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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないの)

なぜ現代情報化社会に言行一致の勇気ある実践哲学者は生まれてこないのか?

このQ&Aのポイント
  • アカデミックな哲学の世界が失望を与えている理由を探る
  • 現代の情報化時代における総合的な哲学の不足
  • 現代の問題を解決するために必要な哲学

質問者が選んだベストアンサー

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noname#131234
noname#131234
回答No.16

>社会を変えてゆける企業。 企業は社会を変えています。しかしその方向性は善ではない。鰤ジストンが今の首相を作り出したように、ト与太は、アメリカに、三とおりーは、フランスに別荘地帯を作り上げています。世界有数の「日本企業の富」が国民に行き渡っているかと問えば、答えは簡単に出ます。否です。 もっとわかりやすい例で見ると、航空機部門でしょうか。日本は70年代以降中型航空機を含め製造さえしておりません。現状としては、「わしは、飛行機の扉を作ったことがある」と名乗りを上げた企業が、経験者としてしゃしゃりでてきて、数兆円を受け取っています。こういう幼稚な段階です。 日航関係・航空機開発事業関係をご観察ください。利権の奪い合いです。お金を払うのは誰か?お金をもらうのが誰か?を見てゆく必要があります。 しかし企業側の弁解として、企業は、あくまで私企業であります。法的にも営利目的を持ち、税金を払っています。金を稼ぎすぎたらどうだということは、個人的には、ぜんぜん問題ではない。 ここで、強調するべきこととしては、税金を払いたくないのが、贈与される側であるということなのです。 また、税金の浪費をしているのが誰かということです。 国を破壊したのは誰か?答えは、寄生虫です。誰がビックバンしろと頼んだのか?わたくしでは、ありません。ご注意ください。これはおじじの仲間が関与しています。金融恐慌の只中にあって、W大が、スポーツ経済経営に興味を抱いて、変なアメリカ人を講演者として呼ぶという現象が、なぜ起こるかということを考えるべきなのです。 訂正 誤(光-科学変換) 正(光-化学変換)

entahu2
質問者

お礼

》企業は社会を変えています。しかしその方向性は善ではない《 と文を起こされ、それにつづく、起承転結の文として、承の例示が端的につづく文についてですが、 方向性が善でない企業は成功している大企業であれ、そこは鋭くも見抜かれなければならないということとして受け取りました。 特に 私の直ぐ下の弟がちょうど、かって日本航空に勤めていて、上の利権争いに呆れて退職した人間ですので、 よく解かるつもりです。 ありがとうございました。 そして 》国を破壊したのは誰か?答えは、寄生虫です。誰がビックバンしろと頼んだのか?わたくしでは、ありません。ご注意ください。これはおじじの仲間が関与しています。金融恐慌の只中にあって、W大が、スポーツ経済経営に興味を抱いて、変なアメリカ人を講演者として呼ぶという現象が、なぜ起こるかということを考えるべきなのです。《 の結文ですが、 その文の中の 》誰がビックバンしろと頼んだのか?わたくしでは、ありません。ご注意ください。《 の文をのぞけば、 あとは、すべて 解かるつもりです。 その部分だけが意味不明です^^。 たいしたことない問題ならば、別にこちらも質問したいわけではないので、ほっといてください^^。  ただ、そこだけが全く解からなかったものですので、…。 その不明部分につづく、 》これはおじじの仲間が関与しています。《の部分は、  “おじじのような仲間”といことで理解していいのですよね。  スポーツ・マンの就職等をいろいろ考えたり、その可能性の道筋を様々に考えている私には、だからこそ、 スポーツ経営ではなく  「スポーツ経済経営」という言葉と、 「金融恐慌の只中にあって」の文脈のつながりをよく理解できるつもりなのです。 それに 私は柔道経験者ですが、 山下会長がどれだけそのへんのところで苦労されたかとかいったことも知っています。 当を得た回答文ありがとうございました。 が、であって、 最初の起の文、 順逆の 逆テーマでもあるのですね^^。 であって、「企業は社会を変えています」 今までの企業の方向性への批判と、企業というものの価値の可能性との両方の主張が、簡潔にしかし、これも豊かな含みを持って語られた一文として理解いたしました。 いろいろ励みにもなり、勉強にもなりました。 ありがとうございます。

その他の回答 (16)

回答No.17

 《言行一致の勇気ある実践哲学》を   Q:意識の中に「自分」は存在するのか?  において実践しました。  また《騙された》ようです。  七に酢くん みなを元気づけてやってくれたまえ。  ★ 私はアカデミックな哲学の世界にたいへん無知な人間なのですが 現在 アカデミックな哲学の世界に失望しています。  ☆ この一文の矛盾に気づいてからではないでしょうか? そこで初めて問題が分かるというところでしょう。

entahu2
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 “《ここでの》質問への回答”はすでに得られたと思いますので、これで終了いたしたいと思います。 この場を借りて みなさまにもお礼を述べさせていただきます。 ありがとうございました。

entahu2
質問者

補足

★印の前については、 意味不明なのでスルーしますが、 ★印以後の文章は 私の人生から出てきた疑問や推理の否定の意味での回答ということなのでしょうか? 神様でない人間になぜ、そんなことが理解しえるのでしょうか?

noname#131234
noname#131234
回答No.15

>何もできなくて申し訳ありません。 わたくしこそ申し訳ございません。 人には職分というのがあり、出来ること出来ないこと人それぞれだと思います。出来ることとそれに更にもう一歩の出来ることを加えていくことが、日々だと思います。 でも、Q&Aに関しては、「他人を騙してはダメ」とは、いえると思います。それで十分だと思います。 >36歳ぐらいのことだった >職場を首にする策をまわすほどに、その人は心が傷ついてしまった。 実はこの方(モラハラじじい)の心は傷ついていません。あくまで面子の問題/コケにされたのが気に入らないだけです。 本当の問題はそんなちっぽけなことを理由に他人の成果・生活を破壊してきているという事実です。 他人を虐げる技術に長けているのが、権威主義者です。他人に嫌がらせをすることが生きることの意義だったのです。自分に逆らう奴+反抗心が見て取られるものを排除するというポリシーです。心はありません。コレを処世術と名づけて信仰実践しているのです。宗教です。おじじの宗教もこのバリエーションのひとつでしかない。 おじじのばあい 形而上学 親鸞及び浄土真宗+偽キリスト教 形而下の学 古事記を基にした嘘っぱちの御伽噺(民俗学+歴史の歪曲)+OX経済学(哲学の代替学) を合わせて自分の基本体系としています。この範囲を超えることは決してない。自分の庭で遊んでいる餓鬼です。なんという知恵足らずなのでしょう。 (いろいろ論理立ててきて、おじじの無知には逆に感心させられるものがあります。本人に、高卒程度の一般常識もないからです。) 質問者様は、戦直に一度危害を加えられたことで、生き残りのすべを知ることになったのであり、不幸中の幸いだったというほかはありません。女性は日々この圧迫に耐えているということも御察知いただけると幸いです。権威主義的文脈からすると、更に、女性には、生きること自体が許されていないのです。 戦直 産官学M 団塊 産官学M 団塊ジュニア 産官学M の中で 純粋な権威主義におぼれているのは、団塊ジュニアです。別しては、団塊「学」/団塊ジュニアの「メディア」です。 >自分はどうすべきなのか? 後継者を育てて頂きたいと存じます。教える側に立って、根気よく人々をお助けください。特定のセミナーの参加者として、他の参加者をサポートしていくというやり方もあるでしょう。 批判の必要はないと思います。おじじはズに乗っている(いた)から批判される(されてきている)だけです。質問者様への盗人発言は、誰が頼んで生起したものではなく、おじじ自身の「瞬間湯沸かし器」的思考構造に起因するものです。私は、どちらかといえば、部屋に備え付けの冷却装置です。変な行動がなければ、わたくしからは、何もありません。 哲学について ダイナミズムの吸収=精神的側面(恒星の学、意味と意義の源の学) ダイナミックな発散(呼吸・エネルギーの同化)=分析的側面(機能と概念の学) 物理じねん(自然)の集積的成長=経験的側面(対象と感性の学)とまとめられます。 私のまとめ方ですが、哲学的背景にもとづいています。 ピュトとは、主として三つ目の機械的・技術的「リソース発展プロセス」の総体です。有用性の学といっていいのかもしれません。太陽電池の項目をさがしていただけるとわかりやすいと思います。 植物の炭酸同化(光合成)のエネルギー効率(光-科学変換)は、40-50パーセントです。 事実として、人間は植物に迫るエネルギー効率(光-電気変換)を達成しています。 詳細に立入るとすると アカデミックな哲学として、感性の学は、分析の学と対置されているようです。古典的には、カントがその代表者ですが、一番わかりやすいものとしては、フレーゲが挙げられます。カント的には、感覚的悟性と分析的理性。3分割するとすると、香理性+知性+対象(物自体)に分けられます。

entahu2
質問者

お礼

ありがとうございました^^。

entahu2
質問者

補足

》ダイナミズムの吸収=精神的側面(恒星の学、意味と意義の源の学) ダイナミックな発散(呼吸・エネルギーの同化)=分析的側面(機能と概念の学) 物理じねん(自然)の集積的成長=経験的側面(対象と感性の学)とまとめられます。《 示唆に富んだ、まとめられ方ですね。 これらの言葉だけでも、これだけまとめられているとおおいに学ぶことができます。 この三つの側面は すべてなるほど、わたしの考える実践哲学にも有効なものです。 アカデミックな哲学にも、改めて興味が沸いてきましたが、  nananisseさんは、それらを元にどのような実践とコミュニティ(グループのひとつ)を考えられておられるでしょうか?  じつは 私はフリーエムエルというメール交換コミュ二ティサイトの中の、いくつかの哲学サイトに参加してみています。 はっきり言って、その三つの側面については、 ここでの質疑だけでは、とうてい語りつくせない また論議のつくせない内容かと思います。 ご紹介させていただきますので、 もし そちらの実践(個人のご活躍等)の中からお時間が得られるものならば、 そちらで 本格的な論議等を進めていけたらと思っております。 よろしいでしょうか。 URL:http://www.freeml.com/swansong 次にピュトに関してですが、 》機械的・技術的「リソース発展プロセス」の総体《 とは 難しい表現ですが これもおもしろいポイントの本質をついたまとめ方だと思います。  たとえば、ナノの概念の有用性を探る場合、 まさにその要素の発展プロセスが大事で その全体を眺めてこそ意味が出てくるというところがあるかと思います。 もし、詳しくこのへんについて論議したい場合は、 その哲学コミュにて^^。 そちらが ANO13の中で、彼らの虚構 への批判として取り上げた意味自体にもいよいよ興味が沸いてきました。  しかし、ここでそのへんをこれ以上、追ってゆくと質疑応答の範疇を超えてしまうかと思います。 これも そのコミュにての機会がありましたら ということとさせていただきますね。 最後に、アカデミックな哲学における感性の学の紹介について、 これも過去の哲学が 分析的な思索と感性とをどのように分解、統合しているのかには おおいに興味があるところですので、 ご紹介に感謝いたします。 ここでの、そちらへの最後の質問となるかとおもいますが、 一番最後の《香理性+知性+対象(物自体)》という3分割もカントの哲学なのですか? 《香理性》という言葉は始めて聞きました。 感性あるいは感覚に その意味を付加した意味合いのものとも想像はしますが、 ボキャブラリー不足です。   興味のあることですので、 もしよろしければ “ここでのそちら流^^”でいいですので、 少しだけ、この 》香理性《について 説明していただけないでしょうか。 よろしくお願いいたします。

noname#131234
noname#131234
回答No.14

おじじの純粋経験=聞かざる 純粋さは、権威主義の本能です。純粋に、自尊心の充足を求める。他人が同意するだけではダメなのであり、他者へは隷属と絶対服従を強要する。異常です。病気です。いつも満ち足りるということがない。ほんとうの日本人は、死んだと夢物語を叫ぶ。おじじだけが、今生きのびている本当の日本人であると主張したいだけなのです。 鶏の「つつき順位」の純粋さです。権威主義に毒された本能的な行動です。人との関係は存在しないのです。自分だけが世界なのですから。 経験科学と哲学 1経験科学≠哲学  結論 哲学>経験科学 哲学には、精神的側面(意味と意義の源の学)と分析的側面(機能と概念の学)さらに経験的側面(対象と感性の学)が存在します。 存在するのは、個人・グループ・社会のみ。 ムラは、すばらしいグループであり、理想郷。定義的詭弁です。存在しません。 素晴らしいグループが、善であるのは、当然。定義的に同語重複です。社会を変えて「いける」グループが、「希望」のグループであるのは当たり前のこと。 でもおじじに希望はありません。おじじの文章を見れば、如実に読み取れることです。他人の抱く希望を盗み、自分が希望であると主張をする恥知らずの痴漢行為。「インタームライズムは、自分が提唱した」といいうことが主張したいだけなのです。それ以上でもそれ以下でもない。「自分を認めろ」といい続けるだけです。 つまり 悪いグループは、ムラではない。グループの基本を理解できるエリートは、おじじであり、基本がなっていない愚民は、おじじの話を聞いていさえすればよいのです。 おじじの目指すムラは、おじじが「善たるものは何か」を決定できる=おじじにとって自由な村です。個人のいない「愚民のグループ」です。イメージとしてキリスト教の羊の群れです。 実践的なのは個人。概念によって把握することが出来ない個性の実践的生活です。キーワードは、家族でしょう。血縁ではなく行動としての家族です。信条と愛の家族です。パートナーです。フィアンセです。 言行一致が可能なのは、個人のみ。 一方、おじじは行動しないので、どうしても、行動する他者が必須となり、「わし」の思い通りに行動する「村人」が必要になるのです。おじじの言行一致は、おじじの涎をふき取る奴隷が存在して初めて成り立つのです。

entahu2
質問者

お礼

いろいろ ありがとうございました。

entahu2
質問者

補足

気持ちの入った回答ありがとうございます。 (1)昔、36歳ぐらいのことだったと思いますが、 ある社会的な権威のあるお仕事の方とある論争をしてしまったことがあります。 たぶん、別に勝ったとかいうわけでも またそこまでその論争が進んだわけでもないのに、私はなぜか、 その人のいる職場を首になっていました。 ある知人が私にこう言いました。 「真実ほど人を傷つけるものはない」 職場を首にする策をまわすほどに、その人は心が傷ついてしまったのです。 なぜだか 最初はわかりませんでしたが、 私は表現の世界を追及してきた人間ですので、おそらく、真実をともかく語ろうとするときに、それが刃のようになる時もあるのではと思えてきたのです。 今でも 私は批判という手段は それがなんらかの愛である場合も私には向いていないと思えてしまっています。 徹底して寄添う道(簡単に書くといやらしく思われてしまいかねないことですが)、 しかし、それが無理な場合には、 では、自分はどうすべきなのか? そこがいつも 見えなくなっています。 “その人”を回答に例示するには、 まず、そのまえに、この《「そのような私」の状態》を批判してくださるとありがたいと思えてきました。 次に行きます。 (2) 》結論 哲学>経験科学 哲学には、精神的側面(意味と意義の源の学)と分析的側面(機能と概念の学)さらに経験的側面(対象と感性の学)が存在します。《 これは アカデミックな哲学の世界の総体についての見解を示しているものですか? であるとするならば 私のアカデミックな哲学への疑問はただの無知を意味しているものとなってしまうと思います。  推理というより 傲慢の邪推とすら言えてしまうかもしれません。 それとも、そちらご自身の研鑽の結果のご見解ですか? 私の疑問は、この中で 》感性の学《がどのように語られて来たのかということなのですが、 そのへんを何か書いていただけると幸いです。 (3) 》存在するのは、個人・グループ・社会のみ。《 、→   》ムラ《 ⇔ 》定義的詭弁《。 意味合いよく解かりました。 ↓ 》素晴らしいグループが、善であるのは、当然。定義的に同語重複です。社会を変えて「いける」グループが、「希望」のグループであるのは当たり前のこと。《 につづく、端的な表現は、説得力とがあると思います。 では、企業もまたグループ、 “社会を変えてゆける企業”とは、まず大きな観点からでいいですが、nananisseさんは、どうお考えですか? (4) 》実践的なのは個人。概念によって把握することが出来ない個性の実践的生活です。キーワードは、家族でしょう。血縁ではなく行動としての家族です。信条と愛の家族です。パートナーです。フィアンセです。《 ずばり お答えくださり、ありがとうございました。 なるほど、そういうことだったのですね。 その鋭いポイントのみの文には、逆に豊かさな思索内容を想像できます。 ありがとうございました。深く感謝します。

noname#131234
noname#131234
回答No.13

おじじについて ?対話を試みる人 宣伝と論争は違います。 対話とアジテーションは、別物です。 猿真似の「反省するフリ」・「対話をするフリ」というゼスチャーは、見抜いていく必要があります。騙しの手口です。 おじじは、「人は人を信じる」という側面を逆手にとって付け上がっているのです。 宗教から盗んできたものです。 ?権威主義と闘おうとしている これも戦うフリです。 戦うとはどういうことかという質問にも詳細が書かれていますが、彼にとって、戦うとは何もしないこと。ベットの上で、新聞を読み、テレビのリモコンをポチポチすることにほかなりません。 安保世代の文人は、アキンド/地主の息子たちです。おじじもそれを認めている。経営学の授業を怠けて、くだらない御伽噺をつづってきた真性ニートです。OX主義のとりこになって、しびれ、多くの人にハラスメントを働いてきた無能世代。経済的には、若者が少なかったから食いっぱぐれが、なかっただけ。 世代は、ややハズレますが、反権威主義を掲げる者の究極形態が、今の首相であると考える視点があれば自明であると察します。 オサマ・ビン・ラデンが、「坊ちゃん育ち」で「戦争ごっこが大好き」だというのもコレに準ずる事実です。 農民でもないのに、農民のためを論説し、 支配されている階層でもないのに、人民の不自由を説く。 こういう権威主義もあるのですよ。誰の言うことも聞きたくないというだけのワガママじじいが、その正体なのです。 寄生虫のなかには、動物につく寄生虫と植物につく寄生虫があります。終戦直後のアキンド嫡子は、植物につく寄生虫に属します。 ?権威主義と闘うためには神の権威が必要。 ただの暴論です。自分だけが「神の言葉」を理解するエリートである=預言者は私であるという騙しの論理=権威主義です。 彼らの虚構は、 旧世代による権威の独占(オーソリティー) 階級の固定(タクシス) 物理的資源の分配難(ピュト) を描きあげることで達成されてきました。 自分の思い通りにならないとすぐ戦争を持ち出す。 他人の為=愚民の為といいながら暴力を振るい、暴言を吐く。 頭がいい人が最善の価値体系を語れると嘯(うそぶ)き、価値の分配過程を独占する。 事実は、 A文筆家でありながら自己の名声のみへの執着。 T理性的神の論理は、へそ曲がりの「愚民」には理解不能とするエリート面。 P人間の歴史の中で「最悪の資源浪費」をした悪魔の世代。 要は、 「おいら」だけが、正しい。わしらに権威を譲れ! ペンこそ最強。うそはつき放題!誰が敵かは、わしらが決める! 俺らは生きていく権利がある金をよこせ! と具体的に行動したということなのです。 愚民である 団塊 団塊ジュニア ニートどもはその真似をしているだけなのです。 我々に残されたものは、 教育の崩壊・ 人員整理と合理化・ 何兆円にも上る借金と掘りつくされた鉱山です。

entahu2
質問者

お礼

私は、63歳の者です。 何もできなくて申し訳ありません。 本の世界にではなくて、別な追求を追い求めてきていたので、 できなくて、とうより何もしなかったというほうが当たっているでしょう。 わたしも 同世代にてご批判のまさに当たっているところも自覚させられる者です。 が 必死に本気でその道を追求しているうちに、 考えがまとまってきてみたら、それはたいへんグローバルでもあるビジョンともなっていたのです。 まだ63歳です。 できるだけのことを実践してゆこうと思っています。 ご指摘ありがとうございました。 経済の二重構造化の進展。 これを食い止めるためには するどく騙しの構造は見抜く必要があるでしょう。 が それを前提としつつも、 闘い方はいろいろあるかと思います。  Ano14への補足欄の方で、その点にも少し触れる形で、補足はまとめさせていただきました。 よろしくお願いいたします。 なお、こちらは補足質問欄には書き込みませんでしたが、 》物理的資源の分配難(ピュト) を描きあげることで達成されてきました。《 については、 意味は解かるつもりですが、肉体労働を生きることに時間を費やしてきた者、知識が貧しく、 そのへんの構造はもう少し具体的に教えていただけたらと思いました。 この世代のものとして ご批判のご指摘、こころよりお礼を述べたくなります。 ありがとうございました。   たぶん、あなたなら 気持ちを理解してくださると思いそのままかきますが、    うれしいです。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.12

訂正:  良いことあるとも思います。 ⇒良いことであるとも思います。

entahu2
質問者

お礼

わざわざ、 ここまで、 ありがたいです。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.11

>そのへんの困難さとか について何かお考えとかありますでしょうか?  個々の意識のありようによっては それこそ一瞬で変わるものだと言う、psytexさんの意見に同意です。逆に考えれば、それがなければいつまで経っても変わらないと言うことにもなりますね。  しかし、個々人の意識が一瞬に変わるのは難しく、やはり個々人の日頃の在り方や他者との関係性(のみ)が確実に世界を変える原動力となるという実感と、それに伴っての 人間関係の重要性に気付くしかないのだろうと思います。まあ、私が言えたことではないと思われるかもしれませんが...  それと、時間の問題でもあるでしょう。急変させるには「困難」かもしれませんが、今現在でも個々の意識は確実に変化しているのではないでしょうか。「徐々にだが、順調に変化している」とも考えられます。  この哲学カテゴリーでも、ある程度自由にやらせてもらってはいるとは思いますが、質問者と回答者と言う定義付けがされているインターネットサイトよりも、例えば 議長がいて、その下で自由に議論するサイトが徐々にできれば良いと思います。それが順調に、人々の意識を変えていく(変わっていく)有効なやり方ではないでしょうか。しかし、当面は個々人の疑問とそれから発せられる質問に答えるという形式のほうが魅力的であり、刺激的であり、人間は自分の身の回りのことに興味があるから、自分自身の日常生活の出来事や疑問がきっかけとなって繰り広げられるQ&A形式の議論のほうが活発となるのは当然であり、良いことあるとも思います。  ここでも「回答者」同士の会話や議論が正式に認められれば、より実りある討論や情報のやりとりが出来ると思います。  企業や組織の拡大、発展を考えれば、横のつながりを分断して統治 分割して支配 というやり方が管理しやすくて良いのかもしれませんが...

entahu2
質問者

お礼

最後の部分の文章が、まだ解かりませんが、 (他の質疑にても少し読ませていただきましたが)  そちらも まだよくまとまっておられないところかとも思いました。 私の求めていた回答がnanaessseさんから得られましたので、 ここは これで締め切らせていただきます。 ほんとうにありがとうございました。

entahu2
質問者

補足

ENERUGIAさん、たびたびのご回答ありがとうございます。 ENERUGIAさんも psytexさんの文の結文にあったその名文に着目しておられましたか。 実践的でありたい者にとって、勇気を与えてくれる文です。 そのへんは文は人を現すということも感じさせてくれますね。  psytexさんの 気概の世界でしょう。 *** ENERUGIAさんからも、今回その気概を感じさせていただきました。 》やはり個々人の日頃の在り方や他者との関係性(のみ)が確実に世界を変える原動力となるという実感《 この》(のみ)《という言葉を( )でくくったところに注目したのです。 ほんとにそうですよね。 そこにこそ、理論や感性を深めていくことが大事で、かつそこにこそ集中した思索や論議の深まりが必要なのですよね。   でなければ《人間の文化》という建物には、すぐ落っこちてしまうような床とか登ることのできない階段とか^^、よけいなものがどんどん出来て住めなくなってしまいますよね^^。  そんなのが哲学であっていいはずないです。 》人間関係の重要性に気付くしかないのだろうと思います《 この部分も奥が深いと思います。 一見 前段の》他者との関係性《と、重複した言葉にも見えますが、 どっこいそうではないのですよね。 前回のご回答の中に、ある実践と哲学理論との繰り返しや同時に進むという道筋の内容こそ、今回の他者との関係性の中での個々人のあり方であるととらえると、 その繰り返し循環は さらにつねに新たな人間関係の中にある、 というふうに そこまでは重複してとらえることこそ、(のみ)の内容というまとめ方ですよね。 すばらしいと思います。 》まあ、私が言えたことではないと思われるかもしれませんが...《 いえ、それを言われるなら、 私も含めて誰だってそうなのではないですか^^。 *** うむ、時間の問題ですか。  “《つつある》という時空問題理論の帰結が より具体的に人間的な柱として育つといいいな”という考えを持っている私としては、その面からも興味がありますが、 ここは論理より先にすすみま笑(しょう^^)。 *** そして、 その次こそが、 まさに、 わたしとこれを読まれておられる多くの人の関心であり、 今ここ そのものの実践問題点なのですよね^^。 以前、このQ&Aサイトで「言葉が先か ~が先か」の~の部分を忘れてしまいましたが(すみません^^)そういうタイトルのスレに参加した時、 ああ、この質疑応答の世界にすぐれた議長がいたらな、と思ったことを思い出しました。 それほどそれは多くのすばらしい議論課題を提供していたのですが、すべてがせっかくそれぞれかなり進みつつ それなりに質問者がすっきりすれば それで終わってしまっていたからです。  また、 スレ自体に深みがあるものであっても、そこにすぐれたコーディネーターとしての議長の能力が無いことによる、まさにここで問題としている“実践性(本質的実践性)にはつながっていかない”へんな床や階段の設計図となってしまいかねない方向へ進んでしまっている場合もあるかと思います。   しかし、議論の場が目的ではなく Q&Aはあくまで質疑応答の場として、機能するまたそのニーズと供給の非常にマッチした形態であるわけですよね。 そのかぎりやはり、その役割を主とするのがベターと思います。 そのへん同意見だと思います。 *** ENERUGIAさんにも、 ここに紹介してみたいと思うのですが、次のURLのコミュニティは、フリー・エムエルというメール交換コミュニティサイトの中でも 特に議長としての管理人の視点の柔らかさと能力が光る哲学コミュです。  URL:http://www.freeml.com/swansong このコミュは少し特別ですが、 私は多くのこうしたコミュが なんらかの形でOKウェブの波と重なればなと、いろいろ考えていたりします。 まだまとまりはありませんが^^。 もしよろしければ このサイトは覗いておいてみてください。 *** ★ここから補足質問へ、 すみません、 最後の部分が、 具体的にその意味合いがうまくつかめないのですが、よろしければもう少し詳しく書いていただけませんか?  》企業《というのはOkウェブの事でしょうか? よろしくお願いいたします。

noname#131234
noname#131234
回答No.10

経験科学=哲学という事が、真実であるとすると 以下の疑問が浮かび上がってきます。 個人・グループ・むら・社会 この4つの概念の中で一番実践的な概念はどれでしょうか。 特に言行一致という側面から考えていくとわかります。 権威主義のおじじは、 「俺の意見を認めれば、素晴らしい世の中がはじまる」と主張し、 まず行動するべきは、むらであるといい 社会が全ての元であるといい、 神の存在を認めること=へそ曲がりを治すことが先決であると ノタマワルのです。 こんな「じさま」の意見を認めてはなりません。 長老デモなんでもない「役立たず」の意見に耳を傾けてはいけません。 ムラが行動するべきであると主張は、自己の無責任を 隠蔽する為の一番安い「安価な手口」なのです。 ジサマについて更に述べると、 このじさまの辞書には、「反省」と言う文字がありません。 他人にあやまることはしない。 感謝の気持ちはない。 他人の意見は、利用する為のもの。 さまざまな概念も利用するだけです。 たとえば 唯物論しか理解できないのに、自己主張の為だけに神を持ち出す。 一番大事なのは「自分の屁理屈を受け入れる愚民が、自分にへりくだる」ことだからです。 何もしないことこそが戦うことだと信じ込み、 無為こそが、 屁理屈こそが行動であるとほらを吹くのです。 自分は何もしないで、下っ端に命令して、 くだらないことをやらせることこそが=「言(じじい)行(てした)一致である」のですから。 30年以上の空転の人生・自分は環境破壊の原因であり続けたくせに 無責任にも沈黙をつうじて、 その罪から逃れようとしている。 社会を好転させたことなど毛頭ない。 空論をもごもご唱えてきただけの無意味な人生。 それはそれでよかったと開き直って 自画自賛しているだけの老いぼれ。悲しいことです。 自己主張の経済学に長け、 自分はすごい! わしは、あたまがいい! という思い込みだけが先走る あわれな かまってクン=社会の重荷でしかない孤独な人間すなわち「おじじ」。 そこでは、率先する個人のいない「村」=愚民に満ち溢れた「本当の日本」が 自分(=権威主義におぼれきったじじい)が、他人(介護士)に命令するだけの「社会」が、 理想の社会であるとされるのです。 >『言行一致の勇気ある実践哲学者が、なぜ現代情報化社会に生まれてこないのか?』 この人にとって このとしになって現代情報化社会なんてべんきょうしたくもない!というのが本音です。 テレビのリモコン PCのマウスを ポチポチする「知恵」が、必要十分な「ヒューマニズムの偉大な知識」なのです。 知らなくてもいいと信じ込んでいるのです。他人の意見は聞きませんから… こたえとして、おじじの自由が奪われるのなら、そんなものはいらない。 おじじの自由を保証するもの「だけ」に存在意義があるという、極論です。 勇気を持って生きたこともない老人世代において、真の哲学者がうまれ、育まれているはずもなく、 自然なこととして、屁理屈をこねる無能・無為の「はなたれ・はなくそじじい」が、年をとっているというだけで経験者であると自己宣伝し、 哲学の勉強をしたこともないのに「哲学者」を名乗ることで、 理論の体系的側面を隠蔽し、それによって、「彼の自尊心だけ」が、成り立ち、保たれているからです。 おじじの世代に属する、一般的「日本の哲学者」のなかには、もともと、根源的に「行動するすばらしい哲人」が、存在する筈もないのです。 さいごに、哲学は、経験科学ではありません。 おじじの主張は、つまるところ、全て「うそと虚構」の上に成り立っているのです。

entahu2
質問者

お礼

補足のとおりです。  ありがとうございました。

entahu2
質問者

補足

nananisseさん、ご回答ありがとうございます。 ◎まず、》おじじ《について書いておられるところから、補足させていただきます。 精一杯は 対話を試みてみた人であり、回答に対して最後に「スペース泥棒」との返答をもらってしまったところ、 まだ質疑は終わっていませんし、もし時間を取るゆとりがあればまだ、別なつっこみでも書けるところなのですが、     (私は どこまでも対話しつつ実践を進めたい意図があるので その通りにしたい人間なのですが) 時間的に無理なら無理ということも理解して進むしかない立場でもありますので、後はスルーするしかないところかと思います。 ご心配、ご配慮、ご忠告、ありがとうございます。   ただ、 私は対話は、“まず、相手を徹底して信頼し、その長所を見つめ、そこを語ってこそ、そのつぎに私とその相手との真の議論の火花が散るというそのような行為”として理解しています。 その対話が その人との間で挫折したからといって、その態度自体はまだ保持しているものです。 そちらの「その人が権威主義」とのご判断には、反論も書かさせていただきます。 ↓ そうではなくて、その人は、むしろ権威主義と闘おうとしている人の一人だと思います。 ですが、そのためには神の権威が必要とどこかで思い込んでしまった人なのだと思うのです。 そこで私の方からの対話としては、神は権威とは一切関りないというあたりを、つっこもうとしていたのです。 そしてその論点を明らかにした上で 次の対話へと進もうとしていたのですが、     (ざんねんです) むしろ その人は純粋ではあるはずだと思うのです。 純粋すぎるから、誤解を恐れることなく突き進みすぎ、 「関係」がおかしくなっているのにそのへんを気がついていないだけだと思うのです。 それに 彼自身が権威主義的に誰かを支配したいのではなくて、そのへんもしたがって、正しいと確信することに対して真剣なだけだと思いますよ。 それだけは弁護させていただきました。 この反論に反論がある場合にも、 できましたら「すぎさったこととして」 つぎへと進めさせてください。 ◎つぎに、 この形での回答ですので、 次の補足質問はそちらのとって不本意な文への補足質問となってしまうのかもしれませんが、 大事な点と思われますので 質問させていただきます。 1、》経験科学=哲学を、ともかくも理論の体系的側面の隠蔽とかかわることとして批判されておられる文になっているのですが、  経験科学⇔理論や倫理のあたりについてのそちらのお考えを 《その人》とは別に 教えてくださるとありがたいです。 私の質問の求めている回答のうちとなると思います。 2、》この4つの概念の中で一番実践的な概念はどれでしょうか。《  ←の意味合いがよく解かりません。よろしければ もうすこし詳しく教えていただけないでしょうか? 私の中の言葉の視点からですと、 すべてが個人のために存在するので個人対個人を何処までも大切にする実践がすべてを貫くという考えとなります。 ですのでどの段の社会単位が一番実践的かということは言えないこととなってしまうのです。 3、言行一致という問題に触れておられますが、これも《その人》との複雑な?関係の中で書かれておられるせいか、よく意味合いが解かりません。 個人や家族という単位を越えると そこに役割行動というのが出てきますので、そのへんは問いがたくなるかと思います。 私自身が言わんとしていることは、 それが社会に対してものを言う責任を負う哲学者なら その哲学の言は言行一致するものという意味合いの 責任をとる意志の強さや気概のあたりの問題なのです。 なお、 社会とむら(あたらしい村)という概念については、むらは重要です。 単なるグローバルは管理社会に通じます。 むらというコミュニティ単位をすばらしいものにすることが出来るならば、今の情報化社会にては(とくに携帯を駆使する子ども達の世代においては) グローバルな世界をも変革する巨大な力となると思っています。 よろしくお願いします。

回答No.9

 インタムライズムをご紹介します。  日本では矢祭村とか下條村とかが元気なムラとして知られています。  或るムラ(これは市町村と考えてください)が 国内のほかのムラや国際的にもほかのムラムラと あらゆる分野で提携し交流するという考え方です。    共同自治としても 互いに共同します。ムラ議会議員を互いに姉妹ムラに派遣します。ゆくゆくは互いに相手の議員を選挙します。  ですから 留学やらホームステイなどの交流は言うに及ばず むろん経済の分野での協力が 条件のあったうまい連携としてできればいいでしょうね。  むろん文化全般で できることはぜんぶ協力して交通を活発にし厚みを増して行く。  なにより大切なことは それぞれのムラには 生活日常としての知恵や共生にかんする伝統のかたちがあるはずです。これを互いにまなぶ。たぶん互いに おらがムラの共存共栄の方式がいちばんだと自慢するでしょうが 互いに大いにまなび合い 自由に批判もし合って 交流をふかめていくとよいでしょう。  この事業の初めには いろんな思わぬ事件が たとえば好意の気持ちが裏目に出たとかのかたちで出てくるかも知れません。台無しになるかも知れません。  ということは この仕事を推し進める人間が大事だとも考えられます。  それに 国家が できるだけこの仕事に邪魔をしないで見守っているかどうかも課題です。  まづは この世界的な歴史の展望に同感するかどうかの出発点があります。それを固めなければなりません。ゆくゆくは 同感・共感(浮動層)そして反感(足の引っ張り係)がそれぞれ三分の一づついるという情況を目指します。  わたしは哲学が中途半端なので こういうことを考えます。

entahu2
質問者

お礼

ありがとうございました。

entahu2
質問者

補足

こうして、私の知的レベルに合わせて丁寧に書いてくださると やはりありがたいです。 大前研一氏の考えでは 経済の分野での誘致(その土地にあった企業の誘致)とか 協力とかの単位は道州制という大きな単位が必要とのこと、 しかし、コミュニティとしての機能のためには、逆に小さな単位のまとまりが必要であることを説いているようです。 コミュ二ティとしては 小さな単位というのですから、それがどのぐらいの規模なのかはまだよく知らないのですが、おそらくやはり、bragelonneさんのお考えのムライズムと同じような考えだということなのだと思われます。 ここで惹かれるのは、留学とかホームステイなどの交流というところなのですが、 ここでそのへんの議論を深めるよりも、やはり、 先ほどpsytexさんへの補足に紹介した哲学コミュをbragelonneさんにも紹介したいのですが、 URLは そちらの方を見てみてください。 私のブログとかではないですが、やはり私自身が参加もしているコミュですので、あまりおおっぴらにとうわけにも行かないところです。 特にムライスムのようなビジョンの話であると 明日の社会という視点がより豊かに展開できたりすると思われます。 (そこでは、宗教的な話題は憚られていますが、 もちろん哲学的なことであれば、かなりつっこむことも出来るかと思います。  その視点が 有効に作用するのならばそれにこしたことはなく、 テストしてみるだけの価値はあるのではと思われるのです。) 例えば 私自身も 最近見たテレビ番組で京都の昔の豪邸の世界を見ましたが この建物と庭のつくり自体はなかなかその土地の善さや伝統をあらわしてすぐれたものだったのですが、 とくに縁側の構造が独特で屋根は日をよけつつも見える前面に柱がなく、庭の水の流れと屋根の下に映る水の流れの光の下で 自然とより一体となってくつろげる、というそんな空間を建築の力で生み出していたのが面白かったのですが、 これがたった一家族の豪邸であり、また外来のお金持ちだけの客のものというのは 惜しい文化ですよね。  すべての子ども達が すぐれた感性を引き出すような文化には触れられるようにすべきです。  世界中の子ども達がです(これは極論だとしても、 これももしホテル事業と教育がドッキングすれば実現性はかなり深まってきます。 すべては総合的に考えるべき時代がすでにやってきているということです) こうしたことを ここではあまりつっこめません(疑問と疑問のぶつかり合いがここでの質疑の深まりのあり方だと思われますので、 こうした疑問の余地のないビジョンの膨らましは それが豊かな交流であっても別な場を求めるべきと思うからです)が、 そのようなコミュでの議論の場でなら可能と思うからです。 ムライスムのご紹介ありがとうございます。 何度も読ませていただいて 脳に刻ませていただきます。 あっ、 (足の引っ張り係)という表現は 気になりますが^^。 どこかで書いていましたレーニンの言う バケツ係から来てるのでしょうか?   教育は進化すれば 係りはいらなくなると思います。管理はすべていらなくなると思います。   私は そこまで目指しますしそこまで目指すことをうったえつづけるでしょう。  このへんもおそらくbragelonneさん特有の文章の問題だとおもえ、 これも、ここでの質疑となるかどうか?^^。

回答No.8

どのように優れた社会システムも、それを用いる人間によって 「優れ」ていないものになります。 たとえばインターネット直接民主制も、独裁者が使えば個人を 直接コントロールする凶器にもなり、庶民がダメなら衆愚政治 に堕します。 個人的には開発コンサルとして、そうした仕組み作りが本職で、 考えるところもありますが、今の社会で優先すべきは、個人の 意識の変革の方です。 どんな優秀な社会制度でも、労働は大変だし、死や病いの 悲しみから逃れることはできません。その“五十歩百歩”を +百にするか-百にするかの意識のあり方の方が先決です。 (そうした“哲学の本質”を理解しない人間に限って、虚栄心 や自己主張のために哲学を(うわべだけ)振りかざし、状況を 周りのせいにして、社会的変革を優先して唱えがちです) 権力やお金で、世界中の人々に一斉に“右向け右”させる事は 不可能ですが、誰もがそう望めば、何も強制せずとも一瞬に 実現できるのです。

entahu2
質問者

お礼

ありがとうございました。

entahu2
質問者

補足

再度のご回答ありがとうございます。 独裁者によるコントロールといえば、 私が勧められている本の中にオーウェルという人だったと思いますが「1984年」という管理社会の問題を扱った本が思い出されます。 本は図書館でも こちらの地域の図書館では見つからなかったのですが、ネットで検索してみたら荒筋は読めました。 かなりの優秀な頭脳の人たちがマインドコントロール社会をつくりあげて、管理しているそういう社会の物語のようです。  常に監視されていて そこをなんとか潜り抜けて信頼出来る仲間であり先輩を見つけたら、その人によって当局に捕まってしまい、拷問をうけ改心して死刑に喜んで死んでゆく(たぶん皮肉)主人公の物語です。 うらぎられ、拷問を受けてまで さらに洗脳されてしまう? すごい管理社会ですね。 これを読むことを薦めてくださったのは、 フリーム(フリー・エムエル)というメールによるコミュニティをつくれる仕組みの中での「真の哲学体系を求めて」というコミュのメンバーの方なのですが、 その同じコミュにて、大前研一氏の紹介もされている記事がありました。(これは別な人です) それによると、大前研一氏も インターネット直接民主制を説いておられることが触れられていました。 そこでの論議で知ったことですが、 彼の場合は、技術的に個人情報はかなり守れるとの認識(完全ではないが)と 現在の民主主義の下であれば危惧される》凶器《にはなりえない。との判断があるようでした。 それは すこし以前の情報らしく 今ではもう少しシステムは発達しているでしょう。 そのへんのことは 私はネット機能音痴とも言える人間なので解からないのですが、どうでしょうか? しかし、いずれにしても、そこには、確かに教育の問題がそれだけでは抜けていますね。 》今の社会で優先すべきは、個人の 意識の変革の方です。《 やはり、みなさん、そのへんをしっかり心得ておられるのですね。 フリームでは 哲学コミュで 有名なところは、今のところ三つ浮かびます。 「みんなで哲学を考えよう」という名前のコミュもコンセプトがおもしろく応援しています。 茂木健一郎さんのクオリア(感覚質)を扱ったコミュは さすが人数は多いのですが、でもここは茂木さんが忙しすぎるためかしっかり管理されていないし中身も質的に活発とはいえません。 それと 上記の「真の哲学体系を求めて」なのですが、 あらゆる視点から社会を考える活発さではやはり一番先を進んでいる議論が行われているのがそのコミュなので、紹介させていただきますね。 URL:http://www.freeml.com/swansong もしよろしければ、 そこでも、そちらのお考えを展開されてみてください。 新たな視点の展開が見られるかもしれません。 私自身の作ったコミュもありますが、 今のところは補助的なコミュでしかないですし、ここでご紹介は出来ませんが、  上記コミュにても論議や知識の交流とかはそこででもかなり有効に続けられるかと思います。 》権力やお金で、世界中の人々に一斉に“右向け右”させる事は 不可能ですが、誰もがそう望めば、何も強制せずとも一瞬に 実現できるのです。《 まさに適確かつ名文の結文ですね。 ありがとうございました。

回答No.7

No.5 & 6です 狭義の哲学に限定し、政治系統に限定したケースを紹介しましたが、実のところ、医療の領域において哲学は実践的に扱われています。 もっとも直接的に影響しているところとしては、「終末期医療」の分野でしょう。主として臨床哲学という表題になっているはずです。 有名どころとしては 鷲田 清一氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B7%B2%E7%94%B0%E6%B8%85%E4%B8%80 がおられます。

entahu2
質問者

お礼

さらなるご紹介をいただきありがとうございます。 鷲田清一氏のような方のご紹介があると助かります。 ずいぶんたくさんの著述があるのですね。 本のタイトルからは、 ファッションに身体論の専門から語られているという説明から『ファッションという装置』『ちぐはぐな身体ーファッションて何?』という本に興味がひかれましたし、 そのような身体論を展開する方(方)が書いた本、 『誰のための仕事ー労働vs余暇を越えて』というタイトルにも期待感が生まれますし、 そちらのご説明の「終末期医療」の分野としては『老いの空白』って何だろう?と真剣に思ってしまいますし。 『「食」は病んでいるか。 揺らぐ生存の条件』というあたりは、医療を越えた命への関心が垣間見れるように思われ、 そこにも関心が向かうし、 共著の「臨床とことばー心理学と哲学のあわいに探る臨書の知」なども面白そうですね。 幅広くて読むのに迷いそうですが  なるほど こういう人の本は是非読んでみたいという気持ちになりました。 ありがとうございました。