• ベストアンサー

哲学であるかそうでないかのラインについて

哲学の「て」の字も知らずに哲学を語っているつもりになっている人も多いと思いませんか? 上記の文が含まれる質問に対し哲学の「て」というものはなんであるか質問者に逆に問うてみました。 知に対しての欲求からです。 そこで混乱したのですが、哲学的であるかただ考えているだけか。 その違いはどんなところにあるのでしょうか? 哲学的手法を知らなくても哲学ができる人がいる反面 手法を学んだであろう人であっても哲学を語っているつもりの人が多いらしいのです。 また学が浅く興味があってもどのようにすれば哲学的な思索が深まるのかわかりません。 アドバイスをいただけると助かります。 知に向かうための対話は歓迎いたしますが、批判や論争の基となるような発言はご遠慮願います。 言葉とは難しいものであることを知っています。 書かれた言葉が独り歩きしないよう、なるべく本意が伝わるようお願いします。 ここで質問するにいたった動機のひとつでもありますので重ねてお願いいたします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.18

こんにちはヽ(´ー`)/ この問いに回答するには、 「哲学とは何か」 ってことを突き詰めないと 答えがでないと思います。 分かりやすく書くには長い回答になりそうですが お付き合いください。 たぶんonyx1さんも気づき始めたと思いますが、 こうやってみなさんの回答をみても 哲学の意味がそれぞれ少し異なりますよね。 言葉が共通の認識を持ってくれない限り 「哲学する」って何言ってんだよ。となりますね。 同感です。 わたしも「哲学」の言葉の意味の曖昧さに 苦しさを感じます。 私自身も良く意味がわからないので あまり「哲学する」って言葉を使いたくないですね。 Aさんにとって 哲学=みかん Bさんにとって 哲学=やかん Cさんにとって 哲学=ミコミコナース これだとまったく話がかみ合いません。 言葉には定義が重要なのです。 なのにテツガクって言葉は時代と共に 変化もしてきました。 かのギリシャで生まれました哲学・・・ そもそも哲学(一般的な西洋哲学)の意味は 自然を見つめる学問全体を表していました。 理科も社会科も算数もみんな哲学でした。 中世に入り、学問は更に細かく体系化されます。 すなはち、化学・物理学・天文学・数学・社会学 語学・歴史学・建築学ect 昔の哲学者は大変、たくさんの学問を究めます。 どいつもこいつもすごいです。 今の哲学者と呼ばれている人達は「哲学史」くらいしか 勉強しないらしいですが。 さて学問を細分化していくと こんな問いはどの学問体系で 答えがみつかるでしょうか。 「善とはなにか」 「いかに生きるべきか」 「意志ってなんでしょう」 「売春はいけないことですか」 「不倫は文化ですか」 「なぜ人を殺してはいけないの」 「生まれてくることは幸せですか」 「幸せとはなんですか」 「自由って存在しますか」 「存在とはそもそも何よ」 「学問を学ぶ意味は」 良く耳にするこれらの問い 学問体系のふるいからこれらの質問が こぼれてきます。 現在の「テツガク」と言われる物をみてみると とりあえず、こういうやつの答えを見つけようとする 学問を哲学ってしちゃっているように見えます。 よく「哲学は誰でもできる」と言われるのは これらの問いは、専門的知識を必要とせず 他者を見つめ、世間を見つめ、自分の心を行使すれば 自分なりに答えを見出せるからでしょう。 逆に 「アルファケトグルタル酸の化学式は?」となると みんな黙り込んでしまうわけですね。 では、辞書を開いてみましょう。 (哲学) 世界・人生などの根本原理を追求する学問。 認識論・論理学・存在論・倫理学・美学などの領域を含む。 (哲学的) 物事を根本的に考えるさま。また、哲学に関係あるさま。 (哲学する) ・・・・・・・・どこにも載ってない。 ですよねえ。良く意味わからないもん。 wikiにはでてました。ほうほう。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%99%E3%82%8B) なるほど、「哲学する」を平たく言えば <世界・人生などの根本原理を考えると> <生まれてくる疑問などを> <感情におぼれずに、筋道を立てて> <考え理論的に追求すること> とすれば80%くらいはあたっていると思います。 <感情におぼれず>というところは onyx1さん的にもニヤっとくるところでしょう。 これだけで、哲学の「て」は完璧だと思います。 あとは、それらの問いを自分にとって問いと思い 考えるだけです。 「哲学的手法」なんて言葉は「哲学する」のに あんまり意味のない言葉だと思います。 へんてこな造語が増えてしまいます。 「客観性・論理性や理性をもちいて」で十分かと。 ですが、 過去の哲学者の使用した言葉や価値観をちりばめた ステキな会話を理解できることが 哲学の「て」の字を知っていると思う方もいるようです。 ふむ・・・ たしかに、他の人とそれらの問いに対しての コミュニケーションを図るときに自分の思いを 適当な言葉に置き換えることは、哲学の場合難しいです。 なので過去の哲学者たちが残した言葉や知識を利用して 相互の思うところを把握することが出来たりします。 そういう意味では、哲学史を学ぶことも意味があると思います。 しかしそれは 「哲学」の「て」を知らないのではなくて 「哲学史」の「史」を知らないことと思います。 「ニーチェ」の「ニ」を知らないってことでしょう。 「哲学」の「て」を知らずに哲学を語ること自体 不可能であり、(みかんを知らずにみかんを語る) 「論理性」の「論」を知らないかたや 「哲学史」の「史」を知らないかたは 私を含めたくさんいると思います。 ですが、完璧な論理性や哲学史の完璧な把握なんて ものがないわけですから、それは嘆きにはならない でしょう。 むしろ、今後の希望と思っていただきたいですね。 少しでも伝わったらうれしいです。ヽ(´ー`)/

noname#19008
質問者

お礼

(・∀・)ノ コンニチハ! 目からウロコです!ありがとうございます♪ ほうほう。なるほどなるほど。。。 お互いの共通のイメージ・意味を持つ言語で話す難しさがあるから だから自分に問い自分で答えを導き出す。 学派や師弟間など共通の体験や知識、単語の意味を知る環境でなければ話が通じにくいので哲学史を学びそれをうかがい知る。 哲学は根本原理を追求する学問。 だから正しい問いでなければ不毛ということに繋がるのですね。 「客観性・論理性や理性をもちいて」思索を繰り返していくことにより より深い思索に入り自分の答えに近づける。 この繰り返しが訓練となり、より広い視野や射程の長さにつながり 普段の思考もより論理的になり学問や研究に役立つ。 というようなことでよろしいでしょうか? 間違いや勘違いであれば教えて下さいお願いします。

その他の回答 (18)

noname#31063
noname#31063
回答No.8

すいません、質問の答えになってなかった(失笑)。 事象に対して感想を述べているのか ちゃんと哲学しているのかの違い ということですよね。 哲学は生き方で、 どこを削除するか可能性を引き出すか。 哲学といえど 各人の捉え方、理想の生き方に意義を唱えることは 不可能かもです(説得力にもよるのでしょうが)。 哲学の手法、定義証明があるとするなら 生き生きと生きること。 冷めた決別をするの自由だからではなくて それこそ不自由だからで 脱皮するかのごとく 変態する喜びに突き動かされて 未来が豊かに感じているか 相手に感じさせているかどうか。 で哲学の自由探求=執着しないという態度に思います。 「面白くなくちゃ、楽しまなくっちゃ」と 合理的でないことをワザワザ(やってるつもりもないのですが結果いつもそうで) 楽しむのも私の哲学です。

noname#19008
質問者

お礼

快楽主義ということのようですね。 私が論点にしたいのは「哲学であるかそうでないかのライン」です。 質問文に言葉が足りてなかったようです。申し訳ございません。

noname#31063
noname#31063
回答No.7

哲学は自由欲求、自由という試練、 自由という暗闇の歩き方なんて、 独学で哲学をするものです。 哲学と科学が敵対関係にあるようで 私は哲学の敵対関係は芸術と思います。 芸術は感情や価値観の執着ですが、 哲学はそういったことからの逃避です。 逆に言えば芸術は自由探求からの逃避です。 都合のいい学識や創作も惜しくて捨てられないのは 安定したいがためで 執着をなくしてただ消えるのみでは 一般人と同じでは困るということで 欲望の奴隷であるからでしょうね。 美とは?善とは?理想社会とは?について 哲学者は偏見をなくす作業をして 例えば不倫や詐欺というものに対しても 根拠を探って解決を探るので感情論は使わない。 芸術家は偏見を示すのが目的で 実行させる感情によって対価や報いるべしとするからです。 そんな哲学と芸術の共演は好敵手であるので 互いに触発し競演するからの深みってある。 共存関係が出来上がった。 哲学は疑いようのない学識に対しても 不必要に振り回されるものがあるならば 警鐘を鳴らす役目があるのかも。 哲学が根源を探ったり感情を回避して求めるのは 違う最良や感動を手にして 芸術のような手ごたえ 自力で出すとすっきりとか、 勘違いしながらも(疑い晴れずとも) 暗闇を颯爽と歩くためだからだと思います。

noname#19008
質問者

お礼

ご回答いただきありがとうございます。 行間にたくさんの思いが入っているように思いますが、 私には経験が少なくその一部しか理解できませんでした。

回答No.6

哲学の研究対象は思考そのもの。物理学が自然法則の研究なのと同じで、それをどのように考えれば説明できるか、論理的に証明できるか、それによって何ができるか、といったことが問題です。だから人生相談みたいのは哲学じゃない。 でもねえ、私達の脳も自然の一部ですからね、当然自然界のすべてが関係しています。それに今は専門家の時代じゃありません。いまどき専門家が哲学がわかるとかわからないとかいうのは何か時代遅れの気がするね。だいいち「哲学の専門家」なんているわけがないのでそんな「ライン」はありませんよ。 だからアドバイスはこれ - べつに哲学じゃなくたっていいんじゃン?自分も哲学だと思われたいのホ?そんなクソ威張ってる専門科なんて無視してもっと勉強すればハ? そうそう、私も哲卒なので今回限定で「専門家」にしておきます♪

noname#19008
質問者

お礼

回答いただきありがとうございます。 どうでもよいことを考えるのも哲学の範疇に入ると思いこちらのカテで質問しました。 一般社会人である自分にとっては正直どうでもいいことです。 ただ、どうでもいいことを考えてみたくなっただけですから(笑 「ライン」はないとの見解。参考にさせていただきます。 ありがとうございました。

  • Helfgott
  • ベストアンサー率44% (66/149)
回答No.5

一般の人は、「哲学」と言うと、「いかに生きるべきか」という類の 話と考えます。これは、人生哲学というべきもので、人生の先達が、 その経験から「こういう風に生きるべきである」ということを説いた 知恵や教訓話のことです。いわゆる「哲学」も、そういった話を扱う 場合もありますが、これらは「哲学」とは異なります。 いわゆる「哲学」とは何か。下では、「学問としての哲学」と言われて いますね。 一般的な論としての「哲学」があると思っている人が多いですが、そ のようなものはありません。 簡潔に断言してしまえば、「哲学」とは、古代ギリシャで始まってヨ ーロッパで発展した独自の世界観のことだと考えてよいと思います。 「哲学」というよりも、「西欧哲学」「西欧思想」と言ったほうが、 わかりやすいです。 (「東洋哲学」などもあるだろう、といわれそうですが、これらは  philosophyとは異なる独自な世界観と実践を伴った試みのことで  す。「哲学」と言った場合にほとんどの人が指しているのは、  「西欧哲学」である、と限定したほうがわかりやすいです。) 割と勘違いしている人が多いと思うのですが、この「哲学」は、必ず しも「いかに生きるべきか」といったことを主要な関心としていませ ん。 そうではなくて、「哲学」とは、論理を可能な限り推し進め、「世界」 と「自己」について、あるいは「真理」について、言葉を尽くして論 じつくそうという大変ユニークな試みのことです。 それ以上でも、それ以下でもありません。 「(西欧)哲学」は、自身が発展させた独自の用語と世界観によって、 一つの体系を形作っています。だから、これの外部では、あまり機能 しません。 一般的な「哲学」や「思考」がある、と考えている人が多いですが、 これは誤解で、あくまで「西欧哲学」に過ぎません。 これはどういうことかというと、格闘技にたとえると、わかりやす いと思います。 人間が肉体を使って戦う、という意味での「一般的な格闘技」という ものは、あまり想像がつかないでしょう。 「格闘技」といわれたら、レスリングや柔道やボクシングといった、 独自の型と方法をもった、特殊な形式を思い出しますよね。 あくまで一つの体系として、独自の型をそれぞれが発展させること で、それぞれが完結した戦うための方法として、機能しているわけ です。 肉体を使って戦おう、という人がいたとして、自己流で戦って強い 人もいるかもしれません。しかし、ほとんどの人は、人類の経験と して戦う方法を発展させた、どれかの「型」である柔道やレスリン グといったなんらかの独自の・特殊な戦い方を学ぶでしょう。 思考する場合も、これとよく似ています。 自分自身で考え、なんらかの独自な考え方を発展させる人がいるか もしれません。 しかし、思考する場合に、なんらかの思考するための「道具」、思 考するための「概念やことば」を通して考えた方が、多くの場合、 効率的です。思考する際に、歴史的に積み上げられた人類の知的財産 として残っている、「哲学(西欧哲学)」の独自の・特殊な型を使用 と便利だ、というだけなのです。 これは、あくまで独自な型だから、このようなものを使わなくても、 思考することはできます。これは、柔道やレスリングの修行をした ことがなくても、素人のケンカができてしまうのと、同じことです。 だから、いわゆる「哲学」など勉強していなくても、「哲学的」に 深い思索を独自に展開してしまう人も、中にはいます。 逆に言うと、「哲学(西欧哲学)」の用語を使って、思考している ように思えても、実は全く思考してない場合もあります。 「哲学(西欧哲学)」の用語は難しく、その体系の中に入ってしまう と、迷路のように出れなくなってしまいます。その用語を、単に概念 操作をしてもてあそんでいるだけの場合も、しばしばあります。 難解な哲学用語を使って議論をしているのに、結論は非常に常識的な 主張をしている場合も、しばしばあります(そんな難解な議論よりも、 同じことを主張している人生経験豊富なオジサンの話の方が、しばし ば説得力があります。だから、難解な哲学用語は、大変危険なものだと、私は思います。) 本当の意味で「哲学的かどうどうか」ということに関しては、「外部」 が見えているのかどうか、ということにかかっていると思います。 「外部」とは、我々の通常の思考や常識を超えたもの、時に「思考で きないもの」ですね。 それは、常識的な論理や世界観を、大きくはみ出すものです。 大変、スケールの大きな思考のことです。 だから、「本当の哲学」とは、大変危険な試みなのだと、私は思いま すね。

noname#19008
質問者

お礼

詳しく説明していただきありがとうございます。 大変勉強になりました。 20年ほど前に哲学に関係する本を数冊読み、哲学のもつ不気味さこわさ気持ち悪さに耐えられませんでした。 知への欲求が高まりもう一度勉強したいと思います。 格闘技の喩えがとても理解しやすかったです。ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.4

『哲学の「て」の字【しか知らないのに】哲学を語っているつもりになっている人も多いと思いませんか?』 :こうお返ししたらどのような答えが来るのか興味のあった文言です。 かくいう私は「て」も知らない部類に属していますが、それでも哲学的な思考は好きです。 この文章の整合性を疑われますので、私が認識している哲学の定義について触れておく必要があるでしょう。 非常に単純でして、またそれゆえに「そんなものは哲学とは言わない」とお叱りを受けるかもしれないのを覚悟で述べてみます。 それは、 『既成概念に疑問を抱くこと』 だと思っています。 様々な思考形態が存在するでしょうが、各段階における命題に関して疑問を抱くのは案外難しいことではないでしょうか。 それを志向させるのは無論真実への希求心でしょう。 手法というものは知りませんが、 出るか出ないかわからぬ金鉱山に向かおうとする素人に対して、プロの(あるいは道具を備えた)坑夫が嘲笑したり邪魔になるから来るな、的な発言をするのを見ていると、その狭量さに金鉱に眠っているはずのものの価値さえ貶められるような気になります。 こんな道具を使うと掘り易い、まず最初はこのようにして掘らなければ目的の鉱脈へ向かうことすらできない、などなど、その道を学んだ人ならではの言葉は山ほどあるはずです。 そう難しくはないはずの「コミュニティー」としての役割すら理解できない方に『哲学徒』を自認して欲しくはないと思います。 「人間」が感じられませんし、人間のいない哲学は論理学の範疇を出ず、必ず誤謬につながるでしょう。

noname#19008
質問者

お礼

回答いただきありがとうございます。 『既成概念に疑問を抱くこと』 これをしだすと気持ち悪くなるんですよね^^; 一歩足を踏み出すこともじっとしていることも。 哲学をわかっていると自認するのであれば、つもりの人の間に入って産婆としての役割を担うのも哲学をわかってもらうのに良いと思うのですが・・・ できることなら哲学カテでは、感情的な反論はして欲しくなかったですね。 哲学的な思索に感情が入るということは、その時点で哲学でないような気がします。 浅学ゆえの言動ですので、間違いであれば教えてください。お願いします。

  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)
回答No.3

#2です。哲学的手法を学んだ人と哲学的手法を知らない人の関係について。 哲学的な手法を学んだ人は、物事を突き詰めて考えるので、はじめ極論に陥りやすいです。たとえば、人間の本性については、性善説や性悪説のどちらを一方を取るとかなどです。 しかし、哲学的な手法を知らない人は頭だけで考えずに常識で判断します。それ故、中庸な答えになる事が多いです。先の例で言えば、性善説か性悪説か一概に決められないとなるわけです。 ただし、哲学的な手法を学んだ人も、思索を重ねた結果、極論は誤りで常識が正しいという結論に大方は行き着きます。 そうなると、哲学的な手法を学んだ人は遠回りをして無駄かというと、そうではなくて、いろいろ考えた過程に意味があると考えるのです。つまり、なんとなくそう思うというのと、いろいろ考えた結果でそう思うというのでは、その考え方の重みが違うと考えるわけです。

noname#19008
質問者

お礼

再びありがとうございます。 仕事をしながらお礼を打ち込んでいましたので#2のお礼をしてから気がつきました。 >哲学的な手法を学んだ人は遠回りをして無駄かというと、そうではなくて、いろいろ考えた過程に意味があると考えるのです だから質問文とお礼に一貫性がなく振り回されたのですね。 言葉の難しさと文章の短さにも惑わされました。 >その考え方の重みが違うと考えるわけです。 全くその通りかと思います。 だから哲学的に思索することが好きなんです。 ただ浅学でありますので手法や配慮すべき問題に限りがあります。 哲学の深さに終わりがないように思います。

  • hisya
  • ベストアンサー率22% (65/285)
回答No.2

哲学には狭義と広義の意味があります。 狭義では、学問としての哲学を指していて、ギリシャ哲学から近代哲学そして現代哲学までといろいろあります。では、ここでいう哲学とは何か、ものの考え方である。 ものの考え方とは具体的に何を指しているか。それは主に次の三つです。 (1)この人生で究極的に存在してるはなにかを考える(実在論) (2)知っているとはどういうことかを考える(認識論) (3)どう行動すべきかという行為の選択に関する考え方(価値論) 広義では、一般的な意味の哲学を指していて、物事を根本から考える事を言います。 人生哲学とかの言い方がそうで、これは学問の哲学とは直接的には関係ないです。 人生に対する経験者のみが分かる深い洞察のようなものです。 何とか語録とかありますが、そこには、その人の哲学が語られてる場合が多いです。 哲学の「て」も知らずに哲学を語ってるつっもりの人が多いと思いませんか? これの解釈は二つあります。 (1)学問としての哲学の知識もないのに、学問としての哲学をイメージのみで論じる人が多い。哲学に対しては、意味がわからない、何の役にも立たないなど悪いイメージが多いので、よく知りもしないで、哲学を否定するなという意見でしょう。 (2)学問としての哲学の知識もないのに、一般的な意味の哲学として自分の考えを述べる人が多い。こういうサイトでは、ただの感想レベルの事を述べる人が多いので、ぜんぜん哲学的なレベルの答えになってないという意見でしょう。 PS なんでもそうですが、専門的な知識や技能を身につけた人は、門外漢があれこれ言うのには、疑問を感じる場合が多いと思われます。ただ、哲学や文学など人生に関わることについては、真の意味での専門家はいないと自分的には思いますけどね・・・

noname#19008
質問者

お礼

浅学の私にわかりやすく説明していただきありがとうございます。 まとめていただいて理解が進みました。新たに質問をたてて良かったです。 今しばらくお付き合いしていただけると幸いに思います。 なぜ混乱をきたしたかを書きますと 表題にあった「哲学をわかってるつもりの人」というのがわからなくなったのです。 逆説的に哲学がわかった人とはどういった人か?そう考えてみたのです。 哲学を語ってるつもりの人はわかるんですが・・・自分自身ですし^^; ちなみになんですが、考えることが好きですので問題を提起してくれた方には感謝しております。 第三者的に理解は難しいかもしれませんが^^;

回答No.1

どうも。 「哲学」の概念って難しいですよね。 これって、誰でも語る資格はあるんじゃないですかね?哲学の勉強をしていないから語る資格がないというのは論外かもしれません。 前提として学問としての、それかどうか?がポイントかなと。論する相手の捉え方も大切ですよね。

noname#19008
質問者

お礼

さっそくの回答ありがとうございます。 最近、普段使用している言葉からして難しく感じます。 哲学だけでなく「概念」をその言葉で説明することに窮屈さを感じてました。 哲学はその殻を破ってくれるものと信じています。 ありがとうございました。

関連するQ&A