでしょうか。 ★ ゼロ戦 ☆ というモノの取り扱いの問題と そして《甘え》としての世代間の人間関係の問題とは微妙に違うようにも思いますし あるいは逆にやはり違わないというようにも思えるのですが どういうものなんでしょう? つまり ★ 戦争体験を語る人生の先輩がいるうちはゼロ戦は実に勇敢にたたかった英霊の魂がこもっていたが、もはや伝承していません。 ☆ と伺うと なるほどそういうものかと つまり限界があるのかなと感じますし。そうではなく 《ゼロ戦》という戦闘機なるモノに《たましいがこもる》かどうかではなく もっと複雑な思いや心があったとも聞いています。 《勇敢にたたかう》ことの裏には 人殺しに対する憎悪もあったろうし そもそも戦争には反対の立ち場であっても国策に従ったという場合もあったろうと思われるからです。 どうなんですかねぇ。 ★ 最近の子供たちはゼロ戦をかっこいいとは思わないんですよ。 ☆ これはこれで よいと思いますけれど 全体としてどうなんですかねぇ。
- OtamaFJ
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私は38歳ですが、ある人生の先輩に甘えております。 表面的には大変厳しい方ですが、面白くもあり愛にあふれております。 あなたが言う甘えには「世代間の精神的な再生産」という意味において、あてはまる意味(触れ合い=甘え)もあるかと思います。 《超然的なる甘え》を提唱=「世代間の精神的な再生産」を提唱、ていう。
補足
ご回答をありがとうございます。 ここまで投稿者の方それぞれにお応えしてきましたが そうですね どうなんでしょうか? 《聖なる甘え》と言ってみても むしろあいまいなかたちで唱えているほうがよいかも知れないと思えても来ますし。 ★ 《超然的なる甘え》を提唱=「世代間の精神的な再生産」を提唱、ていう。 ☆ しかと受け取りました。 詩づいていて すでに出したことのあるものですが ここで掲げます。 ▲ (ポール・ヴァレリ:若いパルク) ~~~~~~~~~~~~~~~ 星を散りばめたこんな時間に ひとりして そこで もし 風の音でないとすれば 泣いて いるのは だれかしら いまにも泣こうとしているわたしのこんなにそばで いったい だれが泣いているの 何か心の深い意図に対して憑かれたかのように わたしは わたしのこの手は そっと 目鼻をかすめて わたしの中から それは多分 わたしの弱さの中から ひとつぶのしずくがこぼれるのに 触れたように 思っている 〔わたしは〕わたしの運命をおもむろに超えて 《もっとも純粋なるもの》が 静寂のかなたから この傷ついた心を照らし出してくれることを 待っている 〔大波は〕大波のうねりは わたしの耳に〔は〕 咎めのうねりをささやいている 岩礁の喉のほうへと 欺かれた藻くずを ものを苦々しくも呑むことになったような 心を締め付ける嘆きをざわめかせ 送りやっている 髪を逆立て 凍ったような手をかざして おまえは 何をしているの あらわな胸の谷間を抜ける こんなに執拗な 風に吹かれた落ち葉が ざわめきつづけるのは なぜなの この未知の天空につながれて わたしは きらめいている 災厄を求めるわたしの渇きに 限りない天体は 輝やいている 全能の異邦人のような 星ぼし ・・・ あなたがたとただ独りわたしは ここにおります 寝つかれず床を離れ来て おののいています 暗礁も 驚きに咬まれたように 目をさましました でもそれは どんな苦悩のゆえなのでしょうか わたしのおかしたつみが わたしにおかされたどんなつみとともに 咎められるのでしょう それともわたしはただ 夢を見ているのでしょうか わたしは――部屋の明かりの金色が ビロード色の風に色褪せ―― こめかみを腕に抱き この魂の火花散る瞬間を待っていたのです それらのすべてですって? でも わたしも これらすべてを身に引き受けて ――わたしは この身のあるじなのですから―― おののきで 身をまるごとこわばらせ 血のめぐりも止めたかのように しかも 身のひろがりとつながりは わたしが見ていることを知っていますし そのわたしをわたしは知っています そのわたしは くねらせた身をながめながら こころの森のあることを知っています わたしは ここまで わたしを咬むあの蛇を追って来てしまったのかしら (La Jeune Parque 冒頭) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- heartmind
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はい、基本的にはノンポリは悪ではありません。 しかしあくまで基本的にはです。 極右に先導されて変化したら話は別です。 そしたら軍国主義に戻るのよ、それでいいのかって話です。 騙されるな、目を覚ませ!!
お礼
ううーん。まだNo.80のご回答内容を把握しえていませんが 敢えて――敢えて敢えて敢えて ですが――こういう話を持ちかけてみましょうか。 ★★ (回答No.80) 原爆を落とされた人の気持ちを踏みにじることがどれほどの現実主義かということですよ。 ☆ 被爆者やそのほかの戦争被害者の人びとに対しても そしてなかんづく《お国のために》いのちをささげて散って行った人たちに対しても その気持ちを思って深く長く感傷に浸り切り続けるよりは その《気持ちを踏みにじ》ってでも社会の再建にまい進したほうが その人びとはよろこんだと思いますよ。 両極を並べただけの話ですが アメリカになぜ原爆を落としたのかと問い質し続けることも必要でしょうし それと同時になぜもっと早く降伏しなかったのかと日本政府に問い詰めることも重要だと考えます。しかもこれらは 世の中の再建にすすむ道においてその時にこそ持つ問い求めだと考えます。つまり あなたの言う現実主義ですね。 《軍国主義に戻》ってから軌道修正することは並大抵のことではなくなるでしょうが――まったくそのとおりでしょうが―― かと言って ★ 極右に先導されて変化したら話は別です。 ☆ というふうに 初めっから《決めつけ》をしてしまっては 元も子もなくなるかも知れません。その警戒心の表わし方が どうもわたしには気に喰いません。(これは 気持ちだけの言い草です。気持ちだけで話をしうる相手には そういう姿勢をとるときがあります)。 極右も極左もやくざも わけもなくわたしの足を引っ張るやからも 聖なる甘えのもとに存在しております。どれか一つだけの勢力を取り上げて ★ 騙されるな、目を覚ませ!! ☆ と言うかたち そこに元凶を当てはめるかたち このことは 《わたし》たちのいさぎよしとするところではないと言えるはずです。そう言えることに ★ 目を覚ませ!! ☆ と言い続けて行くことが肝要であるかと考えます。 将来におけるそういう議論のためにこそ――共生のためにこそ―― 先の見えたくだらん戦いにでも甘んじておもむき南海の島々や大陸の山々に散って行ったたましいが いまも われわれを見守っているのではないですか? 議論においては 一尺でも一寸でも道を逸れてはいけないと語っていませんか?
補足
お礼欄をおぎないます。(2010年1月20日) ☆☆ 極右も極左もやくざも わけもなくわたしの足を引っ張るやからも 聖なる甘えのもとに存在しております。どれか一つだけの勢力を取り上げて・・・そこに元凶を当てはめるかたち・・・は 《わたし》たちのいさぎよしとするところではないと言えるはずです。 ☆ と書きましたが この《決めつけ》は 時にはありうると考えなおしました。 《究極の悪》として存在する人間がいると考えました。 ENE・・・という人間です。決めつけました。つまり 人間ではなくなっていると判断しました。その候補もふたりか三人かいますから。 このようにおぎないつつ 不明をおわびします。ごめんなさい。 つまり いてもいなくてもよい人間がいるということを初めて知りました。
- heartmind
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>アメリカと猛進のこと ち が い ますよ。被害妄想ですよ。当時は皆、ノンポリですよ。ギブミーチョコレートです。なので甘え=ノンポリですよ。
お礼
★ ち が い ますよ。被害妄想ですよ。 ☆ 勘違いだったとは分かりましたが はてさて? それにたとえ勘違いでなかったとしても それはわたしにとって《被害妄想》でも何でもないですよ。 ★ なので甘え=ノンポリですよ。 ☆ ということは 生活派ということですよね? やはり健全であるように思いますが? しかも社会における共同生活に思いをおいています。それが甘えだと思うのですが? (えこひいきですけれど 相対的に見て 間違っていないはずですよ)。
お礼
OtamaFJ さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 ☆ なるほど。まぁ 《聖なる》は わたしが勝手につけたたとえですけれど 《長期的・全体的な視野》のもんだいであると。 ★ しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 ☆ つまりわたしは このように実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう? たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか? それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。 そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。 自我が育ち確立したからと言って もうそれでよいとはならないはずなのですが そういった方面がどうも気にかかりますし その方面は《甘え》と絡み合っているようにも思えます。思えてなりません。 ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。となるように思いますが どうでしょう?