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家康はどうしても豊臣を潰す気だったのか
家康はなにがどうでも最後には豊臣家を潰すつもりだったのでしょうか? それとも豊臣側が徳川政権を認めて交渉に応じるなら、存続させる気はあったのでしょうか? 存続させるつもりだったとして、最終的な豊臣家への処遇はどういう腹づもりだったのでしょうか?
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未来は分からない。 分かるのは、過去。過去から現代を見て、未来を推測する。 というのが、人間の基本だと考えます。 ということで、織田家がどう秀吉に処遇されたか? 織田三法師 → 岐阜13万石 織田信雄 → 尾張、美濃、伊勢で120万石くらいから、転封拒否により最終的には、5万石。 上記程度であれば、軍事力としては無視できる。 ※ 13万石で総動員、3~5千名くらい、だいたい、戦闘単位がこの程度。 当時の豊臣家が65万石。二万程度の軍事力を常時持て、秀吉の遺産で、浪人を雇えるという、潜在的軍事力があります。 これは、為政者として、認められない潜在敵国。 豊臣家の生き残りとしては、自主的に武装解除、大坂城撤退、50万石位を返上しないと、認められないでしょう。そして、このような判断をして実施することは、無理。
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- outerlimit
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質問者は 現代日本の感覚で 歴史を見ているから わからなくなっているのです 世界中の歴史を見てください 野党(反対勢力)が公式に認められるようになったのは、早い国で19世紀後半のことです 21世紀の今でも 反対勢力を認めない国は いくつもあります 中人民共和国は反対勢力の存在を認めていません 北朝鮮も同様です 大韓民国は、反対勢力の存在を一応認めていますが、あらゆる方策を駆使して圧力をかけています 退任した元首が余生をまっとうできる国がどの程度あるかを調べてください 退任後、後継政権からの弾劾や裁判での有罪判決、処刑等枚挙にいとまがありません これが理解できれば、質問のことは想定できます 敵対勢力の残党を残しておくことは、特にその首謀あるいは旗印になるものを放置しておくことがどれほど危険なことかは、身にしみ込んでいました 平家が女の温情で源氏の惣領を助命したことが、平家の命取りになったことは 常識以前のことだったでしょう 近代までは 勢力を掌握した者は、敵対勢力・将来敵対勢力になる可能性のある要素は徹底的に排除するのが常識です このような観点から 枝葉末節にとらわれることなく 世界の歴史を見直してください
大和一国の改易に応じなかったのが主因のようですが、 それ以前の問題。^_^; 臣下の礼をしていない。 これが全てです。 つまり、形式上は家康の主のまま死んだのです。 実際は大嘘でしょうね。 誰がどう見ても家康の家臣です。 将軍に逆らってるだけ。 >存続させる気はあったのでしょうか? こう言う高飛車な人間は生かすつもりは全く無かったと思います。 ^^; 秀頼もまあ、いっぱいもらいましたね。 中納言、大納言、内大臣に右大臣と。^_^; いましたね。 都の偉い人を毎日呼んで大振る舞い。 大内氏。 城は館で囲い無し。 官位官位。 偉い偉い。^^ しかし、簡単に毛利の手中に落ちます。 徳川慶喜が見張りを必ず付けて幽閉状態でした。 この理由は、旗です。(決起の理由) これが抹殺する最大の理由です。 明らかに、 時代の流れに逆らい続けた豊臣家が悪いです。 正2位は頭を下げる必要はないのですね。 しかし、それだけ高い頭は地べたに落とされます。 当たり前の事がおきました。
- kazakami-s
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僕は、徳川は本当に豊臣を潰そうとしたのだと思います。 豊臣家を潰さなかった場合、徳川は朝廷から何かしら、罰を受けていたかもしれないからです。豊臣家は正一位の位である関白家であり、徳川は正三位の位の征夷大将軍家です。当然、豊臣家は朝廷に告訴して徳川を朝敵にしてきたでしょう。その頃、朝敵になるものは必ずといっていいほど、廃絶してきました。しかも、豊臣家には執念深いといわれている淀君もいるのですから、恨みをかってしまい、もう一度戦いになってしまうのは必定です。なので、徳川はそのことも考えながら最終的には豊臣家(豊臣秀頼&淀君)を潰したのではないでしょうか。 私的な意見なのでどうなのかは分かりませんが・・・・・・。
存続させる気はあったと思います。 史実の大坂の陣が示すとおり、少なくとも表立って豊臣に味方する大名家はなかったのですから、条件次第で存続させても問題にならなかったと思います。 (1)大坂城からの退去(他の土地への転封の受け入れ) (2)淀殿を徳川家に人質に出す (3)徳川家に臣従 すれば、あの地点での大坂の陣はなかったと思います。 最終的な処遇はまさに歴史のIFですが、千姫(豊臣秀頼の正室で、家康の孫)との間に男子ができ、徳川の血が豊臣に入れば、石高は大坂の陣当時の約60万石で存続可能だったかもしれません(60万石は、当時の親藩で一番石高が高かった越前家よりも石高が少ない)。側室との間に子供がいたことを考え合わせると、単独存続ではなく、池田家のように徳川の血が入っていない家と徳川の血が入っている家に分かれて存続した可能性の方が高いかもしれません。
- a-koshino
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大坂城の金銀を没収しない限り、いつでも豊臣家が大軍を召集できるのは、史実の通りです。幕府にとっては常に、潜在的な脅威でしょう。 大坂城から退去、という条件を豊臣家が受け入れない限り、滅ぼすしかないのでは。
なまじ情があり、源義朝の遺児を生かしておいたため、滅亡に追い込まれた、平清盛のことなどは、脳裏にあったのでは、ないでしょうか。 相手がうまく、挑発や、作戦にのってくれたため、いい結果がでましたが、例え、これらのいくつかが、不発や、失敗に終わっても、豊臣家終焉の台本は、変わらないと思います。
- hazu01_01
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私には潰すつもりはなかったのかなと思います。 存続させるためには豊臣家が公家への脱皮が必要だったと思います。 その場合、大和・近江あたりの所領を与え、実権は朝廷内に限られると思います。 また、他の外様大名と同じく、婚姻により徳川家の中に取り込んでいくことが考えられます。 豊臣家といっても秀吉の個性だけで天下を取っただけであり、譜代の家臣団を持っていませんので、徳川家にとっては不満勢力が豊臣家を祭り上げ一大勢力となり幕府に敵対することはありえなかったでしょう。
- masato0703
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こんには >家康はなにがどうでも最後には豊臣家を潰すつもりだったのでしょうか? そうです。豊臣を慕う大名が多かったので、完全に滅ぼさないと 太平の世(徳川安泰の世)がこないと知っていたからです。 >それとも豊臣側が徳川政権を認めて交渉に応じるなら、存続させる気 はあったのでしょうか? 上記の理由で早いうちにだましてでも、滅亡をもくろんだはずです。 >存続させるつもりだったとして、最終的な豊臣家への処遇はどういう腹づもりだったのでしょうか? 地方転封させた後、滅亡へ追い込んだでしょう。上記と同じ理由で。 そもそも、豊臣は大坂を明け渡すつもりはなかったようなので。 大坂落城はしかたなかったでしょう。 結論は、全大名を従えるために、豊臣を完全に滅ぼした。 ということです。