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国家安康・君臣豊楽の銘文
よく徳川家康が、難癖をつけて、大阪冬の陣の発端となったとされる鐘の銘文と聞いています。 「言いがかりをつけた」とか、「難癖をつけた」とか聞いていますが、それにしてもうまい具合に、家康という字と豊臣という字が入っているもんだとも思います。鐘の銘文なので、そんなにバリエーションがないとは思うのですけど・・。 これって、家康側の完全な言いがかりであることは、間違いないのですか? 言いがかりではあるかもしれないけど、策略的にいいがかりをつけたわけではなくて、家康も実際に気になったということもありえるんでしょうか? あるいは豊臣側に意趣があった可能性も否定はできないのでしょうか? よろしくお願いします。
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再度、失礼します。 参考サイトhttp://www.geocities.jp/senryusai/suden.html http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_id.php?id=3024 http://shohyou.cool.ne.jp/bookroom2/book/book189.html >家康も実際に気になったということもありえるんでしょうか? あるいは豊臣側に意趣があった可能性も否定はできないのでしょうか? 家康の地位、度量ぐらいであれば、気になるなんてのもないでしょう。一人の人間というより立場の問題ですからそう思います。 豊臣側にはそういう意図はなかったのではないでしょうか。
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buchiーdogさん、ありがとうございました。 おおざっぱな感じでは確かに質問が文章を作るという観点からを見逃しておりました。 でもしかし、質問が7割は豊臣方 3割は徳川方とも受け取れないこともないような気もしないでもありません。 質問者さん、これについてよろしくお願いします。 豊臣方でしたら#8の回答でよろしいかと思います。
- buchi-dog
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No3の者ですが、補足します。 「撰する」というのは「文章を作る」という意味の言葉です。「銘文を撰した高僧」は、調べましたら「南禅寺の清韓文英長老」と資料にありました。確か、外交文書の作成にもかかわっていた人だと記憶します。 No4の方の紹介されている金地院崇伝も南禅寺の僧ですが、こちらは完全に徳川方の人です。
参考です。方広寺の鐘
お礼
またまたありがとうございます。 拝見しました。これがそうなんですか。実物を見たことがなかったのですけど、もっと大きな字で彫ってあるのかと思えば、ずいぶんこじんまりとした銘文なんですね。場所も三十三間堂の近くだそうですが、三十三間堂には行ったのですけど、見に行かなかったですね。今度、機会が有れば、行ってみたいと思います。
豊臣氏の関係の方広寺の工事具合は、進んでいるかと 徳川氏の中の会議かなんかで話しあったときに 意見を申出た者がおり、それを家康がこれを大坂方(豊臣氏)を 攻める口実にしようとしたのではないかと思います。
お礼
回答ありがとうございます。口実なんですね。
意見を家康に申し出たのは、金地院崇伝(こんちいん すうでん)、 臨済宗の僧侶で 黒衣の宰相とよばれ、のちに出される法度の制定にも深く関わっている。 寺院法度 武家諸法度 禁中並公家諸法度などは 学者総動員して作り上げたといわれています。
お礼
回答ありがとうございます。 >金地院崇伝 名前ばかりは私も知っております。時代劇などでも見たことがあるんですが、イメージでは、すっかり悪人ですね(笑)。こんな言いがかりを思いつくなんて、仏弟子としては道を踏み外しすぎですね・・。
- buchi-dog
- ベストアンサー率42% (757/1772)
確か、この銘文を撰した高僧は、徳川家・豊臣家の双方と親密な関係にあった人のはずです。そういう人が、豊臣家の依頼に応じて、時の権力者を呪詛する行為に加担するでしょうか?首がいくつあっても足りません。私がその高僧だったら、いくら金を積まれても断りますが。 江戸幕府の立場から見ると、「この銘文の彫られた鐘が現在も保存されている」事実があります。「国家安康」の文言が、家康を呪詛するものであると江戸幕府が「本気で」考えていたのなら、そのような不吉な鐘は直ちに鋳潰されているはずですが、事実は相違します。 幕府側が、この問題が単なる言い掛かりであり、「銘文自体は特に家康を呪詛するものではない」と認識していた証拠と思われます。
お礼
詳しくありがとうございます。 豊臣・徳川双方に関係のあった人が書いたのですか。もしかして、最初から徳川に買収されていたとか?、なんてことはないのでしょうか。徳川側は呪詛なんて信じてないんでうすね。
- tkr1977
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こんにちわ。 豊臣方にそのような陰謀めいたことがあったかどうか、それは闇の中でしょうが。 ただ、文言の読み方については徳川方の言いがかりでしょうね。 素直に解釈・読み下すならば、なんの問題もない文言です。
お礼
回答ありがとうございます。 やはり、言いがかりなんですか。確かに素直に読めば問題ないですね。
- yamikuro3
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井沢元彦氏の「逆説の日本史12近世暁光編 天下泰平と家康の謎」(小学館)に記述があります。 あくまで井沢説ですが説得力もあり面白いです。
お礼
回答ありがとうございます。井沢さんらしい独創的で説得力のある説が書いてそうですね。
お礼
再回答ありがとうございます。崇伝の紹介も拝見させていただきました。小説の類はともかく、なんだかダーティーな人ですね・・。この時代、呪詛とかそういうことってどの程度人々の心を占めていたのでしょうね。戦国大名ですから、呪われるのは日常あったはずですし、かといって全然鼻で笑っているかというと、供養や祈祷などにも余念がないし・・。