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《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》
《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。 ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~ ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。 しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。 そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。 現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。 趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。
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我々人類は誰しも「甘え合って」いる。地球社会そのものが貿易などで助け合っている状況からして既に、ここに参加されている皆様も甘え合っているわけだ。しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 よって、「《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。」とは、換言すれば、「長期的な甘えを提唱できないだろうか」といえる。聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 皆様も「長期的に」甘えてくださいよ。堂々と。
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- ENERGEAR
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★ お前が相手に いちゃもん を使うとき、態度を買え、表情を変え、言葉を変えるだろう? ☆ ばかを言え。おれは ひとにいちゃもんを言ったことは一度もない。ミラーニューロンで・つまり売り言葉に買い言葉で言う場合に限る。 ◇いちゃもん とは何か。質問者はどのように定義するのか? >《わたし》が《一》なら その自己表現の過程はつねに《わたしがわたしする》意志行為であるのだから 自乗行為である。ゆえに つねに《一》である。《わたしはわたしである》。そうでなければ 二重人格である。 ◇おまえは 一 ではないだろう。 一とは何か?定義は?
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嘆けばよいのか。 嘆かわしいと思えばよいのか。 でも 嘆くほどに 嘆くに値しないと感じてむなしくなる。 あわれめばよいのか。 あわれましいと思えばよいのだろうか。 でも あわれむべきところがあるだろうか。 愛を拒絶する人種。愛――関係性――の欠如をほこる種族。 みなさん。この種族についても甘えにかんする問い求めの主題としてください。 わたしは とっくに匙を投げていますが ふたたび・みたび 匙を拾えという声を聞きます。みなさんの智慧をぜひおしえてください。
- ENERGEAR
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>はっはっは。二重人格だったか。 ◇何のことを言っているのかな?例え複数のIDを使ったとしてもそれは二重人格と言うことにはならない。 相手をぶん殴るときに拳を使うだろう?それと同じことだ。 お前が相手に いちゃもん を使うとき、態度を買え、表情を変え、言葉を変えるだろう? それとどう違うのか? > 精神錯乱に陥ることは自由だが ひとに迷惑をかけるのは 自由ではない。知れ。 ◇質問者のように精神錯乱になることが同時に ひとに迷惑をかけることになるのだから、「自由」とは言えないだろう。 精神錯乱になるのは 自由ではない 知れ。 >★ 質問者さんはかならず無間地獄に落ちます。今も落ち続けています。 ☆ 祝福の言葉にひびくというもんだわい。わっはっは。 ◇そうやって対応し続ける限りは 無間 に落ちていく。ということのようで、間違いないようです。 >* あるいは昔のゾンビか。おととい来なさい。 ◇甘えんぼのゾンビは もうこのサイトに来なくてよろしい。おとといも、きのうも 明日も です。 どんどん落ちていきなさい。限界は無いでしょう。
お礼
★ お前が相手に いちゃもん を使うとき、態度を買え、表情を変え、言葉を変えるだろう? ☆ ばかを言え。おれは ひとにいちゃもんを言ったことは一度もない。ミラーニューロンで・つまり売り言葉に買い言葉で言う場合に限る。 《わたし》が《一》なら その自己表現の過程はつねに《わたしがわたしする》意志行為であるのだから 自乗行為である。ゆえに つねに《一》である。《わたしはわたしである》。そうでなければ 二重人格である。
- ENERGEAR
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>☆ いちゃもんでなきゃ 精神錯乱である。 ◇ありゃりゃ? 精神錯乱は単なる意思表明を「精神錯乱」 と判断する質問者さんです。今そうなっているようです。 これからも もっと酷くなります。 必ずいまより酷くなります。 >応答はこれでじゅうぶんであろう。 ◇自分に都合の良いことだけ「応答」するということで、じゅうぶんではなく、不十分だね。 勝手不十分ですな。 No.65回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうも質問者さんはある意味、賢者であられるらしい。 こういった、第三者も閲覧できるような場でこみいった対話をするのも気が引けますので、もしご自分のブログや、ホームページなどがあればそこで詳しくお話を聞きたいと思います。どうぞご案内ください。 よろしくお願いします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 無縁慈悲とやらをのたまうなら、これについて 何らかの回答をどうぞ。それともこの場でしか虚言を吹聴することしか出来ないのだろうか? 質問者さんはかならず無間地獄に落ちます。今も落ち続けています。
お礼
はっはっは。二重人格だったか。 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~ いちゃもんでなきゃ 精神錯乱である。 応答はこれでじゅうぶんであろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 精神錯乱に陥ることは自由だが ひとに迷惑をかけるのは 自由ではない。知れ。 ★ 質問者さんはかならず無間地獄に落ちます。今も落ち続けています。 ☆ 祝福の言葉にひびくというもんだわい。わっはっは。 * あるいは昔のゾンビか。おととい来なさい。
- ForceSword
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>無縁慈悲とか言うそうだ。 冷酷で自由を主張する自分勝手な爺さんが「無縁慈悲」を主張するとは恐れ入る。 > えっ もう崩れたの? 特効薬を処方した覚えはないが。 勘違いをしているようで、補足しておきます。 「崩れる」のは質問者さんのカオ及び人生のことです。 その特効薬はもちろんありません。ここでの振舞いも含めた普段の在り方が「薬」となります。 > ★ 自由を主張し ☆ これは 受け身としての応答の中で 愉快だという気持ちを顕わにすることに関しては 自由を《主張し》という採り方は当たらない。 愉快だという意思表明を「自由」として述べたのではない。 > ★★ (回答No.61) マジでボコボコにぶん殴ってやろうかw ☆ といういちゃもんを受けて 応答する自由のもとにいつづけることは 《主張》とはいささか異なる。 マジでボコボコにぶん殴ってやろうかw というのは「主張」「いちゃもん」ではない。 > 答責性を思い起こさせることは 人間としての当然のわざです。 これを無視する人間が ★ 恨み憎しみを転化させた行為振る舞いを繰り返す ☆ のであるし しかも 《転化させた》のではなく もろに《恨み憎しみ》をぶつける《行為振る舞いを繰り返す》ということがときどき見かけられることです。 これは誰のことを言っているのか。少なくともオレのことを言っているのではないらしい。従い、「したがって」でつづく主張は却下となる。 > ★ 制裁は、・・・愉快犯に おのずと 現れるであろう。 ☆ 《愉快犯》ではないけれども ソクラテスにも《制裁》はおとづれましたからね。人それぞれでしょう。《ボコボコにする》というやからもいますからね。 さあ、ソクラテスには会ったことが無く、<<制裁>>については言わずもがなだね。 > ★ 結論としては「くたばっちまいな」というのは甘えている人間に言う言葉としては妥当であるということです。 ☆ だから《聖なる甘え》を実践しなければならないのです。 甘えとは何か?まずそれを明らかにしなさい。そうでなければ聖なる甘え も何も無いと思うのだが?いずれにしろ他者から甘えられなければ「くたばっちまいな」と言う言葉を言わずに済む。甘えを行う人間が、制裁されたいがためにそれを行わなければならないと言うのは勝手ですね。 >一万年ものあいだ 深い深い谷間をまっさかさまに落ち続ける自分を――しかも そのあいだ意識がどういうわけか 失われない―― 想像してみてください。 文学的な表現ですね。何処から持ってきた文章なのか、出典を明らかにしてください。それとも自分自身の体験なのかな? > 〔短絡的な〕甘えとこらしめ〔と称する制裁〕とは 同じひとつのことの裏表です。この見方を 共同主観としたい。それが《聖なる甘え》です。 「したい」のは質問者の希望であるが、そういった勝手で他者に不快な思いをさせるのは自分で正当化できることではない。犯罪者が裁判官に裁かれたい。と言うのが聖なる甘え であると言うなら、そういった考えは単なる甘えであると言える。 > みづからが みづからの結論を出しましたね。 最終審でしょうか。 一万年ものあいだ 深い深い谷間をまっさかさまに落ち続ける自分を――しかも そのあいだ意識がどういうわけか 失われない―― これが質問者への最終審です。必ずそうなります。勝手に落ちて行ってください。それを皆見届けるでしょう。 みづからが みづからの結論を出しましたね。 No.65回答欄~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうも質問者さんはある意味、賢者であられるらしい。 こういった、第三者も閲覧できるような場でこみいった対話をするのも気が引けますので、もしご自分のブログや、ホームページなどがあればそこで詳しくお話を聞きたいと思います。どうぞご案内ください。 よろしくお願いします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 無縁慈悲とやらをのたまうなら、これについて 何らかの回答をどうぞ。それともこの場でしか虚言を吹聴することしか出来ないのだろうか?
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★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ マジでボコボコにぶん殴ってやろうかw というのは「主張」「いちゃもん」ではない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ いちゃもんでなきゃ 精神錯乱である。 応答はこれでじゅうぶんであろう。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございます。Hidocchiです。 > 自然本性において おのれのこころ(意志ないし判断)に忠実であるならば おそらく他者の場合もそのような心への忠実があると捉えられ 共通感覚を共有しうるでしょうし 基本的なことがらについても共同主観(常識)を共有しうると考えられます。 意見を等しく致します。 > この共通感覚および共同主観――いづれも コモンセンスのことですが――にもとづくなら 甘えも 自然に互いに伴なうようになっている。そしてそれは むしろ心理的な問題であるよりも 社会的な共同作業といった分野に属すると思われる。 確かに、心理的問題も含んではいるでしょうが、愚生と致しましては、社会的な面(共同・協力作業)を重要視してございます。 > したがって この自然で健全な甘えでない場合の甘えといえば けっきょくのところ いわばその人が孤立してしまっている場合である。もしくは 鎖国政策を採っていて 容易に対話ができないという場合に当たるようだ。 “不健全”な甘えも含め、さらには先天的に持っているはずの甘えが十分に育まれなかった場合には、孤立化してしまう危険性を孕んでいると解しております。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上記の「能力」が、先天的に持っているものなのでしょうか? <中略> ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というふうに続くと捉えてよろしいでしょうか。 はい。上述のように解しております。 > もしそうであれば かくなる上は ★☆(要約) 《不信》の問題 ないし 《信頼関係の破れ》のそれ ☆ が浮上してくるように考えます。 仰いますように、人を信じられないという(一種の病的な)感情を抱いてしまうため、お互いの《信頼関係の破れ》が惹起されるかと考えております。 > そしてわたくしのこだわりは なお精神分析における仮説のほうにあります。《自我・超自我・エス》の取扱いの問題です。《わたしはわたしである / わたしがわたしする》という《わたし》一本でよいし 足りるのではないか? 《世界における自己表現としての〈わたし〉の自乗過程》として捉えるなら 《無意識》という大発見も あまり役に立たないのではないか? 等々の主題です。 了解致しました。 これは、(脳神経の研究でPh.Dを取得した)友人がいたのですが、これはあくまで彼からの伝聞でございます。 統合失調症に幼くして発生してしまう子供の共通点として、「自分を思いやってくれる人は、家族にいない」と感じ続けながら育っていくケースが、ほぼ共通に見られるとのことでした。そのソースを現在調査中で、現時点では、愚生の方でも確認をとれていないのですが、確かに、一考に価するかとも思っております。 > 《わたし》がもし数として《一》であるなら その自乗過程そしてさらに冪をつくる過程は どこまで行っても《一》ですから。この《一》なる存在が 互いに甘えるというふうにも考えているのですが どうでしょう? 信頼しつつ甘えることができる。のではないか?・・・ 「信頼しつつ甘えることができる。のではないか?」 この件につきましては、 “甘え ⇔ 信頼” → 相乗的(相加的)な“甘え-信頼”の道をたどると考えております。 ただ、確かに先天的に持っていると解しました“甘えの能力”も。生まれて以降の人生におきまして、“甘え”経験がなければ、《信頼関係》を築き上げようとする姿勢(意欲)は生まれて来ないとも考えております。 ご参考になれば、幸いでございます。
お礼
覚え書きです。 人間の《存在》は その生きる過程が 自己表現としておこなわれる。 ・《存在》:《わたしがわたしである》: 1=1 ・《自己表現》:《わたしがわたしする》: 1x1=1 ・《自己同一性》:そのわたしがさらになおわたしする: 1^n=1 Hidocchi さんに愚痴を言うかたちになるのかも知れませんが この《わたし》を分断して欲しくないと思っているのですが その点 いかがでしょうか? つまり《自我》の取り扱いのもんだいです。Hidocchi さんからまだ ご見解をいただいていなかったと思うのですが いかがでしょう? 分析することはまったくふつうの広義の哲学作業だと思いますが その分析で得た自我なり無意識なりが 単独で分立するようなかたちになってしまっていないでしょうか? 無我が ともすれば明後日の方向へ向いてしまった解釈になりがちですし 無私の精神と言えば もう黄門さんの印籠であるかのごとく誰もがあがめてしまうという情況が見受けられます。 《わたし》をしっかりと捉え(つまり 自己に到来し自己に還帰し) そのわたしどうしとして共生することが肝要なのではないでしょうか? * 事情は ほかのお礼欄などには書き込みたくなかったのです。Hidocchi さんに物言いを述べるかたちになってしまいました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。おもしろいですね。たのしいですね。 ★ “甘え ⇔ 信頼” → 相乗的(相加的)な“甘え-信頼”の道をたどると考えております。 ☆ 《わたし》はおのおの数として《一》であるけれども いわばそのように〔関係性を持ちつつ〕独立しているならば 《甘え⇔信頼》の関係過程においては 《相乗効果》が期待できる。1+1=2 である以上の数字が現われる。こうなれば たのしいですね。人間も捨てたものではないですね。 ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただ、確かに先天的に持っていると解しました“甘えの能力”も。生まれて以降の人生におきまして、“甘え”経験がなければ、《信頼関係》を築き上げようとする姿勢(意欲)は生まれて来ないとも考えております。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 統合失調症に幼くして発生してしまう子供の共通点として、「自分を思いやってくれる人は、家族にいない」と感じ続けながら育っていくケースが、ほぼ共通に見られるとのことでした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 負担をさらに課してはいけませんが 母の存在はおおきいでしょうね。むろん父親も子を受けとめるものでしょうが。 前半で主観共同化が成って うれしいです。 ★ 仰いますように、人を信じられないという(一種の病的な)感情を抱いてしまうため、お互いの《信頼関係の破れ》が惹起されるかと考えております。 ☆ この信頼関係につきましては いちど《われわれの発言に索引をつけるとよい》などという案を持ったことがあります。 これは実際ここでもすでに記録が残されていますから 出来ているとも言えます。けれども 話し合いの進め方において 自家撞着はあちこちで見かけられます。 なかなか効果がないようです。それに あまりにも技術的にすぎるのかも知れません。ということで 引っこめております。 ひとつは やはり《対話》 これをどこまでもすすめること。だと思うと同時に なんとその実行のむつかしさよというところです。こちらがその用意がないということは もう無いのですが ではどんどん進めて行けばよいかとなると どうも一たんは取りやめたほうがよいという判断にもなります。 ○ 《不信》の問題 ☆ はどうなんでしょう? あまり主題として考えることなく来ています。これは 虚構の中で人物たちをえがくという扱い方がふさわしいのでしょうか? つまり文学が扱うものなのでしょうか。
- ForceSword
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>わたしのような相手がこれまであなたにはいなかったようだ。 >よかったな。話し相手がみつかって。 >無縁慈悲とか言うそうだ。 無縁慈悲を、是非ネット上ではなく、実際に目の前に居る人物として見せてください。 しかし 実際現れたら物悲しげな弱々しいジイさんだったら ガッカリすると思いますが... もはや失うものも無くなり、誰かと心中を所望か? オレがお前と同じ道を歩まないことを、オレの、この質問での今後の振る舞いで証明するだろう。どのような対応かって? それは見ていれば解る。
お礼
ひと間違いについてのみしるす。 以前に三つの名前を使い分けていた者がいたのだ。 わたしの質問に投稿してきていた。しかも 次々と新しいものに変えるというのではなく 同時に三つを使っていたのだ。 だから それほど間違いの中身がひどいとは思わない。と居直ってもよいと思っている。 だから 補足欄が おまえ用で お礼欄がもうひとりの者用である。
- ForceSword
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ForceSwordです。こんにちは。 どうも質問者さんはある意味、賢者であられるらしい。 こういった、第三者も閲覧できるような場でこみいった対話をするのも気が引けますので、もしご自分のブログや、ホームページなどがあればそこで詳しくお話を聞きたいと思います。どうぞご案内ください。 よろしくお願いします。
- ENERGEAR
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>この回答へのお礼 答えはおしまいになるまで出せと言ってるんだよ。 へへっ。 それで、 甘え とは何か 答えは出たのか?
- ForceSword
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そうやって因果が確実に作用することで、「悪人もそれによって自覚でき、反省せざるを得ない」から、それが救いであるということですね。 ムチャクチャなのは必ずしも、顔面に現れるということではなく、ムチャクチャな人生として顕れるということも考えられるか。 カオに出るか・人生に顕れるか この違いの考察をしてみようか... ああ、そうか、その人が物質を重んじるか・精神を重んじるかで、何処に現れるかが違ってくる。つまり、本人が<<そこに出ては一番困る>>所に出る。一番気にしているところに出るということか。 質問者が一番重んじているもの・焦点をいつも当てているところ。(焦点を当てていれば、そこに自然と良くも悪くもエネルギーが集まるのだから) もしそれが 体裁・面子であるとするなら、それをムチャクチャに壊される立場におかれる と言うことかな?それは必ずしも最初からそうであるというより、むしろ目立つ立場にあって、急に貶められるということもあるか。 ああ、少し話がそれました(笑) しかし、質問の趣旨である「甘え」と多少なりとも関わる問題であるとも言えるか... 結論としては「くたばっちまいな」というのは甘えている人間に言う言葉としては妥当であるということです。
お礼
みづからが みづからの結論を出しましたね。 最終審でしょうか。
補足
回答No.60からの続きで 先に書いたお礼欄の内容をおぎなう書き込みです。 すでに議論の前提が間違っていると 直前までの補足欄(三つほどですか)にてわたしは説明しましたから 結論だけを取り上げて応答しておきましょう。 ★ 結論としては「くたばっちまいな」というのは甘えている人間に言う言葉としては妥当であるということです。 ☆ だから《聖なる甘え》を実践しなければならないのです。 《制裁》がお好きのようですね。それでは まだまだ なまぬるい。 一万年ものあいだ 深い深い谷間をまっさかさまに落ち続ける自分を――しかも そのあいだ意識がどういうわけか 失われない―― 想像してみてください。 〔短絡的な〕甘えとこらしめ〔と称する制裁〕とは 同じひとつのことの裏表です。この見方を 共同主観としたい。それが《聖なる甘え》です。それが ★ 質問者が一番重んじているもの・焦点をいつも当てているところ。 ☆ です。
- ForceSword
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質問文より >現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。 自由を主張し、快楽主義的に愉快犯罪を繰り返す者に対しての制裁は、 恨み憎しみを転化させた行為振る舞いを繰り返す 愉快犯に おのずと 現れるであろう。
お礼
《愉快だわい》が効いたようだ。よかった よかった。
補足
回答No.61からの続きで 先に書いたお礼欄の内容をおぎなう書き込みです。 違いをご説明しましょう。 ★ 自由を主張し ☆ これは 受け身としての応答の中で 愉快だという気持ちを顕わにすることに関しては 自由を《主張し》という採り方は当たらない。 ★★ (回答No.61) マジでボコボコにぶん殴ってやろうかw ☆ といういちゃもんを受けて 応答する自由のもとにいつづけることは 《主張》とはいささか異なる。 主張というなら ひとは皆 すでに自由を主張してしまっている。 その自由に答責性を持つのは 当然だが それを忘れていはしませんかと問い返すことは 《仕返し》でも何でもない。と知らねばならないでしょう。 答責性を思い起こさせることは 人間としての当然のわざです。 これを無視する人間が ★ 恨み憎しみを転化させた行為振る舞いを繰り返す ☆ のであるし しかも 《転化させた》のではなく もろに《恨み憎しみ》をぶつける《行為振る舞いを繰り返す》ということがときどき見かけられることです。 したがって 同じく違いはさらに次のことにあります。 ★ 快楽主義的に愉快犯罪を繰り返す者 ☆ 《犯罪》ではないのです。《愉快だ》という切り返しを伝えることは 無縁慈悲の応用問題でありその一環としての振る舞いなのです。 こんなことを 《快楽》だと思ってなら だれがやりますかいな。 ★ 制裁は、・・・愉快犯に おのずと 現れるであろう。 ☆ 《愉快犯》ではないけれども ソクラテスにも《制裁》はおとづれましたからね。人それぞれでしょう。《ボコボコにする》というやからもいますからね。 もうひとつ投稿をもらっているようです。
お礼
OtamaFJ さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 聖書ゆえ「聖なる」と表現しているが、何の事は無い、単に「長期的視野に立った人類世界の助け合い」の重要性を説いているにすぎないのだ。 ☆ なるほど。まぁ 《聖なる》は わたしが勝手につけたたとえですけれど 《長期的・全体的な視野》のもんだいであると。 ★ しかし重要なのはそれは長期的な甘えであり、普段使っている「あまえるな!」というような短期的な甘えではない。 ☆ つまりわたしは このように実際の人間関係においてどういう考え方や態度で臨むかを焦点としていましたが こうなると どうでしょう? たとえば《甘えたい。甘えようか》というとき 《短期》ではだめだ・《長期! 長期!》というふうに思い直すという手があるということになりましょうか? それでもいいかも知れませんね。思い返すという間(ま)がよいかも知れません。 そうしますと あとはたぶん 自我だとかリビドだとかそれを抑える超自我だとか こういう・わたくしに言わせれば《わたし》の分断に通じるような考え方や態度が いささか問題になるように思います。 自我が育ち確立したからと言って もうそれでよいとはならないはずなのですが そういった方面がどうも気にかかりますし その方面は《甘え》と絡み合っているようにも思えます。思えてなりません。 ということは 《甘え》に関しては それは《長期的・全体的な視野に立て》というひとことで済むようだけれども それに絡み合った副次的な問題群がありはしないか? という問い求めをこの際同時におこなっておくのがよい。となるように思いますが どうでしょう?