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哲学であるかそうでないかのラインについて
哲学の「て」の字も知らずに哲学を語っているつもりになっている人も多いと思いませんか? 上記の文が含まれる質問に対し哲学の「て」というものはなんであるか質問者に逆に問うてみました。 知に対しての欲求からです。 そこで混乱したのですが、哲学的であるかただ考えているだけか。 その違いはどんなところにあるのでしょうか? 哲学的手法を知らなくても哲学ができる人がいる反面 手法を学んだであろう人であっても哲学を語っているつもりの人が多いらしいのです。 また学が浅く興味があってもどのようにすれば哲学的な思索が深まるのかわかりません。 アドバイスをいただけると助かります。 知に向かうための対話は歓迎いたしますが、批判や論争の基となるような発言はご遠慮願います。 言葉とは難しいものであることを知っています。 書かれた言葉が独り歩きしないよう、なるべく本意が伝わるようお願いします。 ここで質問するにいたった動機のひとつでもありますので重ねてお願いいたします。
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こんにちはヽ(´ー`)/ この問いに回答するには、 「哲学とは何か」 ってことを突き詰めないと 答えがでないと思います。 分かりやすく書くには長い回答になりそうですが お付き合いください。 たぶんonyx1さんも気づき始めたと思いますが、 こうやってみなさんの回答をみても 哲学の意味がそれぞれ少し異なりますよね。 言葉が共通の認識を持ってくれない限り 「哲学する」って何言ってんだよ。となりますね。 同感です。 わたしも「哲学」の言葉の意味の曖昧さに 苦しさを感じます。 私自身も良く意味がわからないので あまり「哲学する」って言葉を使いたくないですね。 Aさんにとって 哲学=みかん Bさんにとって 哲学=やかん Cさんにとって 哲学=ミコミコナース これだとまったく話がかみ合いません。 言葉には定義が重要なのです。 なのにテツガクって言葉は時代と共に 変化もしてきました。 かのギリシャで生まれました哲学・・・ そもそも哲学(一般的な西洋哲学)の意味は 自然を見つめる学問全体を表していました。 理科も社会科も算数もみんな哲学でした。 中世に入り、学問は更に細かく体系化されます。 すなはち、化学・物理学・天文学・数学・社会学 語学・歴史学・建築学ect 昔の哲学者は大変、たくさんの学問を究めます。 どいつもこいつもすごいです。 今の哲学者と呼ばれている人達は「哲学史」くらいしか 勉強しないらしいですが。 さて学問を細分化していくと こんな問いはどの学問体系で 答えがみつかるでしょうか。 「善とはなにか」 「いかに生きるべきか」 「意志ってなんでしょう」 「売春はいけないことですか」 「不倫は文化ですか」 「なぜ人を殺してはいけないの」 「生まれてくることは幸せですか」 「幸せとはなんですか」 「自由って存在しますか」 「存在とはそもそも何よ」 「学問を学ぶ意味は」 良く耳にするこれらの問い 学問体系のふるいからこれらの質問が こぼれてきます。 現在の「テツガク」と言われる物をみてみると とりあえず、こういうやつの答えを見つけようとする 学問を哲学ってしちゃっているように見えます。 よく「哲学は誰でもできる」と言われるのは これらの問いは、専門的知識を必要とせず 他者を見つめ、世間を見つめ、自分の心を行使すれば 自分なりに答えを見出せるからでしょう。 逆に 「アルファケトグルタル酸の化学式は?」となると みんな黙り込んでしまうわけですね。 では、辞書を開いてみましょう。 (哲学) 世界・人生などの根本原理を追求する学問。 認識論・論理学・存在論・倫理学・美学などの領域を含む。 (哲学的) 物事を根本的に考えるさま。また、哲学に関係あるさま。 (哲学する) ・・・・・・・・どこにも載ってない。 ですよねえ。良く意味わからないもん。 wikiにはでてました。ほうほう。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B) なるほど、「哲学する」を平たく言えば <世界・人生などの根本原理を考えると> <生まれてくる疑問などを> <感情におぼれずに、筋道を立てて> <考え理論的に追求すること> とすれば80%くらいはあたっていると思います。 <感情におぼれず>というところは onyx1さん的にもニヤっとくるところでしょう。 これだけで、哲学の「て」は完璧だと思います。 あとは、それらの問いを自分にとって問いと思い 考えるだけです。 「哲学的手法」なんて言葉は「哲学する」のに あんまり意味のない言葉だと思います。 へんてこな造語が増えてしまいます。 「客観性・論理性や理性をもちいて」で十分かと。 ですが、 過去の哲学者の使用した言葉や価値観をちりばめた ステキな会話を理解できることが 哲学の「て」の字を知っていると思う方もいるようです。 ふむ・・・ たしかに、他の人とそれらの問いに対しての コミュニケーションを図るときに自分の思いを 適当な言葉に置き換えることは、哲学の場合難しいです。 なので過去の哲学者たちが残した言葉や知識を利用して 相互の思うところを把握することが出来たりします。 そういう意味では、哲学史を学ぶことも意味があると思います。 しかしそれは 「哲学」の「て」を知らないのではなくて 「哲学史」の「史」を知らないことと思います。 「ニーチェ」の「ニ」を知らないってことでしょう。 「哲学」の「て」を知らずに哲学を語ること自体 不可能であり、(みかんを知らずにみかんを語る) 「論理性」の「論」を知らないかたや 「哲学史」の「史」を知らないかたは 私を含めたくさんいると思います。 ですが、完璧な論理性や哲学史の完璧な把握なんて ものがないわけですから、それは嘆きにはならない でしょう。 むしろ、今後の希望と思っていただきたいですね。 少しでも伝わったらうれしいです。ヽ(´ー`)/
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- 3980
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こんにちは~ 哲学って深いですね~~ 哲学と言っても人それぞれの思いと言いますか答え方があるんですね。 ミコミコナース(萌っ! 大学で勉強しても本を読んでも、吸収の仕方が人それぞれ。 onyx1さん的には肉のつき方っていうんですかね(笑 だから何が哲学であって哲学でない。 人の感受性によるものも大きいのだと思いました。 だから人から否定されても本人が哲学だと思えばそれはその人の哲学であって良いと思います。 否定の仕方ってのもあると思いますが。。。。 自ら毒を飲んで死ぬくらい、自身の哲学を貫いた哲学者もいますしね。 それと皆さん食いつくとこが違うんですね(笑 その人にとっての哲学があるように。 私は。。。 >そのエネルギーのしこりをとるためには必要だと思ったのです。 ここいらあたりに食いつきました! もしかしてシンクロかもしれませんが私も怒りの感情に翻弄されました。 集合的無意識というかなんというか私も繋がっちゃたりなんかします。 あの時は本当すごかった(滝汗 私も感化されやすいんで何日か見にいきませんでした。 続けて参加したら同じように怒ってたと思います。 ピアノで自分という旋律を奏でてる横でヘビメタのバンドが激しく「怒り」を演奏してた感じっていったらわかりやすいですかね~ 絵の具のバケツに怒りの色を混ぜたようなものかもしれません。 おわかりだと思いますが(笑 で、その怒りのエネルギーも軽くなったと思います。 大きくわけて三つ意図したものがあると勝手に想像してます。 時間のせいもあるでしょうけど(笑 哲学ってなに?って人も一部怒ってたように感じてました。 哲学を勉強したことのない人も哲学カテにたくさんいらっしゃるかと思います。 私も一緒に勉強させていただきました。 OKWaveが善意の場であることを心からお祈りいたします。
お礼
回答していただきありがとうございます。 そこに食いつきましたか^^; 確かに共時性かもしれませんね。 ユングは感じる上での先入観になりますのでさわりしか知りません。 感じたことを哲学的に検証して同じ結果になればとは思います。 意図については語らずに去りたいと思います。 私も3980さんと同じように繋がることができるようです。 しかしまだコントロールできません。 全てのエネルギーがわかるわけでもありません。 怒気に対しては相手の発する気が大きくなるせいかものすごく反応してしまいます。 鏡のようでもあります。 自分という旋律を正しくつられることなく奏でることが出来るまでインターネットも控えます。 ありがとうございました。 私も善意の場であることを祈らせていただきます。
お礼文の時間は、大体知っていますよ^^。でも、そういうことではなくて、質問文自体にさほど問題がないと書いただけです。 でも怒りを感じたのでしたら、それこそ受け手の自由ですので、いいです。 でも、いくら動機が純粋でもマナー違反で良かったと居直ってしまうのはちょっと問題かなと思いますよ。 他の方の怒りを代弁してしまうのも、マナーのある場では、褒められた行為ではありませんよ。 質問の主目的が怒りでない以上は、同じ内容を個人の特定をしないことによって、せねばなりませんよね。どうしても、個人を想起させる形で質問する動機が見えませんが、あるのでしょうか? 他の方への回答へURLを乗っけて批判したりするのもいけませんよ。 条文にすれば、一応、こちらの12条あたりになると思います。URLの指定は論外ですが(アンカテにも一つ立ったんですよ。あの質問者への批判アンケートが。でもそれはさすがに消えましたね。)、とくにURLがあるかないかが、分け目になるわけではありません。 http://blog.goo.ne.jp/oshietegoo/c/2fd47a0436464f7e861d622ad803e8ab 悪気のつもりがなくて、哲学の議論のためというのは一応わかりましたが(怒りの代弁をしている点で腑に落ちないものは残ります)、意図しなくてもこういうやり方が、誰かを必要以上に悪者にしていくということは、知った上でやっておられるのか、あるいはそうしていただいた方が良いと思います。マナーをうるさく言うのは申し訳ない気もしますが、質問者さん、回答でも書かれていますよね。アンカテでもたたかれてましたし。やっぱりここはマナーにも意味があることです。
お礼
ご意見真摯に承っております。 居直ってもいません。 マナー違反であるとのご指摘ありがとうございます。 今後気をつけます。 #15さんへのお礼文の 「確かにここの質問を立ち上げる動機のひとつでもありますが割合的には小さいです」 動機のひとつをクローズアップして書いてしまったことでのご指摘かと思います。 配慮に欠けました。陳謝いたします。
怒りからの質問ではないということですが、とりあえず特定の質問者を意識した質問の仕方は、削除依頼できるようなものであったと思います。 規約違反かどうかは調べてませんが、マナー違反とは言われると思います。納得できない無礼な質問者が出る度にこれをやっていたら、報復質問の乱立になってしまいます。これをやり出すとキリがないからです。 むかついても、別スレッドにしないで冷静に我慢。日付を置いてからもう一度質問したかったら、それと関係なく聞いてみるのは良いでしょうけど。 そうやって削除された質問もたくさんあります。この質問の場合、URLは上がってませんから、削除までいかないかもしれませんが、くだんの質問者は見ていて悪い気がしているでしょう。それも計算のうちかもしれませんが、そういう思いを抱かせるやり方ではあるのではないでしょうか。私ならいくら違うと言われても、自分をネタに質疑している報復質問とおぼしきものをされたら、率直にイヤだなぁと思います・・。 >知に向かうための対話は歓迎いたしますが、批判や論争の基となるような発言はご遠慮願います。 そうですよね。でもこれを本当に望まれるのでしたら、やっぱりなにか深い意図があるにしても、マナーには準じないと、くだんの質問者がこんどは殴りかかってこないとも限りませんでしたよ^^。荒れる原因になるものです。いくら言っても、これをやったら荒れると思います。今回は、味方?が多いこともあって、荒れなかったのは運が良かったというのもあると思います。 幸い、見ているだけで?、殴りかかってこないのは、その質問者が見ているだけで我慢しているからでしょう。IDを他にとって云々というは憶測なのか確信なのか知りませんが、たたかれる場に、もとのIDを使って出てこない、これないのを知っていて、このやりとりをするというのも、えらい酷というか、ねっとりしたやり方じゃないかと私個人は思います。 こういうのを別にして、質問を立てていただければ良いと思いますけど。 もとの質問には別に不快感を、そこまで感じるものかなぁという程度の認識です。哲学科は出てませんが、まぁそいうことも思うことはあるんでしょうよ、ということは理解できました。哲学の手法を納めた人は定義などをしっかりして話をするのでしょうけど、それを納めていない人はそういう面では、いい加減になります。そうすると話がしにくい、通じないなどのもどかしさを感じることはあるとは思います。そういうもどかしさを言ったのだと思います。だからと言って、もう少し言い方はあったかもしれませんが、別にバカにしているとも思いませんでしたよ。読み手の見方で変わる程度の表現のまずさを、客観的事実としていつまでも引っ張られても、最初の書き込みがどうあれ、逆に気の毒じゃないかなぁと思いますけどね・・。 もう忘れてあげたらどうかなぁ。
お礼
ご意見いただきありがとうございます。 ご指摘の点もっともかと思います。 上記の質問文には知りたくなった動機として書きました。 報復を目的としていませんのでURLも載せておりません。 いくつか言いたいことは申し上げましたが、陰湿には書いてないつもりです。 弱いですがフォローも若干したつもりです。 すべて読み手側のとり方次第ということになると思いますが。 知に対する欲求がこれを契機に高まったことに感謝してますよ(笑 ひとつだけ お礼文にも書き込んだ時間が書かれていれば憤りを感じた人のことも理解できると思うのですが・・・ 相手を傷つけるのはもう嫌ですのでこの辺で。
- tetrarch
- ベストアンサー率21% (123/563)
はてさて、哲学に範囲自体あったのやら。 とりあえず、大学の講義で習ったものをそのまま言うと、哲学は学問の元であり、学問自体が哲学である的な感じです。ですので、学べば全部哲学というのではいけないんでしょうか。(質問を質問で返すようですいません。) とりあえず、お怒りのようですね。No.15さんの回答で知りました。とりあえず、中傷されたと感じたのであれば、「運営スタッフに連絡」で削除してもらうのがいいと思います。このままではいつまでも残ってしまいますよ。
お礼
「キ、キレてないっすよ」 (笑 哲学は自分の血となり肉にするものと解釈しました。 #15さんの国語と同意義というのも納得です。 だから哲学はすべての学問の元なんですね。 知識としてありましたが真の理解に繋がりました。 ありがとうございます。
- frau
- ベストアンサー率28% (56/199)
このトピを立てられたきっかけの例のテーマを拝見しました。 ただonyx1様も腹の虫を収めるために、このトピを立てた動機もなきにしもあらず、ではないでしょうか? >おそらく精神安定剤や鬱病の薬。それに似た薬を飲んでいるように思いますがどうでしょうか? にしてもonyx1様もこう発言してこのトピの質問者を挑発していますよね。質問者は「明らかに侮辱」とおっしゃってます。私もそう思います。下のお礼でネチケット云々について語られていますがあなた自身も「言葉」の使い方については相手を批判している同類(いやそれ以上)なのではないでしょうか。 ・・・おっと、これは批判ではないですヨ。客観です。ずーっと気になったものですから。ただ哲学のカテゴリってこうした論争というか小さな諍いに発展しやすくなるようですね。 「哲学であるかそうでないかのラインについて」ということですが、そのボーダーとは言葉遣いにあるのだと思います。あとはインテリのプライドにかかっていると言うか(笑)。 哲学は様々なもののベースとなる、というのはこのカテゴリで学ばせていただいたことなのですが(たとえばそれが物質なら科学というように)、理論を説明したもの勝ち、なのではないでしょうか。 そして 「哲学はたんなる意見にとどまらず、誰にもあてはまるような答えを探す行為」 「哲学は本当は難しくない」 とはある本からの抜粋です。 タレスは「万物の根源は水」と言いましたが、「火」でもよいわけです。そうではなくて「空気」だ、という反論で哲学が生じる。反論のための理論(哲学)もさらに生じる。でも、真実はわからないんです。だから相手を負かすために論争するのは、「朝まで○テレビ」とかで見かける水掛け論にもなりがちです(それをコミュニケーション不全症候群といいます)。 プラトンの「イデア」についても「この世はあの世をコピーしたもの」というそれだけのことを、私のような凡人にとってはまったく解読不可能な文体で表すわけです。 私は哲学は国語と同意義だと思っています。国語は言葉を解体するけれど、哲学は言葉を構築するもの、の違いがあるけれど。そして哲学から言葉の装飾を取り上げたら案外簡素なものなのではないでしょうか。そして門外漢にはよりシンプルに説明すべきです、たとえば大学の講義の難しさ=不親切さ!(←すいません、個人的な意見です) インテリのお遊びと思うのはそこなんです。哲学は無意味と批判されるのもわかるような気がします。哲学自身がクールな顔を装って彼を求めるものに壁を作っている。 例のトピの質問者さんは哲学を語るマジメさが若者同士にもあってもいいんじゃないか!という気持ち(動機)で立てたテーマなのでは?と思いました。 「>その話をしただけで変人扱いされることが多いです」。彼は哲学は異端か?という話をしたかっただけではないのか、でも誤解を招く言い方をしたために批判が批判を呼んだと感じました。批判の形は多種多様だが、共通していることはまぁイジメに近いかなと(質問者が「それは違う」と言っているにも関わらず、決め付けはさらに続いた)。 この学問て、とかく専門家を気取ったり、言葉に装飾掛けるとソッコーで叩かれるんですね(すごい論争が前にもありましたが、批判でつぶされるにはもったいないインテリもいましたね)。哲学に限るのでしょうか?(個人的に「知」への要求への返答は、もう少し冷静な心持ちがあってこそ磨かれる鏡のものだと思います)。 これは誰のことを言っているのではありませんが、哲学科に在籍している、卒業したというだけでは哲学を知ったことにはなるとは思いません。彼の態度は、異国で互いの母国語知る者同士が言語という記号を用いて、異人にわからないように話している、それが「聞いている」連中をイラッとさせた感じですか? つまり「書を捨て町に出よ」ということでしょう。脳は体で感じたことが前提となって活性化(創造)するらしいですし。語彙を学ぶには教室にて、それを「知る」には現場へ出て肌で感じないと。
お礼
ご回答ありがとうございます。 昨日、自分的には締めても良いと思ったのですがfrauさんのような意見が出ておりませんでしたので締められませんでした。 正直、待っておりました。ありがとうございます。 確かにここの質問を立ち上げる動機のひとつでもありますが割合的には小さいです。 変な使命感ですね。自分を正当化するためのものではありませんし それは相手を批難するためのものでもありません。 例の質問で多くの方が腹を立てたと思います。勢いであり流れのようでもありました。 時間が経てば忘れるでしょう。しかし潜在意識には残るものです。 そのエネルギーのしこりをとるためには必要だと思ったのです。 そのためには私も批難されることが必要でした。 ご指摘の通りかと思います。 私がここで書いたものは他の人の代弁も含め、例の質問をされた方へのメッセージとして書きました。 お読みになられていることは知っていますし、別のIDをお持ちなのも知っています。 これから別のIDを使ってでも哲学を志す人へのアドバイスをして欲しかったのです。 薬の件ですが、身内の方に哲学をからめて言われたのではないか。 直感のようなものが湧き聞いてみました。私も配慮にかけていました。 frauさんのような方が来るのもある種の感覚で知っていました。 後付けの預言者みたいですね(笑 精神修行を進めていき、このような直感を得たのですが哲学的な思索を経ないと間違った解釈も出てきますので哲学をもう一度勉強してみようと思ったのです。 余談が長くなりましたが、ご意見ありがとうございます。 哲学に対しての洞察もとても勉強になりました。
- reikasuzu
- ベストアンサー率30% (4/13)
哲学するとは根本的に考えて、従来の考え方を批判し、新しい考え方を発見することだと思います。 哲学史の歴史とはそのような出来事によって成り立っていると思います。 だから哲学は自己批判の契機をはらんでいる。 従来の哲学者はこう考えたけれど、そいつらみんな間違ってる、と説得的に言えた人が大哲学者。 逆に言うと、哲学の世界では、大哲学者以外はみんなごみ、というひどい考え方もできます。 大学で哲学を研究している教授などは基本的にごみだらけ、ましてや学生などごみにも数えられないとする見方もあります。 およそ大学でまともにものを考えられるはずがない、というニーチェや 学者というは永遠に読まれないために永遠の読書を続けているというショーペンハウアー(か、もしくは彼が引用してた哲学者、忘れました)は正しいと思います。 というわけで、真の意味で哲学的に思考できる人というのは一世紀に世界で数人単位です。 彼らこそ、真に哲学とは何か、という問いに、哲学とはこういうものだ、と答えられた人達だと思います。 およそ哲学的手法を深く学び、大哲学者について知見を深めたひとほど、その大哲学者を根本的に批判した別の大哲学者にこけにされるようです。 哲学とは何か、とは危険な問いです。 そう問うている人の哲学自身が問われるからです。 もしその人の「哲学」が過去の大天才の言ったことの集積でしかなかった場合、それがたとえ数十年の努力の賜物であっても、後の哲学者によって、その人がバカにされること必至です。 ましてやギリシャ語かラテン語、さらにはヨーロッパ系言語を2つ以上習得し、哲学史に登場するビックネームを原書で読み、かつ重要参考書もよみこなしてもいない場合、 ビトゲンシュタインのような例外的存在でもない限り、哲学とは何か、という問いをたてることは不可能だと思います。 哲学とは何か、とはだから危険な問いだと思います。 とてもそんなこと恐ろしくて口にできません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学者について語ることは誰にでもできます。 ただそれを真から理解できるかは人によりけりだと思います。 大哲学者になるためには哲学を学ばなければならないわけですし reikasuzu さんが、ごみと言われる方にも指導していただかなければその一端も垣間見れてこないような気もするのですが。。。
哲学の領域とは哲学が扱う領域のことです。 例えば遺伝子操作や尊厳死などの生命倫理の問題、これは生命哲学の領域と言えます。 哲学であるかそうでないかのラインですが、 例えば自分の問い自体が正しくなければ(つまり意味のある問いかどうか)いくら合理的思考を推し進めたとしてもそれは不毛です。 てつがくの概念や哲学史を学んでいくうちにそれは自ずとわかってくるものと思います。 外からあれやこれや分析するよりも内側に入って実際に経験して観ずることが重要かと思います。
お礼
何度もお付き合いいただきありがとうございます。恐縮です。 自ずとわかるものだとすると、まず勉強をし自分の血と肉にすることが大切なんですね。 造詣の深い方に視野の広さや射程の長さを垣間見せてもらおうとしましたが、この質問に関しては自分の感覚でわかるようになった方がよさそうです。 不毛であるか有意義であるか、出発点でつまずかないようにするためには、 哲学的な感覚が身についているかどうかが重要。そのように感じました。 勉強になりました。ありがとうございます。 この質問にどのように答えようか考えている人もまだいらっしゃるかもしれませんので、週末に締め切らせていただきます。
#8・9です。お返事ありがとうございます。 「快楽主義」という 根が明るそうなのは合ってますが ちょっと違うんですよ。 私の哲学は「諦念」諦める(明らかにする) ということが分るというだけのものです。 何を諦めるかというと、 「自分を良く見せること、自分が正しいということ」 「競うこと」 「人や世間に合わせる嗜好を持つこと(思考ではなく)」 「義理人情を優先する」 ことを諦めるのです。 こういう哲学は大学で決して教えません。 先人が苦労して築いた文明が崩壊するので、危険(笑)。 哲学や人間を良く知っている人から こっそり教わりました。 だから感情を使えないのです。 しかし、悩みとか問題というのは わざとぶつかるものではなく 仕方なくそうなってしまうもので、 何もできなくすることにしないで、 別の生き方があることを知るために 「問い諦めながら終わらせるところを出発点にする」 のです。 それで何が楽しかというと(笑) 疑っている間は裏切られることを想定しているので どんなものにも対等、平等でいられる という(つもり)になれることです。 つまり高校すら出てもいない私の 無知や無謀さ品位の無さを正当化させよう!。 でした。 「哲学かどうかのライン」は 一見利口な臆病か (強い者に巻かれろな信条とか処世訓に従う) は一般の議論で 常識で考えて理屈に合わない どう見ても無謀で哀愁がある(?) (屁理屈好きで、立派な動機も目的もないのに平和主義) なことかも。 理屈にあうことが出来残そうとするなら 偉大な芸術家や宗教家になれます。 哲学者は自分にさえ 価値観をおかないもののようですよ。 なので偉い出世する人になれないのです。 これも仮説です、私の思いこみの範疇です。 怪しい人(笑)が大好きなのです。 私の恩師です。 死ぬ程明るい人でした、(過去形)。 何をしているのか知りません(本当)。
お礼
ご自身の哲学になっているご様子。大変素晴らしいことだと思います。 良い恩師に出会えてよかったですね。消息不明みたいですが・・・ 私も怪しさだけは自信あります(笑 「ソフィーの世界」という哲学の本があります。 私も読み良い本でした。哲学的な視野が広がると思いますので一読をお奨めいたします。 検索すればすぐ出てくるかと思います。 お答えいただきありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
#4です。ご返事ありがとうございます。 >哲学的な思索に感情が入るということは、その時点で哲学でないような気がします。 :確かに【思索】であればおっしゃるとおりでしょうが、述べたのはそれ以前のモノを語る姿勢についてです。 全ての哲学徒に「>産婆としての役割」を求めるのは、個人のキャパシティに限界がある以上無理であろうとは思います。 ただ、最低限、頭の出かかった赤ん坊を体内に押し戻すようなことだけはすべきではないでしょう。 人間を離れた学問というものはありえない(または意味がない)わけで、どの分野に限らずいわゆる専門家の方々はその点を見落としがちです。 無論、理屈としてはわかっているのでしょうが専門的道具を駆使するほうの魅力に負けてしまうのでしょう。 病を治して人を殺す医者のような誤謬を犯しては哲学をする意味もないのではないか、という提言ということです。
お礼
仰りたいことはよく理解しております。私もかの質問について憤りを持ちました。 そしてぶつけました。私にも言いたいことはたくさんあります。 一番の問題点は、質問文に配慮が欠けていたということになると思います。 哲学をわかったと自認するのであれば、どこから読んでも誤解を受けることのないよう配慮すべきだったと思います。 非難を浴びる第一の原因はどこにあったのかを、悲しいことに受け入れることができてないように思います。 締め切る時にも捨てゼリフ残していきましたから多くの方が批難した理由も理解できないようですね。 哲学を語る前にネチケットも勉強して欲しかったです。 ですがそれはひとまず置いて、私はこれからに期待しています。偉そうですね(笑 これは私個人の見解であって賛同は求めません。 回答履歴を見ましたら決して人への愛が皆無ということもありませんでしたから。 因縁果報。必ずなにかしらの報いはうけるものですから自らそれを求めません。合掌 宗教家の中にも「悟りを開いた」と明言する人がいます。 その後新聞やテレビで逮捕されたと聞くことも多いです。 哲学がわかった。そういう人がいてもなんら不思議ではありません。 わかったというのは個人の判断ですし、哲学は自分への問いかけのようですから。
哲学とは自分で問い、自分で応えることです。 ただしその問いが間違っていれば不毛です。 そうならないように我々は先人たちの哲学(哲学史)学ぶ必要があるのです。 また哲学に明瞭な領域などはありません。 人生論には実存主義的な側面も在るのです。 (実存主義はもう古いですが) それから2番さん実在論は間違いで存在論です。 (批判、中傷ではありません。)
お礼
回答いただきありがとうございます。 では、哲学であるかそうではないか。そのラインは明瞭ではない。 そういうことでよろしいのでしょうか? 私も同じようなところで落ち着きそうなのですが、なかなか自分自身の思考を飛び越えることができません。 少し前に哲学をわかっていると自認する方が、違うご意見をもっているようでした。 哲学的であるかそうでないか。どこに判断基準があるのか私にはまだわかりません。 その方もお答えいただけると助かるのですが・・・
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お礼
(・∀・)ノ コンニチハ! 目からウロコです!ありがとうございます♪ ほうほう。なるほどなるほど。。。 お互いの共通のイメージ・意味を持つ言語で話す難しさがあるから だから自分に問い自分で答えを導き出す。 学派や師弟間など共通の体験や知識、単語の意味を知る環境でなければ話が通じにくいので哲学史を学びそれをうかがい知る。 哲学は根本原理を追求する学問。 だから正しい問いでなければ不毛ということに繋がるのですね。 「客観性・論理性や理性をもちいて」思索を繰り返していくことにより より深い思索に入り自分の答えに近づける。 この繰り返しが訓練となり、より広い視野や射程の長さにつながり 普段の思考もより論理的になり学問や研究に役立つ。 というようなことでよろしいでしょうか? 間違いや勘違いであれば教えて下さいお願いします。