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哲学者のデカルトについてお教えください。
私は哲学のことを全く知らないものです。 最近、現代の科学技術文明について、その元の思想としてデカルトという人のことをときどき聞くのですが、デカルトの思想とはどのようなものなのでしょうか? 人間が自然を支配できるとか、自然などをすべて数式に置き換えることができるとかを言った人とかをテレビで聞いたのですが、はずかしいことですが哲学の本を一冊も読んだことのない私には難しくてよくわかりません。 哲学を全く知らない私に、ご無理を言って申し訳ございませんが、易しい言葉でお教えいただけましたら助かります。 本当に初歩的な質問で申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
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哲学者のデカルト?、ですか。座標幾何学を考えた、数学者、でしょう。 デカルトを哲学者だと思った事は私にはありません。 しかし西洋思想とは、デカルトの合理主義思想である。というのは、西洋思想の宣伝、の意味もあるようですが。西洋化させられた?日本人の常識にもなっているようです。 デカルトの合理主義とは 「一週間に6日は、自己利益や欲望、快楽の追求のために活動し、日曜日は、協会に行って、懺悔、をする。」そういう矛盾が西洋思想だ。と誰かが言っていました?。 キリスト教と鉄砲を掲げて、世界に進出し、侵略しむ、先住民族を迫害し滅ぼしてきたのが。 西洋の歴史の一面でもあります。日本人が西洋思想に侵されると、懺悔もしない民族になるんじゃないでしょうか。 デカルトの思想は、根は形而上学(キリスト教神学)幹は自然科学、と言われています。 これ以上の矛盾はないのでは?神の信仰を前提にした哲学はありえません。 哲学、とは。在るものをあるがままに見る者は、 思惑愛好家、ではなく、愛知者(哲学者)と呼ぶべき者ではないかね。とソクラテスが言った(とプラトンが言った)。なっていますが。宗教、とは。人の心を一つの方向に導こう、支配しよう、とする。 思惑の思想、心の思想、であり。物事の在り方を知る、考え方、方法論、=知恵 を求める哲学、とは 相容れないものなのです。古代ギリシャ哲学を継承しているのは、神はいないとしても。の物理科学の方なのです。自然科学の探究から、神が出てきた事はないし。これからも出てこないのです。 デカルトは、形而上学の枠の中で、強制的懐疑、として。科学的、数学的に、真、と実証されたものしか 受けいれるべきではない。それを積み上げる事によつて。思想を構築しようとしたようです。 しかし。結局は、「我思う故に我あり」。フロンス語では、ジュ・パンセ ジュ、忘れました。 元々のは、 我考える、我存在する。であり。 いくら疑っても、疑っている、我が孫沿いする。事は疑う事が出来ない。 我の存在がすべての存在の基本である。との解釈は、語解釈、誤訳の意味もありそうです。 物理的にも、哲学的にも、幼稚すぎます。 数学者としては並みではないテデカルトでも。根が神学では、そんなものになるのでしょうか。 人間の思考が有限であるとは、無限としての神が存在しなければならない。というような。 懐疑とは相容れない、神の存在の証明、みたいな事も言っているようです。 若い女性からのとおもいますが。私の回答は、あまり常識的ではなく無責任です。 常識的な知識として、デカルトを知りたいのであれば、 デカルト、ウエブ検索、を押せば、済む事では。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 私には少し(かなり?)難しかったですが、ご親切なご説明に感謝いたします。 もっと勉強してから質問したいと思います。 本当にすみませんでした。