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古文解釈とその裏付けについて
- 古文解釈とは、古代の文章を理解し現代語に訳すことです。
- この質問文章では、法然の起請文についての解釈を求めています。
- 異説として、誓約内容を「自分が地獄に落ちる」とする誓言説と、「お前達よ」と諭す教戒説があるようです。
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正の命題 南無阿弥陀仏と申して疑ひなく往生するぞと思ひ取ること 三心四修は南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふ内に籠れること 二尊のあはれみ 本願 念仏を信ずること 一文不知の愚鈍の身になすこと 尼入道の無智のともがらに同じうすること 非負の命題 智者の振る舞ひをせざること 負の命題 もろもろの智者達の沙汰し申すこと 学文をして念の心を悟りて申すこと 奥ふかき事を存ずること 一代の法をよくよく学すること 智者の振る舞ひをすること 非正の命題 二尊のあはれみにはづるること 本願にもるること 正と負の命題を畳み込むようにして、論理的に分かりやすく書かれた古典文です。「奥ふかき事を存ず」という表現を現代語の感覚で正の命題と受け取ってしまうと規範文法が分からなくなるようですね。愚鈍の身・無智のともがらになりましょう。
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- SPS700
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#2です。補足です。 >>一般論ですが、読解の目安として、推量助動詞「べし」の識別法があります。 (1)自分(一人称)の気持ちを表す「べし」 = 意志 (2)相手(二人称)に物事を勧める「べし」 = 勧誘・当然 (3)第三者(三人称)を推測する「べし」 = 推量・当然 「もれ候ふべし」が、推量であれば、(3)に該当します。「私を含めて我々は、」という主語を当て嵌めるのは、いかがでしょうか? 助動詞「べし」の第一の意味は下記のように当然の意味(…して当然だ。…のはずだ)を表し人称には無関係です。 http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/198918/m0u/ 漏れ候ふべしは、推量ではなく、「当然」を表すと思いますので、「もし X がこれ以外のことを考えていると仮定するなら、Y になるのは当然だ」と言っているだけだと思います。
お礼
確かに、私も弟子たちも含めて、「我々は」という主語を当てた方が自然であるような気がいたします。
- Biolinguist
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#1です。 私も#4の方と同意見です。 (例1)と(例2)の違いは (1)「知っていて知らないふりをしているのであれば」か「思いめぐらすようなことがあれば」か、 (2)主語は「私」か「私たち」か「弟子達」か、 にまとめられます。 まず(1)ですが、「存ぜば」は『心にあるならば』ということです。『心にある』から、「思う」とか「知る」とかいう意味になるので、そのどちらかというのはさほど重要ではありません。 いずれにせよ、「思うならば」「知るならば」ならともかく、「知っていて知らないふりをしているのであれば」はいくら何でも、無理筋です。 次に(2)ですが、最初の回答でも述べたように、主語は基本的には『私』です。 私を含めた『私たち』、あるいは人一般、という可能性は大いにありますが、いずれにせよ、『私』を含んでいることがポイントです。 英語の『一般の人を表す』you(あなたではない)や they に相当します。 あえて言えば、『私を含めた一般論』とでもなりましょうか。 少なくとも『弟子達』は無理です。 したがって、国語学的には、(そういうご質問でしたよね) 「これ以上のことを考えてしまえば、釈迦如来と阿弥陀如来の大慈悲心から、きっと漏れることでありましょう。」 となる、としか言いようがありません。
補足
一般論ですが、読解の目安として、推量助動詞「べし」の識別法があります。 (1)自分(一人称)の気持ちを表す「べし」 = 意志 (2)相手(二人称)に物事を勧める「べし」 = 勧誘・当然 (3)第三者(三人称)を推測する「べし」 = 推量・当然 「もれ候ふべし」が、推量であれば、(3)に該当します。「私を含めて我々は、」という主語を当て嵌めるのは、いかがでしょうか?
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
#2です。補足です。 >>解釈例を二つ紹介します。 (例1)私が、これ以外に、まだ特別な教義があるのに、知っていて知らないふりをしているのであれば、毎日称えているお念仏は空しいものとなり、私自身が地獄・餓鬼・畜生の道におちることになりましょう。 (例2)もし、これ以外に、まだ深遠な意味があるのではと思いめぐらすようなことがあれば、釈迦如来と阿弥陀如来の大慈悲心から除外され、弥陀本願の救いから、きっと漏れることでありましょう。 *例1は、主語の「私(法然)」が、地獄に落ちることでしょうという意味になり、例2は、「我々は」或いは、「お前たち(門弟)は」の主語を入れると、分かり易いように思われます。「知る」「思う」の解釈の違いについては、どう思われますか? 僕は、ただのド素人ですから。大分割引して聞いてください。僕は両者の違いは「存ず」という動詞の主語の違いで、あとは補填した語句の違いの有無だとおもいます。 謙譲語の主目的は、「自分または自分に関係のある人や持ち物・状態・動作をへりくだって使う」ことにありますから、源空一人なら(1)、源空に関係のある人なら(2)です。 http://park2.wakwak.com/~lion/benkyou/kotoba-tukaiwake.htm (1)の「地獄・餓鬼・畜生の道におちる」とか、(2)の「と思いめぐらすようなことがあれば」などと言った、後で勝手につけた尾鰭は大切ではないとおもいます。 大切なのは、どちらの解釈でも「これ以外だと2尊にはずれ、本願に漏れる」という点で、誰(私一人でも、弟子たちでも)が考えようと究極は仮定の話で、たいした違いは無いということでしょう。
補足
一般論ですが、読解の目安として、推量助動詞「べし」の識別法があります。 (1)自分(一人称)の気持ちを表す「べし」 = 意志 (2)相手(二人称)に物事を勧める「べし」 = 勧誘・当然 (3)第三者(三人称)を推測する「べし」 = 推量・当然 「もれ候ふべし」が、推量であれば、(3)に該当します。「私を含めて我々は、」という主語を当て嵌めるのは、いかがでしょうか?
- kzsIV
- ベストアンサー率53% (238/446)
敬語を省き、平叙体の現代語訳を試みました。 ここにいう「念」仏とは、中国・日本で、諸賢の論定した観「念」の「念」でもないし、勉強して「念」の心を悟った「念」仏でもない。ただ、『往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と称えて間違いなく往生する』と達観するだけのことである。ただし、「三心四修」という事も大事であるが、これは皆、しっかりと『南無阿弥陀仏と称えるだけで往生する』と信じることの中に含まれている。 それ以外の深間を知り過ぎるならば、二尊の慈悲・本願に漏れ外れてしまうだろう。 「念仏」を信じようとする人は、たとえ優れた学僧であっても、自分自身を文字も知らない愚鈍の身・尼入道と同じ無智の輩とみなして、智者の振る舞ひをせず、ひたすらに念仏するべきである。
補足
解釈例を二つ紹介します。 (例1)私が、これ以外に、まだ特別な教義があるのに、知っていて知らないふりをしているのであれば、毎日称えているお念仏は空しいものとなり、私自身が地獄・餓鬼・畜生の道におちることになりましょう。 (例2)もし、これ以外に、まだ深遠な意味があるのではと思いめぐらすようなことがあれば、釈迦如来と阿弥陀如来の大慈悲心から除外され、弥陀本願の救いから、きっと漏れることでありましょう。 *例1は、主語の「私(法然)」が、地獄に落ちることでしょうという意味になり、例2は、「我々は」或いは、「お前たち(門弟)は」の主語を入れると、分かり易いように思われます。「知る」「思う」の解釈の違いについては、どう思われますか?
- SPS700
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次の古文の現代語訳は、どうあるべきでしょうか。「此の外に、奥ふかき事を存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。 」(『一枚起請文』法然) もしこれ以外に(私が)奥深いことを知っているとしたら、二尊(=釈迦+阿弥陀如来)の慈悲に外れ、本願にも漏れることになります。 「ぞんず」は「他サ変」で、「ぞんぜば」はおっしゃる通り仮定形です。詞化し過去の助動詞は無いので過去ではありません。したがって「知っていると仮定すれば」ということだと思います。 ですから、「事実ではないがもし、私(=源空)がそう思っているとすれば」ということでしょう。
補足
解釈例を二つ紹介します。 (例1)私が、これ以外に、まだ特別な教義があるのに、知っていて知らないふりをしているのであれば、毎日称えているお念仏は空しいものとなり、私自身が地獄・餓鬼・畜生の道におちることになりましょう。 (例2)もし、これ以外に、まだ深遠な意味があるのではと思いめぐらすようなことがあれば、釈迦如来と阿弥陀如来の大慈悲心から除外され、弥陀本願の救いから、きっと漏れることでありましょう。 *例1は、主語の「私(法然)」が、地獄に落ちることでしょうという意味になり、例2は、「我々は」或いは、「お前たち(門弟)は」の主語を入れると、分かり易いように思われます。「知る」「思う」の解釈の違いについては、どう思われますか?
- Biolinguist
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「存ず」というのは、基本的には、主体・主語を低める語で、普通は、聞き手に対して、あらたまった気持をこめていうのに用いる謙譲語です。 「申す」のように、謙譲語でもあり、丁寧語でもあるという性質がありますし、二人称や三人称を主語にした用例も多少ありますけどね。 時代は下りますが、『ロドリゲス日本大文典』には、「尊敬せられる人と話す場合に使われる。若者や身分の低い者と話すのに「存ぜぬか」といふのはよくない」とあります。 以上、諸々勘案して自然に解釈するならば、主語は聞き手に対する「私」でしょう。 聞き手が誰かという点については、起請文であることから、弟子というより、神仏であろうと思います。 >一般に過去形で使われる時には、知っていたという意味で、 >肯定の現在形の時は、思うという意味である。 これは『日葡辞書』の記述ですが、過去と言うよりは完了の「り」や「たり」と一緒の時には、そういう意味になる、ということです。 「汝が云ふ所二つ无し。我理を存ぜり」 「さて某がぞんじたる寺々は大方参ったが」 ここでは過去でも完了でもないし、否定でもないので、「思う」でいいでしょう。 「本願にもれ候ふべし。」 「べし」は確信の強い推量の助動詞です。「きっと、~だろう」「~に違いない」という意味です。 ですから、「きっと本願から漏れてしまうでしょう」ということであって、「神仏に誓う」とか、「自分が地獄に落ちても構わない」という意味ではありません。 「余計なことを考えたら、当然、浄土には行けないでしょう。」 というだけのことでは?
補足
解釈例を二つ紹介します。 (例1)私が、これ以外に、まだ特別な教義があるのに、知っていて知らないふりをしているのであれば、毎日称えているお念仏は空しいものとなり、私自身が地獄・餓鬼・畜生の道におちることになりましょう。 (例2)もし、これ以外に、まだ深遠な意味があるのではと思いめぐらすようなことがあれば、釈迦如来と阿弥陀如来の大慈悲心から除外され、弥陀本願の救いから、きっと漏れることでありましょう。 *例1は、主語の「私(法然)」が、地獄に落ちることでしょうという意味になり、例2は、「我々は」或いは、「お前たち(門弟)は」の主語を入れると、分かり易いように思われますが、いかがでしょう?
お礼
現代語訳がないのですが、論理構造がわかりやすくて参考になります。