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古文解釈の質問(仏教関係の古文の現代語訳)について

次の古文の解釈を教えてください。 (1)二尊の憐みにはづれ、六萬七萬の修行も虚しくして、三途の底に入らむとある御誓言を立て給ふべきにあらず。 然るに是れは、何の爲めに立て給ふとなれば、既に滅期臨終の時近づきし故に、大慈悲を以て、末代の衆生を憐み、疑ひをはらさせむがために、御誓ひを立て給ふ事なれば、あだに心得へからず。     (『吉水遺誓諺論』) (2)實に往生の大事をかけければ、誠に恐しき誓言なるを、さのみ身にそみて覺えざるこそ偏に祖師の思ひを忘れたる也。     (『一枚起請辨述』)

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  • kzsIV
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回答No.3

前回の、国語カテゴリー 2015-08-27 10:03:23 質問No.9037283 から話を起します。そこでの回答No.7 へのお礼コメントに「現代語訳がない」と仰せですが、既に回答No.3 で現代語訳を示しております。そこに補足コメントをされたところを見ると、その現代語訳をお認めにならなかったようですので、そこから解き明かさねばなりません。 ↑( ) は 正の命題  ↓( ) は 負の命題 ─────────────ここにいう「念」仏とは、 もろこし我が朝に、────中国・日本で、 もろもろの智者達の────↓(諸賢の 沙汰し申さるる──────論定)した 観念の念にも非ず。────観「念」の「念」でもないし、 又、学文をして、─────↓(勉強して 念の心を悟りて申す────「念」の心を悟った) 念仏にも非ず。──────「念」仏でもない。 ただ、往生極楽のためには、ただ、↑(『往生極楽のためには、 南無阿弥陀仏と申して、──南無阿弥陀仏と称えて 疑ひなく往生するぞ────間違いなく往生する』 と思ひ取りて申す─────と達観する) 外には、別の子細候はず。─だけのことである。 但し、三心四修と申す事の─ただし、↑(「三心四修」という事も 候ふは、─────────大事であるが、 皆、決定して、──────これは皆、しっかりと 南無阿弥陀仏にて─────『南無阿弥陀仏と称えるだけで 往生するぞ────────往生する』 と思ふ内に籠り候ふなり。─と信じることの中に含まれている。) 此の外に、────────それ以外の 奥ふかき事を───────↓(深間を 存ぜば、─────────知り過ぎる)ならば、 二尊のあはれみにはづれ、─↑(二尊の慈悲・本願)に 本願にもれ候ふべし。───漏れ外れてしまうだろう。 念仏を信ぜん人は、────↑(「念仏」を信じようとする人)は、 たとひ──────────たとえ 一代の法をよくよく学すとも↓(優れた学僧)であっても、 ─────────────↑(自分自身を 一文不知の愚鈍の身になして文字も知らない愚鈍の身 尼入道の無智のともがらに─尼入道と同じ無智の輩と 同じうして、───────みなして) 智者の振る舞ひをせずして、↓(智者の振る舞ひ)をせず 只一向に念仏すべし────ひたすらに念仏するべきである。 前回、解釈例を二つ紹介されています。 (例1)私が、これ以外に、まだ特別な教義があるのに、知っていて知らないふりをしているのであれば、毎日称えているお念仏は空しいものとなり、私自身が地獄・餓鬼・畜生の道におちることになりましょう。 (例2)もし、これ以外に、まだ深遠な意味があるのではと思いめぐらすようなことがあれば、釈迦如来と阿弥陀如来の大慈悲心から除外され、弥陀本願の救いから、きっと漏れることでありましょう。 並べて、ごく普通に解釈を記します。   大事なことは、南無阿弥陀仏と称えれば必ず極楽往生するとしっかり信じることである。このこと以外に、学文・教学の深淵な知識を知ろうとするならば、二尊の慈悲・弥陀の本願に漏れ外れてしまうだろう。 さて、今回の文例ですが、(1)は上の(例1)の解釈を踏まえているようです。   一般的には、二尊の憐みにはずれ、せっかく積んだたくさんの修行をも無駄にして、地獄に落ちようなどという誓言は立てるべきではない。それではこれは、何のために立てたかというと、もはや滅期臨終の時が近づいたので、大慈悲から末代の衆生を憐んで、疑念を晴らさせようと誓いを立てたのであるから、軽はずみに考え違いをしてはならない。 (2)は前後の文脈が分からないので、穏やかに訳しておきます。   実際のところ「往生」に関する自身の信念を(著述ではなく)起請文にしたのであるから、本当にとんでもない誓言をしたことになるのであるが、(後代の者たちは)それほど身に沁みて考えもしないことこそ、ただただ祖師の思いを忘れてしまったとしか言いようがない。

noname#221896
質問者

お礼

前回期待しておりましたのは、例(1)と(2)の主語の特定、「存ず」の訳、そして敬語つきの現代語訳でした。文章の骨格は、正・負の命題で、すっきりと整理されているように思いました。 おっしゃる通り、上記(1)(2)の文は、例(1)に対する反論で、同一人物のものです。 前回と今回と引き続きご回答をいただき感謝申し上げます。

その他の回答 (2)

  • SPS700
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回答No.2

 #1です。補足です。 >>(1)の「あだに心得べからず」ですが、「べし」の意味に注意して、「(地獄に落ちてもかまわないというような)いい加減な考えを持ってはいけない」と理解してみたのですが、SPSさんの現代語訳をお知らせください。  「べし」は、質問者さんと同じです。括弧の中の言葉は原文に無いので、僕はそこまで読みません。 >>(2)「誓言なるを」の「を」は、文脈から見て、逆説用法(誓言であるけれども)に思うのですが、いかがでしょうか?  僕は「~であるのに」と読んでいます。 >>(3)「さのみ」は、「そのことだけを」と解釈しては、いかがでしょうか?  僕の感じでは、前の節で「~であるのに」と言ったのを受けて「それほど」と取りました。 >>(4)「さのみ身にそみて」で、一旦中止して、「覺えざるこそ」に続くと考えてみましたが、いかがでしょうか?  僕は、古文の権威でも仏教の専門家でもなく、単なる一素人に過ぎませんので、別に切ることもないと思いますが、適当に無視してください。

  • SPS700
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回答No.1

1。大要:甲ではなく、乙がいい。  二尊(釈迦と阿弥陀仏)の慈悲を受けず、いろいろな修行も無効で、まさに死に至ろうとしているという理由で誓いを立ててはいけない。では誓いは何の為に立てるのかと言えば、もう死期が近づいているのだから、大慈悲で、末々までの人々を哀れと思い、疑いを晴らす為に、誓いを立てるのなら、無駄なこととは思わない。 2。実際、死と言う大事が控えているのだから、本当に重大な誓いなのに、それほど身に沁みて覚悟していないのは、祖師のご意向を忘れているのだ。  まあ間違っているかも知れませんが自力本願(=甲)より他力本願(=乙)を、という浄土宗の教えを述べたものでしょう。

noname#221896
質問者

補足

(1)の「あだに心得べからず」ですが、「べし」の意味に注意して、「(地獄に落ちてもかまわないというような)いい加減な考えを持ってはいけない」と理解してみたのですが、SPSさんの現代語訳をお知らせください。 (2)「誓言なるを」の「を」は、文脈から見て、逆説用法(誓言であるけれども)に思うのですが、いかがでしょうか? (3)「さのみ」は、「そのことだけを」と解釈しては、いかがでしょうか? (4)「さのみ身にそみて」で、一旦中止して、「覺えざるこそ」に続くと考えてみましたが、いかがでしょうか? 更なるご意見をお願いします。