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関ヶ原戦後の家康の差配
徳川家康が、関ヶ原戦後の改易、転封などを行なったのは、あくまで豊臣政権の大老(戦勝側)としての差配だと思うのですが、このとき豊臣(羽柴)家の禄高も減らされているように教科書には書いてあります(「摂津、河内、和泉の大名クラスに転落」)。豊臣政権下の大名同士の戦であった関ヶ原合戦後の豊臣宗家の差配にまで大老家康が口を出せた(またその差配を豊臣宗家が受け入れた)のは何故なのでしょうか?
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家康が豊臣家の蔵入地を諸侯へ与え始めたのは関ヶ原より前、秀吉が死んだ直後からです。 武家社会の基本原則、「御恩と奉公」が、その大義名分です。 豊臣家に対し、諸侯が朝鮮出兵(肥前名護屋での待機も含む)という奉公を行なった以上、豊臣家には御恩を与える義務が生じたわけです。 家康は、あたかも自分が諸侯へ加増したようなポーズを取りながら、豊臣家の土地を奪っていきました。 そして関ヶ原合戦もまた、豊臣家が徳川に命じた形式(上杉討伐)を取った結果なので、やはり豊臣家が奉公に対する御恩を与えねばならなかった、と。 徳川は懐を痛めない、なんとも虫のいい話です。
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- tanuki4u
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太閤蔵入地を、与えちゃったということになります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%94%B5%E5%85%A5%E5%9C%B0 慶長3年(1598年)の統計によれば、全国1860万石のうち198万石が蔵入地とされており、最盛期で畿内及び北九州を中心に220万石を越えていた < 上記より引用
- 6dou_rinne
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豊臣家の直轄領を明確に削減したわけではありません。 豊臣家の直轄領は直接支配していたところのほかに遠隔地などは近辺の豊臣系の大名に預かり領として支配させていたところが多く、そういうところを他の大名に与えてしまい実質的に豊臣直轄領を減らしてしまいました。
お礼
皆様、明快な回答を有難うございます。おかげで理解できました。