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この古文の解釈について
【本文】 昔、素性法師と云(いふ)歌読の僧侍り。九重の外、大原と云(いふ)所にすみ侍りけり。 花に元亮(げんりょう)し、紅葉(もみじ)に優遊する事、隠逸の如くに侍り。 秋の夜のつれづれにながきに、ねもせられで、なにとなく泪ところせきげに侍りき。 わくかたなく物哀(あはれ)なる暁に、松虫のなき侍りければ、 いまこんとたれたのめけむ秋の夜をあかしかねつゝまつむしのなく 又、枕の下にきりぎりすの聞え侍りければ、 きりぎりすいたくなゝきそ秋の夜のながきおもひはわれぞまされる と読(よめ)りける。実(げに)と覚(おぼえ)てあはれに侍り。 【通釈】 昔、素性法師という歌読みの僧がいた。都の外の大原という所に住んでいた。 花を見て楽しみ、紅葉を愛す様は、俗世を離れた人のようであった。 秋の夜が所在なく長く、寝ることもできず、なんとなく泣きそうであった。 泣く術もなくしみじみとした朝方に、松虫が鳴いていたので、 (誰が今すぐ行くよと言ったのだろうか。私は秋の夜を明かしかねつつ、松虫と一緒になきながら待つ) また、枕の下にきりぎりすが鳴いていたので (きりぎりすよひどく鳴くな。秋の夜私の長い想いは私のほうが勝っている) と詠んだ。本当だと思ってしみじみ感慨深かった。 自分なりに通釈して、ふと疑問に思ったのが、この文章の主語は誰ですか? 作者か素性法師か。 普通に詠むと素性法師なんですけど、最後の文が納得できなくて。 詠んだ本人がこういうことを思うかなと。 それとも最後の文だけが作者主語なのでしょうか? 重ねて通釈におかしな点がないかご指摘よろしくお願いします。
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- kogonta31
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文章のトーンから見て、鴨長明の「発心集」の一部ではありませんか? (「発心集」の全部を記憶しているかどうかはあやふやなので、断言できかねます。) 「発心集」からの引用であれば、最後の一文「実にと覚えてあはれに侍り」と思ったのは、著者の鴨長明です。 「発心集」は、鴨長明が隠遁生活を送った際に、つれづれ書きした説話集であり、古僧や隠遁者の生活について文章を書き、最後に長明の感想を一言加えています。 この文は、素性法師が詠んだ和歌について、実際に自分(長明)が同じ隠遁生活を送って、実感として述べた言葉を最後に加えたものです。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
教員ではありませんが、 >この文章の主語は誰ですか? 『この文章』とはどれでしょう? 最後の『実(げに)と覚(おぼえ)てあはれに侍り。』という一文のことなら、そう感じたのは作者(素性法師のエピソードを書き記した人)でしょう。素性法師ではないと思いますよ。 ご紹介の文章全体は、『昔、素性法師と云(いふ)歌読の僧侍り。九重の外、大原と云(いふ)所にすみ侍りけり。』という書き出しですから、もともと作者が誰かに紹介・説明している文章だということは明らかです。 ですから、最後に作者の感想文がついてもなんの不自然さもありません。 むしろ、どこかに作者がわざわざ誰かにこの話を紹介・説明した理由となるような、作者の感想・感慨が述べられているのがふつうなのではないでしょうか。 ほかに見あたらないのですから、最後の一文がそれにあたるとみるのは自然なことだと思います。