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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:家康の低い評価は明治政府の方針だったか)

家康の低い評価は明治政府の方針だったか

このQ&Aのポイント
  • 家康の性格について低い評価がされてきたが、その評価は誤解がある可能性がある。
  • タヌキ親父というあだ名はずる賢いという意味であり、愛すべき人柄ではない。
  • 家康の言葉「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」は冷酷な性格ではなく、別な意味を持っている。

質問者が選んだベストアンサー

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  • staratras
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回答No.6

もともと明治政府は、実質的には徳川幕府を倒して樹立されたものですから、とくに明治に近い時期の幕府について好意的ではないことは当然ですが、その初代の徳川家康に関して、ことさらに低い評価をする方針だったと考えるのは早計です。 その証拠が、例えば明治時代の国定教科書です。教科書採用をめぐる大規模な贈収賄事件をきっかけに明治36年に小学校令が改正され、教科書は国定教科書となりました。したがって、それ以後の国定の歴史教科書は、当時の政府が考える「望ましい歴史認識」を直接的に反映しています。 明治43年に出版された「尋常小学日本歴史 巻二」の徳川家康の項目の冒頭と最後は次の通りです。(現在の漢字・仮名遣いに改めています) 第六 徳川家康 徳川家康は三河の人なり。新田氏の後と伝えらる。幼にして既に人に優れたる器量あり。早く父を失い、且つその領土は今川氏と織田氏との間に挟まりて困難なる地位にありしが、六歳の時より人質となり、久しく今川義元のもとにありて、つぶさに辛苦をなむ。 (中略) 家康は秀吉の後を承けてよく諸大名を統べ、又大いに心を政治に用いて種々の法令を定め、学問を興し、以て二百六十余年間の太平の基を開きたり。 詳しくは、全文をお読みいただけばわかりやすいのですが、(インターネット上にあります)現代人の目から見ても、低い評価ではなく、むしろ高い評価を与えていることは、冒頭と結語からだけでも明らかです。 家康の生涯には信長のような派手さや秀吉のような立身出世の痛快さはありませんが、最終的な目標に向かって努力を重ねて天下取りの大願を成就させ、260年余りも継続できた体制の礎を築いた能力の高さは、人物像の好き・嫌いにかかわらず、認めざるを得ないと考えます。そのことは明治政府の要人にも理解されていたのではないでしょうか。

katakana1956
質問者

お礼

明治政府はけっこう人物評価が適格だったことがわかりました。その当時から偏った見方でなくなんとか偉人を偉人として評価すべきという考え方があったわけですか。まともな日本人を育てるためには視野の広さが必要です。また自分の国の歴史上の人物は正確に評価する必要があります。さもないと日本史そのものが理解できなくなるでしょうね。家康がタヌキ親父なら日本の歴史はタヌキごときに振り回されたのか、ということではまずいです。ご回答ありがとうございました。

katakana1956
質問者

補足

お礼文の訂正です。 ×「・・・人物評価が適格だったことがわかりました」 ⚪「・・・人物評価が的確だったことがわかりました」 申し訳ありませんでした。

その他の回答 (6)

  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2301/5116)
回答No.7

>徳川家康は豊臣秀吉に比べるとその性格についてこれまで低く評価されてきたと思います。 その通りで、明治政府(薩長土肥)側からみると「敵勢力」です。 江戸時代を通しても、朝廷に関しては「3万石」しか与えていません。 幕末に、やっと10万石です。 この非常に少ない金額では、天皇家・皇族・高級公家だけで予算オーバー。 三条実美など下級公家の生活は、内職では間に合いません。^^; そこで、天皇を蔑ろにする幕府=徳川家は悪者なんです。 この点、秀吉は「関白として、天皇の命令として政治」を行っています。 朝廷に対しても、信長同様度々莫大な援助を行っています。 出生身分が低いので、天皇の名を借りた?とも言えますがね。 家康が行った「天皇・公家は、政治をしないで文化維持・学問優先」という事も、逆風。 まぁ、江戸っ子をはじめ「明治新政府を疑っている市民に対しては、家康は悪い奴だ!」という思想教育を行う必要性があったのです。 関東・東北地方は、天皇よりも将軍の方が馴染みがあったのです。 ただ、慶喜の名誉復活(公爵)で徳川家も朝敵扱いは無くなりました。 余談ですが・・・。 一番可哀そうな将軍家は、「足利将軍家」なんです。 新政府の「爵位制度」時に、爵位を受ける事が出来ませんでした。 「尊氏は、天皇に弓を引いた国賊だ」 1万石の大名及び家柄が良い者には、確実に爵位が与えられています。 が、足利家は拒否されたのです。 この扱いは、1945年の敗戦まで続きます。 国定教科書に、しっかり「後醍醐天皇に弓を引いた!」と記載がありますからね。 また、昭和末期まで天皇家の祭りである「時代祭り」にも無視され室町時代は登場していません。 15代将軍義昭の子孫は、断絶しています。 が、10代将軍からの子孫(14代将軍家)は存命しています。 明治政府からは「平民」として扱われ、現在に至ります。

katakana1956
質問者

お礼

家康は朝廷を軽んじた、そういえばそうです。それがなにより明治政府にとっては許しがたい、というわけです。足利将軍家のことはまったく知りませんでした。お詳しいですね。明治政府は南朝を正統としたわけですから止むをえませんか。徳川家については前政権だからというより、逆賊とまではいかなくても朝廷を軽んじたのが一番まずかったのですね。しかも「神君」家康の決めたことでそれを長年続けたわけですから。ご回答ありがとうございました。

  • eroero4649
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回答No.5

>元はといえば明治政府の元勲同様天皇陛下の「臣下」だったわけですからやたらと残酷な扱いはできなかったんでしょうね。 明治の元勲はそれぞれみんな藩士だったので、天皇の家臣という概念はなかったと思います。「自分は天皇の臣下である」と思っていたのは岩倉具視くらいじゃないですかね。 江戸時代の身分の概念だと、天皇⇒将軍⇒ウチの藩の藩主⇒藩の偉い人⇒オレ、くらいの感じですよ。その証拠に、大久保利通と木戸孝允は一緒のグループにはならなかったですよね。片や薩摩藩、こなた長州藩ですからね。 むしろ彼らがあるひとつの連帯感があるとしたら「武士」というものだったと思います。下級武士であっても、武士は武士であるという概念です。 だから近藤勇は斬首されたのだと思います。武士だったら切腹ですよね。近藤は切腹を望んだといいますが受け入れられず、斬首のうえに晒されました。これは武士ではあり得ない処遇です。近藤勇は武士ではないくせにまるで武士であるかのように振舞ったので、武士階級としては「このエセ武士野郎が!」と感情的になった部分があったのだと思います。だから「お前が武士でないことを知らしめてやる」と斬首して首を晒したのです。 武士でもない連中に武士が何人も斬り殺された雪辱もあったと思います。 土方歳三はそれを知って「俺も死なないと収まらないなあ」と思ったのではないかと思います。 武士といえば、こんな面白い話があるんですよ。千葉の請西藩という小さな藩の藩主であった林忠崇は、戊辰戦争にあたり、殿様なのに「脱藩して幕府側につく」という破天荒な行動に出ます。 戊辰戦争で藩としては新政府に立てつかないという至極全うかつ穏便な選択肢をとるのですが(他のほとんどの藩もそうしましたから、おかしなことではありません)、林忠崇は「我々は徳川家の臣下だから、最後まで忠義を全うする!」と言い出すんですね。当時二十歳くらいだったといいますから、いかにも若者らしい。で、藩士全員に迷惑をかけるわけにいかないから「藩主が脱藩する」という前代未聞の決断をするのです。 それで林忠崇は徳川家と共に運命を共にする覚悟をもつわけですが、最終的にはなんだかんだで降伏ということになります。このとき辞世の句を残したといいます。 で、困ったのが明治政府です。林忠崇の行動は確かに彼らからすれば敵対行為ですが、その行動原理は「忠義を尽くす」というド武士道に基づくものだから「武士として誠にあっぱれ」なわけです。ド正義です。もし切腹させたら「忠義を全うした」という武士道の最上位の位置づけになり、これに匹敵するのがあの忠臣蔵の四十七士になってしまうわけです。武士のレジェンドになる。敵方にレジェンドを作るのはどうにもマズい。 それで結局林忠崇は華族の地位ももらえずにいち市民として明治を生きていくことになりますが、なにせその行動はちょっと日本人の琴線に触れまくるところがありますので、地元民を中心に名誉回復の嘆願が何度も起こり、最終的には華族として認められることになりました。 そして林忠崇は、なんと昭和16年に御年94歳で天寿を全うしました。「明治維新を知る、最後のお殿様」でした。亡くなる直前に辞世の句を聞いたら「明治元年にやった。今はない」と答えたんだとか。カッコ良すぎますね・笑。

katakana1956
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 明治の元勲は確かに当初は天皇の直臣ではないです。殿様にお目見えできる身分なら殿様の家来という意識のほうが強かったはずです。明治になってからは文字通りの直臣になりました。そうなるとあまり無茶な振る舞いはできないという自制心が働いた可能性があります。いっぽう将軍に対する忠義を最後まで貫き通した人もいたのですね。尊王攘夷の志士が天皇の直臣になってからも最後までかつての殿様に対する忠義を忘れなかったのと同じです。どちらも武士としても心構えを最後まで忘れなかったのですね。明治の人は確かに偉かった。

  • gunsin
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回答No.4

徳川家康まだ良い方です。 足利尊氏は、天皇に逆らった、天下の大謀反人にされましたよ。 この事で、足利の市民は、肩身の狭い思いをしてます。 NHK大河ドラマ太平記で若干は、認識が改まりましたが、謀反人と 認識している人は、まだまだ、大勢居るのでは・・・

katakana1956
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 後醍醐天皇は日本人の「天皇」像とは少し離れています。なんかやたらと行動的というか権力欲に旺盛というか。とはいえ明治政府が南朝が正統とした以上止むを得ない面があるんでしょう。現在の天皇家は北朝です。その立場からすれば尊氏は非難されるべきではないと思うんですが水戸学のせいでしょうか。なんか現実と観念が交錯していてほんとにわかりずらいです。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.3

>今更ながらですが家康の悪口は明治政府の前政権否定の宣伝だったのですか。 そうですよ。だってそうしないと新政権の正統性の説明がつかないじゃないですか。 例えばもし北朝鮮で金王朝が打倒されて民主主義国家を作るぞとなったら、まずは金一族を否定しないと「だったら前政権のままで良かったじゃん」という話になってしまいます。 徳川幕府は約200年続いたのですが、その間に一度も反乱がおきていないのです。「大塩平八郎の乱」というのがあるけれど、あれは「大衆による政権への反乱」ではありません。大塩平八郎という今だったらド発達障害と診断されたであろう変わり者のおっちゃんが後先考えずに行動しただけのことです。 だから「江戸(徳川)時代最後の戦乱」は、「島原の乱」なんです・笑。あれが江戸時代最後の戦い。戊辰戦争は大政奉還後ですから、江戸時代ではないのです。 じゃあ薩摩長州がやったことはただの権力の簒奪かというと、まあそうでもないです。結局薩摩藩も長州藩もなくなっちゃいましたからね。薩摩藩主の島津久光なんかは自分が偉くなれると思ったら違ったのでめちゃくちゃ怒ったといいますね。 欧米諸国が近代国家を作っていく中で、中世的権力システムであった徳川幕府という体制ではもう時代についていけなくなったということなのだと思います。 それを考えると、実に平和裏に政権の移行が行われたと思います。戊辰戦争はあったけれど、戦場になったのはごく一部だし、むしろ反乱は明治になってから多く起きました。とはいえ実質的に九州地方だけでしたけどね。佐賀の乱とか、西南戦争とかね。 アラブの春ならぬ、日本の春だったと思いますよ。徳川慶喜を始め、松平容保も死ななかったわけですしね。勝海舟も殺されていないでしょ?徳川幕府側で死んだのは近藤勇と土方歳三くらいだけれど、彼らは武士ではなくて、タリバン兵みたいなものですからね。

katakana1956
質問者

お礼

当方が明治政府の意図に長い間気づかなかったのはまったくうかつでした。おそらくタヌキ親父のあだ名に人間味があったからでしょう。また生かさず殺さずの話は確かに冷酷な人物を想像させますが他に同様な話は見つかりません。明治政府は徹底して前政権の否定をしたわけではなかったようです。それはeroero4649さんのご回答にもあるとおりよく知られている史実からも明らかです。元はといえば明治政府の元勲同様天皇陛下の「臣下」だったわけですからやたらと残酷な扱いはできなかったんでしょうね。ご回答ありがとうございました。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

1。タヌキ親父というあだ名、あれは愛すべき人柄ということではなくずる賢いという意味でしょう。大人になってからも「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」と言ったとかで冷酷な搾取者といった印象がますます強まりました。  家康の前までは、「武」は将軍の商売でした。でも太平の世になると武将の仕事が変わります。それを「文」に切り替える初めだったので、徳川の運営初期には正しい班だったと思われます。 2。しかしこの言葉は実際には別な意味らしく少なくとも家康の冷酷な性格を反映したような言葉ではないらしいのです。  おっしゃる通り、謀臣の本多正信の進言で、しかも「生かさず殺さず」ではなかったようです。 3。これまで当方はだまされてきたのでしょうか。  はい。 4。今更ながらですが家康の悪口は明治政府の前政権否定の宣伝だったのですか。  それだけでもないと思います。世襲が三百年続くと腐敗も激しかったようです。 5。また明治政府の系統がいまでも続いているとすれば家康の悪口はこれからも言われれ続けるのですか。  大奥というハーレム、お犬様の「生類憐みの令」を出して犬に着物を着せたばか、白痴の「公方様」など、部分的にはあっています。 6。ですからいい面も悪い面もあることを教えるべきだと思います。

katakana1956
質問者

お礼

「世襲が三百年続くと腐敗も激しかったようです。」平和が長く続いたせいですね。だから黒船がやってきたとき右往左往するばかり。こういう時に備えて準備しておくべきでした。その当時江戸幕府は国際情勢にまったく無知というわけではなかったのですから。やはり家康というより徳川家全体が明治以後低く評価されるのはやむを得ないです。ご回答ありがとうございました。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2590/17104)
回答No.1

今の政府は徳川政権をクーデターで奪い取ったものが元になっているものですから、そういう傾向はあるでしょうね。これは明治政府に限ったことではなく、徳川幕府だって同じようなことをやっていますし、韓国や北朝鮮が日本統治時代を貶めるような教育を行っているのも同じようなものと言えるでしょう。自らを正当化するためにはそれ以前を完全否定するのが一番確実だからです。

katakana1956
質問者

お礼

やはりそうですか。当方はほんとに家康が悪口を言われ続けたその理由が最近までわかりませんでした。日本だって前政権の「誹謗・中傷」するのは諸外国と変わりないのですね。もっともさらに時間がたてば別かもしれません。現代のフランス人がブルボン王朝の悪口をあまり言わないように日本も将来のことはわかりません。ご回答ありがとうございました。

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