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《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》
《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。 ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。 しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。 そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。 現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。 趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。
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我々人類は誰しも「甘え合って」いる。地球社会そのものが貿易などで助け合っている状況からして既に、ここに参加されている皆様も甘え合っているわけだ。しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 よって、「《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。」とは、換言すれば、「長期的な甘えを提唱できないだろうか」といえる。聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 皆様も「長期的に」甘えてくださいよ。堂々と。
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- heartmind
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ブロジェロンヌさん、私の言葉足らずで少し誤解しているかもしれません。敵は極右です。外国人留学生とはあなたのことではなく、○×館のおじさんの手下ですよ。
お礼
★ 言葉足らずで ☆ かどうか よく理解しえなかったですね。いまもよくは分かりません。 ★ 外国人留学生とはあなたのことではなく、○×館のおじさんの手下ですよ。 ☆ 《○×館のおじさん》も そ《の手下》のことも いまピンと来ていません。アメリカと猛進のこと そしてその名を出していることでしょうか? ★ 敵は極右です。 ☆ 部分的にそうですが もっと大きい敵は 決めつけですよ。つまりは 甘えへの遠慮から来るものではないでしょうか?
- heartmind
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おはようございます。すごーい80だって。 えっとですね。本当の現実主義をえらぶった兵隊さんがどのくらい理解しているかということです。原爆を落とされた人の気持ちを踏みにじることがどれほどの現実主義かということですよ。 日本の皆様、お忘れですか?労働の時に高らかにうたった歌を。 えっ、歌っちゃあいけないですか、不謹慎ですか兵隊さん。へえー、しかめっ面して労働しないと気に食わないのですか、少しでも目を輝かせたら気に入らないのですね。 「ビルマの竪琴」でどんな時にみんな歌いましたか? 思考錯誤して作業することが現実逃避という人は一体どっちが現実逃避はのでしょう。私の尊敬する祖母は農家でしたが常に試行錯誤をする仕事人間でした。 みなさん騙されてはいけません。外国人の留学生と表面上だけ比べてはだめです。だれがどんな種類の努力を怠っているかです。 突き詰めれば、現実を受け入れることは現実逃避することなのです。 高らかに現実逃避して現実を受け入れましょう。 一体みなさん何のために書き込んでらっしゃるのですか。
お礼
ハートマインドさん おはようございます。 ご回答の内容をよくは理解できていません。つぎの一点についてのみ反応します。 ★ えっとですね。本当の現実主義をえらぶった兵隊さんがどのくらい理解しているかということです。原爆を落とされた人の気持ちを踏みにじることがどれほどの現実主義かということですよ。 ☆ こういう見方も出来るかと思うのですが どうでしょう? すなわち あえて自虐的に言って《盲従してきた兵隊さん》たちのほうが いま繁栄〔の中の貧困〕の世の中において《個人の自由という旗印のもとにえらぶっている兵隊さん》よりも 人柄において健全であり社会生活において建設的であると。 最大限に敢えて言えば《原爆を落とされた人の気持ちを踏みにじ》ってまでも仕事に精を出し仲間の絆を作ることに努めてきたわれら兵隊のほうが 聖なる甘えに浴し聖なる共生の道を――そのめぐみの道に希望を失うことなく――すこやかにあゆんでいるのだと。 あとは どんでん返しが いつ・誰によって・どのように起こるかです。聖なる甘えのとうとさに いつ・どれだけの人びとが目覚めるかです。被爆者の人たちとともにどれだけの人間が よみがえってくるか。 甘えがなければ無理でしょう。 ただし この甘えにめぐまれている人間は いまの段階と情況ではむしろ あたかも金平糖のごとく上っ面は とんがっていますよ。中味は・・・。
補足
* (投稿したことのあるものですが わたしが 名刺代わりとしていた文章です)。 1 太宰治ではないけれど わたしは萎縮していた。 わたしが萎縮していたのは 抵抗力の現われである。 萎縮という反応じたいが わたしに与えられたわが抵抗力である。 2 わが日本人は 勇敢にも不仕合わせに耐えている。 萎縮しない。 3 だが もしそうだとすれば わたしから見れば そこに抵抗力はない。 4 いや抵抗力があって強いからそうなのだと言うとすれば 互いの仕合わせは すでに諦め 放棄したからだ。自分自身のそれは 放棄していないかもしれない。 5 ここでいう仕合わせとは シンライカンケイのことだ。 6 だから実際には 自分自身の仕合わせ自体は放棄していないというのは ありえない。自己矛盾なり。カンケイなのだから。 7 そもそも〔根はいい人だからという理由で〕人を信じたことのないわたしは そもそも人間じたいについて〔信じてくれと言われて〕信用することはできないと考えているわたしは 信頼関係に入ることについては 諦めていない。 8 たとえば 約束を守ることだ。違えるならば 訳を説明し 詫びることだ。 9 生身の人間どうしの信頼関係にひびが入るのは 実際だ。だから 修復する。諦めない。 10 欺かれるならば 萎縮する。抵抗力があるからだ。諦めていないからだ。 欺かれたというその不仕合わせに勇敢にも耐えることはできない。 存在を放棄することができないからだ。 《欺かれるならば 我れ在り。Si fallor, sum.( Augustinus )》だったのだ。 11 嘘と演技とで 《勇敢にも抵抗する》ことはない。シンライカンケイの破綻なる不仕合わせに勇敢にも耐えて 萎縮はせずに 大胆にも嘘と演技なる虚構のうちに立ち向かうことは しない。そうすることは 抵抗ではないからだ。そうするのは すでに抵抗力がなくなったからで 信頼関係の修復を諦めたからで だからこそ 《果敢なる忍耐》が始まるのだ。萎縮という・存在としての抵抗は消える。 12 なぜって 虚構で破綻を修復しようというのは 修復をほんとうには諦めたからだ。 13 ましてや その破綻に輪をかけて いまのフィクションを二重・三重に膨らますことは出来ない。そうする人 そうできる人は 勇敢にもその不仕合わせに耐えようとしている。 14 破綻という事実は 取り返しのつかないことだと考えているのかもしれない。けれども その破綻の上に城を築こうという。相い対する別の人ごとに蜃気楼閣をふくらませる。 15 不仕合わせに耐える《勇気》は ストーリをこしらえる想像力の豊かさ その演技のうまさへと そこでは 《発展》する。これが 《世の中》であり 《大人の世界》だとなる。 16 不仕合わせに耐えることが出来ないという抵抗力 その能力 これが人間の能力であり この弱さを もし誇るのなら 誇ろう。 17 ぎゃくに言おう。萎縮せずに不仕合わせに耐えられるという理性のちから その強さ これは むしろ人間が人間を信じることができるという美学にもとづいている。 18 根はいい人なのだからというので 人その人については 信用することになっているという一大虚構の美学。日本人であることじたいのシュウキョウ。 19 欺かれて 欺かれるのは当然のことと受けとめたところで抵抗力をなくしたゆえ 幻想の構築に走った・・・。 20 欺かれて 人その人については信用しあっているが 信頼関係についてはその破綻をそれでよいと認めている。そこで 抵抗力を捨てた。いや そんな抵抗力など要らないと考えているのかもしれない。人自身を信用しあっているということについて 実は そのこと自体が虚構なのだから これの構築を絶えず要請される。その基盤には 社会共同のものがよい。古くは 自民党と巨人と太閤秀吉と。《強い》ものであることが要請される。 21 この強さは 死に基盤を置いている。どうせお互い いつかは死ぬ身だ。死ねば 神である。いい人であり 信用しあえる。だから 生きているうちは あるいは もし死にたくなければ えせ宗教でよいから 長いものに巻かれなさい 巻かれつつ 和を以って貴しと為せ。そうすれば 不仕合わせにも耐えられるのだよ・・・。 22 抵抗がなくなった。抵抗力が消えている。不仕合わせに耐えることが出来ないという能力が欠如している・・・状態。 人はこの現実を見よ。
>それは弁証法ですから 互いがそれぞれ一段高いステージに揚棄されていけばいい あなたの対応が、弁証法ではないということは別として、 キジの駄文は、その肉親もを絶望の淵に叩き落し、あきれさせるほどのニートコメント。(キジは、そのうえじじいと来た。醜すぎ…) そんな鼻くそを出発点にしても、論理は発展しない。土台から崩れて、上にいけるわけがない。落ちていくだけ。 人が甘えると主張し、甘える人間が、ごく一部であるという事実を隠蔽しようとするやりかたがキジのやり方。キジが甘えているのであって、その周りのものが甘えているのではない。迷惑だ。 この世の中に3種類の人間がいる。いてもらったら困る人。どうでもいい人。いてほしい人。 あなたの三分の一理論は、「役立たずヨ結束せよ!」というものであり、甘えですよ。 聖なる甘えではない。役立たずの悪行です。 そして 「なぞ」のうそは、やっぱりうそ。信仰だとしても、うその信仰。反論になってない。もう少し知識をつけなさい。 聖なる甘えがないと認めざるを得ないようで、「くやむ」と「くやしい」をもちだし、いいのがれ。 聖なる「くやみ」を定義すればいでしょう。 ( あまてらすがあまえの語源とか、どうしようもない、ほらを吹出すんでしょうけどネ) おそらく葬式中に(法事直後にハッピーフライトで)某chに書き込む「ダメ息子の精神状態」が聖なる「もの(唯物論)」なのでしょうが。 >このように日本人がくやしさの感情を大事にする点は欧米人と随分違うところであると思われる。 >甘えはならわしであったはずです。 これらも、ただの推論で、間違っている。貴方とその手下は誰も悔しがってない。みんな不幸だという自覚があるので、頭にもこない。から笑いをしながらも、自暴自棄に身をゆだね、ただ物悲しいだけ。なんまいだ-の無気力テキスト。内容がない。 悔しさがあったら甘えがあるともいえず、支離滅裂な論理。関係がない。つじつまが合わない。 現に甘え論は、小説扱いされている。甘えに述べられている生態は、戦後の唯物論者の性質であり、日本の系譜とは、関係ない。他人を「尊敬しない若者ばかりである」と同じ論理。若者を団塊+団塊ジュニアと読みかえれば、尊敬心のない寄生虫的主体が、どの時代から始まったのかわかるというもの。 >製造業の技能において世界的に見てもすぐれています。 だからなに?貴方が優れているわけでもない。猿犬キジも同上。今の経営者+政治家+官僚が優れているわけでもない。何百兆円にも及ぶ国の借金は、どう説明するのか?誰が甘えており、斬られることを恐れ、びくびくしているのか?だれが、そういう人たちを救っていくことになるのか? そんなのやだというのは普通の感情でしょ。悪あがきはやめましょう。みんなも許してくれると思います。 偽キリスト教の神は、貴方を不幸のどん底に叩き落しています。改心しなさい。
お礼
★ キジ ☆ ってだれだ? 憶測でものを言っているようで 話がかみ合わなくなっている。 しかも文章の全体が つぎのように答え返されても仕方のないたぐいになりさがってしまった。ちょっと毛の生えたかたちである。 ☆☆ (No.4お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 向学のためにおおしえいたします。 ☆☆ (No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 質問者さんは解りますでしょうか? ☆ どちらでも質疑応答に関係ありません。 ★ 断っておきますが、これは甘えではありません。 ☆ いいえ 甘えです。甘え過ぎです。 ★ むしろ甘えすぎなのは質問者さんかも知れません。 ☆ いいえ そうではありません。どちらかと言えば 回答者さんでしょう。 ★ 先入見(先入観) はもともとありません。 ☆ いいえ そうは見えません。あるでしょう。 ★ 補足やお礼欄に書く私についての意見、主張はすべて質問者さんのことと考えてください。 ☆ 考えません。 以下 おなじ類型での答えです。 こういう話し合いをあなたはしているのです。 分かりましたか? いかにむなしいかが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このようなやり取りの仕方になっていますよという例示で出したのですよ。分かるかどうかよりも おしえておかねば日本人の心意気がすたるというものですから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 水かけ論ということじたいが憚られるほどの水準ということです。 ★ 偽キリスト教の神は、貴方を不幸のどん底に叩き落しています。改心しなさい。 ☆ 《偽キリスト教の神》というのは なるほど《この世間を牛耳る神》のことかと 前回思っていたが そういう意味ではなかったらしい。《どん底に叩き落とす》というのなら その《叩き落とす》ところは経験事象ですから 見ることが出来るわけです。ところが 神が――ほんとうの神が――目に見えるわけがありません。 あなたたちの神は めちゃめちゃの神です。
ケンケン「リンク鳥」の あなだらけの乱文 根拠なしの落書き ただのコピペ 加えて 狂気アスペの口癖=「しゃしゃり」は、みとめるwが、私の論は認めないというのは理解できません。 <引用> 「2. 《聖なる甘え》は 発展途上にあるあたらしい概念です。それでも すでに事実〔もしくはひとの心の真実 あるいは従ってそれらを総合したところの現実〕である部分もあります。 混同=事実 もしくは ひとの心の真実 2-1. たとえば 《〈甘え〉を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動き》(趣旨説明)がかつてはなかったと考えられます。その情況を《聖なる甘え》と言えるはずですから それは歴史事実です。 推測=かつてはなかったと考えられます。 2-2. 経営陣がいくら方針を示し指示を出し指導すると言っても 平社員のはたらきがなければ何にもなりません。日本人は 学習などの習熟度の平均がすぐれてよくいわゆる兵隊さんがよくはたらくと言われています。この情況も 総じて《聖なる甘えに浴する聖なる共生》のすがただと言ってもよいかと思いますし それは すでに歴史事実であります。」 非充足的関連性=兵隊さんがはたらくすがた=聖なる共生のすがた <引用終> 混同=事実 もしくは ひとの心の真実 推測=かつてはなかったと考えられます。 非充足的関連性=兵隊さんがはたらくすがた=聖なる共生のすがた 上記「歴史的事実に関する三つの考え」に共通するもの=それは、あなたの主観的想定=すり替えです。 まず 2について 事実、もしく、はひとの「心の真実 」 議論上のモデル 「A or B」 「AもしくはBが、存在する。」と主張をすることはできます。 しかし、心の真実は、存在しない。 すなわち 事実のみが存在する。聖なる甘えは事実ではない。 2-1について 「排斥する動きがかつてはなかったと考えられます。」というのは、事実に反する。さらに、考えられる(可能性)ということと事実は、同一ではない。 想定することが、事実を生み出すというのは、どこまでいっても間違えです。うそは事実ではない。 2-2について 兵士と将軍の姿はあったとしても、今現在、そういうものは、存在しない。社員とOB寄生虫は存在するがまったく性質の違うもの。比較さえも出来ない。 悪と腐敗の「甘え」の内容をすり替え、「聖なる甘えに浴する聖なる共生」とごまかす。 「聖なる甘えがなかった」という主張をなんらを覆すものではない。 存在する「悪」を「聖なるもの」となずけることはできても、「聖なる」の意味が内容のないものとなる。過ぎ去った「変えられないもの」、たとえば、「不可抗力」・「専守防衛」が、其の時系列性において「聖なるもの」となづけられ、過去・未来は存在するはずなので、それが存在すると主張されているだけ。議論になってない。 「神を存在すると想定します」と述べても、その存在証明にはならない。 事実として「神は存在しない」のと同じ理屈です。 譲歩するにしても、兵隊さんが働くというのは、日本の伝統。しかし、伝統に則る者自体が減少していることに加え、征夷大将軍にあたるものが、ほらを吹くだけで働かないというのは、最近になってからのこと。 この史実は、日本の伝統=聖なるマツリゴトとは、まったくもって関係ない。甘え論の著者のように、何も勉強しなくても軍医=医者になれた世代のたわごと。自分が何も出来ないと判っていたので心理学者を名乗ったという点については、救いがあるといえるのかもしれない。 軍医どもは、歴史的にC型肝炎・ヘルペス蔓延の原因となった日本の恥。 個々に展開されている議論は、戦直無知世代の屁理屈以外の何者でもない。 いずれにしても、能力のない戦直=闇市世代が、今現在「働いている」とのべるのは、あくまで思いやりの誇張表現以外の何ものではない。大半は、JAL・OB=悪の眷属及び其のサポーターである。 あと偽キリスト教の神は、貴方を不幸のどん底に叩き落しています。
補足
ご回答をありがとうございます。 ★ 「リンク鳥」 ☆ さんのご投稿は特に認める認めないといった性格の文章とは違うと思いますよ。 また文章を認める・認めないという問題が起こりうるというときには わたしはつねにその根拠を示して述べているはずです。つまりつねに対話の過程――それは弁証法ですから 互いがそれぞれ一段高いステージに揚棄されていけばいいわけです――というものですよ。 ★ 2.・・・混同=《事実》 もしくは ひとの心の《真実》 ☆ および《現実》の三つの概念の異同については つぎのわたしの書き込みを参照してください。 【Q:真理とは何か】わたしの回答No.9 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5579688.html ★ 2-1・・・推測=かつてはなかったと考えられます。 ☆ いやこれは 良くも悪くも《甘え》は堂々と行なわれていたと思われますから 抑制されてはいなかったと言えるはずです。ということは 《聖なる》という飾りをつけるかどうかを別としても 甘えはならわしであったはずです。 ▼ (「甘え」の構造 ――「くやむ」と「くやしい」)~~~~~~~~ http://www.fsinet.or.jp/~oak-wood/kokoro1/kokoro1.html このように日本人がくやしさの感情を大事にする点は欧米人と随分違うところであると思われる。 ・・・ 日本でもくやしさの感情自体は決して快よいものではなく、しばしば病的状態に直結することがわかっているが、それにも拘らず、この感情を大事にするのは、結局このもとになる甘えに対して、日本人が肯定的な態度を持しているためであろう。 西洋人はこれに反してルサンチマンを非難するが、もちろんそうしたところでルサンチマンが消えるわけのものではない。キリスト信者の隠れたルサンチマンを盛んに攻撃したニーチェ自身ルサンチマンの持主であったことが何よりの証拠である。しかしここで最も興味深いことは、近代の西洋人がルサンチマンの心理を通じて漸く甘えの心理に接近しつつあるという事実なのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 2-2.・・・非充足的関連性=兵隊さんがはたらくすがた=聖なる共生のすがた ☆ これは何か理想のすがただと言おうとするものではありません。ともかく指導者の地位にない一般の人びとがよく働いたという実際を言っているに過ぎません。これも《聖なる》をかぶせるかどうかを別として言えるという場合です。 つまり ★ 譲歩するにしても、兵隊さんが働くというのは、日本の伝統。しかし、伝統に則る者自体が減少していることに加え、征夷大将軍にあたるものが、ほらを吹くだけで働かないというのは、最近になってからのこと。 ☆ このとおりです。たとえば製造業の技能において世界的に見てもすぐれていますよ。 ▲ 2007年第39回技能五輪国際大会日本選手団の成績について -世界第1位となる金メダル16個を獲得- http://www.mhlw.go.jp/houdou/2007/11/h1121-2.html ★ 「神を存在すると想定します」と述べても、その存在証明にはならない。 / 事実として「神は存在しない」のと同じ理屈です。 ☆ そのとおりですよ。だから なぞだと言っています。また有神論と無神論とは まったく同等の非思考(=信仰)であるとも言っています。 ★ 日本の伝統=聖なるマツリゴト ☆ これは誤解です。スサノヲ市民らのムラムラのマツリが聖なる伝統だと言っています。マツリゴトは二階からそれらのマツリを束ね寄せるものです。
- littlekiss
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こんばんは、bragelonneさん。 ☆ ひとつだけの花もあるけれど――― ひとつだけの花………ふたつでひとつ(一対) 祗園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必滅の理(ことわり)をあらはす おごれる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし サラノキ-沙羅双樹(フタバガキ科) http://www.geocities.jp/ir5o_kjmt/kigi/saranok0.htm http://ito-n.photo-web.cc/souko/besso/honbasara/honbasara.html 私事でなんだけど、年末に入って母さんが亡くなった。 今日、法要を終えた。いればいたで口うるさくやかましい、されどいなくなるとあの口うるささがなぜだか恋しい。部屋の片隅に置いてある写真はウンともスンとも言わず、ただ微笑んでる。なんかそれを見るたびに調子くるうんだ。生前の母さんは怒ったり、泣いたり、笑ったりと幾つもの表情をもってた、―――――なのに…。いままでそこにいた人がいなくなるのって、味気ない。 ●《しゃしゃり〔もない〕》って どういう意味だろう? 遺骨(舎利) 味もしゃしゃりもないΘ味気ないΘ寂しい 【戦没者慰霊事業】 http://www.mhlw.go.jp/bunya/engo/seido01/index.html 遺骨収集の実施 海外などにおける戦没者の遺骨収集は、昭和27年度から南方地域において開始されました。その後、平成3年度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者について、更に平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても遺骨収集が可能になりました。 この結果、これまでに約31万柱の遺骨が収集され、陸海軍部隊や一般邦人の引揚者が持ち帰ったものを含めると、海外戦没者約240万人のうちの約半数(約125万柱)が送還されています。 戦没者の遺骨が残されている地域には、相手国の事情や海没その他の自然条件等により収集ができない地域等が残されていますが、今後も現地政府などからの残存遺骨情報の収集に努め、そうした情報に基づき、遺骨収集を実施することとしています。相手国の事情により遺骨収集ができない国には、外務省と連携し遺骨収集の実現に向けて努力しているところです。なお、旧ソ連及びモンゴル地域においては、先の大戦の後に約57万5千人の方々(帰還者からの聴き取りによる推計)が抑留され、約5万5千人の方々が抑留中に死亡されていることから、こうした抑留中死亡者の方々に関する埋葬地の特定や計画的な遺骨収集の実施に努めており、平成20年度までに18,480柱の遺骨を収集し、モンゴル地域についてはおおむね収集を終えています。 日本航空の国際線の路線の数 採算が合わなくても飛ばさなあかんかった諸事情 採算が合わんというだけで切れるもんと切れんもんがある 国交なくば、行きたくても行けない 国交あれど、道なくば行けぬ 多岐にまたがってる 【宇宙政策に関する外務省の施策】 http://www.kantei.go.jp/jp/singi/utyuu/working/dai4/siryou3.pdf 【第161回 臨時国会 財務金融委員会】 http://www.sasaki-kensho.jp/gijiroku/report.php?rid=168 【行政の役割と地方の競争】 http://www.genron-npo.net/opinion/saito/001387.html
お礼
こんばんは。 われもう少し若かりせば はぐあんどきっすなんだけれどねぇ。 ★ ひとつだけの花………ふたつでひとつ(一対) ▲ (世界に一つだけの花) ~~~ それなのに 僕ら人間は どうしてこうも比べたがる? 一人一人違うのに その中で 一番になりたがる? ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 互いが互いに対して一番になるということもあるからねぇ。比べてさらに――自分や自分たちのこととして―― 一番になれればいいのだから。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 遺骨(舎利) 味もしゃしゃりもないΘ味気ないΘ寂しい ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぢゃあ あたまの《しゃ》は何だろう? しゃりしゃりの略なんだろうか? ★ 日本航空の国際線の路線の数 / 採算が合わなくても飛ばさなあかんかった諸事情 あぁ そう言えば 三七日だったか四七日だったかでわたしも一区切りだった。まぁ そうですね。十年ひと昔でやっと〔故人にまつわる〕要らないものを 捨てることができるようになったかなぁ。 こういうときに困るのがわたし。何も言えない。 そう言えば 『鬼哭寺の一夜(漱石 新體詩 明治三十七年頃)』というのもあったなぁ。却ってそういうのが思い浮かぶというのは いったいどこまでおまえの心はいぢわるで出来てんだ。つぎもあったね。 谷間に眠る者 (Le Dormeur du Val――Arthur Rimbaud ) 緑なす里の野にさわやかに水流れ 狂乱の銀の衣(きぬ)草々に飛び散らす いや高き山の端に綺羅やかに日は昇り 光線の泡の生(む)すこの狭き谷合いに 年若き兵士ひとり髪乱し口を開け 鮮やかな芥子菜(からしな)の群青に頂漬け 眠りゆく。陽光の雨注ぐさみどりの 床に臥し蒼ざめて草のなか雲ながめ 足元に菖蒲(あやめ)咲き眠りゆく。口元に 病める子の微笑みを微笑んで眠りゆく。 天地(あめつち)よ暖かく揺らせ彼凍えるを。 芳(かぐわ)しき花の香も鼻元に届き得ず 陽を浴びて眠りゆく。片腕は安らかな 胸の上。右脇にくれないの傷跡(あと)ふたつ。
>聖なる甘えにめぐまれた市民一般としての日航社員が聖なる共生のもとに仕事をしていたとしても 聖なる甘えは存在しない。kontra-faktisch >あたかも悪貨は良貨を駆逐するというごとく >短絡的な甘えのちからに押し流されてしまった 悪貨は、悪の一部。大人の甘えは、死に至る病。良貨も悪。 ここでは哲学的思考をなすべき… 貨幣・相場というような概念は極力避けるようにしましょう。 経済学より抜け出すように心がけるべきであるといわざるをえません。 >航空会社の二社体制で行くとするなら >日本人全体が 長期的な社会公共的な甘えのもとに >ふたたび日航をも育てて行くしかないと思います。《社会資本》主義と言いますか。・・・ なにっそれっ!「日航をも育てて行くしかない」って根拠がないと思うの! 勿論、究極の日本人論=北朝鮮人の考え= 日本国民は「JAL・OB 7000億」のために生きている と定義することも出来ます。 もしくは 超全(対主義)的甘えの主体=日本国民は 宇宙人最高!とすがすがしい笑顔の愛妻を持つ9億脱税どら息子社会資本主義者の提唱する 全ての有用な技術開発を「国家経済計画」の名の下 去勢していく 「理想社会」のため 具体的には平成22年度新規55兆国債を穴埋めする為 の「機械仕掛けのひきつった微笑み=プロファウンド!な意義ある生活」といゆう いい方もあります。 >《社会資本》主義 やっぱりOX主義なの… おじじかわいそう でも、ほんとうは、「消費税以外の扶桑の租庸調を収めている」のが日本人です。 (chototsuさまごめんなさい) ということで 哲学的に、《聖なる甘え》提唱は、不可能という結論に至ったようです。 個人的に経済・文学・心理学上=経験科学=屁理屈の定義に、批判を加えるつもりはありません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ということで / 哲学的に、《聖なる甘え》提唱は、不可能という結論に至ったようです。 ☆ これが あなたの主観における結論であることは判明致しました。 その《哲学的に》というところを もう少し推論の過程をくわしくしたかたちで述べたらよかったかも知れません。誰もがその主観(つまりたしかにどんな考えも提唱も 主観なのです)を共同化することができるように くわしく述べることができるとよいでしょう。 共同化と言っても 社会の三分の一ほどでよいはずですから。 補足欄にて もう少し詳しく応答することができるかも知れません。これから午後ないし夕方にかけて所用があります。あしからずご了承ください。
補足
お礼欄のおぎないです。 ★ 聖なる甘えは存在しない。kontra-faktisch ☆ ななにすくんは 論文の構成やら推論の運び方 これをしっかりと身につけるようにとわたしは願います。 1. むろん結論を真っ先に出しても何ら構いませんが その論拠を示さねばいけません。 2. 《聖なる甘え》は 発展途上にあるあたらしい概念です。それでも すでに事実〔もしくはひとの心の真実 あるいは従ってそれらを総合したところの現実〕である部分もあります。 2-1. たとえば 《〈甘え〉を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動き》(趣旨説明)がかつてはなかったと考えられます。その情況を《聖なる甘え》と言えるはずですから それは歴史事実です。 2-2. 経営陣がいくら方針を示し指示を出し指導すると言っても 平社員のはたらきがなければ何にもなりません。日本人は 学習などの習熟度の平均がすぐれてよくいわゆる兵隊さんがよくはたらくと言われています。この情況も 総じて《聖なる甘えに浴する聖なる共生》のすがただと言ってもよいかと思いますし それは すでに歴史事実であります。 2-3. 《 kontra-faktisch 》という批評は当たらないでしょう。 2-4. ただし 全体像はまだ定まっていません。 3. ★ 貨幣・相場というような概念は極力避けるようにしましょう。――☆ あまり言いたくはありませんが かのグレシャムの法則は あくまでしゃれです。社会的な力学関係においてただ有力だというだけでその勢力は強い。そうでない人びとは弱い。流れに従わされる場合が多い。こういう事実をたとえるために引き合いに出しているだけです。 これは 表現論の問題ですよ。 4. ★ なにっそれっ!「日航をも育てて行くしかない」って根拠がないと思うの!――☆ それはどういう見解がいちばんいいかは わたしも分かりません。そこまで考えていません。 だから 《航空会社の二社体制で行くとするなら》という条件のもとに言ったまでです。あなたの言う《根拠がない》かどうかも わたしは判断する材料を持ち合わせていないとお答えせざるを得ないという意味です。 そういう話の運びになっています。これにも留意してくださいよ。まだ若いのだから。(ここは 日航の処理をどうするかの問題ではないので 割愛せねばならないでしょうね)。 5. ★ 超全(対主義)的甘えの主体=日本国民は / 宇宙人最高!とすがすがしい笑顔の愛妻を持つ9億脱税どら息子社会資本主義者の提唱する・・・(以下省略) ☆ 視野が広すぎます。過ぎたるは猶及ばざるがごとしと言います。全体観をつねにあたまに置いておくのはよいのですが 個別の主題との兼ね合い・絡み合いにも留意して議論をはこぶようにしてください。 みんなが読んで理解することができるように説明をもっとつけてください。あるいは持ち出される概念が 広大な含みを持ち過ぎです。差し示す意味内容を絞ってください。 5-1. ☆☆ 《社会資本》主義 ☆ というのは 或る意味でそういうたぐいの広すぎて曖昧な概念を唐突に出したという事例です。まぁ それまでの説明をひとことで表わそうと思えば このようにも言えるのかなという意味合いがあります。不評ならば引っこめますという含みもあります。そういう表現形式の一端です。そういう表わし方・したがって受け取り方もありますから さまざまな角度から捉えるようにするとよいでしょう。 5-2. ★ でも、ほんとうは、「消費税以外の扶桑の租庸調を収めている」のが日本人です。――☆ よく知りません。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ☆ 《わたし》はおのおの数として《一》であるけれども いわばそのように〔関係性を持ちつつ〕独立しているならば 《甘え⇔信頼》の関係過程においては 《相乗効果》が期待できる。1+1=2 である以上の数字が現われる。こうなれば たのしいですね。人間も捨てたものではないですね。 仰いますように、想定した以上の数値が得られたときには、確かに気持ちのいいものかと想像しております。最近はかような経験が少なくなったような気がしているのですが、気のせいでしょうか? > ☆ 負担をさらに課してはいけませんが 母の存在はおおきいでしょうね。むろん父親も子を受けとめるものでしょうが。 仰るとおり、母の存在は大きいかと存じます。愚生の場合は、前回にもお話させていただきましたように、母は心の病を患っていました。母が他界した折に、母の主治医の先生にお聞きしたのですが、愚生が生まれて直後に病院に入院したそうです(初診は結婚前とのことです)。そして、入院時は、母の代わりに父方の祖母が面倒を見てくれていたそうです。そして、もちろん、愚生が物心ついたときには、母は病気で、父が面倒を見てくれました。確かに父はよくやってくれたととても感謝しています。ですが、やはり一般の母親の完全な代役は困難であったろうと思っています。そして、中学生(or 高校生)頃のときかと記憶しておりますが、父への配慮・気遣いだったのか今でも分からないのですが、父親に「甘え」をすることはなくなりました。そして、友人たち(妻も)父と愚生の関係、はまるで、“上司と部下の関係”のように見えると揶揄されたものでした。このため、愚生には「甘え」という“能力”は一般のひとに比べて欠如しているのではないかと思っております。何時、どこに行っても“浮いた存在という感覚”、“ふと自分は間違った場所にいるのではないかという疑念”を感ずることがよくございます。 > ☆ この信頼関係につきましては いちど《われわれの発言に索引をつけるとよい》などという案を持ったことがあります。 これは実際ここでもすでに記録が残されていますから 出来ているとも言えます。けれども 話し合いの進め方において 自家撞着はあちこちで見かけられます。 なかなか効果がないようです。それに あまりにも技術的にすぎるのかも知れません。ということで 引っこめております。 愚生の方でも、データベース化しようかと考え、ソフト選びおよび実際にこのカテゴリーにて“対話”させていただいた内容はもちろん、過去のひとたちの参考となるものを片っ端から入力しようと思っています。因みに、ソフトはOKWaveで質問させてもらった結果内容から、MySQLにしようかと思っております(エクセルでは、容量が大きくなりますと、最悪の場合開かなくなってしまうからでございます。またAccessは高価ですので)。 http://dell-support.okwave.jp/qa5473609.html > ひとつは やはり《対話》 これをどこまでもすすめること。だと思うと同時に なんとその実行のむつかしさよというところです。こちらがその用意がないということは もう無いのですが ではどんどん進めて行けばよいかとなると どうも一たんは取りやめたほうがよいという判断にもなります。 確かに、このサイトの“ネチケット”だったかと記憶しておりますが、“自分の発言に対して責任を持とう”というのがあったかと思います。またさらに、かような「質問-回答」内容が、今から百年後ぐらいには、過去の日本(現在の日本です)を知る一級資料ともなりうる可能性が高いとも思っております(ブラックマンデーが教科書に載るのですから、リーマンショック等の金融危機も載せられると思っております)。例えば、百年前には日本人はどうしたことに悩んでいたのか、また雇用問題があったと教科書(今から百年後のです)には載っているが、実際に当時の人たちはどう感じ、どのように考えていたのか等でございます。 ですから、このスレッドでの回答者様達が、好き勝手に意見を述べているというのは、とてももったいないと思ってしまうのです。ここでの回答者様方も他の質問に対しては、内容・文章ともに立派に書かれているのに、bragelonne様の質問スレッドに対してのみ、かような表現を用いてしまうのは、惜しいと思ってしまう訳でございます。 bragelonne様に取りやめにされてしまいますと、愚生の人生の楽しみの一つも、なくなってしまいますが……. 少なくとも、ご心中はお察し致します。 > ○ 《不信》の問題 ☆ はどうなんでしょう? あまり主題として考えることなく来ています。これは 虚構の中で人物たちをえがくという扱い方がふさわしいのでしょうか? つまり文学が扱うものなのでしょうか。 上述させていただきましたが、ある時点から、愚生が人に「甘え」をせず、また“どうも浮いた感覚”を感じているのを省みますと、どうやらその中にはこの《不信》なるものが、自分の心のどこかにあるのではないか、とそう思った次第でございます(「甘え」能力が未熟?)。 駄文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 あえて感傷的になってみましょうか。 〈STRANIERI〉 目の鮮やかなサルタンバンコ 三角帽子のサルタンバンコ トビリシはどうだった? 次はトラブゾンかい? サルタンバンコの口紅が舞って サルタンバンコの微笑みが揺れる 馬車の家のサルタンバンコ 車輪が軋むよ サルタンバンコ 弟が泣いているよ サルタンバンコ 継母が怒っているよ サルタンバンコ 顎が綺麗だ サルタンバンコ ミニが素敵だ サルタンバンコ 悉曇文字のお通りだ 雨は嫌いだ サルタンバンコ 踊る幌の中で 明日の心を占っておくれ サルタンバンコ おまえの耳輪が傾いて おまえの黒髪が回るよ ごらん あれがロードスだ 海の向こうに 年が明ければ いるよ さあ 馬車を降りて サルタンバンコ ごはんにしよう 鼻の大きなサルタンバンコ サルタンバンコのマントは小さい ベルガモの城は 懐かしいだろ 明日はウシュクダラまで走るか サルタンバンコの頬が染まる 真赤な夕陽に サルタンバンコ 明日の心はもう出たかい?
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おやおや、問われたことに対しては答えないで、自分の感傷・感慨だけは能弁に語っておられますな。 まあ、いいだろう。しかし、いちゃもんの定義はせずとも、どの文章に対して「いちゃもん」だと感じたのか だけでも示せば、それについて答えられるのだがなぁ。 それから、質問者は 一 ではないだろう。 それどころか「私は私」ですらないだろう。 それは自分の内から湧き上がる言葉や思想がないということでも分かる。いつも何処かから引用し、他者の言葉と言葉をつなぎ合わせているだけ。心から湧き上がる思念がない。 おじさん(※質問者さんのことです)はそこには居ない、何処にもいない。お前は存在していない。無である。虚である。 いくら誰かのまねをして「私は私である」と言おうと おじさんは存在していない。虚無である。 > 愛を拒絶する人種。愛――関係性――の欠如をほこる種族。 <<愛――関係性――の欠如をほこる種族>> そんな種族が居るんですか、変わってますねぇ。 しかし、<<愛>> とは何だろうか?まずこれをはっきりさせたらどうだろうか。 少なくとも、おじさんの甘えと 愛を 混同しないでくださいね。おじさんは甘えているだけですよ。 >みなさん。この種族についても甘えにかんする問い求めの主題としてください。 うーん、どう考えたらよいだろうか... まず「甘えにかんする問い求め」の手始めとして 甘え とは何かをはっきりさせてみてはどうだろうか? あ、返答は無用ですので。そんじゃ。
お礼
何を言っても いともたやすく受け答えできるのですね。
- ENERGEAR
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やあ、オコリザルさん、常連さんに構ってもらってるようで、良かったですねw(オレのせいじゃないですよ、ぷぷっ) あ、それから バター犬 て誰のことだろう、なにか言いたいことがあるなら俺が変わりにそいつに 言ってやっても良いが (わっはっは)
オコリザルです。 やあ。 バター犬さん。 私の出した質問で今回はお行儀よくちょっかいを控えてくれたね。 質問の要件は済んだから言いたい事があったら何か言ってきてもいいよ。 なにせ犬だから許可が無いと動けないだろ。 バター犬もしつければお座りぐらいできるんだなー。 しばらくbragelonneさんに質問趣旨を全うさせるための取引だ。 ちゃんと「さようなら」なり「ごめんなさい」なりのけじめをつけてからにしろ。 両面展開するなよ。
お礼
○ 《仮想的有能感》 ▲ (速水敏彦:他人を見下す若者たち) ~~~~~~~~~~~ § 若者 負け組の《他者軽視》 現代の感情ややる気の変化の背後にある心性とでも言うべきものを突き止める。 現代の日本人は自由な社会を当たり前のこととして誰も彼もが横行闊歩しているように見える。その自由さは利己主義を強め 《ジコチュウ》という言葉も生まれた。これが高じれば 人は自分の立ち場ばかりを見て 他人の立ち場を見なくなる。つまり以前に比べて人々は他人を見下し 他者軽視・軽蔑をいとも簡単にするようになる。・・・という・・・仮説である。 今 人と人との親密なつながりが失われつつある現実の中で 誰もが体面を保ち 個を主張して生きていくことが求められている。だが 少子化の影響で小さい頃から大切に育てられ 苦労をせず 楽しいこと 面白いことに浸ってきた若者にとって 見知らぬ社会を一人だけで歩いていくことは恐怖でもある。欲しいものを何でも買い与えられ 有りあまる時間を自分のためだけに使ってきた人たちが 厳しい現実の競争社会の中でまともに生きていくことは難しい課題である。 しかし 実は彼らはそれを乗り越える術をいつのまにか修得してきたようにも見える。それは おそらく本人自身もあまり気づいていない無意識的なもので 個人主義文化を担った人たち さらには ITメディアの影響を受けた人たちがいつのまにか身につけた 仮 想 的 有 能 感 とでも呼ぶべきものである。これは先ほど述べた他者軽視をする行動や認知に伴なって 瞬時に本人が感じる《自分は他人に比べてエライ 有能だ》という習慣的な感覚である。 現代人は自分の体面を保つために 周囲の見知らぬ他者の能力や実力を いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで 彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ 自分に対する誇りを味わうことができる。 ・・・しかし この仮想的有能感はやっかいな代物である。現実には・・・他者軽視をすることで 社会にさまざまな弊害を生じさせることが懸念されるからである。 ・・・ (pp.5-7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
OtamaFJ さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 ☆ なるほど。まぁ 《聖なる》は わたしが勝手につけたたとえですけれど 《長期的・全体的な視野》のもんだいであると。 ★ しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 ☆ つまりわたしは このように実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう? たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか? それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。 そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。 自我が育ち確立したからと言って もうそれでよいとはならないはずなのですが そういった方面がどうも気にかかりますし その方面は《甘え》と絡み合っているようにも思えます。思えてなりません。 ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。となるように思いますが どうでしょう?