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「一旦緩急あれば」
教育勅語「一旦緩急あれば」についてお尋ねします。 昔から文法の上でも話題になる箇所ですが、 誤法だという説と、誤法ではないという説が、今も両論あるようです。 思うに、文語としては正式には「緩急あらば」のはずが、次第に口語 文法に変遷してきた過渡期ゆえ「緩急あれば」とも言い始めていたの ではないか、という気がします。 漢文訓読でも時代により、流派によって違うようですからー。 正誤どちらかというよりは、時間軸を加えて判断する必要がないでしょうか。ちょうど、流行語や誤用も、広まればそれが市民権を得て定着していくみたいなー。 なお、内容についてのイデオロギー的なご意見は問題にしていませんので、そのことには反応しないようにお願いします。
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- Nakay702
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再再度の「お礼」を拝見しました。 なるほど、《日本の古い語法に換えて独自性を出そうとした民族意識》、《「生れば」だったとする後付けの言い訳》、《近代口語の混入》の3とおりの仮説ですか。ちょっとした「コラム」の材料になりそうな着想点かも知れませんね。 一見、見逃しそうなこと(私が、という意味です)なのに、考えてみるほどに奥深いものを感じました。最初、大上段に構えたことが恥ずかしくなりました。どうも、お騒がせしました。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
再度「質問者からのお礼」を拝見しました。 いろいろ調べてくださってありがとうございました。 >> あえてひらがなで表記したのではないか… >原文は、「カタカナ」と漢字で表記されています。 ⇒あ、そうですね、うっかりしました。 そもそも正式名からして「教育ニ関スル勅語」ですからね。 >図書館へ行って『史記』(平成16年、明治書院)を見たら、「一旦緩急有らば」と表記し、(いつたんくわんきふあ)とルビが振ってありました。 ⇒漢語原文の日本語説明でしょうから、それは当然考えられます。 >明治23年なら、既に言文一致運動が盛り上がっていますので、「ある」は中国語での「有る=起こる」の意味も、じゅうぶん流布していたと考えます。… ⇒そのあたりは、正直、十分確認できておりません。 それでもなお、「生る」の語形や活用のことが当時の起草者・執筆者の意識にあったのではないか、という可能性を(証明もできませんが)捨てきることもできません。
お礼
そうですね。 『史記』に「一旦緩急あらば」と明確にあって、明らかにそこから引いているにもかかわらず、「あれば」にしたのは、例えば日本の古い語法に代えて独自性を出そうとした民族意識かもしれない、という想像も出来ますね。 また同時に、単に間違えたのを後付けの言い訳に誰かが「生れば」なんだ、と強弁したのかもしれませんね。 あるいはまた、私が最初に思ったように、近代口語が混ざり込んだのかもしれませんね。 3通りの想像があり得るということが分かりました。 どうもありがとうございました。
- Nakay702
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「お礼」を拝見しました。 gesui3さんのおっしゃることは了解しました。失礼しました。 ただ… 教育勅語は、井上毅らが執筆しましたが、天皇が臣民に下賜する形で発布された古文調の勅書ですので、現代日本語とも中国語ともやや異なる用語法がありますね。例えば、中国語の「有」には「現われる、起こる」の意味がありますが、日本の古語「有る」にはその意味がなかったようです(三省堂『古語辞典』で確認)。その意味を表すのはむしろ異字同音の「生る」でしたが、それを用いては引用元の語句に悖ってしまうので、あえてひらがなで表記したのではないか… という疑問が残ってはおります。
お礼
> あえてひらがなで表記したのではないか… 原文は、「カタカナ」と漢字で表記されています。 図書館へ行って『史記』(平成16年、明治書院)を見たら、「一旦緩急有らば」と表記し、(いつたんくわんきふあ)とルビが振ってありました。 明治23年なら、既に言文一致運動が盛り上がっていますので、「ある」は中国語での「有る=起こる」の意味も、じゅうぶん流布していたと考えます。 (「古語」といっても、奈良時代・平安時代・中世・近世と、意味用法は変遷しますので、その辞書のいう意味はどの時代のことを指しているのか利用者が判断すべきです。旺文社の古語辞典では、万葉集の用例を挙げていますよ。相当に古い時代の話なのでは?)
- BASKETMM
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1.文法について: 他の方が言われるように、文法はすでに存在する言語の規則性を調べ、表現したものです。既に存在する対象に後付けしたものです。しかし全ての科学に対して同じことが言えます。ニュートンが生まれる前から、リンゴは木から落ちていました。アインシュタインが生まれる前から真空中の光速度は一定でした。経済学がなくても、需要が増大すれば価格が上がります。 2.文法の難しさ。 文法は人間の言語が対象であるため、特別な難しさもあります。言葉は変化するからです。何故変化するか、自然な変化もあり、人間の意思が加わっている変化もあります。 3.「緩急あらば」と「緩急あれば」 3.1.動詞「ある」は文語動詞の場合、ラ行変格活用をします 語幹 未然形 連用形 終止形 連体形 已然形 命令形 あ ら り り る れ れ 3.2.助詞「ば」は場合により意味が異なります。 未然形 + 「ば(接続助詞)」のカタチ ⇒ 順接仮定条件 直前の語の活用が未然形の場合、接続助詞の「ば」は『順接仮定条件』の意味を表します。 『順接仮定条件』とは、仮に想定した条件に対して、予想される結果(順当な結果)を導く表現です。 「一旦緩急あらば」といえば、動詞未然形ですから、「仮に大変なことが起こったら」と仮定しているのです。 已然形 + 「ば(接続助詞)」のカタチ ⇒ 順接確定条件 直前の語の活用が已然形の場合、接続助詞の「ば」は『順接確定条件』の意味を示します。 『順接確定条件』とは、ある確定した条件(ある事実)に対して、予想される結果(順当な結果)を導く表現です。「一旦緩急あれば」といえば、動詞已然形ですから、「既に大変なことが起こっているから」と対策を進言しているのです。 ===== ご質問の対象/教育勅語では、現在大変なことが起こっているわけではありません。もし仮に起こったらと言っているのです。従って、仮定条件が妥当です。未然形を使うべきです。 結論:「一旦緩急あらば」が正しい。教育勅語の文章は文法的に間違い。明治23年10月30日の文部大臣は誰だ。
お礼
詳しくありがとうございました。
- Nakay702
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>教育勅語「一旦緩急あれば」についてお尋ねします。 昔から文法の上でも話題になる箇所ですが、誤法だという説と、誤法ではないという説が、今も両論あるようです。思うに、文語としては正式には「緩急あらば」のはずが、次第に口語文法に変遷してきた過渡期ゆえ「緩急あれば」とも言い始めていたの ではないか、という気がします。 ⇒「一旦緩急あれば」の「あれば」は、「有(あ)れば」ではありません。「生(あ)れば」です。「有る」(=存在する。「在る」とも書く)の活用はラ変ですが、「生(あ)る」(=起こる、現われる、生まれる)は下二段です。ということは、「一旦緩急あれば」は間違いではないのです。 実は、この「一旦緩急あれば」という言い回しは、「史記」から引用された表現で、「ひとたび緊急な大事が起これば」という意味です。
お礼
これは不審な説です。 「生(あ)る」とは、『広辞苑』によれば、 「(神聖なものの出現に使われる)この世に出現する。現れる。転じて、生まれる。」として、古事記の用例を挙げています。「その御子はー・れましつ」 また、『史記』袁盎鼂錯列伝第四十一では、 「呉楚已破。上更以元王子平陸侯禮爲楚王、袁盎爲楚相。嘗上書有所言、不用袁盎病免、居家。與閭里浮沈、相隨行鬭雞走狗。雒陽劇孟嘗過袁盎、盎善待之。安陵富人有謂盎曰、吾聞、劇孟博徒。將軍何自通之。盎曰、劇孟雖博徒、然母死、客送葬、車千餘乘。此亦有過人者。且緩急人所有。夫一旦有急叩門、不以親爲解、不以存亡爲辭、天下所望者、獨季心劇孟耳。今公常從數騎、一旦有緩急、寧足恃乎。罵富人、弗與通。諸公聞之、皆多袁盎。」 として、「有」を何回も使っています。「生」ではありません。
- SPS700
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#2です。補足です。 これは古典の四段から、現代の未然形を避ける傾向に移る過渡期ですが。今でも「しまず」痛まずロート目薬、という四段と、煙が目に「しみる」という上一段が共存して地理的な差もあるようです。
お礼
妻をめとらば、 聴く耳もあらばこそ、 など、 ~ら は、たくさんあって、耳に残りますね。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
正誤どちらかというよりは、時間軸を加えて判断する必要がないでしょうか。ちょうど、流行語や誤用も、広まればそれが市民権を得て定着していくみたいなー。 おっしゃる通りです。どうせ文法なんてものは、言葉が変わった「あとで」つける理屈に過ぎませんから。
お礼
そうですよね。 ありがとうございました。
- kon555
- ベストアンサー率51% (1844/3562)
まさにこうした事例でよく言われる「言葉は生き物」の通り、言葉は時間やその時々の風習などで変化していきますからね。 誤用が誤用でなくなったり、丁寧だった敬語が慇懃無礼さを帯び始め、ついには敬語として用いるのが不適切になったり、等々。 個人的に面白いなと思うのは、『教育勅語』というかなりの影響力を持つはずの媒体を経てなお、現状でも「あれは『あれば』ではなく『あらば』だよな」と思う感覚が存在している事ですね。誤用も広まればそれが市民権を得て定着していくが、広まっても定着しない語句もある。 それこそ生き物でいえば免疫系のような抵抗性というか、語句の持つ玄妙さを感じます。
お礼
回答をありがとうございます。 おそらくですが、「隙あらばー、」という言葉が生き残っていることの影響かとも思います。 この文語としての本来の正しい活用例が頭の底に残っているので、「緩急あらば」だろうに、と感じるのではないかと推測します。
お礼
いいえ。史記が典拠だと知れたのは貴方のお陰です。一見矛盾し首をかしげる説にも、背景には何がしかの真実が含まれている可能性があり、多様性のある多角的な検討は「集合知」なのかもしれません。 しばらく応答が途絶えたので、これで一旦、締め切らせていただきます。どの方の回答も参考になり、一概に甲乙はつけがたいので、ベストアンサーは決めないことをお許しください。 皆さま、どうもありがとうございました。